アホリック

中野リナ

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アホリック

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 こんな時期なんだけど、と母親に切り出されたとき、悠斗は携帯ゲームから視線を外さずに「なに」と半ば邪険に聞いた。
こんな時期、というのが、自分の高校受験を指して言っているのはわかる。母親の口から、勉強しなさい、なんて言葉を聞いたことはなかった。大して勉強はしなかったけれどそこそこ成績はよかったし、もしかしたら片親であることの引け目が母親にあるのかもしれない。
「母さん、再婚しようと思うのよ」
 携帯ゲームをいじっていた手を止め、首をわずかにかしげて長めの前髪を揺らして、母親を見た。
 四十半ばのその肌はまだ艶やかで色白、ほうれいせんもそれほど目立たない。立ち仕事が長いせいか身体のラインもひどくは崩れていない。すらっとしている。どちらかというと、容貌は派手な美人というよりは地味だけれど落ち着いて品のある綺麗さだと思う。こどものころから、親戚には悠斗は母親に似ている、と言われてきた。父親の顔なんてほとんど覚えていなかったから、それで満足だった。
 新たに、そして今更、自分に父親ができる、ということを考えてみて、じわりと不思議な感覚がした。母親と二人だけの生活が長かった、というのもある。悠斗にはそれが当然だった。だから、父親という存在がよく理解できなかった。ふと、不安になる。父親とはどんなものなんだろう。ただ、母親が選んだひとなら、間違いはないのだろう、という信頼はあった。なにより、母親が自分の幸せとして決めたのなら、自分がああだこうだ言うことではない、と思った。
「いいんじゃない」
 一言、そう言って、再び携帯ゲームに視線を戻す。
「相手の方にはあんたと同い年の息子さんがいてね……」
 母親はしばらく相手の男性について話していたが、悠斗がいつもどおりほとんど聞いていない状態でゲームをやっているので、諦めて話すのをやめた。
「とりあえず、日曜日に相手の方と食事をするから、あんたも同席頼むわね」
 ため息まじりに母親はそう締めくくった。
 日曜日、母に連れていかれたのは東京駅にほど近い丸の内のビル地下にある料亭だった。
 悠斗が住んでいるのは二駅行けば千葉の都営新宿線沿線の都心郊外のアパートだったが、そこからは一時間ほどかかった。聞けば、相手の男性の家も同じ路線らしいので、わざわざ大仰に丸の内のビルなんかで食事会を開かなくてもいいのに、と母親に連れられて歩きながら悠斗は少し不満をもった。
ほの暗い階段を下りた先には明かりの中水をうった飛び石が配された雰囲気のある玄関の設えで、そんなところへ生まれてこの方来たことがない悠斗はちょっとびっくりした。
中は完全に廊下を挟んだ扉で仕切られた個室になっていた。着物を着た女中に悠斗と母親は一室に案内された。人の気配はあるのに、しん、とした雰囲気と建物全体を覆う静かなほの暗い明かりに、悠斗は身の丈が合わないような居心地悪さを感じた。
はやくも携帯ゲームがいじりたくて仕方なくなってくる。お守りみたいに、カバンのなかに入れて持ってきている。電車の中でもずっといじっていた。
女中が扉を開けたとき、中にいた壮年の男性がにこやかに顔をあげた。その隣に座る少年を見たとき、なにか引っかかるものを感じた。
少し色素の薄い猫毛の髪をワックスでラフに整えて、きりりと整った眉に形の良い鼻、微笑を含んでいるような唇は見るものをどきりとさせた。なによりも、長い睫毛につつまれた切れ長の目が人形のガラス玉の瞳のように透明に光っている。神に愛されし容貌……ゲームの設定キャラにあったそんな言葉が悠斗の頭をよぎった。
「すいません、お待たせして」
 母は脱いだコートを女中に渡しながら、男性の向いに座った。その様子がちょっと慌てていて、照れているみたいで、普段の母の所作と違う気がした。
「いえいえ、大丈夫です。こんなところにまでお呼びたてしてすいません。ここの料理長が私の友人なものですから。ぜひここを使いたくて」
 そう言ってから、男性は母の隣りに座り込んだ悠斗を見た。
「悠斗君、はじめまして。西野佑といいます。こっちは息子の慧」
 男性が促す前に、慧は待ちきれないみたいに口を開いた。
「はじめましてって言いたいところだけど。違うんだよ」
 慧はちょっとシニカルに口の端を持ち上げた。
「オレは悠斗のこと、覚えてる。悠斗はどう?」
 その声は、清流の中に凛と咲く名も知れぬ花を想起させた。尊いような顔面とつりあった低く甘い声に、悠斗は声も出せない。緊張して肩をいからせたまま、だまって顔を横に振った。
「弱虫ニシノって覚えてない?」
 ヨワムシニシノ?
 ちょっと記憶の何かに触った。その何か、がゆっくりと穴を広げるように徐々に大きくなっていく。
「弱虫、泣き虫、うんこもらしー……」
 慧が笑みを含んで拘泥なく歌う。
 しばらく悠斗は慧を見つめていた。閃くように思いついた。
悠斗の表情がはっとする。
「西野慧」
「そうだよ」
 慧は端正な表情でにっこり笑った。

 小学三年生のとき、悠斗は慧と一年だけ同じクラスだった。というのは、四年生になると同時に、慧は引っ越していったからだ。
 こどもながら、このこはイケメンだな、と思ったのを覚えている。慧は女子と仲が良くて、女子と遊んでいることが多かった。だから、男子にはよくからかわれていて、その急先鋒が悠斗だった。
 ただ、こどもなので、気移ろいしやすく、からかっていたばかりかというとそうでもなく、一緒に遊んだ思い出も結構あって、学校の校庭で鬼ごっこしたり、虫採りしたときには、よく慧も一緒にいたのを覚えている。
 ただ、背中にカマキリを入れて泣かしたり、掃除用具でチャンバラをして泣かしたり、ふざけて学校の観察池に落として泣かしたりしたことはあった。
 そう、思い返せば、いくつか本人にはおもしろくないだろう思い出があった。
 丸の内のビルでの食事が終わり、母親と電車に乗った時、悠斗は携帯ゲームをいじりながら考えた。
 慧は食事中、始終ニコニコしていた。慧の父親の友人という料理長が挨拶に来た時も、上機嫌で挨拶していた。悠斗は過去の悪行がばらされるのではないかとひやひやし、始終うつむいていて食べた料理の味もわからなかった。
 慧と悠斗とはほとんど会話をかわさず、慧の父親がいくつか悠斗に質問らしい話しかけをして、あとはほぼ慧の父親と母との話で食事会は終わっていた。
 あいつ、よく覚えてたな。
 西野慧、なんて。悠斗にとっては遠い昔のあまりさだかでない記憶のなかの人物だった。でも、いじめられたことのある慧にとっては、悠斗は忘れられなかったのかもしれない。
 そいつと兄弟になる。
 それはあまり愉快な気分ではなかった。しかも、小学三年のときは、慧は自分より背丈が小さいくらいだったのに、今では悠斗より十センチほど大きかった。帰り際、立ち上がった慧を見て母がびっくりして身長をきくと、百八十あるとのことだった。
 女子みたいに可愛らしい顔をして泣いてばかりのちっちゃかった男の子が、細身ながら堂々とした体躯の高身長イケメンに成長しているのは、それが同世代であれば悠斗にはおもしろくない。むしろ妬ましい。
「悠斗、今日会って、どうだった?」
 電車を降りたときに、母に軽く聞かれた。相手の男性のことなのか、慧のことなのか、多分両方のことだろう。駅から出ると、みぞれまじりの雨が降っていて、ひどく寒かった。二人で傘をさしながら、歩いていく。寒そうに腰を前かがみにした母の姿がひどく年老いてさみしそうに感じた。
「いいんじゃない」
 そう言うしかなかった。母には母の人生がある。
「そう」
 うつむいて短くそう応えた母は、嬉しそうだった。それにほっとする。
 そして、悠斗と慧の受験が終わった三月、式はあげずに婚姻届けだけを提出して、母は晴れて再婚した。

 満員電車の中で、悠斗はイヤフォンをして携帯ゲームをいじりながらつり革につかまっている。隣では慧がスマホをいじっている。校章の入った金ボタンに黒い学ランはおそろいだ。奇しくも二人は都立有数の同じ進学校を受験して合格していた。
新宿駅から二十分ほど、駅前商店街を少しはいった閑静な住宅街にある庭付き一戸建ての西野邸に悠斗と母親が引っ越してきて、すでに一か月が経とうとしている。
 新学期が始まって一緒に家を出はするが、悠斗はほとんど慧とは話さなかった。家でも電車の中でも、ひまさえあればゲームをしている。
 電車を乗り換えて、駅を降りると、新学期が始まったばかりなのにすでに友人が多くいる慧はすぐ声を掛けられて、友人とともに高校までの道を歩いていく。悠斗は携帯ゲームのイヤフォンジャックをウォークマンに挿し変えて一人で歩いていくのが常だった。
 慧は友人に誘われて、バスケ部に入ったらしいが悠斗は部活に入る気はさらさらなく、授業が終わるとすぐ家に帰ってゲームをやる生活が続いていた。当然、部活をやって帰ってくる慧とは生活時間があわなくて、次第に慧の方は朝練なんかも始まり、ほとんど顔をあわせないようになっていた。
「悠斗、誕生日近いんだって?」
 ゴールデンウィークを間近に控えたある夕食の席で、慧が言った。その日、バレー部の練習試合のため体育館が利用できなかった慧はいつもより帰りが早かった。父親は仕事でまだ帰っていなくて、母は台所で明日のお弁当の準備をしていた。
 母から聞いたのかな、と思った。うん、と悠斗はうなずく。
「オレより八か月兄貴なんだね」
 オレは一月生まれだよ、っていうアピールなんだろうが、慧は友人が多いし、入学早々女子に告白されたって噂を聞いたし、祝ってくれる人はたくさんいるだろう。
 悠斗は黙って、箸を口に運んでいた。
「何が欲しい?」
 慧は悠斗をじっと見て言った。見据えるように抑え込むような目つきで言われて、応えにたじろいだ。ちょっと怖いような気がした。
 悠斗がなんと言ってほしいのか、よくわからなかった。
母と共にこの西野家に来て、経済事情が非常にいいのを肌で感じていた。引っ越しといっても四駅同じ路線で新宿方面にずれただけだったので、母は仕事をやめなかったし、二人が通っている高校が都立というのもあったけれど、大手電機メーカーの役職についている父親の収入が何より大きかった。同じ片親でも、多分、慧はあまり経済的に苦労しなかったのではないだろうか。
「なにもいらない」
 悠斗が言うと、慧はちょっとびっくりしたみたいな表情をした。
「ゲームのソフトとかは?」
「べつに」
 悠斗は口に運ぶ箸を早めて、茶碗を空にする。
「欲しいもの、あるでしょ?」
 悠斗は黙って、味噌汁を飲む。
「服とかは?」
 悠斗は無言で漬物を咀嚼する。
「アクセサリーとかは?」
 ごちそうさまでした、と小さく呟いて手を合わせ、空になった茶碗とお椀を重ねる。
「新しいゲーム機は?」
 悠斗はイスを引いて立ち上がる。
「じゃ、オレは?」
 え、と動きを止めて慧を見る。冗談かと思えば、意外にも真面目な顔でこっちを見ている慧のまっすぐな目とぶつかる。光の加減で亜麻色にもみえるような綺麗な目だ。
「オレ、いる?」
「は?」
 思いっきり軽蔑を込めて、声を出した。そんな冗談、いらない。悠斗はイスを戻して、シンクに重ねた茶碗を持っていく。ごちそうさま、と母親に言ってダイニングを出る。自分の部屋に向かう階段をのぼりながら、ふつふつと怒りがわいてくる。反応を見るためにからかわれたような気がしたからだ。
 なんなんだよ、あいつ!
 腹が立って仕方がなかった。

 連休に入ると、慧はバスケ部の合宿があるとかで群馬に行った。悠斗は自室にこもって、思う存分ゲーム三昧で過ごした。明日から学校という日の前日五月五日の夕方、慧は群馬から帰ってきた。夕飯は、母親がハンバーグを作ってくれて、父親が車で都心の有名ホテルのケーキを買ってきてくれて、久しぶりに家族四人でそれを食べた。
 母は慧の合宿の話を聞きたがり、合宿所のまずい食事の話や朝、昼、夜の辛い走り込みの話や友人、先輩の話などを慧は楽しそうにして聞かせた。普段あまり家にいない父親も嬉しそうにそれを聞いている。
 なんだか不思議だった。こういうのが家族団らんなんだろうか、と思った。慧は意図的にだろうが、やたら明るくおもしろい話ばかりをして、母を笑わせた。なんだか空気がふんわりと柔らかくて温かい。居心地がいいというよりも、くすぐったいような気がした。
 悠斗と母と二人だけのときは、こんな雰囲気で誕生日を迎えたことはなかった。淡々とケーキを食べ、プレゼントをもらうだけだったし、悠斗もそれほどしゃべらなかった。
食事が終わるころ、父と母から誕生日プレゼントとして高性能イヤフォンをもらった。慧はなんだか照れたみたいにして、紙包みを差し出してきた。
 慧が自分で包んだらしい、緩いその包装を開けてみると、写真立てがあらわれた。中には、赤白帽をかぶったこどもがふたり歯を剥きだして満面の笑みで箸を持った手でピースをしている。そのこども二人は、どうやら慧と悠斗らしい。
「この写真、持ってた?」
 母親が悠斗の手元をのぞきこんで、あら、と声を上げた。
「遠足の写真かしら」
「小学三年の時、遠足で悠斗とお弁当食べたんだ。そのときの写真。ふたりとも、すっごくいい顔してるでしょ」
「あら、ほんとねぇ」
 母は笑った。
「覚えてる?」
 慧は悠斗を見た。悠斗は首を横に振る。
「高尾山だよ」
 慧はそう言って、悠斗の手元をのぞきこんだ。
「そんな写真、残ってなかったわ」
 母が言う。
大体、小学三年の時にどこに遠足で行ったかすらよく覚えていなかった。とりあえず、意地悪した思い出ばかりが自分の中で強調されていたから、こんな笑顔で慧とお弁当を食べた写真も残っていてよかったな、と思う。
「ありがと」
 悠斗はそう言って、部屋に引き上げた。
 机の上に、さっきの写真立てを置く。高尾山か、とぼんやり思い出す。多分、登山は初めてで。ロープウェーで途中までのぼって、クラスのみんなで二列ずつ並んで歩いて山頂まで行ったような気がする。段々記憶がよみがえってくる。たしか。山頂で一人シートを広げて、お弁当を食べていたら、慧がとなりにシートを広げてお弁当を食べだしたんだっけ。それがちょっと嬉しかったんだ。そんなことを思い出していたら、ドアがノックされた。
「悠斗、いい?」
「いいよ」
 ドアが開いて、慧が入ってきた。悠斗の部屋はまだ段ボールや本が片付いていなくて、雑然としていた。慧は雑誌を押しやって壁際に座ると、机の上にさっき渡した写真立てが飾られているのを見て微笑んだ。
「あのさ、それ。まだ話があってさ」
 悠斗はデスクチェアに座ったまま、身体をねじって慧を見る。
「お弁当一緒に食べてたら、突然悠斗が指のさかむけをこう……びっとはいでさ。うわ、痛ってオレ言ったんだよ。悠斗の指見たら、血出ててさ。すっごい痛そうなんだ。先生に絆創膏もらってこようかって言ったら、いらないって言って、悠斗がこう続けたんだ。『オレは母さんの宝だから。母さんを悲しませないようにしなくちゃいけないんだ。これ、親不孝っていうだろ。こんなんに負けてちゃいけないんだ』って」
 悠斗には何を言われてるのかさっぱりわからない。そんな記憶まったくなかった。
「オレ、悠斗のことかっこいいと思ったんだよ」
 そこまで言って、慧は悠斗の顔を見た。
「怒らないで聞いてほしいんだ。悠斗、友達あんまりいないだろ。ゲームばっかりしてるだろ。母さん、そのことすごく気にしてるんだ。悠斗が小さいころに離婚した自分のせいだって思ってるって言ってた」
 悠斗はわずかに眉間を寄せて慧を見つめる。
「ゲームする時間、ちょっと減らして、オレの目を見て話してよ。母さんとでもいい。父さんは忙しいひとだから、ちょっと難しいかもしれないけれど。オレならいつでも相手になるからさ」
 悠斗は目を伏せる。
「話すことなんてないだろ」
「なんでもいいよ。ゲームのことでもいいよ。オレは悠斗と話したいんだ。悠斗の弟で友達になりたいんだ」
 そう言った慧の目はなんだか切ないような色をしていると思った。
「オレは、慧みたいにおもしろいこと話せないし……」
「おもしろいことなんて話す必要ないよ。悠斗と話せたら、オレはそれで満足なんだ。こんなふうに話したいんだ。ときどき、この部屋に来てもいい? そしたら、ゲームする手を止めて、オレのこと見てくれる?」
 誕生日を新しい家族に祝ってもらって、いい気分になっていたのもある。慧の真摯な気持ちが伝わったのもある。昔の写真の入った写真立てをくれたってことは、多分、こいつは少なくともオレに悪意を持っていないんだろうな、となんとなく思った。
 いやだ、という理由はとくに見当たらない。悠斗はうなずいた。
「いいよ」
「ありがとう」
 慧は嬉しそうにして立ち上がると、部屋を出て行った。

 それから夜になると、風呂を入る前に慧は悠斗の部屋に遊びにくるようになった。悠斗の部屋はもともと慧の父が書斎につかっていた部屋で、あった荷物はほぼ動かしたのだけれど、本のぎっしり入った本棚はそのままになっていた。悠斗の持ってきた本が入れられなくて、床に積んだままになっているのがいくつかあった。母は時間を見て、本棚を買いにいきましょうと言っていたけれど、それはいつになるのかわからない。ベッドとデスクの傍にはノートと本が積み重ねられていた。
「ねぇ、このノート、なに」
 慧がベッドわきにつんであるノートの一冊を手に取った。
「見てもおもしろくないよ」
「見てもいいの?」
「いいけど」
 慧はベッドサイドに背中を預けて座り込み、ノートのページを開く。はっと息を飲んだ。
「え……なに、これ」
 慧はページをぺらぺらとめくる。
「迷路だよ」
 悠斗が言う。
ノート一冊まるごと、そのページ全てに、皺のようにヒビのように触手をのばすカビのように曼荼羅のように……細かく緻密な路が描かれていた。それは一種、細密画のアートのように美しかった。
「すごい」
 慧は感嘆する。
「そこに積んであるノート、全部、迷路だよ」
「うえぇ、すげぇ」
 ベッドわきには数十冊のノートが積んである。それ全て悠斗が描いた迷路だった。
「え、どうしたの、これ」
 悠斗はちょっと息を飲む。言うべきか、迷った。でも、放課後バスケの練習をした後、疲れているだろう慧は毎日風呂のまえに悠斗の部屋を訪れていた。とりとめもないことをほぼ慧が一方的に話す感じだったが、慧が話しているときは悠斗もゲームをしないようにしていた。そうするうちに、悠斗の中では、少し疎ましかった慧の存在がちょっとずつ変化していた。慧は、話の間に挟まれるちょっとした悠斗の一言にしっかりと耳を傾けてくれた。それが嬉しかった。話してもいいかな、と思う。誰にも話したことがない、心の奥底にしまっていた話だ。悠斗はゆっくりと口を開いた。
「おまえが引っ越したあとの小学校四年のクラスで、だ。オレ、先生が入ってくる教室のドアにある仕掛けをしたんだ。戸が開くと内側にひっかけた紐が引っ張られて、上に置いたびっしょびしょの雑巾が落ちてくる、っていうやつ。そしたらさ、先生が来る前に田上って女子がドア開けちゃってさ。びっしょびしょのくさい雑巾ぶっかぶったんだよ。田上、泣いちゃってさ。先生が来て、誰がやったのってすごい剣幕で怒ってさ。オレが手を上げたら『有川くんの家はお父さんがいないからこういう嫌がらせを平気でできるのね』って」
 そこまで話して悠斗はちょっと息を吐いた。
「翌日から、オレ、登校拒否だよね。母さんにも言えないよ。そのとき、アパートの部屋にこもってずっとひとりで迷路書いてたんだ。しばらくして、学校行きはじめたけど、クラスのみんながなんかよそよそしくてさ。オレ、孤立しちゃって。結局、休み時間はずっとひとりで迷路書いてた。だれに見せるわけじゃない、暇があれば、鉛筆とノートもって迷路書いてたよ。友達なんていなくても、迷路書けたらオレはよかったんだ。中学入って、ばあちゃんにゲーム機買ってもらってからは、迷路はいつの間にかゲームに変わってた。気付いたら、オレ、ゲームばっかりやるようになってたんだ。でも、学校の成績は悪くなかったから、だれも何も言わなかったよ。結局、オレは、勉強さえできてればゲームばかりやっててもいいんだろ、って思うようになってた。ゲームをやめて、目を見て話そうって言ったのは、おまえが初めてだよ」
 慧は真剣な表情で聞いていた。その表情にちょっとくすぐったくなる。悠斗は自虐的に笑った。
「つまんねー話したな」
「オレ、悠斗の話、もっと聞きたいよ」
「え?」
「悠斗は自分の中で起こっていることを順序立てて理由づけて考えられる。そういうの、すごいなって思うんだ。オレにないところを持ってるなって思う。オレ、引っ越しても、ずっと悠斗のこと、忘れられなかったんだ」
 悠斗は少しびっくりする。自分は慧のことなんてほとんど覚えていなかった。
「オレが女の子とシロツメクサ摘んで王冠の作り方教えてもらってると、悠斗が誘いにきてくれるんだ。ダンゴムシ、向こうにいるぜ、とか。ザリガニみたんだ、とか。でも、オレはそういうのに興味なかったから、いやだって言った。だから、悠斗は怒ってオレをはやし立てたんだ。弱虫、泣き虫、うんこもらしーって。オレはそれで泣いちゃうんだけどね。それでも、いつも、悠斗はオレのことを誘ってくれて。結局、オレがいやがって、泣くっていう繰り返しだったんだけど。正直、迷惑だなって思ってた。なんで嫌な遊びに誘うんだよって。でも、今思い返すと、なんだか微笑ましいんだ。悠斗は悠斗で、オレのことを気遣ってくれてたんだろうなって思えてきてさ。有川悠斗くんって、引っ越してもずっと忘れられなかった。オレにとってはただの意地悪ガキ大将じゃなかったんだ」
「ごめん、オレ、あんまり覚えてない」
 悠斗が困惑した表情で眉間を寄せる。
「いいよ。オレだけは覚えてるから」
 なんだか嬉しそうに慧が言う。ふと、遠くを見るみたいな目をして、部屋の壁の一点を見つめた。
「小四でここに引っ越してきて、小五で母さんが交通事故で死んだんだ。そのあと、一か月くらい記憶がない。四年たって、父さんが再婚するって言ったとき、オレのなかではまだ早いんじゃないかって気がしたんだ。乗り気じゃなかった。反対するつもりだった。でも、小三まで住んでいたところの有川さんって聞いてびっくりした。悠斗じゃんって。悠斗なら、いいよって父さんに言った」
「オレが決定打だったんだ」
「そうだよ。だって、兄弟になるやつが嫌な奴だったらいやじゃん」
 慧は唇を尖らせる。そういうふざけた表情もこいつは可愛らしい。
「オレ、嫌われてると思ってた」
 悠斗がため息まじりに呟く。
「なんで」
「いやなこといっぱいしただろ」
「オレのこと、好きだったからでしょ?」
 慧は笑みを浮かべて悠斗を見る。どきり、とした。今の感じはなんだろう。胸が、ぎゅうっと収縮して甘苦しく痺れた。どうしていいかわからなくて、悠斗は曖昧に笑った。
「バカ言うな」
 ふふっと慧が笑ってベッドサイドにゆだねていた身体を起こした。
「風呂、入ってこよーっと」
「オレは寝るよ。おやすみ」
「おやすみ~」
 慧が部屋を出て行く。
 悠斗は胸を抑える。なんだったんだろう、さっきの感じ。胸が痛いくらいに跳ねた。不思議な陶酔感を得ながら、ベッドに横たわって、さっきまで話していた慧の表情を思い返していた。

 七月上旬、期末テストも終わり、夏休みを間近に控えて生徒たちが浮足立つころ、その日比較的早めに帰宅した父親に慧と悠斗は呼ばれた。
「来月、取引先との仕事の関係でアイルランドへ行く」
「へぇ~。アイルランド? いいね。お土産忘れないでね」
 慧が気軽く返す。
「俺はおまえたちも連れて行こうと思っている」
「は?」
 慧が素っ頓狂な声をあげる。
「なんで?」
「海外なんて行く機会めったにないだろ。五泊七日だ。俺がダブリンで仕事をしている間、おまえたちは二人で好きに過ごしたらいい。なんだったら、ダブリンから離れて、周辺都市でも好きに観光してきたらいい」
 慧が困惑したように悠斗を見た。悠斗もどういう表情をしていいのかわからない。
「オレ、部活あるよ」
「休めばいいだろ。部活以上に貴重な体験だぞ」
 父は二人が行くものと決め込んでいるらしい。
「どうする? 悠斗」
 悠斗はちら、と父の顔を見る。怒ったところをみたことがない穏やかなひとだった。悠斗の誕生日には有名ホテルのケーキを買ってきてくれるような気づかいをしてくれるひとだ。アイルランド、なんて気がすすまなかったけれど、このひとの機嫌を損ねたくないな、と思った。
「いいよ。行く」
 小さい声で悠斗が言うと、慧もうなずいた。
「悠斗が行くなら、オレも行くわ」
 それで話は決まった。八月下旬に、アイルランドへ行くことになった。

 八月の雲海は青く透き通るように澄んでいた。慧は隣の席でヘッドフォンを付けたまま眠っている。父は、パソコンのキーを打ち鳴らして書類を作成していた。悠斗は決めたことがある。この旅行にはゲーム機を持っていかない。ゲームは一切やらない、と決めていた。
 悠斗、ここ。行こうよ。
 アイルランド行きの話を父にされてから数日後、慧が持ってきたガイドブックには群青色の海にせり出した断崖絶壁の写真が載っていた。こんなところに立って、北の海を臨んだら、最高に気持ちいいんだろうな、と思った。その想像した感覚は、ゲームでは得られない爽快感だろうな、と思った。だから、いいよ、と言った。そしたら、慧はすぐさまネットでホテルとフェリーを手配してくれて、ダブリンで父と別れたあとは、慧と二人で列車とバスとフェリーを乗り継いで、イニュシュモア島に行くことになった。
 ガイドブックを見たり、ネットで見たりして、ここに行きたいね、あそこに行きたいね、と毎晩慧と話して調べているうちに、段々と憂鬱だったアイルランド行きが嫌ではなくなってきた。同時に、旅行が楽しみでゲームをやっている場合じゃなくなった。
 その冒険みたいな小旅行にドキドキする。慧も自分も、英語なんて高校で習った程度でしか話せない。怖いような気もするのに、わくわくする。慧がいるだけで、なんとかなりそうな気がする。ちょっと不安で、笑いだしたくなるくらい楽しみだった。こんな感覚、味わったことがない。日本ではお盆が過ぎて、夏休みも終わりかけているけれど、自分の夏休みはたった今から始まる、と思った。
 ダブリンに着いたのは夜だった。そのまま、バスで市内まで行き、父と慧と三人でリフィ川沿いにあるオコンネル橋近くの古いホテルに宿泊した。外観は古いけれど、中は真新しくリノベーションされていて、部屋も快適だった。
 翌朝、ホテルの一階にあるレストランで、ベーコン、ソーセージ、焼いたトマトとマッシュルーム、目玉焼きに豚の血を固めたブラックプディングが一皿にのせられたアイリッシュブレックファストをたっぷり食べて、仕事へ行く父と別れて、慧と二人列車にのるためヒューストン駅へ行った。キャリーケースはホテルに預かってもらっている。簡単な着替えをいれたバックパック一つだった。
「街並みがやっぱり外国だな」
 慧がきょろきょろしながら嬉しそうに長い足を動かす。街を歩く現地の人たちはみな背が高かったけれど、慧はその中でも劣らずすらりとしていた。リフィ川に沿って、歩いていく。通りがかった公園には色とりどりの花が美しく咲き乱れていて、その鮮やかな色彩は心を浮き立たせた。
「なんでイニュシュモア島に行きたいと思ったの」
 歩きながら悠斗が尋ねると、慧は少し考えるみたいに目線を中空へやった。
「学校の屋上に行くと、叫びたくなるだろ」
「いや、ならない」
「なるじゃん。山登って頂上いったら、やっほーって叫びたくなるだろ」
「まぁ、それはわからないでもない」
「あんな断崖絶壁に立ったら、絶対叫びたくなるなって思ったんだ」
「叫びたいのか?」
「まぁね」
「なんて叫びたいの」
「秘密」
 慧とよくわからない会話を交わしながら、ヒューストン駅に着いた。駅構内はいい香りがして、カフェがあり、売店には焼き立てのパンが売られている。さっそく、慧は匂いにつられて、クロワッサンを買っている。紙袋に入れてもらったそれをかじる慧とともに、乗る列車を探した。
「ねぇ、すごいうまい。ひとくち食べてみてよ」
 うん、と悠斗は差し出されたクロワッサンをひとかじりする。バターの甘く柔らかい香りが鼻をぬけて、香ばしく焼けた小麦生地のサクサク感がたまらなくおいしかった。
「あ、うま」
 自然と笑みがこぼれる。それに慧も嬉しそうに笑った。二人で交互に一つのクロワッサンを食べながら、列車を見つける。
 列車は指定席になっていて、悠斗が窓側に座った。しばらくして、車内放送もなく列車は突如動き出し、家々が並ぶ住宅街から徐々に牧場の緑が目立ち、羊や馬の群れが見られるようになってくる。いくつかの街を通り抜けて、ゴールウェイ駅についたのは昼過ぎだった。
 ゴールウェイのホテルで一泊して、明日フェリーでイニュシュモア島に渡る予定だった。
 駅から少し歩いた大きな公園傍にあるホテルに荷物を置いて、早めの夕食をとるために二人で外へ出た。市街地の道路は古い石畳が敷き詰められ、お土産屋、カフェ、雑貨屋、ベーカリーと店がたくさん並んでいる。マクドナルドは日本と違って黒い外観で、二人を驚かせた。
 結局散々歩き回って、ホテル近くにあるパブに入り、アイリッシュシチューとソーダパンを食べた。
 夜七時を過ぎても、日本より緯度が高いアイルランドは日の入りが遅いので、明るい。
 地元のひとなのだろう、ホテル傍の公園芝生には本を読んだり、ビールを飲んだりしながら、横になっているひとたちがたくさんいる。
 公園を横切って、このままホテルに帰るんだと思っていたら、突如慧も芝生に横になった。
「うわ、気持ちいい」
 悠斗は足元で寝っ転がる慧を持て余すように見つめる。慧が見上げてきた。
「悠斗も横になってごらんよ」
「いやだ」
「気持ちいいよ。自由の匂いがする」
「自由の匂い?」
 悠斗が訊き返すと、本当に気持ちよさそうに慧は、ふふふと笑った。興味がわいて、悠斗も慧の隣りに横になる。ふわ、と草の香りがした。ひんやりと背中に当たる芝が冷たくて、心地いい。見上げると頭上には少しばかり夕色が混じりだした明るい空があった。ふ、と力を抜くと、気持ちが楽になった。
「ビールあったら、最高だよねぇ」
 慧が笑いながら言う。
「だめだぞ、未成年」
「せめて、なんか飲み物あったらいいよね」
 そう言って、慧ががばっと草の葉を散らして起き上がる。
「オレ、買ってくるわ」
「じゃ、オレ、待ってる」
「甘い炭酸飲料とかでもいい?」
「いいよ」
「行ってくるわ」
 そう言うと、慧は立ち上がり、公園を出て行った。
しばらく、悠斗はぼんやりと公園の周りを見ていた。噴水があり、犬を散歩させているご婦人がいる。小さい子供がよたよたと歩きながらあどけなく笑い、母親がそのあとを追っている。ジョギングしている男性もいる。なんだか、日の入りが長いだけで時間がのんびりとしている気がする。気持ちいいな、と思った。そのとき、悠斗に向けて二人の女性が微笑みながら近づいてきた。
「ハイ!」
 悠斗はびっくりして、ハイ、と小さい声で返す。そのあと、女性二人は早口で何かを言い、悠斗の手を握って引っ張った。
「え?」
 どこかへ遊びに行きましょう、と言っているらしい。
あ、ツレがいるので。とかって英語でなんて言うんだ?
 悠斗が困惑しているうちに、女性二人は笑いながら悠斗を立たせ、連れて行こうとする。
 可愛らしい二人組だが、どこに連れていかれるのかわからないし、怖いような気持になった。
 なんて言って断ったらいいんだろう。
 おどおどしていたとき、
「ちょっと!」
 缶を抱えた慧が走ってきた。女性二人から悠斗を引きはがし、守るみたいに悠斗を後ろ背に相手の目から隠した。
「ディスイズマイラバー!」
 慧が叫ぶと、女性たちはびっくりしたように目配せしてから、ソーリー、と肩をすくめて、去って行った。
「なにナンパされてんだよ!」
 慧が悠斗に叫ぶ。
「いや……ただ、公園見回してたら、声かけられただけなんだけど……」
 悠斗はまだドキドキしている胸を抑えながら言う。唐突に声を掛けられて、連れて行かれそうになって、相手は女性だったとはいえびっくりした。
「オレもびっくりした。戻ってきたら、悠斗、女の子に連れて行かれそうになってんだもん。焦ったよ」
「焦ったのはこっちだよ……」
 慧からセブンアップの缶を受け取りながら、プルタブを引いた。ぷしゅ、と飛沫があがって、甘い香りがほとばしる。缶を口につけて、中の飲み物を喉に流し込んで、息を吐く。しゅわっとした炭酸が喉に心地よかった。
「ってか、なんだよ。ディスイズマイラバーって」
 悠斗が慧を睨む。慧は笑った。
「それが一番いいと思ったんだ」
「もっと、マシな英語思いつけよ」
「でも、女の子、帰ったでしょう」
「帰ったけどサ……」
 思い返せば、ちょっとギャルっぽいけどカワイイ女性二人だったので、残念な気もしないでもない。
「あー。残念とか思ってる?」
 慧が睨んでくる。
「まぁ、ちょっとね……」
 悠斗が口の端をねじりあげて笑う。
「悠斗の童貞はオレが守る」
 冗談らしく慧が鼻息荒く拳を握ったので、悠斗は笑った。
「バカじゃねーの」
 公園の芝生の上、二人は薄暗くなるまでジュースを飲んで、とりとめもないことを話し、そしてホテルに帰った。
 翌朝早く、バスでロッサヴィール港まで行き、フェリーに乗った。波が激しくて、フェリーは左右上下に大きく揺れっぱなしだった。気持ち悪くなって、慧と甲板に出ると、濃紺の海が白い波をたてて船を持ち上げている。風が冷たくて、それが幾分気持ち悪さを緩和する気がした。ただ、甲板もぶつかった波が飛沫をあげるくらい大きく揺れる。すっぱいものが喉元にこみ上げてきて、やばいな、と思ったころ、白い陸地が見えてきた。
 港に停泊したフェリーを下りて、レンタサイクルで自転車を借りる。慧と二人で海沿いの道を走り出した。途中、インフォメーションセンターで島の地図を買う。緑の草を区切るように低く石を積んだ壁が続き、時折その中に牛や馬が飼われている。空気はきりっと澄んで気持ちいい。夏なのに風はひんやりとしている。
前を走る慧は、地図を見て、まずドン・エンガスという古代遺跡へ行くと言っていた。悠斗はそれについていく。
 しばらく行くと白い砂浜があって、きれいな濃い青の海が波を蹴立てて寄せている。観光客が数人、海辺で遊んでいる。
 慧が浜辺に自転車を停めて、靴を脱ぎすて、海にばしゃばしゃ入って行った。
「冷たい?」
「冷たい」
 悠斗も自転車を降りて、波打ち際まで行く。
途端、慧が手で水をかけてきた。
「うわっ! 冷た! ぬれる!」
 叫んで手で飛沫をよけようとして、よろけて、海の中に尻もちついた。
 ハーフパンツとティシャツがびしょびしょになる。慧が背中を反らせて大笑いしている。
「マジか、これ。やめろよ~」
 悠斗が泣きそうになって呟く。下半身は濡れてべったり張り付いてくる。最悪なのに、なんだかおかしい。
 慧につられて悠斗も笑いだす。そして、悠斗も負けじと慧の腕を引っ張って、海の中に転ばせる。
「うわっ、ちょ!」
 大きな飛沫をあげて転倒し、慧も衣服がずぶ濡れになる。
「なんだよこれ~!」
「これであいこだろ!」
 濡れそぼった互いを見て、腹を抱えて笑い合う。
「自転車で走っていればすぐかわくよ」
 慧はそう言って海を上がると、タオルを寄越してくる。気持ち程度に拭いて、慧に返すと、慧は足を拭いて、靴をはいた。
 再び、自転車で走り出す。濡れた服が冷たいし、気持ち悪い。曇りながらも日射しがあるのがまだ幸いだった。
 ドン・エンガスのビジターセンターに着くと、駐輪場に自転車を置いて、足場の悪い石の階段をのぼっていく。数分上っていくと、高い壇のようになっている岩壁が現れる。その向こうは、海に突き出すような絶壁になっていて、慧と悠斗は息を飲んだ。観光客は四つん這いになり、這うようにして下をのぞきこんでいる。風が強い。空よりも濃い青で海がラインを描く。この海の先には、もうヨーロッパ大陸はない。アメリカ大陸になる。ここは、ヨーロッパの果てだった。
日射しを含んだ空と北の冷たさを表したような色をした海とが延々と広がる。吸い込まれそうな絶景だった。
「慧、叫びたい?」
 吹き付ける強い風に黒髪を乱しながら悠斗が隣に立つ慧を見る。風がうるさくって、悠斗は手で前髪を抑えた。慧はしばらくだまって水平線を見ていたが、首を横に振った。
「なんか、すごすぎて」
「わかる」
 悠斗がうなずく。
しばらく、崖上でふたり、言葉なく佇んでいたが、中国人観光客が団体で声高にしゃべりながらやってきたので、慧が悠斗の腕を掴んだ。
「そろそろ行こう」
「そうだね」
 二人はビジターセンターに戻り、駐輪場で自転車に乗り、再び走り出した。ドン・エンガスを出たころから、雲行きが怪しくなってきて、薄暗くなってくる。稲光が閃く。慧がホテルに行こう、と言ったので、悠斗も同意して、道を港の方へ戻りだした。港で自転車をレンタサイクルに返し、ホテルに向かって歩いている途中で雨が降り出した。
 風も強く、海が荒れ、シャワーのように雨が降り注ぐ。しかも、寒気が入り込んだのか、冬場のように寒かった。
 二人はびしょびしょになって、ホテルに飛び込む。チェックインして、二階の部屋に入り、濡れた服を脱いで慧から先にシャワーを浴びた。
 シャワーを浴びているときは温かいのだけれど、部屋に戻ると寒くて、着替えも下着しかない。悠斗と慧は、シャツとボクサーパンツのままそれぞれベッドにもぐりこんだ。
 二人はがたがた震えながら、テレビの天気ニュースを見ていた。
「明日の天気、どうなのかな。フェリー、ちゃんと出るんだろうか」
 テレビ画面を見守りながら慧が不安げに言った。
悠斗は、それに返事する余裕もない。身体の震えが止まらない。とにかく寒くて、歯の根があわない。
「悠斗、大丈夫?」
 離れた隣のベッドから慧がのぞきこんでくる。
「寒ィ……」
 ベッドの中で丸まるように小さくなって両腕を抱えるようにして、暖をとる。それでも、足りなかった。
 寒い。
 泣きたいような気持で思ったとき、するりと温かいものが背中に触れた。振り返ると、慧がベッドに滑り込んできた。腕を身体にまわされ、ぎゅうっと抱きしめられる。体温に包まれる。とろけるように温かい。がくがくしていた震えが段々収まっていく。
「慧、あったかい」
「少し眠りなよ。眠れるまで、こうしておいてあげるよ。目覚めたら、階下にあるパブに夕飯を食べに行こう」
 そう言って慧は悠斗の身体をもう一度抱きしめた。肌と肌が触れ、身体に温もりを与えられる感覚がひどく気持ちよかった。丁度良い温度のお風呂にゆったりと浸かっているみたいな感覚になる。
 じわ、と身体の芯が快感に震える感覚がした。ちょっと下肢が甘く痺れてくる。
 背中の温もりを感じながら、懸命に下肢のむずむず感を我慢した。それは決して不快ではないけれど、こんな感覚を覚えることに善意で抱きしめてくれている慧に対して恥ずかしい気がした。
そんなことを悩んでいるうちに、慧に抱きしめられたまま、少しうとうとした。
 目を覚ますと、嵐とでもいっていいような荒れ具合だった。風の唸るような音が窓の外で響いている。
 オイルヒーターで乾かした半濡れのハーフパンツとティシャツで、階下のパブに下り、ニンジンのポタージュ、サーモンのグリルとパンを食べた。サーモンは味付けがされていないのか、味がなくて、やたらと塩コショウを振って食べた。
 部屋に戻り、日中の疲れもあって、二人はすぐそれぞれのベッドに入った。外では風はさらに激しさを増し、窓に石つぶてがぶつかるような音をたてて雨が降り、ときおり停電がおきていた。
 室内灯を消しても、すぐ眠れず、悠斗も慧もしばらく窓の外の音に耳を澄ましていた。
「ねぇ、悠斗。そっちのベッド行っていい?」
 慧が声を掛けてくる。
 悠斗はさっき慧に背中を抱いてもらったときに感じた気持ちよさを思い出す。
「いいよ」
 すぐさま慧が悠斗の布団を持ち上げて、身体を滑り込ませてきた。
「今日、どうだった?」
 布団の中、至近距離で顔を見合わせて、慧が訊いてくる。彼の柔らかい猫毛が頬にかかって、くすぐったい。
「ドン・エンガス、すごかった。崖の下の青く渦巻くような海も怖いけれど、吸い込まれそうなほど綺麗で、ドキドキしたよ」
「オレ、小さいころから父親の出張のたびに親戚の叔母さんの家に預けられてたんだ。父さんに会いたいって、夜中になるとよく泣いて、叔母さん困らせてた。こんな風に連れてきてもらって、悠斗とアイルランド回れることになるなんて思わなかった。悠斗がいてくれてよかった」
 慧はストレートに言葉を投げてくることが多い。その言葉は冗談めかしていても、いつも悠斗の心を少なからず揺さぶった。悠斗は「おまえがいてくれてよかった」なんて恥ずかしくて言えない。だから、ふーん、って聞き流していた。
「二人でなら、もっといろんなところ、行けそうな気がする」
 慧が笑う。
「いろんなところって?」
「オレ、クロアチア行ってみたい」
「クロアチア? どこよ、それ」
「東欧」
「へぇ……」
「町全体がオレンジ色の屋根で、壁が白くて、海が青くて、すっごく綺麗なんだ」
 クロアチアには興味はなかったけれど、慧と行く、ということに興味があった。
「いいよ、いつか、行こうよ」
「約束」
 二人で笑い合って、ベッド深くにもぐりこむ。そのまま風の音を頭の片隅で聞きながら、眠った。
 翌朝、昨晩の嵐が嘘のように空は晴れ渡っていた。朝一番のフェリーで、アイルランド本土ロッサヴィール港まで帰る。帰りの船も揺れがひどかった。
「酔い止め持ってくればよかった」
「甲板に出よう」
 慧と悠斗は、船室から出て、甲板へ行く。カモメが声を上げて頭上を飛んでいく。船の波を切る飛沫があがる。イニュシュモア島はもう遠く霞んでいた。
 なんとなく、旅が終わる、という感覚がした。今日中にダブリンまで戻って、明日は父親とともにダブリンを一日観光して、そして翌日には日本へ帰る。
 寂しいような、残念なような心地がした。
「楽しかった」
 イニュシュモア島があった海の先を見つめつつ悠斗が言う。
「楽しかったね」
 慧が言う。悠斗は、慧も同じような気持ちでいるのではないだろうか、と思った。旅はいつかおわる。でも、慧との生活はこれからもまだ続く。それが少しだけ嬉しかった。

 旅行から帰ってきて、バタバタと学校が始まった。一か月ほどたち十月半ば、試験期間にはいり、慧も部活が休みでいつもより早く帰宅していた。家には、慧と悠斗だけで、ダイニングのテーブルで二人は試験勉強をしていた。
 昼頃から降り出した雨は、激しくなっていて、止む気配がなかった。
「母さん、傘、持って行ってないんだよね。むかえにいってくるわ」
 悠斗が椅子から立ち上がる。
「ああ、じゃ、オレも一緒に行く」
 慧も時計を見ながら、ノートを書いていた手を止めた。悠斗は母親に傘を持って駅前で待ってる旨、ラインを送った。
「父さんは会議があるって言ってたから、大丈夫かな。夜にはやむよね」
 悠斗が訊くと、慧がうなずく。
「あのひとは、雨降ってたら駅前からタクシーでもひろってくるでしょ」
 母親の花柄の傘を持って、二人で家を出た。
「傘もって母さんのお迎えとか、なんかかわいいな」
 慧が嬉しそうに笑う。
「傘買うお金ももったいないし、傘たまってもしょうがないしな。オレが暇してんなら、迎えに行くのが一番いいんじゃない」
 傘をさして歩きながら悠斗が言う。
「こどものころからそうしてたの?」
 慧が傘をわずかに傾けて、悠斗を見る。
「そうだよ。母さんも、それが当然って思ってるから、平気で傘持って行かなかったりするからな」
「天気予報見てから、出かけてほしいよな」
「オレ、ずーっとゲームばっかりしてたから、傘持って出かけるの面倒くさくってさ。でも、母さんが濡れて帰ってくるのを考えたら、いても立ってもいられないから、ゲームやめて母さん迎えに行くんだ。母さんにしてみたら、そういう狙いもあったのかもしれない」
「そういや、最近、あんまりゲームしなくなった?」
 慧が思いついたように言う。
「してるよ。してるけど、前みたいに隙間時間があったらすぐゲームって感じではなくなったかもな。慧が、やたらと部屋に遊びに来るし」
 ははは、と慧が笑う。駅につくと、丁度電車がついたのか出入り口は混雑していて、タクシー乗り場は並んでいた。慧と悠斗が駅の中に入ろうとすると、父と母が出てきた。
「あれ、一緒だったの」
「会議がなくなってな。早く帰れることになったんだが、この雨だ。傘も持ってなくて、困ってたんだ」
 父親が言いながら、目尻に皺を寄せて笑う。
「なんだ、迎えにくるなんて気がきいてるな」
「傘、一本しかないよ。母さんだけだと思ってたから」
 慧が少し怒ったみたいに言う。
「いいよ、母さんと二人で入っていくから」
 まるで長年連れ添ったみたいに、父は言う。
慧は悠斗をちらとみると、自分のさしている傘を父親に渡した。
「父さん、これつかいなよ。一本の傘に二人で入って、スーツ濡れると困るだろ。オレは悠斗と入っていく」
「じゃ、そうしよう」
 父親は慧から傘を受け取った。慧が頭をさげて、悠斗の傘の下に入り込み、悠斗から傘を受け取った。
「オレがもつよ」
 前方に父と母が歩き、その後ろを一本の傘にはいった悠斗と慧が歩いていく。慧の肩先が濡れているのに気づいて、悠斗は気付かれないように傘の先を指で慧の方に押しやった。そしたら、慧の腕が悠斗の腰にまわり、ぐいと引き寄せられた。びっくりして、慧を見上げると、前を向いたまま「濡れる」とだけ言われた。じわじわ、と身体が熱くなる。イニュシュモア島で寒さに震えていた時に、慧に抱きしめられた感覚を思い出す。身体の奥底からもわりと熱した圧がわきおこる。
 うん、と低く抑えるように返して、悠斗は再び歩き出す。
雨音が傘に当たる。車が時折、飛沫を上げて走っていく。路傍の葉は雨に濡れて濃い緑色をしている。空は薄墨色の雲が張り、すごい速さで流れていく。見慣れている、雨の景色のはずだった。なのに、すごく鮮明に見える。
 どきどきする。
「濡れないように」
 そう言って、慧は悠斗の肩を自分に引き寄せる。慧の少し汗ばんだ体温に触れる。心拍が速くなる。胸がぎゅうっとなって苦しくて痛いほどになったとき、家についた。
「お迎え、ありがとうな」
 傘を閉じた父親に言われる。
「たすかったわ」
 母も笑顔で慧と悠斗を見た。なんだか後ろめたいような気持になって、慧と少し距離を取った。傘を閉じて玄関に入りながら、慧が言う。
「また、雨が降ったら迎えに行くよ」
 悠斗は思う。
 また、雨が降ったら、慧と同じ傘の下で歩けるのだろうか。

 中間テストが終わり、学校はにわかに文化祭の準備で盛り上がりだした。慧のクラスはお化け屋敷をやるそうで、どういう状況で、なのかは知らないが慧は扇風機を回す係なんだーと張り切っていた。
 悠斗のクラスは女装喫茶に決まったが、仲のいい生徒たちが中心になって企画を進めていて、悠斗はほぼノータッチの状況だった。文化祭の前日、風呂を入る前に部屋へ遊びに来た慧に言われた。
「オレ、文化祭のステージで歌うことになったから、見に来てよ」
「え? ライブ、でるの」
 慧はたしかに友人が多いし、鼻歌程度でしか聞いたことがないけれど声が響くから、ボーカルに担がれることもあるのかもしれないと思った。
「ライブに出る予定の部活の先輩が扁桃腺で喉痛めちゃって、ボーカルできなくなったんだ。代わりに、オレがでることになっちゃってさ。ついでにオレの好きな曲演奏してもらうことになったから、聞きに来てよ」
「どうせ、文化祭、暇だから。行くよ」
「悠斗のクラスって、女装喫茶って聞いたけど。悠斗、出ないよねェ?」
「出ないよ」
 ふぅ、と慧が胸をなでおろす。
「なら、よかった」
「オレなんかが出るわけないじゃん」
「いや、悠斗みたいな顔は化粧映えするんだよ。きっとそこらの女子よりかわいくなるから、女装喫茶なんてやっちゃだめ」
「馬鹿言うな」
 悠斗は冗談に伏して笑った。
「まぁ、悠斗が出ないって聞いて安心した。オレ、風呂はいってこよ~」
 慧は本気で心配していたらしい口調で言って、部屋を出て行った。
 この文化祭のある連休をつかって、父と母は遅まきながら新婚旅行を兼ねて、二人で二泊三日の旅行に行くことになっていた。滅多に旅行へ行ったことがない母は上機嫌で、荷造りも楽しそうだった。
文化祭当日の朝早く、父と母はタクシーで出かけて行った。
いつも通り慧とともに高校へ登校し、教室の前で別れる。生徒が落ち着かない様子でざわつき、飾りつけで普段と雰囲気が違っている教室へ入ると、クラスの数人が固まって話し合っていた。
 悠斗が教室に入った途端、何人かの視線が向けられた。
「ああ、悠斗」
「悠斗いいじゃん」
「悠斗、いいね」
 女子数人が囁きかわす。嫌な予感がした。
「え? なに?」
 女子三人に囲まれて、手を引かれて化粧道具一式を目の前に開かれるに至って、悠斗の動揺は最高潮に達した。
「ちょっと待って! なんだよ、これ」
「女装だよ」
 井上というクラス委員の女子が言った。
「女装する予定だった今泉くんが風邪で休んじゃったから、悠斗、代理」
「えぇっ? 代理って……」
 焦る悠斗をイスに座らせ、佐藤が髪をいじり、ファンデーションを掌に垂らしだす。
「ちょっと、待って!」
 立ち上がろうとする悠斗を女子三人がおさえつける。
「お願い! 人数足りないの。もう、ノリノリのくせにむっさいのばっかりだからさ。悠斗が花をそえてよ」
「花?!」
「ちょっとォ、むっさいってなによォ」
 ラグビー部の飯田、水泳部の水上、陸上部の渡辺がむっちむちのメイド服でギャグかと思うような厚化粧をしてパーテーションの裏から出てくる。女子三人が、大笑いしてウケている。
「今泉、熱ひどいみたいでさ、電話で何度も謝ってたよ。あいつすげぇ楽しみにしてたんだ。おまえ、代理やってやれよ」
 カツラのウェーブを気にしながら、ミニのフレアスカートからむっちむちの足をむき出しにした水上が言う。
「もう一人くらいいないと、多分、店まわんねーよ。頼むわ、西野」
 飯田の厚い手に肩をたたかれる。
「一緒に恥かこうぜ!」
 肩幅がぱつんぱつんのメイド服で渡辺がにかっと笑ってくる。女子三人も、悠斗に否といわせない視線を送ってくる。しぶしぶ悠斗はうなずいた。
「いいよ……」
 肩までかかる黒髪のカツラをかぶって、女子の手でうっすら化粧をされた悠斗は、鏡で見て、ちょっと自分でもびっくりするくらいの美少女だった。
「おぉ、すげぇじゃん、かわいい」
 水上が相好を崩す。
「井上よりかわいいじゃん」
 渡辺が失言をして、井上に蹴られる。
「ばっちりだね」
 メイクを施した女子三人は自信満々で目配せしあった。
一年の女装喫茶で美少女(年)がいる、という噂は、あっという間に全校に広がり、開店しばらくすると長い列ができた。
 悠斗は大忙しで、教室中を注文受付と配膳で動き回った。
「写真は禁止です~」
 教室の隅で井上が声をあげていて、注意書きもメニューにしてあるが、個人的に写真を撮ってもいいか、と悠斗に声を掛けてくる生徒が尽きなかった。もちろん女子も男子も丁重にお断りした。昼過ぎになり、客足も落ち着いてきたころ、慧がやってきた。
「いらっしゃいませー」
 ぶっきらぼうに悠斗が対応すると、慧はむすっと返した。
「しないって言ってたのに」
「仕方ないだろ。ピンチヒッター頼まれたんだから」
「仕方ないけどさー」
 慧は不貞腐れた表情で、テーブルにつくと、ジンジャーエールを頼んだ。
「お化け屋敷は?」
「悠斗が女装してるっていうから、さぼって出てきた」
「だめじゃん」
「いいんだよ」
 そのとき、外部の客らしい私服姿の男性二人が入ってきた。身体が逆三角形の渡辺が席に案内する。二人はにやにやしながら耳打ちし合い、悠斗を見ている。悠斗と目が合うと、手で、おいでおいでと招いた。ん? と思いながら無視することもできずに、悠斗が傍へ行くと、突然短いフレアのスカートをめくられた。
「ぎゃっ」
 悠斗が叫んで手で抑える。
「あー、おパンツは、男もんなんだねー」
「萎えるー」
 ぎゃはは、と男二人が笑っている。悠斗は外部客ということもあり、どうしていいかわからず、ぐっと唇を噛みしめた。井上が、気付いてパーテーションの裏から出てくる。男たちの所業に気付いて口を開きかけるよりも早く、慧が立ち上がって、つかつかと寄り、スカートをめくった男の腕をひねりあげた。
「セクハラですよ。謝罪してもらえませんか」
 男が立ち上がり、慧の手を振り払う。
「なにすんだ!」
「それはこっちのセリフです。スカートめくって下着を見るなんて痴漢でしょう。警察に届けますよ」
 慧が声高に叫ぶと、教室の外に何事かと生徒たちが集まりだした。男たちはそれに慌てふためく。
「ただ、いたずらしただけだろ!」
「いたずらじゃないです、嫌がらせですよ」
 慧がはっきりとした声で言う。教室の外で見守っている生徒たちがざわつきだす。
「先生を呼びますよ」
 井上が畳みかけると、男二人は舌打ちして、腹いせらしくイスを蹴り倒して逃げていった。
「大丈夫?」
 慧が悠斗をのぞきこむ。
「大丈夫。ただ、ちょっとびっくりしただけ。スカートなんてめくられたことねーから」
 悠斗が困惑したみたいに笑いながら言う。その表情に慧が眉間を寄せる。井上がそばにきた。
「先生に事情説明しようか。もしかしたら、まだ他のクラスまわってるかもしれない。あいつら」
「いや、多分、これだけの生徒に見られてたら、学校の外まで逃げてるでしょ。オレはべつに大丈夫だから。おおごとにしないで」
 悠斗が言う。
「こうゆうことがあるから、オレは悠斗が女装とか嫌だったんだ」
「やだ、西野くん、恋人みたい」
 井上が笑う。
「恋人ですよ」
「マジか」
「恋人じゃありません!」
 悠斗が必死に声を張り上げる。そのとき放送でライブの準備を始めるので関係者は集まるように、とアナウンスが流れた。
「あ、オレ、行ってくる。悠斗、ちゃんと見に来てね」
「わかってる」
 慧はさらっと手を挙げて、教室を出て行った。

 化粧を落として制服に着替えて、悠斗は体育館の一番後ろの壁に背中を委ねて立っていた。ライブが始まる少し前に、井上がもう終わっていいよ、と悠斗に言ってくれて、女装から解放された。
 慧のバンドはトリらしく、それまで何組かのバンドがハウリングを響かせ、ギターの音をかき鳴らして、ドラムとベースの重低音をきかせて演奏していた。とにかく、わめく、叫ぶ、ギターを泣かせるでひどく耳が疲れてくる。ポケットに入れていたスマホが鳴動した。開くと、慧からのラインだった。
『悠斗のために歌うよ』
 え? と思ったとき、ステージ上に慧とバンドのメンバーが現れた。きゃーっと女子の黄色い声があがる。フルネームで慧の名前が男子に叫ばれて、慧が手を挙げて応えていた。
 慧の人気があるのがわかる。
「どうも~。バスケ部の瑛太先輩の代理で歌う、西野です」
 慧がマイクを持って、バンドのメンバーの紹介をしていく。すらりとした容姿に、淡い色素の柔らかい髪がライトの光にキラキラしている。そのしゃべりは、饒舌なのに嫌な感じは与えず、こなれている。肌は白磁のように白く滑らかで、ステージ上からでもそれがわかる。
 今更ながら、慧が目を引く容姿なのを感じた。ステージ前で見ている観客もみな、慧に視線が釘付けになっている。
「今日はオレ、代理なんで、渾身の力で一曲だけ歌うね」
 え~っという女子の声があがる。もっと歌ってーという声が上がり、笑い声が起こる。
「オレ、瑛太先輩じゃないから、そんなにレパートリーないんだ」
 慧はそう言ってあどけなく笑った。
「オレの好きなTHE CAVEの歌を歌います~。イギリス出身のバンドで、ボーカルのブラッドは二十七歳のときに拳銃自殺をしました。ブラッドが最後に残した曲を歌います」
 そう言って、慧はマイクをスタンドに戻す。目をつぶり、すぅーっと息を吐いた瞬間、慧をとりまく空気が変わる。
 マイナー調のギターが口火をきってかき鳴らされ、ドラムがそれに従って音を刻み、ベースが入ってくる。
 しずかに忍びよるように、曲は始まる。
「I am always looking at you……」
 慧の声は放たれた一筋の閃光のように体育館中に響いた。透明でいて、甘く切ない、震えるような声。一瞬で、その場にいるものすべてが慧の声の虜になった。さっきまで、騒いでいた女子も、男子も、水を打ったように静かになり、慧の声に耳を澄ました。
 ぞわっとした。
 慧、すごい。
 悠斗は鳥肌立った。そのとき、ラインの言葉を思い出した。
『悠斗のために歌うよ』
 どきりと心臓が跳ねる。
 オレのために、歌う?
「Don’t  go away. Fire is sparkling each other. Star is twinkling every where……」
 少し掠れた高音も、胸奥に響くような低音も、慧の口から放たれた声は聴く人の心を打った。心臓を鷲掴みにして、揺さぶった。誰もが、歌う慧から目を離せなかった。
 音を奏でていたベースとギターとドラムが、ふ、とタメをつくる。慧がマイクに口を寄せて、蕩けるように囁いた。
「I love you……」
 目が、あった。
 わずかに目を上げた慧は、たしかに悠斗を見た。大勢の人間が見ている中で、二人だけの視線が絡みあう。ぶつかった目が互いにじっとりと潤む。
 ギターが切なく奏でられる中、悠斗は腕を抑える。震えるくらいに背筋がぞくぞくした。言いえぬ官能を感じてしまい、たまらず曲が終わると同時にその場を離れた。
 放心の体で学校を出、そのまま駅まで歩いていく。あまり記憶がない。駅を出たら雨が降っていて、傘を持ってなかったので濡れたまま雨の中家まで歩いて帰ってきたら、頭痛がした。シャワーを浴びて、ベッドにもぐりこんだ。そのままうとうとしていたら、慧に揺り起こされた。
「カレー作ったけど、食べる?」
「いらない」
 食欲が全然なかった。頭がガンガン叩かれてるみたいに痛む。
「今、何時」
「もう八時だよ」
 結構眠ったな、と思ったけれど、頭がひどく重い。
「あれ、なんか悠斗、熱っぽくない?」
 慧の手が悠斗の額にまわる。
「うわ、熱い。ちょっと体温計持ってくるよ」
 慧が慌てて階下へ降りていった。熱をはかると、三十八度ちょっとあり、慧は慌てて冷えピタを持ってきた。
「風邪、ひいたんだね。具合、どんな感じ?」
「頭痛いし、関節痛いし、喉も痛い。しんどい」
「今日土曜日で、明日日曜日でしょ。月曜日も祝日だから、火曜まで病院やってないよな。薬局で薬買ってくるわ。他にもなんかいるもんある?」
「なにもいらない」
「じゃ、適当に買ってくる」 
慧は財布を持って家を出て行った。家中がしん、と静かだった。かすかに慧が作ったのだろうカレーの匂いがした。せっかく作ってくれたのに、食べられなくて悪いな、と思った。
そう言えば、文化祭のライブのことも言ってない。でも、なんて言えばいいんだろう。よかったよ、でいいのだろうか。慧は、自分のために歌うって言っていた。それはどういう意味なんだろう。慧が歌ったのは、多分、恋の歌だ。ボーカルのひとは、これを作った後拳銃自殺をしたと言っていた。命を懸けた、恋の歌だ。それを自分のために歌うって……。
考えれば考えるほど、胸がかき乱されて、頭痛が激しくなる。
慧は、オレのこと、どう思ってるんだろう。特別に思ってるってこと? 兄として、友達として、それ以上に?
 ぼんやりとした頭でそんなことを考えながら、少しうとうとした。
 いつの間にか慧は家に帰っていて、梅干をつけたお粥を椀によそって運んできてくれた。
「これ食べたら、薬飲みなよ。そしたら少し楽になるよ」
「ありがとう」
 起き上がって、お粥を口に運ぶ。味はわからなかったけれどわずかに塩気があり、食べやすかった。薬を飲んで横になると、しばらくして関節痛と頭痛が和らいできた。再び、うとうとする。風呂上りに慧が部屋に様子を見に来た。
「どう?」
「薬飲んだら大分楽になった。ありがとう、慧」
「ゆっくり休んで。疲れが出たんだよ、きっと」
「そうかな。疲れてるつもりはなかったんだけど」
 おやすみ、と言い残して慧は部屋を出て行った。閉じられたドアを見て、待って、行かないで、と声をかけたくなる。イニュシュモア島のときみたいに、同じベッドで寝てほしい、と言いたくなる。でも、恥ずかしくて言えない。言えないまま、慧の足音は遠ざかっていく。
 慧に、傍にいてほしい。ぎゅうっと抱きしめられたい。
 風邪で気持ちが弱っているのだろうか。そう思う自分を懸命に抑えつけた。
翌日日曜日も一日、ベッドで横になっていた。朝と昼は慧が食事を作ってベッドに運んでくれて、それを食べて、薬を飲んでいたら、夜には大分加減がよくなった。夕食はダイニングに下りて、慧と一緒に食事をとった。
風呂に入り、部屋でベッドへ横になっていると、慧がノックして入ってきた。
「薬、飲んだ?」
「のんだよ」
「調子、どう?」
「結構いいかも。火曜日には普通に学校行けそうだ」
「そしたらよかった。ちょっと話、してもいいかな」
「いいよ」
「ありがとう」
 慧はそう言うと、ベッド下に来て、座り込み、ベッドサイドに身体を委ねた。悠斗からは背中しか見えない。
「文化祭のライブ、どうだった?」
 一瞬、息を飲む。どう応えていいのか迷ったあと、悠斗は軽く言った。
「すごくよかったよ。慧、歌、うまいんだな」
「オレ、ラインしたでしょ」
「え?」
「『悠斗のために歌うよ』って」
 悠斗は黙っている。
「その意味、わかった?」
 弱々しく、悠斗は口を開く。わかる、と言ったらいけないと思った。
「わからない」
 慧がぐいと身体を向けて、ベッドに身を寄せてきた。
「そんなわけないよ。悠斗は頭いいんだから、わかるだろ」
「わかんねーって!」
「じゃ、言わないとダメか」
 慧の顔が目の前にある。肩の上を両手で抑えられて、かぶさるように慧の身体がある。逃げられない。
「言うってなにを……」
「好きだ」
 悠斗の目が見開く。その先には慧の端正な顔がある。悠斗の身体が震えた。頭の中が真っ白になる。
「好きって……」
「性的に煽情される意味合いを含めて、だよ」
「性的に煽情?」
 悠斗の目にわずかに脅えが光る。それを目敏く認めて、慧はベッドから身体を起こした。ぎしり、と音が鳴る。
慧は悠斗に背中を向ける。
「ごめん。変なこと言った。忘れて」
 うつむいて、低く慧が言う。それに胸が痛む。
 慧。
 慧のこと。
 慧のことなら、オレも。
 悠斗はす、と息を吸う。
「男同士だから、よくわかんなかった」
 力強くそう言って、続ける。
「こういう感情を抱いたことがないから、わかんなかった。おまえに言われるまで、この気持ちがなんなのか、わかんなかった。でも、多分、こういう感情を言葉にあらわすなら、好き、なのかもしれない」
「え?」
 慧が顔を上げて、悠斗を見る。悠斗はベッドから起き上がる。
「慧のこと、好きだ」
 慧がびっくりした表情で呆然と悠斗を見ている。
「今、なんて」
「慧のこと、好きって」
「マジか」
「うん、多分、マジ」
 慧は頭をぐしゃぐしゃと搔いた。しばらく腕を組んでその場をうろうろしたあと、犬みたいに悠斗に抱きついてきた。
「悠斗、好きだ」
「うん」
 ちゅ、と唇にキスされる。うわ、慧の唇柔らかい、と思ったら、肩を掴まれてベッドの上に押し倒された。
「イニュシュモア島の絶壁で、叫ぼうと思ってたことがある」
「え?」
「『悠斗、好きだ』って叫ぼうと思ってた。でも、絶景に心持っていかれちまってできなかった。だから、今、ちゃんと悠斗に伝えられてよかった」
 悠斗は、なぜイニュシュモア島に行きたかったのか、と聞いたときに慧が返した、不明瞭な応えの意味が今わかった気がした。
 慧が身を寄せてくる。
「触っていい?」
「触るって……」
「嫌だったら言って」
 慧の大きな掌が悠斗の頬を撫で、顎を伝い、首筋をたどり、鎖骨にたどりつく。
「舐めたい」
「舐める?」
「うん」
 悠斗はちょっと息を飲んだ後、いいよ、と言った。慧が顔を傾けて首筋に唇を近づけてくる。鼻息が当たってくすぐったい。生温かくて濡れた感触が首筋を伝った。ざわっとして肩をすくめて震える。
「怖い?」
「大丈夫」
 悠斗が言うと、唇にキスされた。シャツの下から手がはいりこんできて、背中と腹を撫でまわされる。愛撫が激しくて、興奮してくる。
「あ、はぁっ……」
 変な吐息がこぼれた。慧が上に乗り上がってくる。目を細めて頬を上気させて、悠斗を見下ろす。手が、するりと下りていき、下肢に触れた。
「うあ、ちょっと……」
「ダメ?」
「えぇっ?! ダメっていうか……そんなとこ、触ってもおもしろくないだろっ」
「好きな人の恥ずかしいところって、触ると興奮するんだ」
「っ……!」
 ゆるり、ゆるり、と掌に揉みしだかれて、悠斗のものが屹立しだす。
「あっ、ちょっ……、慧っ、待って……」
 慧の手を悠斗が抑える。
「待たないよ。悠斗のココ、気持ちいいでしょう」
 慧の手の中で、そこは熱を持ち反り返り膨張している。それを感じたのか、慧は悠斗のパジャマのズボンを下着ごと下した。
「うわっ」
 ぽろん、と悠斗のものがまろびでて、天を衝く。
「ひぃっ」
 悠斗は驚きで涙目になる。
「なにすっ……」
「気持ちよく、してあげる」
 言うなり慧は悠斗のものを掴むと、れろーっと根元から先端まで舌を這わせ、くびれを舌先でくすぐり、先端のヒクつく穴を舌先で舐めしゃぶった。
「うぅっ……慧、そんなことして、汚いよっ」
「汚いわけないだろ。好きなんだから。オレの口の中で、悠斗をイかせるから」
「マジか! そんなエロ動画みたいなこと、できんの?」
「当然!」
 慧はぱくりと悠斗のものを咥えこんだ。唇をすぼめて舌先をつかいながら、じゅぷりじゅぷりと音を立てて扱かれる。熱くて狭い口腔粘膜にみっちりつつまれて、擦られるのは、たまらなかった。下肢に甘い痺れが走り、慧の口の中でずっきんずっきんと血管を浮かせて脈動し、大きくなる。
 慧の言う通り、本当に慧の口でイかされそうだった。
 慧の見目好い唇が赤黒く発色した自分のものを咥えこみ、出たり入ったりする光景は相当に卑猥だった。
「慧っ……!」
「んんーっ」
 慧は指で根元へ皮をひっぱりながら、口で扱くストロークを長く、早くする。
「は、あっ……慧っ……」
 慧にこの快感を伝えたくて、どうしていいかわからず、とりあえず、その淡い色合いの髪をまさぐった。そしたら慧は、なんだか興奮したみたいに息を荒くして、自分の下肢を手で擦りながら、フェラしだした。
 そのやらしさに、悠斗の身体は熱くなる。
「な……なんてことしてんだよぉっ……」
 急激に、性感が突き上げてくる。慧は、音を立てて悠斗のものをしゃぶり、吸い付いてくる。そうしながら、慧は自分の下肢をいじっている。先走りが滲んでいるのか、くちくち音がする。
 やらし……。
 慧の、こんな姿……。
 尾骨から放電めいて甘い快楽物質が流れ、ぞくぞくっとした。
「っ……」
 途端、悠斗は達した。ごふっ、と息をもらしつつ、慧は口を離さない。
「慧っ、口っ」
 悠斗が頭を引きはがすと、慧の唇から精液がこぼれた。それを慧は手の甲で拭う。悠斗が信じられない表情でそれを見つめる。
「飲んだの」
「飲んだよ」
「気持ち悪くない?」
「悠斗のだったら、飲まなきゃって思ったんだ」
「飲むなよ、そんなもん」
「だって、好きだから」
 そう言って、慧がキスしてくる。
 うわ、オレの精液飲んだ口でキスされてる……。
 それにじわっと身体が熱くなる。
 慧は舌を入れてきて、悠斗の口の中を舌でかき回し、舌に絡みついてきた。じゅるじゅるっと舌先を吸い付かれると、頭の芯がしびれるほど気持ちよかった。
 もう、どうにでもなれ、という気持ちがした。
「悠斗、ハンドクリームとかボディクリームとか、持ってる?」
「え? 机の一番目の引き出しんなか、ハンドクリームなら入ってるけど……。何に使うの」
「悠斗の尻、ほぐす」
「尻? ほぐす?」
 悠斗の身体が強張る。
 たしかに、たった今、どうにでもなれと思ったけれど、尻をほぐされるとはどういうことか。
「男同士って、尻つかってやるんだよ。知ってた?」
「あぁ……聞いたことあるけど……そりゃ、入れる穴なんてひとつしかねーしな。でも、オレが入れられる側なの?」
「入れたいんだ。オレので、悠斗のこと、あんあん言わせたい」
 その言葉に、じわっと下肢に快感の痺れがはしる。
 慧と交接して、喘がされている自分、というのに言いようもなく官能を感じた。想像しているだけで、下肢が疼いてくる。でも、そんな尻に突っ込まれるような行為で気持ちよくなれるのだろうか。不安になる。
「あんあんなんて言うかな……オレ……」
 慧はベッドから下りてデスクの引き出し一番目からハンドクリームの缶を取り出し、もどってくる。
「悠斗、俺のこと、信じて。身体、オレに任せて、楽にしてて。嫌だったら、嫌って言っていい。オレ、すぐやめるから」
 悠斗は光の加減で琥珀色にも見える慧の目を見つめる。この目に自分が快感を与えるところを見てみたいと思った。それは決意にも近かった。
「いいよ」
 慧の目を見つめながら、ゆっくりと両足をまげて、開いて、腕で抱える。まるで、誘う女みたいだ。でも、慧になら、こんな自分を見られてもいいと思った。悠斗のものはさっき放ったばかりなのにこれからされる期待に半ば勃ち上がって頭をもたげている。
 慧がハンドクリームのふたを開けて右手人差し指ですくう。左手でそれを人差し指全体に塗りこめながら、悠斗の秘所に挿しこんだ。
「う、わっ……」
 慧が不安げに悠斗を見る。
「痛い?」
「大丈夫」
 そう言ったものの、指が一本入っている違和感はすごかった。ゆっくりと慧が指で円を描くように動かす。なんだか、むずむずする感覚が這うように臀部から伝いあがってくる
「どう?」
「なんか、変な感じ……」
「痛くはない?」
「痛くはないよ」
 慧は指を一旦抜いた。それにちょっとだけほっとする。足の裏は脂汗でべとべとしていた。
「指二本、入れるよ」
「二本?! まだ入れないの?」
「こんなんで入るわけないじゃん」
「入るわけないの?」
「入んねーよ……」
 そう言って、笑いながら慧がキスしてくる。舌と舌を撫で合わせ、すすり合うディープなやつ。すごく気持ちいい。
「いいよ」
 悠斗は恥ずかし気に足を開く。慧はハンドクリームをまぶした中指と人差し指を、ゆっくりと挿入する。押し開かれる感覚がする。
「っ……」
「抜く?」
「大丈夫」
 再び慧が唇を寄せて、キスしてきた。キスされながら、尻を弄られる。変な感じだった。舌と舌とが触れ合って、舐め合って、気持ちよくてしかたないのに、中で指を動かされると、ぞわっとする。
 慧は指を出したり入れたりする。まるで女のアソコをほぐすみたいに。くちゃくちゃ、と音がたつ。時折、人差し指と中指で広げるみたいに指を動かす。秘所の襞が甘く伸びる。びりびり、と下肢に柔らかな刺激がはしる。
「んんっ……」
「気持ちいい?」
「よくわかんねぇ……」
 そのまま、指を奥まで挿しこんで、かき回される。
「あぁっ……」
 身体がのけぞった。尻の穴がヒクつきながら慧の指を締め付けるのがわかった。慧は、指を出したり入れたりして、ぐいっと奥を突いてくすぐる。
「はあぁっ」
 悠斗の身体が跳ね、腰を揺する。突然襲ってくる快感の波に、足の指にぐっと力がこもる。
「悠斗、いいの?」
「わかんないって」
「指、もう一本増やすよ」
 慧のすらりとした三本指に押し開かれる。
 オレのアナルに、慧の指、三本も入ってるんだ……。
 そう思うだけで尾骨から背骨に、快楽がちりりと響く。
 三本の指で、ぬっぷぬっぷ音を立てて、出したり入れたりされる。
 奥を突かれるたびに、甘くて重だるい快感が腹の奥で膨らんだ。
 もっと欲しい、と思う。慧のことを、もっと欲しい。指なんかじゃなくて。
「慧」
 悠斗が潤んだ目で見つめる。慧はそれを見ると、前をくつろげて、乗りかかってきた。
「入れるよ」
「いいよ」
 ゆっくりと、慧が入ってくる感覚。
 あ、好き……。
 しずかに身体をのけぞらせて、ちょっとだけ快感に震えた。
「大丈夫?」
「うん」
 足を抱えられて、奥まで収められて、目の前でした慧の一呼吸が頬にかかる。
「いいよ……狭くて熱くて……悠斗んなか、すごくいい……」
 それに嬉しくなる。
「動いていいよ」
 悠斗が様子を見るみたいにゆっくりと腰を前後させる。抜かれるときは、ざわざわっとして排泄感にも似た感覚が走るが、突っ込まれるときはひたすら重苦しい。それがゆっくりと、次第に速く繰り返される。それは小さな火があたりに燃え移り、焔をあげて渦を巻き、身体の奥を舐めつくす愉悦の劫火になるようだった。
 内襞を引っ張られ、擦られ、くすぐられ、刺激される。身体の内で焔が灯り、隅々まで燃えつくそうと、快楽の炎をあげる。
 悠斗が自ら腰を揺する所作をしたので、慧はさらに早く腰を振る。
「悠斗、四つん這いになって」
 体位を変えて、背後から肌打ちの音を立てて、突き込まれる。全てがめくるめくような快感だった。角度が変わって、打たれる部分が違うと、快楽の度合いも変わる。背後から突かれると、おもらししそうな感じがした。
「うぁぁっ」
 慧はその声を快感のうめきととり、容赦なく攻めてくる。
「う、う、う、うぅっ」
 くすぐられるような快感が下肢からわきあがってくる。
「うっ、うぅっ……」
 悠斗のものは、尻を突かれながらも、頭をもたげている。背後から慧にそれを揉みしだかれる。
「あぁっ……だめっ……イっちゃうっ」
「イけよ」
 悠斗は慧の動きを止めて、身体の向きを変えて向かい合う。
「慧、キスしながら、して」
「うん」
 たまらないみたいな表情で慧が唇を触れ合わせてくる。唇を食み、舌を絡ませながら、慧と交合する。キスしながらするのは、揺れる快楽の波間に身体を横たえ快感に身をゆだねるようで、ひどく気持ちよかった。悠斗のなかで慧のものが硬く熱く張り詰めていくのがわかる。
「悠斗……」
 唇を外すと、慧に身体を押し倒された。そのまま慧が腰を前後に降り出す。激しい動きだった。
「あ、はぁっ……あ、あぁっ……」
 徐々に二人で快楽の頂点へのぼりつめていく。のぼっては下り、のぼっては下りをくりかえし、頂へと到達する。
 びくびくっとおののきながら、悠斗の身体がのけぞる。その手を掴みながら、慧が素早く腰を前後させる。
「イくっ……」
 瞬間、慧は悠斗のパジャマをめくりあげて腹の上に射精した。同時に悠斗も達していた。
 二人とも動けず、しばらく荒い息を繰り返していた。慧が起き上がり、ティッシュボックスを持ってくると、悠斗の腹を拭いた。周囲に飛び散った精液を拭う。
「悠斗、大丈夫か」
「ちょっと起き上がれない……」
「風呂にお湯はってくるよ。待ってて」
 慧はそう言うと、丸めたティッシュをごみ箱に捨てて、部屋を出て行った。
 
 その晩、慧と一緒に風呂に入って、慧の部屋で一緒のベッドで抱き合って寝た。
翌朝、目が覚めると、慧はもうベッドにいなかった。階下に下りると、いい香りがしてくる。ダイニングで慧が朝食を用意してくれていた。卵のサンドイッチとレタスときゅうりとハムのサンドイッチ二種と、ドリップしたコーヒー。
「もう、体調大丈夫だよね? あるもので作ったから、こんなのしかできなかったけど」
 慧は残念みたいな表情で言ったけれど、お腹の空いていた悠斗には嬉しいごちそうだった。
 二人でテーブルについて、サンドイッチを食べ、コーヒーを飲む。
「そいや、悠斗、最近ゲームほとんどしてないんじゃない」
 サンドイッチにかぶりつきながら、慧が言う。
「慧と暮らし始めてから、なんか、ゲームとかどうでもよくなってきた」
「そうなんだ?」
 悠斗は慧を見つめて、笑う。
「オレ、ゲームよりも、慧に夢中なんだよ。中毒めいてるくらいに」
 もぐもぐしていた慧の動きが止まる。ごくり、と呑み込んで、にやりと笑う。
「オレも悠斗中毒になっていい?」
「のぞむところだ」
 薄手の白いカーテン越しに朝の光がきらきらと射しこむ中、ふたりは笑い合った。
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