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メモリア
しおりを挟む性急に、切羽詰まった様子でテオドール・ケムナは叫んだ。
「離れろ! 俺から離れるんだ! 近づいたらこの引き金を引くぞ!」
二十ペニヒで教科書を売って買ったピストルの銃口を自分のこめかみに押し付けながら、テオドールは頭の芯が熱くなってくるのを感じた。
「俺は死ぬ! 死ぬんだ!」
叫びながら、興奮で目が潤んできた。騒ぎを聞きつけて、教室に副校長とともに先生たちが走り込んでくる。
「テオドール! その手をおろしなさい!」
クラス担任のクラウル先生が声を張り上げた。
生徒たちが、恐れるように目を見開き、しかし一方で興味津々にテオドールを見つめている。彼らの輪は押し合いへし合い近づきも離れもしなかった。
まるで、自分がこのピストルを撃つことなんてできないだろうと思っているかのように。
馬鹿にしやがって。
テオドールは激しい怒りと共に吐き気すら催しながら、そう思った。
「俺は死ぬんだ! 死んでやる! 撃つぞ、撃つんだからな」
「そんなことしたら、お母さんが悲しむよ」
宥めるような静かなクラウル先生の言葉に、一瞬、脳内で稲光のように映像が走りぬける。
ざわっと胸の内が波打った。
その瞬間、副校長とクラウル先生が飛び掛かってきた。あっという間に手から銃が跳ね飛ばされ、テオドールは乱暴に取り押さえられて無理やり床に押しつけられた。
「バカ野郎! バカ野郎!」
大人の太い腕で首がねじまがるほど頭を床に抑えつけられながら、テオドールは声の限りに叫んだ。
余興は済んだとばかりの教室中のあざ笑いを含んだため息を頭上に感じながら、テオドールは泣きたいような気持になった。
カンシュタットのギムナジウムを放校になってから、しばらくは実家で仲買人の父親と老女中のリザベタとともに何することもなく日々を暮らした。昼間は小川に魚釣りにでかけ、午後は森に散歩に出かけた。葉やコケや土の匂いをかぎながら森の木陰がなす緑色の光の下、夕暮れまで本を読んで過ごした。夜になると、ランプの明かりの下で、小説を書いたがランプの油をけちる父のために、書けない夜もあった。そんな日はベッドに入っても、身体中に血が燃えたつようにストーリーが頭の中を巡った。
なにより父親はテオドールが家にいるのを嫌がり、すぐさま次のギムナジウムに行けるよう手配した。
カンシュタットのギムナジウムを放免されてから一か月もせずに、テオドールは列車を乗り継いで国境近くの小さな街に父に連れていかれた。
その街の高台に彼の亡き母の弟が舎監をつとめるヴァイスキルヒェン・ギムナジウムがあった。
父は校長と、何十年ぶりかに顔を合わせた舎監のローベルト先生と短い会話を交わし、テオドールを託した。
「くれぐれも馬鹿な真似はしないように」
父はテオドールにそう言い聞かせて、帰って行った。
ロッカー室でトランクから解いた荷を片付けていると、時折、通りすがりの生徒たちから好奇心に満ちた視線がぶつけられるのを感じた。
それに舌打ちしたくなる。
カンシュタットのギムナジウムで受けたあざ笑いが脳裏を横切り、胸がムカムカしてきた。
「どう? ロッカー片づけられたかな」
ローベルト先生がそばに来た。
短いとび色の髪をくるくるさせて鼻筋の通った緑色の目のこの先生は、亡き母を思い出させた。すらりと背の高い、陽気な雰囲気のあるひとだった。
会った覚えもなかったのに、会ったときから懐かしいと思った。どこか落ち着くものを感じさせるのは、血がつながっているからなのだろうか。でも、父親にはこんな心の底からの安堵感を抱かない。どうやら、彼自身の人柄からにじみ出るもののようだった。
ローベルト先生は確認するようにロッカーをのぞきこんだ。
「きれいに片付けられている。素晴らしい仕事だ、テオ」
ローベルト先生はそっと背中に手を触れた。
自然で温かみに満ちた所作だった。
「夕食の鐘が鳴るよ。食堂へ行こう。君をみんなに紹介しないとね」
「アッカーマン先生、俺、腹は空いていません。一人で部屋にいちゃだめですか」
「ローベルトでいいよ。腹は空いてなくても、時間になったら食べなくてはいけないよ。それもギムナジウムでの勉強の一つだからね。面倒くさいかもしれないけれど、そういうのをこなしていくのが、うまくやっていくコツだ」
彼の声は故郷の小川のせせらぎのように穏やかで心地よかった。
不安に思っていたことを、つい口にしてしまう。
「ローベルト先生、俺、前のギムナジウムで事件を起こして放校になったんです。ここでもうまくやっていけないかもしれない」
「大丈夫。俺がいるよ。俺と一緒にやっていこう」
ローベルト先生はそう言うと、もう一度、そっと背中に手を添えて微笑んだ。
その手にひどくほっとすると思った。ふと、心に火がともるような気がした。
ここでなら、やっていけるかもしれない。
テオドールはそう思い、ローベルト先生とともに食堂へ行った。
食堂ではお祈りの前に校長から生徒たちに転入生として、そしてローベルト先生の甥としてテオドールは紹介された。
テオドールも他の生徒たちと一緒に、パンとスープの皿が置かれたテーブルについた。
お祈りが済んで、スープを飲もうとしたら、スプーンがない。
あれ、と思って顔をあげると、なんだか周囲の様子がおかしい。くすくす笑ったり、ちらちら視線を交わしたりしている。
こいつら……。
スプーンを隠したな、と思い、ムカっ腹がたった。
そ知らぬふりをして、スプーンがありません、と声をあげてもよかったが、それじゃ敗北になる。
大して腹も空いてなかったし、食べたいと思わなかったけれど、テオドールは、両手でがっとスープ皿をつかむと、貪るようにそれに口をつけて皿を傾け盛大に音を立てて飲んだ。
ずずっ……ずーっ……
周りの生徒たちがあっけに取られて、テオドールの無作法を見つめているのがわかった。
いい気味だ、と思った。
そのまま皿を舐める勢いで一気飲みして、シャツの袖口で口元をぬぐった。
「うわ……」
生徒たちの驚愕と、茫然が伝わってくる。
「あ、結構うまいな。ニンジンのポタージュ」
テオドールはイスにのけ反って呟いた。
スープは濃厚なクリームの旨味と人参のほのかな甘みがあって、老女中のリザベタが作る料理と違って、ほんとうにうまかった。
そのとき、床にスプーンが落ちる音がした。
「ニキアス! 君がテオドールのスプーンを隠したんだろ!」
背の低いそばかす赤毛の生徒が叫んだ。つづいて、その隣にいたのっぽの金髪も声をあげた。
「謝れ! テオドールは転入生だぞ! 初めての食事なんだぞ! そういうことをして許されると思っているのか!」
びっくりしたのはテオドールだった。まさか自分がかばわれるなんて思ってもみなかった。
この場では二人の生徒が声をあげたことで一気に形勢逆転、無作法をしたテオドールよりもそのニキアスという生徒が悪者になっていた。
ローベルト先生が立ちあがってテーブルの傍に来た。
「どうした? 紳士の皆さん」
ニキアスが震える声で言った。
「テオドールが犬のようにスープを皿で飲みました」
困惑したようなさざめく笑い声が生徒たちの間から起こった。
ちびの赤毛が叫んだ。
「ニキアスが意地悪したんです! テオのスプーンを隠したんです。だから、ここでの食事が初めてのテオはそうするしかなかったんです。それはひどい侮辱だと僕は思います、先生」
テオドールはちょっと緊張しながら、ローベルト先生の顔を見た。
ローベルト先生は頷いた。
「ニキアス、スプーンを隠すようなイタズラは紳士のすることじゃないよ。そして、テオドール、スプーンがなかったら、声をあげて言いなさい。それがマナーだよ」
ニキアスとテオドールは、消え入りそうな小さな声で返事をした。
そして、食事は再開された。
パンをちぎりながらテオドールがさっき声をあげた赤毛のチビと金髪ののっぽに視線をやると、彼らはすでにテオドールの仲間のようにふたりそろってウィンクしてきて、びっくりした。
食事が終わり、食器を片付けて、テオドールが立ち尽くしていると、さっきの赤毛のチビと金髪のっぽが傍に来た。
「僕はマティアス。よろしく。君と同じ高等科二年(十五歳)だ」
赤毛にそばかすの彼・マティアスは手を差し出してきた。背が低くて、同じ年だと思えなかったので、テオドールは少し驚いた。
「俺はニコラ。俺も君と同じ高等科二年だよ。君がこのヴァイスキルヒェン・ギムナジウムに来たことを歓迎するよ」
背の高さから、こちらも上級生かと思っていたので、テオドールはちょっと目を丸くした。
「なんで君ら、俺をかばってくれたの」
マティアスとニコラは視線を交わした。
「俺たちニキアスとは対立してるんだ。それと、君がなによりあのソルさんの甥ってことなら、歓迎しないわけがない。君、ソルさんに似てるね。俺たち、ソルさんには恩義かけっぱなしなんだ」
「ソルさん?」
テオドールが首を傾げる。
「太陽(ソル)さんはローベルト先生のことだよ。彼、太陽みたいに素敵だろ。ソルはラテン語のソルだよ。俺たち無断外出を二度ほど見逃してもらってるんだ。それだけでも、俺たちが君を守る理由になる」
『守る』という言い方が気に入らなかった。
「俺は、あんたらに守ってもらう必要なんてないぜ」
テオドールは腕を組み、大きい声で拒絶を示した。
何事かと食堂を出て行く生徒たちが振り返った。そのとき、輝くような光がテオドールの目を射た。さらさらの長めの金髪を額でわけた青い目の人形みたいにきれいな顔の少年だった。彼は優美な唇を緩ませ、人差し指で抑えるようにして、テオドールを見、静かに短く上品に笑うなり、すぐさま生徒の雑踏の中に紛れて行った。
「な……」
テオドールは言葉を失う。
咄嗟に、幻かと思った。
たしかめたくて慌てて追おうとしたが、すぐさま見失った。
まるで精霊かなにかのようだった。
「な、なに、あいつ」
後を追ったものの見失い、廊下で呆然とするテオドールの傍にマティアスとニコラが来る。
「どうしたの」
「今のだれ」
「誰って……」
「俺のこと見て、笑ってた。すごく……顔の綺麗なやつ。金髪で、目が紺青色の……」
あぁ、とニコラが声をあげる。
「それは多分、ファビーニだ」
「ファビーニ?」
「ファビーニ・ゼーリッヒ。俺たちの同学年だ。学年一……いや、学校一の美少年だよ。あいつには関わらない方がいいよ」
「なんで」
「上級生に気に入られてる。俺たちとは付き合わないんだよ。いつも上級生と一緒にいるんだ」
ニコラはいけすかないような口調で言った。
「テオ、学校を案内してあげるよ。おいでよ」
マティアスがテオドールの手を取る。あんなに強く拒否をされたのに、二人はなにも気にしていなかった。
二人の人の好い様子に、テオドールも断る理由が思いつかなくて、そのまま案内された。
自習室、講堂、礼拝堂、体育館、寮生たちに割り当てられた各部屋(フォーラム、ヘラス、アテネ、スパルタ、アクロポリスなどの名前がついていた)を三人で見て歩いた。
各部屋は九人ずつの大部屋で、テオドールの部屋はフォーラムだった。ニコラが言うことには、あの美少年・ファビーニが同室らしい。
「まぁ、困ったことがあったら、ファビーニはあてにならないから、俺たちのところにおいでよ」
ニコラは気安くそう言った。
そのあと、北棟の図書室を見て回り、その図書室から上にいく階段をテオドールが上ろうとすると、二人は慌てて止めた。
「ここから上は立ち入り禁止なんだ」
「なんで」
「悪霊の部屋って言われてる」
マティアスが薄気味悪そうに言った。
「悪霊? そんなのいるわけないだろ。なにがあるんだ」
テオドールは埃だらけで薄闇に包まれた階段上を見上げる。
「屋根裏だよ。近づいたものは殺されるってもっぱらの噂だよ」
ニコラとマティアスが肩をすくめて恐れるように言うので、テオドールはとりあえず階段をのぼるのをやめた。
「ときどき、悪霊のうめき声が聞こえてくるんだ」
「変な音も」
ニコラとマティアスが言う。テオドールは笑った。
「そしたら今度、観に行ってみようぜ」
「だめだめ!」
マティアスが首を横に振る。
「その昔、高等科五年の生徒がこの屋根裏で悪霊を呼び出す秘術をしたらしいんだ。その生徒は頭が狂って学校をやめたんだって。それっきり、屋根裏には悪霊が住んでるって言われてる」
「本気でそんなの信じてるのか?」
テオドールは呆れて言った。
「とにかく、屋根裏は行っちゃだめなんだ」
マティアスとニコラは言い聞かせるように、テオドールに慎重な口調で言った。
テオドールは屋根裏に興味津々だったけれど、二人がうるさいので、その時はそのまま部屋にもどってきた。
就寝時間になり、ベッドにもぐっても、テオドールはよく眠れなかった。しばらくすると、健やかな寝息や歯ぎしりの音が周りから聞こえてくる。
毛布の中でテオドールはじっとしていた。家に帰りたいわけではなかった。父は母に似た自分の顔を見るのを、いつも嫌そうにしていた。
母のことを考えると、心がぎゅっと掴まれたみたいに痛んで苦しくなって氷のように冷たくなる。発作めいた衝動がこみ上げてくる。あの、ピストルの銃口を自分のこめかみに押し当てたときに似た感情だ。どうにも抑えきれないくらい胸が重苦しくなってくる。そのとき、ベッドから誰かが出て行く気配があった。
テオドールは少し身体を起こして、そっちの方を見た。
金髪と白い肌が闇に浮くように閃いた。
ファビーニだ、と思った。
彼は就寝時間もぎりぎりに戻り、ほとんどテオドールと顔を合わせる間もなかった。
こんな時間にどこに行くんだろう。
テオドールは起き上がり、しばし迷った後に、彼の後をつけようと靴をはいた。急いで部屋を出、遠く廊下の先を静かに走っていくファビーニの後をつける。
階段先にある渡り廊下をファビーニが曲がっていく。それを追おうとしたときだ。階段から出てきた光に照らされて、眩しさにすくんだ。
「テオ!」
テオドールはびくりと身体を震わせて、動きを止めた。
「なにやってるんだ」
階段をあがってきたのは、舎監のローベルト先生だった。
テオドールはあたふたしつつ、相手がローベルト先生だったことにほっとした。
「ベッドに戻りなさい」
「興奮して、眠れなくて」
テオドールが言うと、ローベルト先生は察したように眉尻を下げた。
「そうだね。初めての夜だもんな。そうしたら、私の部屋へ来て、温かいぶどう酒を一杯飲んだらいい。すぐ眠れるよ」
ファビーニがベッドを抜けたことを告げ口するつもりはなかった。
テオドールはファビーニを追うのを諦めた。
「ありがとうございます。ぶどう酒をいただきます」
そこでテオドールはローベルト先生とともに舎監室に行った。舎監室には校医のアントン・シュヴァルツマン医務官がいて、コニャックを飲みながら葉巻を吸っていた。黒髪にわずか白髪の混じる渋い映画俳優のような整った顔立ちのアントン先生はテオドールが入ってくると、笑顔で迎えた。
「お邪魔してるよ」
ローベルト先生が温かいぶどう酒をポットからグラスにいれながら言った。
「アントンとはギムナジウム時代からの親友なんだ。ほら、テオ、これを飲んで。落ち着くよ」
ローベルト先生に差し出されたグラスを受け取り、口に含むと、肉桂とチョウジで香りづけされて砂糖をいれた香り良いぶどう酒だった。
飲んでいくうちに、じんわりと腹の底から身体が温まっていき、頭がぼーっとしていくのがわかる。
「ほら、座ってお飲み」
アントン先生が椅子を差し出してくるので、それに座った。
甘くて温かいぶどう酒は身体をほどよくめぐる。
「ローベルト先生は、俺がここに来るのが、嫌じゃなかったですか」
ローベルト先生はアントン先生とむかいあって葉巻を吸いながら、びっくりしたようにテオドールを見る。
「どうして? 俺は君に会えるのがとっても楽しみだったよ」
テオドールはグラスに目を落としながら、おずおずと口を開く。
「母さんが、あんな死に方をしたから……」
ローベルト先生は、葉巻の煙をくゆらせてから、ゆっくりと口を開いた。
「そのことはお父さんから手紙をもらって聞いてるよ。レーネ姉さんのことは残念だった。君も辛かったね。多分、いつまでも忘れられないし悩むだろうし苦しむことになると思う。でも、そのことで自分の人生をだめにしたら、いけないよ。レーネ姉さんはそんなこと望んで死んだわけじゃないからね」
ローベルト先生は宥めるような口調で言い、テオドールの肩を優しくさすった。
アントン先生も事情を聴いているのか、名状しがたい同情の視線を穏やかにテオドールに向けている。
「この学校で、君は新たな一歩を踏み出していくんだよ。それを俺も、アントンも、他の先生方もサポートする。何か嫌な事や困ったことがあったら、すぐ俺たちに相談していいんだよ」
ローベルト先生はそう言うと、テオドールがぶどう酒を飲んだのを見て、頷いた。
「そろそろ眠くなるだろう。部屋に送って行くよ」
「あの……」
テオドールはローベルト先生を遠慮がちに見る。
「図書室上の屋根裏って何があるんですか」
ローベルト先生は不思議そうに顔を傾げた。
「はて……。なんだろう、アントン」
ローベルト先生に呼ばれて、アントン先生は片手で顎を撫でさすった。
「昔からいわくつきの噂がたんまりあるところではあるな。多分、昔の用具なんかが置かれてるんじゃないか」
「悪霊が住んでるってほんとですか」
テオドールが真面目な顔で言うと、ローベルト先生とアントン先生は顔を見合わせて笑った。
「俺たちがここの生徒だったころは、魔女の部屋って言われてたな。あの部屋に入ると、魔女がいて、毒を食わされるって」
「ああ、そんなのあったね」
「先生方も入ったことないんですね」
テオドールが言うと、アントン先生は葉巻を吸った。
「一度俺は、屋根裏に行ったことがあるよ」
そう言って、アントン先生は煙を吐いた。
「なにがあったんですか」
テオドールが言うと、アントン先生は首を傾げた。
「入れなかったよ。鍵がかかっていたんだ。ちょっとしたときに、担任の先生に屋根裏の鍵の在り処を聞いたら、もう大分昔に紛失してわからないって言われた。そのあと鍵を新調した様子もないから、あそこはずっと人が入っていないんじゃないかな」
「悪霊や魔女どころか、ネズミの巣だらけかもな」
ローベルト先生は眉間にしわを寄せて言い、葉巻を灰皿に押し付けた。
「ほら、そろそろベッドに戻るぞ、テオ」
テオドールはグラスをテーブルに置き、ごちそうさまでした、と礼を言い、ローベルト先生に部屋まで送られてベッドにもぐりこんだ。
ふと見ると、すでにベッドにはファビーニが戻っていて、息をしているのか疑うほど静謐な寝顔でブランケットにもぐっていた。
テオドールはベッドにもぐりこみ、ファビーニが行ったのはトイレだろうか、もしや屋根裏に行ったのだろうか、などと考えているうちに眠気に襲われて、気付くと朝だった。
翌日から、授業を受けた。ラテン語は得意だったので、作文は完璧で、先生にほめられた。ギリシア語の『ホメロス』の訳も、テオドールには難しくなかった。数学の虚数を扱った難解な問題もたやすく解けた。
初日から奇異なマナー違反で注目された転入生が勉強はできると知れると、クラスメイトの見る目が少し違ってきた。
テオドールは積極的に授業を受けながら、視界の隅でファビーニのことを気にしていた。彼は授業をさぼりがちで、授業に出ていても、寝ていたりぼーっとしてたりすることが多いようだった。
昼休み、中庭の木陰に座って本を読んでいたテオドールは彼を探しに来たニコラとマティアスに声を掛けられた。
「ちょっと話があるんだけど。君って本好きなんだね?」
マティアスに訊かれ、テオドールはうなずく。
「好きだよ」
「クリスマス集会に出し物をするんだ。劇がやりたいんだけど、なにかいいネタある?」
マティアスは隣に座り込みながら言ってきた。
「テオは今なに読んでるの?」
ニコラがのぞきこむ。
「ゲーテの『市民将軍』だよ」
「『市民将軍』か。クリスマス集会にどう?」
ニコラがマティアスを見る。
「ゲーテ? もっと盛り上がるやつがいい」
「たとえばどんなの?」
テオドールが訊くと、マティアスはもごもご口の中で不明瞭な言葉を転がした。マティアスはあまり本を読まないのだ。
ニコラがため息を吐いた。
「劇をやりたいっていう仲間は集まってるんだよ。でも、演目が決まらなくてさ。なんかいい案ないかな。クリスマス集会は校長も先生も学校中の生徒が見るんだ。盛大なやつがいいなぁ」
「俺が脚本を書こうか」
「え?」
ニコラとマティアスがびっくりして目を見開き、そして表情を輝かせた。
そして、なによりそんなことを言い出した自分に、テオドールは一番びっくりしていた。
「すごいね。テオ、脚本書けるのかい」
マティアスが尊敬のまなざしを向けてくる。その正直な視線が照れくさくて、テオドールは笑いながらうつむいた。
「ちょっと書いてみるよ。君たちが読んでみて、だめそうだったらやめるよ」
「さすがソルさんの甥だね……才能があるんだ」
ニコラもテオドールに感嘆する。
「才能なんてあるかどうか俺自身もわからないんだ。でも、俺が書いたものを、君たちが読んで判断してくれたらいいと思う」
「ぜひ読ませてよ」
ニコラとマティアスは大喜びで、うなずいた。
それからテオドールはしばらく授業の合間や休み時間には図書室へ行き、調べながら、脚本を書いた。
今までも小説は書いていたけれど、誰にも見せたことがなかった。書いたものは全て実家の自室の机のなかに隠してあった。でも、今、自分以外の誰かに読んでもらうために脚本を書くという行為が、ひどく自分を昂らせた。今まで以上に、書くことに熱中し、楽しんだ。
書いていると、話の世界に呑み込まれ、母の辛い死を忘れられた。テオドールにとって、書くことは救いでもあった。
途中、不安になり、テオドールはローベルト先生のところへ行き、原稿を読んでもらった。
自分の書いているものが、クズなのか原石なのかわからなくなることがあったからだ。
ローベルト先生はコーヒーを飲みながら、ゆっくりと原稿に目を通した。
その間、テオドールは判決を待つかのように恐れてじっと動かずに縮こまって先生を見つめていた。
じっくり時間をかけて原稿に目を通してから、ローベルト先生はゆっくりと息を吐いた。
「すごいね」
その一言に、飛び上がりたいくらいテオドールの胸が躍った。
「うまく書けている。とてもいいと思うよ」
ローベルト先生の言葉に後押しされて、テオドールはさらにのめり込むようにして原稿を完成させた。
放課後、ニコラとマティアスにできあがった原稿を渡した。ふたりは頭を突っつき合わせるようにして、貪るように読んだ。文字を追う彼らの目が夢中だった。その様子をテオドールは息飲むようにして見守った。
ふたりはほぼ同時に顔を上げた。
「おもしろい」
ニコラは言った。
「おまえ天才だな」
マティアスは言った。
テオドールはほっと表情を緩ませて、肩の力を抜く。
「よかった。お話の最後……普仏戦争でバゼーヌ元帥が降伏する場面で女神ゲルマニアが現れるだろ。その場面で『ラインの護り』をみんなで歌いたいんだ」
「いいね。すごくいいと思う」
「盛り上がるね」
ニコラとマティアスは満面の笑みで賛同を示し頷いた。
「あと、女神ゲルマニアはファビーニにやってほしいんだ」
テオドールがそう言った瞬間、二人の笑顔が凍り付いた。
「それはやめた方がいい」
「彼、やらないよ」
「本人に、聞いてみないとわからないだろ」
テオドールは譲歩しなかった。彼の頭の中では、ゲルマニアのイメージはもはやファビーニで決まっていた。
「だって、彼、上級生のお嬢さん(フロイライン)だぜ。やるとは思えないな。君が気になるのはわかるけどさ」
マティアスはちょっとからかうような言い方をした。
テオドールは気にしなかった。
「俺のゲルマニアを演じるのはファビーニしかいないんだ。彼にぜひ演じてほしい」
テオドールが真剣に言うと、ニコラが遠慮がちに言った。
「そこまで言うなら、テオが本人に聞いてみてよ。ファビーニがやるっていうなら、俺たちは止めないよ」
そこで、テオドールはファビーニを捕まえるために、校舎中を探した。でも彼は自習室にも図書室にも、校庭にも見当たらなかった。結局、就寝時間が近づき、ファビーニがフォーラムに戻ってきたところを、テオドールは捕まえた。
「この脚本、クリスマス集会でやるんだけどさ、君に読んでほしいんだ」
テオドールはそう言って、ファビーニに原稿を渡した。
「『ラインの護り』? 普仏戦争の話?」
「そうだ」
ファビーニは首を傾げて青い目で伺うようにテオドールを見ていたが、ベッドサイドに腰を掛けた。
「僕に読ませてどうするの」
「まぁ、読んでみてよ。そのあと、話すよ」
テオドールが言うと、ファビーニは少し迷うような表情をした後、だまって原稿に目を落とした。
テオドールはそばで彼の顔を見つめていた。睫毛は少し長めで鼻筋がすっとしていて気持ちがいいくらいに形がいい。唇もしっとりと薄ピンク色をして少しだけ下唇がぽてりとしている。なにより、深い碧色の目が、光を帯びてその色調を変えるのが美しかった。
彼しか俺のゲルマニアを演じられる人間はいない、とテオドールは認識を新たにした。
ファビーニは原稿を読み終わると、顔をあげた。
その目が燃えるように輝いていた。
「なかなかいいね」
「ゲルマニアが現れるところ、どう思った?」
「すごい山場になると思ったよ」
ファビーニは足を組んでそう言った。テオドールはうなずく。
「君にゲルマニアを演じてほしいんだ」
ファビーニは険しい表情で眉間を寄せた。
「僕に女役をやれというの?」
「女役じゃない。女神だよ。すごい役じゃないか。ゲルマニアだぜ。ドイツを現す神だよ」
ファビーニは顔をしかめた。さっきまでのキラキラした目の色が変わって、冷たく冴え冴えとしていた。
「女役だろ。君も結局、みんなと同じなんだね」
「どういう意味だ? よく言ってることがわかんねぇよ。俺はこの原稿を書いてるときから決めてた。ゲルマニアの役はファビーニがいいって。だから、ぜひ君にやってほしいんだ」
ファビーニはベッドサイドから立ち上がり腕をのばすと、ぐいとテオドールの襟元を掴み寄せた。顔を近づけて目を細め、低い口調で脅すように彼は言った。
「じゃ、君、僕にキスできる?」
息を飲んだ。
心臓が熱く脈打った。
頭の芯がきーんとなって、一瞬全ての音が遠ざかるような気がした。
「な、何言ってるんだよ……」
驚き、たじろぎ、声が震える。ファビーニは恐ろしいほど綺麗な顔で笑った。
「君は結局、ママのキスしか知らないねんね(・・・)だからな」
カッと頭にきた。
馬鹿にされたことよりも、母親について言われたことが我慢ならなかった。
ママのキス。
ママのキス、だと?
俺は、それすら、もう、覚えていないんだ。
「ふざけんなっ」
咄嗟に手が出た。テオドールはファビーニの頬を拳でなぐった。彼の優しい顔が横に吹っ飛び、睨むようにしてすぐさまファビーニが飛び掛かってきた。床に押し倒されて、乗り上がられ、上から三発顔面を殴られる。ファビーニの身体はまぎれもない男で、テオドールを上から抑えつける力があった。
「いってぇっ」
頭にものすごい血がのぼって、バネが跳ねあがるような力でファビーニを押しのけて起き上がり、彼を掴もとした。ががっとベッドが押されて床を滑る。
ファビーニも負けていなかった。乗り上げられたら、上から殴られる。だから彼もテオドールの腕を激しい力で掴んできて、背後のベッドを押しのけ、蹴り上げてきた。そのまま勢いよくガンガン蹴られる。
テオドールはその足を掴んでファビーニを床に転がす。上に乗り上げて、再びタコ殴りにする。
ファビーニも下から殴りかかってくる。彼はテオドールが顔を床に抑え込もうとした手を咬んできた。
「ってぇっ」
ひるんだすきに、テオドールはファビーニに床に押し倒される。飛びのってきたファビーニは、これでもかと上からテオドールを殴りまくってきた。
フォーラム中が熱狂の渦に巻き込まれた。騒ぎを聞きつけて、すぐさま他の部屋の男子もやってきて、大勢の声援やヤジや笑い声が湧き上がる。
「やれやれ! ファビーニなんてやっちまえ!」
「ファビーニ、いけすかない転入生をこてんぱんにのしちまえ!」
テオドールとファビーニは寝巻をやぶり、血だらけになり、掴み合い、殴り合った。
数人の生徒が、止めようと二人の間に入ったが、無駄だった。
ふたりはベッドを押しのけて、殴り合いながら床に掴み合って転げまわった。
「こらー! なにやってる!」
ローベルト先生の声に、みんなしん、となり、他の部屋の生徒はこそこそと逃げ帰っていった。
埒が明かないと思ったニコラとマティアスがローベルト先生を呼んできたのだ。
テオドールとファビーニは、夢中になってまだ掴み合い髪を引っ張り合っている。ローベルト先生が割るようにして間に入って、二人を引き離した。それでも二人はまだ掴み合おうとする。
「アントン!」
ローベルト先生が、背後にいるアントン医務官を呼んだ。アントン先生はすぐさま飛んできて、ファビーニを引き寄せた。
再び掴みかかろうとするテオ―ドルを引き離すようにしてローベルト先生が抑え込む。
ふたりの寝巻は破れてぼろぼろで、身体中、擦り傷と打撲で腫れあがり、血だらけだった。
「落ち着け、ふたりとも!」
ローベルト先生が声をかける。
「こいつが、俺のことを『ねんね』とか言うから!」
テオドールがファビーニを指さして叫ぶ。
「最初に殴りかかってきたのはこいつだ! 僕は悪くない!」
ファビーニもテオドールを指さして叫ぶ。ローベルト先生はため息を吐いて、アントン先生に目配せする。
「ふたりとも、医務室だ」
ローベルト先生の声に、ふたりはそれぞれ抱えられるようにして、医務室へ連れていかれた。
医務室でボロボロに破けた寝巻を脱がされて、アントン先生にケガの処置してもらいながらふたりは互いに目も合さずに不貞腐れていた。
ローベルト先生はふたりにどうしてケンカになったのか事情を聴かなかった。ただ、ケガの処置を終えて顔を合わせないままのふたりに温めて砂糖を入れたミルクを飲ませ、フォーラムへ戻らせた。
医務室を出て、長い廊下が続いていた。しばらくテオドールの前をファビーニが歩いていた。
その背中がひどく寂し気に感じた。
殴り合いをしていたときは感じなかったけれど、細く薄い体だった。
こんな体に馬乗りになって、上から殴ったんだと思ったら、どうしょうもない罪悪感がおりてきた。
そして、彼が果敢に自分に殴りかかってきたのを思いだし、ちょっとだけ尊敬の想いがした。
胸がチクチクしてきた。
このままファビーニと最悪な状態でいるのが、嫌だと思った。
「ファビーニ、ごめん」
何度か迷ったのち、テオドールが声を掛けた。
ファビーニは無視するようにしばらく歩き続けたあと、足を止めた。
そのまま歩いてテオドールが傍へ行く。
「俺はそんなつもりがなかったけれど、君を侮辱するようなことを言ったかもしれない。悪かったよ」
ファビーニが顔をあげた。
「僕もごめん」
小さい声で、うつむくようにして言った。彼の目も頬も殴られた打撲で赤く腫れていた。額には引っ掻いた傷があった。
しばらくふたりはうつむいて黙り込んでいた。
く、く、く……と突然ファビーニが抑えたように笑いだす。
テオドールはびっくりして彼の顔を見た。
あははは、と高い声でファビーニはのけ反るようにして声をあげて笑った。
「こんな殴り合いしたの、初めてだよ。すごく怖くて興奮しておもしろかった」
「そうなんだ」
テオドールもつられてちょっと笑いながらほっとしてそう言った。
「ねぇ、僕らが殴り合ってぼこぼこの顔してた時の上級生の顔、見た? 目を剥いてた」
「君、上級生と仲がいいんだろう。俺、上級生に目をつけられないかな」
「つけられるかもね」
ファビーニがくすくす笑う。テオドールが、複雑な表情をして肩をすくめて両手を開く。
「大変なことになった」
「まぁ、大丈夫だよ。手を出さないでって僕が言えば、君には誰も手を出さない」
「そうなんだ。君、すごいんだね」
テオドールがわずか嘆息を込めて言うと、ファビーニは自嘲するみたいに笑った。
「そうかな」
ファビーニは首を傾げて言った。
「あんな脚本を書ける、君の方がすごいよ」
テオドールははっとする。再び、火花が散りそうな気配を感じたからだ。でも、ファビーニは穏やかに微笑した。顔は殴られて歪んでいたけれど、とろけそうに素敵な笑みだった。
「いいよ。ゲルマニアの役、やってあげる」
「ほんと?」
「でも、ほかのやつらがどう思うだろうね。僕なんかでいいのかな」
「いいに決まってるだろ! 脚本家が君だって言ってるんだから」
「大した脚本家だ」
ファビーニはそう言って笑った。
ふたりが笑いながらしゃべってフォーラムに帰ってきたので、他の生徒たちは不思議がり残念がった。
あの殴り合いが最高に楽しかったからだ。
そして、ふたりはそれぞれのベッドにもぐりこみ、ローベルト先生にもらったミルクが効いたのか、気持ちよく眠ることができた。
翌日から、仲間を集めて演劇『ラインの護り』の練習が始まった。仲間は全員で六人いた。テオドール、ニコラ、マティアス、ヴァーヴェルカ、ウーリそしてそこにファビーニが入るはずだった。脚本を見ながら、誰がどの役をやるのか決め、書割りや小道具をどうするかを相談した。
脚本をテオドールが書いたことを知るとウーリとヴァーヴェルカは感心した。しかし、物語のクライマックスで重要なゲルマニアをファビーニが演じることを知ると、ウーリは「嫌だ」とはっきり言い「だったらこの劇、俺は降りる」とまでヴァーヴェルカは言った。
「ファビーニはみんなが思ってるほど悪い奴じゃないよ」
テオドールはそう言ったが、誰もが首を傾げていた。そして、肝心のファビーニは集まりに最初から最後まで顔を見せなかった。
テオドールはファビーニが同学年の生徒たちに嫌われていることを知った。
「とりあえず、ゲルマニアの役は決めずに、保留にしておこう」
嫌がるウーリとヴァーヴェルカの気持ちを察して、ニコラが折衷案をあげた。
テオドールはそれで納得せざるを得なかった。
跳びぬけて絵のうまい人間がいるわけではなかったので、書割りは全員で分担しながら描くことになった。
集まりのあと、テオドールは校舎中を走り回ってファビーニを探したが、見つからなかった。彼は授業以外の時間、いつもどこにいるのかわからなかった。
フォーラムで就寝時間が近づいたとき、やっとファビーニを見つけて、テオドールは今日の集まりであったことを話した。
「来てくれなきゃ困るよ。君が来ないから、ゲルマニアは君じゃだめだってやつも出てきちゃう」
テオドールが言うと、ファビーニは薄く笑った。
「どうだろう。僕が行かないからってわけじゃないと思うよ」
「とにかく、練習には来いよ。君はただ、書割りの間からでてくるだけだけど、重要な役なんだ。みんなの演技を見ててもらわなくちゃ」
「僕が行って、君、困らない?」
「困らないよ」
そんなこと心配していたのか、と思った。とにかく、ファビーニが練習に来れば、みんなの考えも変わると思っていた。
「むしろ、君が来なくちゃ僕は困る」
テオドールは食い下がった。ファビーニはしばらくテオドールをじっと見つめていたが、うなずいた。
「いいよ、じゃ、明日、行く」
「ありがとう」
テオドールが嬉しさにファビーニの手を取って握ると、ファビーニはびっくりしたように目を開けて握られた手を見た。
「じゃ、明日、昼休みは絶対な!」
うん、とファビーニは半ば上の空で応えて、頷いた。
翌日、昼休みにファビーニは来た。劇の仲間たちはびっくりし、どうしていいかわからず、そして無視した。
「まず、セリフの読み合わせをしよう」
構わずテオドールがみんなに言った。
「なんでファビーニがいるの」
ヴァ―ヴェルカが言った。彼は高等科一年と二年が入るアテネの部屋で室長をしていた。はきはきとなんでも思ったことを言うところがある。
「ゲルマニアはファビーニじゃないんだろ」
ウーリが伺うように言う。彼は家が仕立屋をやっていて、衣装も彼が用立てることを請け負ってくれた。
「ゲルマニアの役は現在保留ってことになってるけど、脚本家の俺としてはファビーニ以外にいないんだ。だから、ファビーニにもこの劇の練習に参加してもらえるように頼んだんだ」
「ファビーニがいるなら、俺はやらないよ」
ヴァーヴェルカが立ちあがった。ウーリもそれに倣う。
「僕もさ」
慌てたのは、ニコラとマティアスだ。
「ちょっと待って。ファビーニは見てるだけだよ。いいじゃないか、それなら」
ニコラが言った。
「劇はみんなの前でやるんだよ。ファビーニが見ていたって構わないだろ」
マティアスも言う。
「嫌だよ。気持ち悪い」
ヴァーヴェルカが眉間を寄せる。その嫌悪感を露わにした言葉に、むっとしたテオドールが口を開こうとしたとき、ファビーニが立ちあがった。
「邪魔をしたね」
彼はたった一言そう言うと、体育館を出て行こうとした。
テオドールは慌てた。
「みんな、待ってよ。なんでそんなにファビーニを嫌うんだよ。ファビーニは悪い奴じゃないよ。ファビーニ、待てよ」
テオドールが走っていき、体育館の扉を開けるファビーニの肩を掴んだ。
「待てよ、ファビーニ。一緒に参加してくれよ。見ているだけでいいんだから」
「僕には関わらない方がいいよ。君たちの劇をきっと壊してしまうから」
口早にファビーニはそう言うと、体育館を出て行ってしまった。
彼の青い目が泣きそうな感情に揺らめいていると思ったのは、気のせいだろうか。
「ほら、セリフの読み合わせ、やろうぜ」
ヴァーヴェルカが声をあげる。
体育館の入り口で呆然とするテオドールの背後で、自分の書いたセリフが友達の口から発せられるのをぼんやりと聞いていた。
演劇の練習は毎日昼休みと放課後に体育館で行われ、小道具を集めたり、衣装を作ったり、書割りを描いたりする作業も同時に並行して行われた。
衣装はウーリが主になってやってくれてうまく進んでいたけれど、大変なのは書割りだった。
みんな、絵が、てんでだめだった。
「馬、馬だぞ、ヴァーヴェルカ。それ、なんだ、犬じゃないのか。それとも熊か」
マティアスが用紙に書かれた下書きの動物を指さす。
「馬だよ。俺が描いているのは犬でも熊でもない、馬だ」
ヴァーヴェルカが頭にきた様子で叫ぶ。
「馬ってどんな顔してたっけ」
ウーリが首を傾げる。
「図書室に本を見に行こう」
図書室で馬の本を借りてきたが、それを参考にして描いてもうまくいかなかった。
「書割りはもういいよ、あとでにしよう。セリフの練習をしようよ」
ニコラが声をかける。
中途半端な書割りを放置して、それ以外の準備が着々と進められていた。
そんな中、テオドールは諦めずにファビーニを探しては声をかけていた。
日中は授業が終わるとすぐさまファビーニは姿を消してしまい、それがテオドールには不思議だった。
夜、フォーラムで、日中はどこにいるのか聞くと、上級生の教室にいるのだということだった。
「上級生の教室で何をやってるんだ」
「モデル」
「モデル?」
「絵のモデル。僕も上級生をモデルに絵を描いてる」
「君が描いた絵、ある?」
テオドールが訊くと、ファビーニはスケッチした絵を何枚か見せてくれた。
すらりとした全裸の男性が迫るような迫力で、しかし繊細で緻密に、描かれていた。何枚も何枚も描かれていて、手だけを色んなポーズで描いたものもあった。モデルの男性は美しくて、現実感があってそれでいてこの世のものではないような雰囲気が漂っていた。
ファビーニが夢中になって描いたのだろうと思えるような静かな興奮が絵から伝わってきた。
「君も……その……モデルになるときは上級生の前で裸になるの」
「そうだよ」
テオドールは息を飲んだ。
なんとなく、胸の奥がざわざわした。
「どう? 僕の絵」
ファビーニは気になるらしく、伺うように顔を寄せてきた。
「すごいと思うよ。俺は絵のことはよくわからないけど、それでもすごいっていうのはわかる」
ファビーニは嬉しそうににこりと小さく笑った。
「ありがとう」
ファビーニはテオドールの手からスケッチを受け取り、片づけた。
「ねぇ、また、俺たちの演劇を見に来てくれないかな。試行錯誤しながら練習してるんだ。君に見てほしい」
「僕は行かないよ」
ファビーニは興味なさそうに煙草を咥え、火をつけた。
その所作は手慣れていて流麗で大人びた美しさすら感じた。
そうやっていると、彼が上級生たちと一緒にいるのがよくわかる気がした。
「もしかしたら、あの演劇は、君には幼稚な拙いものかもしれない。でも、俺は、すごく楽しんであの脚本を書いたし、書くときから決めてたんだ。ゲルマニアは君だって。こんな絵を描ける君なら、そのときの俺の気持ちがわかるんじゃないかな」
ファビーニは煙草の煙を吐きながら、テオドールを見た。
彼は何も応えずに、窓の向こう、高台から見える街の景色を見つめた。
その時、フォーラムの室長が入ってきた。
「洗顔、歯磨きは終わったか! 消灯の時間だぞ」
ふたりは慌てて、ファビーニは煙草を灰皿に押し付けて消し、ベッドへ入り込んだ。
しばらくベッドにもぐりこんだ生徒たちの息遣いやくすくす笑い、話し声が聞こえている。
次第にそれも長くゆったりとした寝息にとって代わられる。
テオドールはベッドのなかでしばらく、さっき見た絵を想っていた。
あの上級生が誰なのか、気になった。
その上級生の前でファビーニがリボンタイを抜き、シャツを脱いで裸になるところを想像した。
ちりちりと身体の芯が震えるような微熱めいた感覚がした。
息を吐き、身体を回転させて天井を見つめ、そして静かに眠りに落ちた。
相変わらず、昼休みも放課後の練習にも、ファビーニは現れなかった。昼休みの練習の後、教室に戻りながらテオドールはニコラとマティアスになぜファビーニが嫌われているのか聞いてみた。
ニコラは幾分間が悪そうな表情で声をひそめて言った。
「それは彼が上級生としか付き合わないからだと思う」
「それは君たちが無視するからだろ」
「そのまえからずっとそうなんだよ。彼は上級生のお気に入りで、上級生が好きなんだ。俺たちとは付き合わないんだよ」
「そんなことないよ。勝手に君らが思ってるだけだ。ファビーニは、俺たちの仲間に入りたがってると思う」
マティアスが不思議そうな顔をした。
「なんでそう思うの? ファビーニがそう言ったのか?」
「言ってない。でも、そんな気がする。だって、俺とは普通に話すし、話してるとすごく楽しそうだ」
「君が転入生で何も知らないからだよ」
ニコラが言った。
「でも、テオと殴り合いのケンカしたのは、びっくりしたな。あんな彼、初めて見たよ。いつも澄ましてて、同級生なんて何を言われても相手にしないのにさ」
マティアスが肩をそびやかして両手を広げた。
「上級生がテオのこと噂してるみたいだよ。あんまりファビーニに関わらない方がいいよ」
ニコラが眉間を寄せて不安げな表情で言った。
「なんで。ファビーニと関りを断つべきは、俺じゃないだろ。上級生だろ」
「ほら、そういうとこだよ。上級生がおもしろくないってきっと思ってる。ファビーニに手を出しちゃだめなんだ」
「なんでだよ。俺、納得できないよ。ファビーニは好きで上級生と付き合ってるのか」
「そうだよ、多分ね」
「ファビーニに訊いてみるのがいいんじゃないかな」
少し考えるみたいにしてマティアスが言った。
それにはっとする気がした。
そうだ、ファビーニ本人に聞いてみればいいのだ。
好んで上級生と付き合ってるのか、それとも仕方なく上級生と付き合ってるのか。
テオドールはファビーニ本人に聞いてみようと思った。
その機会は夜を待つことなく、意外に早く訪れた。
放課後、劇の練習をしようと体育館へ五人で行くと、高等科五年生がピアノにあわせてダンスの練習をしていた。そのなかで、ファビーニひとりがとっかえひっかえ上級生を相手に女役としてしなだれかかるようにして踊っている。
そのファビーニの甘えるような妖艶な仕草に、五人は息を飲んだ。
「今日はダメだ、上級生がダンスの練習で使ってる」
ニコラが囁いた。
「でも、昼休みと放課後、演劇の練習で体育館を使っていいって、先生には許可をもらってるぞ」
テオドールが憤慨する。
「あきらめよう。上級生が使ってるんじゃ仕方がない」
ヴァーヴェルカが肩をすくめる。
「日にちがないんだ。練習はしないと」
テオドールが怒ったように言う。
体育館から去るべきは、上級生だ、と思った。
つかつかと歩いて行って、ダンスする上級生の輪の中へ入ると、踊っているファビーニの腕を掴んだ。
「ファビーニ、女役で踊って楽しいのか」
ファビーニは動きを止めて、びっくりしたようにテオドールを見た。
ピアノの音が止まった。
上級生も動きを止めて、輪に入ってきたテオドールを見た。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
ファビーニがムッとした表情で睨むようにして言う。
「ほんとうは、上級生といるより俺たちといたいんだろう」
「おい」
上級生が怒りを含んだ声をかけてくる。
「なんだ、おまえ」
「転入生、勝手な真似をすると許さないぞ」
上級生の鋭い声が飛んでくる。
テオドールは構わなかった。
「ファビーニ、本当のこと言えよ。俺たちの仲間に入りたいだろ」
ファビーニはテオドールの目をじっと見つめた。迷うように、その目の光が揺れるのを、テオドールは見た。そして、ファビーニは顔をそらすようにしてうつむく。震えるようにしてそのままでいたが、すぐさま顔を上げた。
「仲間に入りたい」
彼ははっきりとそう言った。
「ファビーニ! 何を言ってるんだ!」
上級生の声が響く。
「転入生、俺たちの邪魔をするな!」
「痛い目を見るぞ!」
「おまえをひねりつぶすなんて簡単だぞ」
「ファビーニに余計なことを言って近づくな」
次々と上級生たちから怒声があがる。今にも飛び掛かってきそうだ。
テオドールはファビーニの手を握った。
湿って温かなこどもみたいな手だった。
ファビーニの顔を見ると、怒りだした上級生たちにおびえているようだった。
「大丈夫だよ、ファビーニ。俺がそばにいる」
テオドールがにこりと笑みを見せる。
「なに笑ってやがる」
「ふざけんな」
上級生たちの怒りが盛り上がり、最高潮に到達し、今にも襲い掛からんばかりに思われたときだ。
「先輩たち、この体育館、昼休みと放課後は先生に許可をもらって、クリスマス集会の演劇の練習をしているんです。出て行ってもらえませんか」
ニコラが声を張り上げた。
上級生は、そこに他の高等科二年の生徒がいたことに気付いたらしかった。
恐ろしいほど静かな緊迫した時間が、数秒流れた。
「出るぞ」
上級生のひとりが声をかけた。
その声に促されるように、上級生たちはぞろぞろと体育館を出て行った。
最後の一人が体育館を出て、扉を閉めた瞬間、みんなどっと緊張の糸が切れたように、床に座り込んだ。
「テオ、やめろよ」
さっきと変わって弱々しい声でニコラが言った。
「一歩間違っていれば俺たち、ただじゃ済まなかったぜ。危なかった」
ヴァーヴェルカがため息をつく。
「怖かった」
ウーリも泣きそうな表情で額を抑えた。しばらく銘々テオドールに文句を言ったところで、気を取り直し、演劇の打ち合わせが始まった。
「じゃ、ナポレオン三世が捕まるところから、やってみようぜ」
テオドールが指示する。
「ねぇ」
背後から声がして、振り返るとファビーニが立っていた。
「僕も見ていていいかな」
ファビーニの目は奥歯を噛みしめているのかと思うほど必死だった。
テオドールはちょっと迷って他の仲間に視線を流した。
そしたら、ヴァーヴェルカが口を開いた。
「いいよ」
ウーリもその横で頷いている。
ファビーニはほっとしたらしかった。傍に来て、みんなの演技を真面目な顔で見ている。
テオドールはその表情に微笑んだ。
それから、演劇の練習にはファビーニが参加するようになった。参加する、といっても、彼は見ているだけだったのだけれど。
あるとき、書割りの下書きを見ていたファビーニが言った。
「それ、馬?」
ヴァーヴェルカが微笑む。
「そう、馬」
誰も馬だと気付かなかったので、嬉しいらしかった。
「僕に描かせてもらってもいいかな」
「いいよ」
ヴァーヴェルカが身体をずれて、ファビーニに場所を譲る。鉛筆を握り、軽いタッチでさらさらと描き出す。さりげない筆致なのに力強く躍動感をもった馬がファビーニの手元に描かれていく。それにはみんなびっくりした。
「ファビーニ、君、絵がうまいんだね」
マティアスが驚嘆したように声をあげた。
「ヴァーヴェルカの犬とは比べ物にならないよ」
ウーリの言葉に、ヴァーヴェルカがぴしゃりと返す。
「犬じゃない」
「今にも迫って来そうな馬だ」
ニコラも感嘆した。
すごい速さででも確実な写実力で一頭の馬を描いてから、控えめにファビーニは言った。
「もしよければ、書割りは僕が担当するけれど」
「頼むよ」
ニコラが満面の笑みで頷いた。
演劇の準備は今までより一層すすむようになった。
その週の金曜日、夕食の後、テオドールはファビーニに明日の土曜日は一緒に外出許可を出して街に行かないかと誘われた。
テオドールはファビーニに誘われたのが嬉しくて、すぐさま承諾した。
ニコラとマティアスはテオドールがファビーニと外出すると聞いて、ちょっとびっくりしたが、反対はしなかった。
「街で上級生に絡まれないように気を付けなよ」
ニコラが釘を刺したので、テオドールは頷いた。
翌日、昼過ぎにテオドールは金線の入った学帽をかぶってジャケットを着て、ファビーニと共に校門を出た。
「外出は初めて?」
ファビーニがいつもよりも少し浮き立つ声できいてくる。学帽をかぶったファビーニは男装の麗人めいた倒錯的美しさがあって、テオドールはちょっとドキドキした。
「初めてだよ。学校の窓からしか街を見たことがなかったんだ。君が誘ってくれて嬉しい」
「よかった。僕なんかが誘って迷惑じゃなかった?」
「全然だよ。君が声を掛けてくれてよかった」
ファビーニは静かに笑った。
「君こそよかったの? 上級生に誘われてたんじゃない?」
「君といる方がおもしろいから」
ファビーニのその言葉に、テオドールはにっこりした。
「まず、どこに行く?」
「色んな店があるよ。見て回ろうよ。必要があれば買い物してもいいし。そのあと、ケーキ屋でお茶を飲もう」
「おいしいところ知ってる?」
「もちろん!」
ふたりは微笑み合って、歩き出した。三十分ほど森の中の坂を下ると、眼下に広がっていた褐色めいた屋根の家々が明るい壁の色を見せだし、道は石畳になった。
ふたりはまず書店に行き、本を見て回り、そのあとパン屋の店先を眺めながら前を通ってお菓子屋に入り、いくつかキャンディとチョコレートを買った。そのあと町を流れる川沿いにふらふらし、広場で買った飴を舐めた。
そのとき、ファビーニが駅舎から向こう側を指さして言った。
「あそこらへんは娼館が建ち並んでる地区なんだ」
「娼館?」
「行ったことある?」
ファビーニはちょっと含んだような笑みを見せた。
ファビーニは行ったことがあるんだろうか、と一瞬テオドールは思った。そういうところで、どういう行為が行われているかはテオドールも知っている。
首を横に振ると、ファビーニはただ無言で頷いた。
そのあと、家具を作る工房で職人の仕事をのぞきこみ、ファビーニの案内で彼行きつけのケーキ屋へ入った。
毎日、ラテン語とギリシア語、ドイツ語に英語、フランス語、宗教学に数学、自然科学、歴史、地理と勉強に追われていたので、こんなふうに太陽の下、家々の軒先の花を見ながら、石畳を歩いて、街を散策でき、ケーキ屋でお茶できるのがとても自由で楽しかった。
店内にベルを鳴らしてドアを開けて入ると、中庭に突き出した窓際のテーブル席に座っていた女子二人が振り向いて、気付いたように手を挙げた。
「ファビーニ、ここよ!」
ファビーニはそっちの方へ歩いていく。テオドールもそれについて行った。
金髪のおさげの女の子と、黒髪のおかっぱの女の子がいた。
「あら、ヴァルターは? 今日は一緒じゃないの?」
金髪の女の子が不思議そうに聞いてきた。
「今日は一緒じゃないんだ」
ファビーニはそう言うと、二人にテオドールを紹介した。
「テオドール・ケムナだよ。僕と同じ高等科二年なんだ。部屋が一緒なんだよ」
「よろしく」
テオドールは恥ずかしさにちょっとどぎまぎして赤くなりながら挨拶した。
「よろしく、私、リディア」
金髪のおさげが言った。
「私はリーゼ」
黒髪の女の子がにっこりと微笑んだ。
「座りなさいよ。一緒にお茶しましょう」
リーゼがテオドールとファビーニにイスを進めた。
リーゼとリディアは、このケーキ屋でファビーニに会うことを楽しみにしているのだ、と言った。
「だって、とっても素敵なんだもの! 私たちの王子様よ!」
リーゼはうっとりとしてファビーニに熱い視線を向けながら言った。
「うちの実技科学校は女子ばっかりなんだもの。たまにはこんなきれいな男子ともおしゃべりしたいわ」
リディアがファビーニを盗み見るようにして言い、うつむいてにこりと笑って紅茶を飲んだ。
ふたりはファビーニに夢中らしかった。彼を誉めそやしては笑い、勢い余ったように彼の肩や手にタッチしては興奮したように笑った。
テオドールはいらいらしていた。
クッキーを食べながらコーヒーを飲み、ぼんやりと中庭を見ていた。
傍では二人の女の子がはしゃいだ声をあげて笑い、しゃべり続けている。
なんだかひどく悲しい気持ちだった。
頭の上にはガス燈のシャンデリアがあって、精緻な模様を浮かばせた乳白色のガラスに庭の光が反射している。
女の子たちのけたたましい笑い声を聞きながら、自分が泣きたいような気持になっているのに気づく。
さっきまで、この店に入るまでは、ファビーニとふたりっきりであんなに楽しい気持ちだったのに。
無理やりめいてコーヒーを喉に流し込み、機械めいてクッキーを口に押し込んだ。
「僕らはそろそろ失礼するよ」
「えー」
女の子ふたりがそろえて声をあげる。
「だって、門限まだでしょう」
「うん、でも、帰って色々やらなくちゃいけないこともあるから」
そう言って、ファビーニはイスから立ち上がる。テオドールもつられたようにイスから立ち上がった。
ほっとしている自分がいる。
「それじゃ、またね」
「またねー! ファビーニ!」
折半でテオドールが会計をして、女の子たちに手を振るファビーニと共に店を出てきた。
ふたりは学校に向かって歩き出した。
テオドールは何とも言えない気分で沈むように疲れ切って無言で歩を進めていた。
しばらく互いに何も言葉を交わさぬまま、ひたすら歩いた。
学校の校舎が丘の上に見えてきたころ、ファビーニが口を開いた。
「嫌だった?」
そう聞かれて、テオドールは自分がものすごい仏頂面をしていたのに気付いた。
「いや……そういうわけ、じゃ……」
まさか、君ばかりちやほやされてつまらなかったとは言えない。それに、それ以上に自分を不機嫌にしている原因がある気がした。それが何なのか、よくわからなかった。
「君と書店を見て回ったり、広場をふらふらしているときはとても至福で楽しかった。でも、ケーキ屋に入ってから、実技科学校の子たちとお茶をしているとき、なんだかよくわからないけど、とても悲しかったんだ」
テオドールは自分の頭を整理するように、慎重に言葉を選んでそう言った。ファビーニはだまってそれを聞いていた。
「女の子たちと話すの、楽しめると思ったんだ。でも、そうじゃなかったのなら、悪かったね」
ファビーニは落ち着いた口調でそう言った。
「どうやら俺は君を独り占めしたいみたいだ」
冗談めかせてテオドールは言い、おどけたように笑った。
ファビーニはじっとテオドールを見た。青く澄んで静謐な光を帯びた目だった。彼は何も言わなかった。
しばらく互いに黙り込んで歩き続けた。
そのままふたりは校門をくぐり、学校へ帰ってきた。
「僕は君と外出できて、とても楽しかったよ」
ファビーニはそう言うと、さっと顔を近づけて唇を触れ合わせ、そして去っていった。
テオドールはびっくりしてその場に立ち尽くした。
あまりにもさりげなくて、そして印象的で、自然だった。
学校の中の、誰が見ているかわからない校舎内で、こんなことをするのは危険だと思ったけれど、それ以上に頭の芯がかっと熱くなった。
心臓が動悸している。
ファビーニ……。
感じたことのないような感覚に身体が甘く痺れていった。
翌日、ラテン語の授業が終わった後、教室に背の高い金髪の上級生がひとり顔を出した。
「テオドール・ケムナはどこだ」
彼は低い声でそう言った。
みんながテオドールを振り返った。ファビーニは授業が終わると同時にいなくなっていた。
ニコラとマティアスが、怯えるような表情でテオドールを見守っている。
「俺です」
テオドールは手を挙げた。
上級生は顎を小さくしゃくると、ついてこい、と示唆した。
テオドールは教室を出て、彼の背についていった。
彼の背中を見て歩きながら、テオドールはこの上級生はファビーニが何度かデッサンしたことがある生徒だと気付いた。
たしか、ファビーニは高等科五年のヴァルターだと言っていた。
ファビーニがこの男の前で裸体をさらし、モデルになったのだ、と思ったら、胸の奥がじりじりと痛むように軋んだ。
ヴァルターはどんどん廊下を進んでいき、校舎を出て、裏山そばの校舎裏に来てから、足を止めた。
振り返り、テオドールを睨みつけるようにしてヴァルターは言った。
「おまえ、どういうつもりだ」
ヴァルターがファビーニのことを言っているのはすぐわかった。
でも、テオドールは知らんふりをした。
「何のことですか」
途端、ヴァルターの腕が伸び、乱暴に首元を掴み寄せられた。
「ファビーニに近づくな。これ以上ちょっかい出すなら、俺たちにも考えがある。お前も痛い目をみることになるぞ」
「俺たちって、他にもファビーニに夢中な上級生がいるってことですか。ファビーニは男で高等科二年の下級生ですよ。それに上級生が何人も首ったけなんですか。それっておかしくないですか」
ぐ、とヴァルターが顔を近づけてくる。
「うるせぇ、その口裂いてやるぞ」
「やれるもんならやってくださいよ」
ヴァルターの眉間がぎゅっと寄りほの暗く険しい表情になる。呪い殺しでもするかのようにテオドールを睨みつけてきた。
「ママのキスしかしらない童貞は、黙って身を引くんだな。くたばれ、クソ野郎」
身体を放り投げるようにして手を放された。
テオドールはよろけて、地面に尻から倒れる。
そんな扱いを受けたことより、ひどい侮辱の言葉を吐かれたことに腹を立てた。
「謝れ! 今の言葉を撤回しろ!」
「事実だろ、童貞くん。女も知らないくそ童貞。金輪際、ファビーニに、手を出すな。ファビーニはお前みたいなねんねは相手にしねぇんだよ」
ヴァルターは激しい口調でそう言い放つと、踵を返して校舎内に入っていった。
しばらく、地面に倒れたまま、テオドールは血が出るほど唇を咬みしめていた。
くっそっ……。
地面を拳でなぐった。
ふと、ファビーニは俺たちと違うんだろうかと思った。
昨日、外出許可のときに、ケーキ屋で女の子たちの相手をしているときも、慣れた様子だった。
娼館の話をしたときも、どこか知っているような口ぶりだった。
驚くように思った。
多分、ファビーニは、俺たちと違うんだ。
悔しさに身体が震えだす。
俺だって……。
そう思うと、テオドールはぎゅっと拳に力を込めた。そして、身体に着いた土を払いながら立ち上がり、慎重にこれからの算段をたてた。
『ラインの護り』の劇の準備は着々とすすんでいた。ファビーニが書割りを描くようになって、みんなが助かっていた。しかも、彼の描く書割りはどれもプロの画家が描いたようにリアルで生き物なら血が通っているような迫力があり、素晴らしかった。
「テオドール、今日、様子がおかしくないか」
ニコラに言われて、テオドールは考え込んでいたのをやめた。
「そんなことないよ」
「ヴァルターに何かされたの」
マティアスが心配げに言うと、書割りを描いていたファビーニが手を止めて視線を向けてきた。
「何かあったの」
ファビーニが言うと、その場にいた仲間たちは間が悪そうに黙り込んだ。
「ほら、フランス軍が降伏するシーンの練習をしようよ」
空気を換えようと、ニコラが声をかけ、ファビーニとテオドール以外は集まって、演技の練習を始めた。
テオドールはファビーニの傍へ行き、おずおずと慮るように声をひそめて聞いた。
「ファビーニは、いつもヴァルターと外出するの」
テオドールはちょっと迷った後、うなずいた。
「その……駅の向こうの、娼館に行ったりも……するの?」
ファビーニは誤魔化すように笑ったまま、応えなかった。
それは、テオドールを傷つけた。
ファビーニは俺たちと違う。
そう思った。
夜になり、消灯時間になって生徒たちがベッドにもぐりこむと、しばらく声をはばかったざわつきがあり、次第にそれは寝息に消えていく。
テオドールはそっとベッドを抜け出した。足音をしのばせて、ロッカー室へ行き、制服に着替えてこっそりと校舎を出た。クラスの仲間からどこからなら無断で校舎を抜け出せるか、話は聞いている。
校舎裏手に回り、朽ちかけた柵を上って飛び越えて、裏山の方からまわって学校を出た。
走って森の中の真っ暗な坂を下りながら、笑いだしたいくらい愉快な気分になってくる。
このままカフェに行って一晩中シュナップスを飲んでもいいし、煙草を吸ったっていい。自由だ、と思った。それは全身に興奮にも似た新鮮な感動をみなぎらせた。
街に入ると、店先に灯る明かりは昼間と違っていて、人通りも日中に比べて少なく大人ばかりで、わくわくした。
しかし、その気持ちは駅を通り過ぎ、裏通りに入るとしぼんでいった。
工場勤めらしい男たちが大声で歌い、飲んでいる居酒屋や、女たちの嬌声が聞こえてくる店、獣脂のろうそくの溶ける匂い、下水の匂いが漂ってくる。酔っ払いなのか具合が悪いのか、道路で寝ている人もいる。もう夜も大分遅いのに、半裸の垢じみた子どもたちが走り回っている。
テオドールは同じ道をぐるぐるまわったのち、薄汚れた壁の一軒の居酒屋の前で足を止めた。そこは一階が居酒屋になっていて飲食を提供し、女に給仕させ、客は女を気に入ると、二階で好きにできる娼館だった。
居酒屋からはよっぱらって調子の外れた歌声とアコーディオンの音色が聞こえてきた。手拍子や足拍子も聞こえてくる。食べ物の匂いもした。
テオドールはしばらくその建物の前でじっと立っていた。
職人風の男たちがテオドールにぶつかり、罵声を浴びせて、建物に入っていった。
心臓がどきどきした。
手が震えた。
喉が痛いほど乾く。
どうしよう。
ここまで来たのに、躊躇する。踏み込んだら、自分は自分でなくなってしまうような気すらした。
そのとき、ドアが開いて、酔っ払いの腕を肩にかけた女がでてきた。
女は肩を担がれて千鳥足の男を地面におろした。
「ほら、ちゃんと金を払ってよ」
男は手を振った。振り払うような仕草だった。
「払わないってのかい?」
女の声が悲鳴を帯びる。
「この馬鹿! とっとと消えちまいな!」
女は男の背中を一発叩くと、男はよろよろと夜の街に消えていった。
中に戻ろうとした女は、ふと気付いたようにそこに立ちつくすテオドールを見た。
胸の大きくあいた下着姿で、彼女は闇の中さぐるようにテオドールに視線を向けた。
「なんだよ! 見世物じゃないよ!」
女は甲高い声で叫んだ。
「す、すいません……!」
テオドールは震えるように背筋を伸ばして謝罪し、回れ右をしようとした。
「なんだい、あんた。ここに用事があるの」
女の声がさっきと変わって、すこし媚びるような優しさを帯びた。
テオドールは回れ右をしようとして、右足をさげたまま動きを止めた。
女が訝し気な表情のまま近づいてくる。白い肌がもっちりと闇に浮く。胸の盛り上がりが妖艶だった。
「もしかして、女を買いに来たのかい」
女は片眉を持ち上げて、試すように言った。テオドールは詰まったような喉がやっと解放されたように、息が少し楽になった。それでも、心臓が破裂しそうにばくばく言っている。
「そ、そうです」
掠れた声で言うと、女はにやりと笑った。
「じゃ、私の客になりなよ。金は持ってる?」
テオドールはポケットから銀貨一枚を見せた。女は満足げにうなずいた。
「いいよ。おいで」
女の太い腕が伸び、テオドールは手を掴まれて、引っ張り込まれるように建物の中につれて行かれた。
入り口入ってすぐ右手には居酒屋のドアが開いており、哀愁帯びたアコーディオンの音色が満ち、煙草の煙が充満していた。居酒屋の中、廊下や階段のあちこちで男女が抱き合っていた。それを横目にテオドールは女に引っ張られるようにして階段をあがっていった。
一本の廊下があり、ドアが並んでいる。ドアの前を通ると、忙しない息の音や喘ぎ声、ベッドの軋みが聞こえてきた。
それだけで、テオドールはもう気が動転してしまった。
女の部屋に入った途端、テオドールはギムナジウムに帰りたくなった。
「シュナップス? お茶でも飲む?」
女が乱れて染みがつき汚れて穴の開いている敷布のベッドに座り、聞いてきた。テオドールは無言で首を横に振った。
「初めてなんでしょ? 何か飲んだら?」
「初めてじゃない」
テオドールが泣きそうな声で叫ぶと、女はちょっと目を見開いてから、おかしそうに笑った。
「あら、あんた、泣いてるの」
気付くと、頬を涙が伝っていた。慌てて、袖口で拭う。
「違う。泣いてなんかない」
「私、エンマ。あんた、名前は?」
「テオドール」
テオドールは涙が止まらないのに困惑しながら、次々と溢れてくるそれを袖口で何度もぬぐった。
「テオドール、ここに座りなさいよ」
「やだ。汚い」
「汚い?」
エンマは高い声で笑った。
「だって、あんたが自分からここに来たんでしょ」
「来たくなかったけど、仕方なかったんだ」
テオドールは止まらない涙をぬぐいながら、言った。
「なんで仕方なかったの」
テオドールはしばらく考え込んだ。涙はその間ちょっと止まった。
「ファビーニと同じになりたかったから」
エンマはちょっと首を動かしたあと、頷いた。
「そのファビーニってあんたの友達なの?」
「そうだ」
エンマはふーん、と声をあげた。
「ファビーニに負けたくないのね」
エンマはわかったらしくそう言った。その答えは違うと思ったけれど、涙をぬぐうのに懸命でテオドールは何も言わなかった。
「あんたとファビーニは違う人間なんだから、張り合うことなんてないのに」
エンマは知ったかぶった様子で、説教するように言ってきた。
「うるさい」
テオドールは嫌な表情をした。こんな見ず知らずの娼婦に、知ったようなことを言われたくなかった。
「だってそうじゃない。人間なんてみんな違うのよ。同じであることなんてないんだから。友達が経験したから、自分も経験しなくちゃいけない、なんてないのよ」
エンマはそう言って、足を組み、ベッドサイドチェストから煙草を取って火をつけた。
「それとも、そのファビーニってやつに馬鹿にされたの」
「ファビーニにはされてない」
「じゃ、他の奴にいわれたの」
エンマは煙草の煙を吐きながらきいてきた。
テオドールは黙り込んだ。エンマはその沈黙で察したらしかった。
「その、言ってきたやつって、あんたにとって大事な人なの」
「違う」
「じゃ、気にすることないわよ。自分にとって些細な人間の言うことなんて、大したことじゃないのよ。そういうの、気にする方が馬鹿よ」
エンマはそう言って、煙草を吸って、灰皿に灰を落とした。
「まぁ、いいわ。私とベッドで寝る?」
エンマは押し付けるようにして灰皿に煙草の火を消した。
彼女にそう聞かれる頃には、テオドールの気持ちは固まっていた。
「寝ない」
「じゃ、私と何する?」
テオドールは雨漏りの染みのある天井をちょっと見て、考えた。
そのころ、ギムナジウムではフォーラムの室長がテオドールがベッドにいないことに気付きちょっとした騒動になっていた。
当初は、校舎内のどこかにいるのだろうと思われていたが、朝方になっても戻らず、ベッドが空いたままだったので、室長は舎監のローベルト先生に相談した。ローベルト先生と校医のアントン先生が生徒数人とともに学校中を探し回り、それでもいないとわかると、警察に連絡して街へ探しにでた。
ローベルト先生が、街の人に聞いて回り、昨晩娼館の前にそれらしき少年がいたと聞き、顔を青くして部屋に乗り込んできたとき、テオドールはエンマとカードのピケをやっていた。
「テオ!」
ローベルト先生は泣きそうな表情で叫び、額を抑えた。
「一体、どうしたんだ、これは」
「あれ、もう朝ですか」
テオドールはカードを引きながら、ローベルト先生を振り返った。
「そしたら、ここまでね。あーあ、この勝負、あんたの勝ちだわ」
煙草を咥えながら、アンナが銀貨を一枚、テオドールに渡した。
「ローベルト先生、おはようございます」
テオドールはエンマがいれてくれたコーヒーを飲みながら、疲れた表情で笑った。ローベルト先生は何か言いたい風に口を動かしたが、ため息一つ吐いただけだった。
「先生、この子、大変カードがうまいわよ。一晩中付き合わされたわ。この埋め合わせ、先生がしてくれるのかしら」
エンマが淫らがましい笑みを浮かべる。ローベルト先生は頭を掻いた。
「ご面倒おかけしました。また改めて、お礼に伺います」
「あら、嬉しい。待ってるわ」
ローベルト先生はもう一度ため息を吐き、テオドールを見た。
「ほら、学帽をかぶって。行くぞ、テオ。お礼を言いなさい」
「エンマ、ありがとう」
「また、カードしに来なさいよ」
「代わりに俺が相手しますよ」
ローベルト先生の言葉に、エンマは嬉しそうに笑った。
「それは、楽しみね」
エンマは婀娜っぽく言った。
テオドールは学帽をかぶり、立ちあがった。ローベルト先生に連れられて、エンマに見送られながら、階段を下りて娼館を出た。
昨晩の妖し気な廃れた様子が魔法のように消え去り、裏通りの寂れた感じばかりが朝もやの中に強調された。
ローベルト先生はテオの背中を撫でた。
「気分はどうだい」
「あまりよくないです」
「そうだろうな。眠っていないんだろ」
はい、とテオドールは頷く。
「これは、帰ったら校長先生にも訊かれることだから聞くけれど、なんで、学校を抜け出して娼館に行ったんだい」
「カードがしたかったんです」
ローベルト先生は息を飲み、ため息を吐いた。
「カードの相手なら、他にもいるだろう」
「いえ、エンマとしたかったんです」
「知り合いだったの?」
「娼館で知り合ったんですけど」
ローベルト先生は困惑したように眉間を寄せて、再びため息を吐いた。
「君も、あそこが何をするところかわかっているだろうけれど、ヴァイスキルヒェン・ギムナジウムは由緒正しい学校だ。あんなところに出入りする生徒は本校始まって以来だ。校長からはどんなお咎めがあるかわからないが、謹んで受けるように」
「あんなところって言うけれど、多分、先生方が知らないだけで、生徒の何人かは行ったことがあると思いますよ」
ローベルト先生は何も言わずにただ首を横に振った。
「君には夜間無断外出の罪もある。なるべく軽く済むように私も口添えするが、君は校長に反論しないできちんと反省しなさい」
そう言ってから、ローベルト先生は続けた。
「寿命が縮んだよ。すごく心配した。無事見つかってよかった」
ローベルト先生は立ち止まると、テオドールの背中をそっと抱きしめた。
その所作から、彼が本当に心から心配して血眼で街中をさがしたらしいのがわかって、テオドールは初めて反省した。
学校に帰ると、すぐさま校長室へ連れていかれた。
校長は不可解なものを見るような目でテオドールを一瞥し、聞いた。
「なぜ夜間無断外出をして娼館へ行ったんだね?」
「カードがしたかったんです」
テオドールはローベルト先生に言ったとおりに応えた。
「カードはだれとでもできるだろう。なぜ、娼婦とカードがしたかったのかね」
「そうするしかなかったからです」
「なぜそうするしかなかったのかね?」
テオドールは返事に窮した。
「わかりません」
「そうだな、わからないだろうな」
校長は何度かうなずいた。
「私も、君たちくらいの年齢の頃には、今まで行ったことのない領域に憧れや恐怖や興味を持ち、冒険をした。君の気持ちはわからないでもない。でも、そういう興味はここでは勉学に向けられるべきだ。夜間無断外出をするという暴挙にむけられるべきではない。君はここの学校の生徒だからね。監禁室に行きなさい。私がいいというまで出てはいけないよ」
校長に呼ばれて、しばらくして校務員がやってきた。彼はなにやら古い鍵を持っていた。テオドールは校務員の後ろについて、光の射さない北棟へ行った。ここの校舎は黴臭くて、いつも湿った匂いがした。そこの突き当り真っ暗な半地下の部屋に入れられて、外から鍵を掛けられた。
校舎内のざわめきすら聞こえなかった。真っ暗で、テオドールは手探りしながら階段を降り、おそるおそる床に座った。いつまでも目が闇になれなかった。部屋は狭く、何も置いてなかった。土臭いような匂いがした。明り取りすらなかった。暗闇の中で膝を抱えてじっとしていると、屈辱感に身体が震えだした。
ヴァルターに馬鹿にされたこと。
ファビーニは、多分、自分たちとは違うこと。
そして昨晩、一人で入った娼館の恐れが、今更のように湧き上がってきた。
涙がこみあげてきて、ちょっと泣いた。泣いたら、お腹が空いているのを意識した。昨日の夕飯から何も食べていない。お腹が痛いような気がした。すごく惨めな気持ちになった。またちょっと泣いた。次第に眠くなって、うつらうつらとしていたときだ。
「テオ」
闇の中でファビーニの声が聞こえた。夢を見ているのかな、と思った。
「テオ」
また声が聞こえた。四つん這いになり、闇のなか這うようにして石の階段を上り声の聞こえた方向を探る。
転びそうになりながらも這って行って手で触れると、木製のドアがあった。
「テオ、大丈夫かい」
「ファビーニか」
「そうだ」
テオドールは胸の奥が熱くなるのを感じた。この何も見えない暗闇で、ファビーニの声が聞こえるというのは希望だった。
「ファビーニ、どこだ」
「ドアの外にいる。今、太陽(ソル)さんが、監禁室から君を出すように校長にやりあってくれてる。もう少し待ってて。僕と、ニコラとマティアスも校長に直談判するつもりだから。すぐ出れるから、待ってて」
目の奥がじわっとなった。
「ファビーニ……そんなこと、言いにきてくれたのか」
ファビーニはちょっと笑った。
「ねぇ、みんな、君のことすごいって言ってる。僕もすごいと思うよ。だって、ここ何年も校長に監禁室に閉じ込められた生徒なんていなかったんだ」
テオドールは乾いた笑いをした。
「そうなのか」
「だから、もう少し我慢して。僕らが君をすぐ出してあげるから。ニコラとマティアスのところへ行ってくるよ。僕ら、校長に意見してくるんだ」
「ありがとう」
テオドールは鼻がつんとなるのを感じ、涙をぬぐいながら言った。
ファビーニがドアから去った気配があってから多分数十分ほどして(その時間はとても長く感じた)、テオドールは監禁室から解放された。
教室に戻ると、クラスの仲間たちは、まるで英雄みたいにテオドールを迎えた。テオドールの入学当初スプーンを隠したニキアスだけは教室の隅で薄ら笑いを浮かべてそれを見つめていた。みんなにもみくちゃにされながら、テオドールはまたちょっと泣きそうになるのを一生懸命我慢した。
この件があってから、演劇『ラインの護り』を手伝わせてくれ、という生徒が数人いた。まだ暑さを感じる時分から始まった演劇の準備は、仲間を増やし、既にコートを羽織る時期になり、近づくクリスマス集会へと着実に進んでいた。
いつの間にかファビーニは上級生とではなく、クラスの仲間と普通に付き合うようになっていった。クラスの仲間は当然のように彼を受け入れた。
その日の金曜日、テオドールはローベルト先生にカードに誘われたので、ファビーニとともに舎監室を訪れた。
ローベルト先生は逃亡したテオドールを心配して、金曜日の夜には舎監室に顔を出すように告げていた。
舎監室はベッドが一つとデスクとイス、それとテーブルがあるくらいの簡素な部屋で、三人はテーブルを囲んでスカートというカードゲームをやった。
テオドールが二回、ローベルト先生が一回勝った。
それでこのゲームは終わりになった。ふたりは、ローベルト先生から温かいリンゴワインをもらった。
「テオ、どう。学校は慣れてきたかい」
ローベルト先生はテオドールにカップを渡しながら聞いてきた。
「そうだね、大分慣れてきた。ここに来たばかりのころは朝のベッドメイキングもうまくできなくてすごく辛かったけど、室長にしごかれてうまくできるようになったよ」
「あれは僕も苦手」
ファビーニがカップに口を付けながら、うんざりといったふうに続けた。
「まるで軍隊だよね。三十秒でベッドメイキング、だなんて」
「寝るときなんて、身体に毛布巻き付けて倒れるように寝るだけなのにな」
「集団のなかでは統率をとるために無意味とも思えるルールが必要なんだ。三十秒でベッドメイキングもそれだろうね。でもまぁ、ベッドが乱れていたら、見目好くないよ」
ローベルト先生もリンゴワイン酒を飲みながら、笑った。
ローベルト先生もここのギムナジウムの出身だからその名残なのか、ベッドは几帳面なほどきちんと整っていた。
その代わり、デスクには書籍と書類が積み上げられて、乱雑に散らかっていた。
「ローベルト先生が生徒の頃からあったんですか。三十秒ベッドメイキングって」
テオドールが訊く。
「あったよ。中等科一年生のときに、室長から厳しく指導された」
「伝統なんだ」
ファビーニが笑った。
「最初は無理だって思うけど、学校生活に慣れていくと一緒に、ベッドメイキングもできるようになっていくんだよね。ふと振り返って、あれ、俺、成長してるって気付くんだ」
ローベルト先生が言う。
「なるほど」
テオドールが頷いた。
「ほら、そろそろ消灯時間が近づくよ。飲んだら、部屋に戻りなさい」
はーい、と二人は声を合わせて残りを飲み、カップをテーブルに置いて、ローベルト先生の部屋を辞去した。
ふたりで暗い渡り廊下を歩いていると、夜空に星灯が見えた。オリオン座が輝いているのがわかった。飛沫のように星が点々と大空に散っていた。
「ねぇ、今見てる星の光って何百年も前の光だって知ってる?」
ファビーニが歩きながら言った。
「何百年も前?」
「そうなんだ、たとえばあのベテルギウス。あれは五百年から六百年前の光を、今僕たちは見てるんだ。だから、もしかしたら、ベテルギウス自体は今はもうなくなっているかもしれない」
「そうなのか?」
「そう。そのものが消滅していても、年月を経て光が届くって、希望だと思わないか?」
ファビーニが言いたいことがわからなくて、テオドールはぼんやりと彼の端整な顔を見つめた。
「僕はそういう絵が描きたい。僕自身が消滅しても年月を経て光のように人の心にとどく絵が描きたいんだ」
ああ、とテオドールは声をあげた。
「そうだね。俺も、そういう小説が書けるようになりたいな」
ふたりはにこりと笑い合い、そしてフォーラムへと帰った。
クリスマスが近づくと、先生も生徒もみんなそわそわしだす。休暇があるし、なによりクリスマスは家族で過ごす一大行事だったからだ。
ただ、ローベルト先生は、実家がすでにないので、休暇をギムナジウムで過ごすらしい。
クリスマスの夜にはアントン先生と街に飲みに出かけるのだ、と言っていた。
テオドールは家からの手紙を受け取り、憂鬱になっていた。
父親は、クリスマス休暇には帰宅するように、会わせたいひとがいるから、と書いていた。それは半分本心で半分嘘だと思った。父親はテオドールの顔なんか見たくないのだ。母親にそっくりなテオドールの顔を、父親は見るのを嫌がった。そして、父親が村の食堂の女給と付き合っているのをテオドールは知っていた。会わせたいひと、とはその女のことだろう。会ったことがあるけれど、額の広くて目が小さな凡庸な顔の女だった。声が甲高くて金のことばかり気にしている。その女と父親のことで村の人間からからかわれたこともある。会いたくない、と心から思った。
演劇の練習はクライマックスを迎えていた。みんな役に集中し、セリフと演技は完璧だったし、ファビーニが描いた書割りは素晴らしく、ウーリが用意した衣装も素敵だった。
テオドールは練習に集中できなくて、些細なことで失敗し、出番を間違えたり、セリフをとちったりした。
「テオ、今日、調子悪いね」
ニコラが言った。
「なにかあった?」
マティアスが訊いてくる。
みんな迫りくるクリスマス集会が楽しみで仕方ないのが伝わってくる。
テオドールは首を横に振った。
「なにもないよ」
「また脱走を考えてるのか?」
ヴァーヴェルカがからかってくる。
「まさか! 監禁室はもうたくさんだよ」
テオドールが大仰に両手を広げると笑いがおこった。
そのまま、練習は続行された。でも、テオドールの調子は全く優れず、失敗してばかりだった。
夜、フォーラムでテオドールはファビーニに訊かれた。
「もしかして、テオはクリスマス、楽しみじゃないの?」
テオドールはびっくりしてファビーニを見つめた。
「なんで……」
「そんな気がしたから」
ファビーニの言葉に、テオドールは息を飲んだ。そしてゆっくりとため息をついた。
「そうなんだ。家に帰りたくなくて」
テオドールはベッドサイドに座り、手を組んだ。
ファビーニは窓際に背中を委ねながら、控えめに言った。
「もしよければ、話、聞くよ」
テオドールは暗い目をあげ、ファビーニを見た。
「びっくりしないか」
「しないよ」
テオドールは幾度かうなずき、組んだ手を振った。
しばらくどう言おうか頭の中で悩んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「俺の母さんはずっとヒステリーがひどくて、俺を生んでからも寝込むことが多かったんだ。ひどく信心深いひとだった。何かあればすぐ、神様神様って言ってたよ。俺は七歳でラテン語学校に行きはじめた。でも、先生と折り合いが悪くて、いつもしかられてた。俺は学校に行きたくない。でも、両親は俺を学校へ行かせたがる。結局、ケンカして、俺は母親に神を冒涜する言葉を吐いた。そしたら、母親は寝込んでしまって、翌日、ピストルで自殺した」
テオドールはそこまで言って、親指を咬んだ。
「俺は未だに思うんだ。母さんを殺したのは俺だって。おまえが悪いんじゃないって言われても、俺はその罪を一生背負っていくんだと思ってる」
そして、ぐしゃぐしゃ、と鳶色の柔らかい髪を搔き乱した。
「だから母さんに似た顔をした俺を父親は嫌っている。思い出すんだろう、自殺した母さんのことを。なのに、クリスマス休暇には帰って来なさいなんて言う。会わせたい人がいるらしいんだ。新しく母親になるひとだ。俺は父親にも新しい母親にも会いたくないし、クリスマスには家に帰りたくない」
額を抑えてうつむき加減に、テオドールは言った。
ファビーニは黙ってテオドールの話を聞いていた。
「そしたら、クリスマスは家に帰らないで、うちにおいでよ」
「え?」
テオドールがびっくりして顔を向ける。ファビーニは穏やかに笑った。
「うちは代々続く写真館なんだ。昔の写真機とか道具もあっておもしろいよ。うちに来て、うちの家族と一緒にクリスマスを過ごそうよ」
テオドールはしばらくファビーニの顔を見つめていた。
クリスマスは大事な家族の行事だ。ドイツでは家族水入らずで過ごす家も多い。
「でも、いいのか。俺なんかが行ったら、迷惑じゃないか」
「全然。君は友達だし、友達が来たら、父さんも母さんもきっと喜ぶよ。小さい妹がいるんだけれど、きっと君なら仲良くできると思うし」
テオドールの心は揺れ動いた。ファビーニの家に行ってみたいと思った。彼の家族に会ってみたい。代々続く写真館、というのも興味をそそられた。
「とりあえず、父さんに手紙を書いてみるよ。俺は、クリスマス休暇は寮に残っていてもいいしな。ローベルト先生もいるし」
「寮に残るくらいなら、うちにおいでよ。全然かまわないよ」
ファビーニは身を乗り出して、言ってきた。
「ありがとう、考えてみるよ」
テオドールはそう言ってじんわりと微笑んだ。
そのあと、テオドールは父親と何度か手紙のやりとりをし、父親は帰って来なさいの一点張りだったが、テオドールが絶対帰らないと書き送ると、父は諦めたのか、クリスマスプレゼントにスケート靴を送ってきた。
それを見たとき、テオドールはちょっとしんみりした。
少しばかりでも父の自分を想う気持ちを感じたからだ。でも、父の恋人・女給の女の顔を見るくらいなら、クリスマスなんてない方がマシだった。
父がいつもより多めに送金してくれたので、そのお金でファビーニの両親と妹にプレゼントを買った。
演劇の練習は、通し稽古を何回もやり、細かい部分をみんなで打ち合わせた。ファビーニの書割りは素晴らしい出来映えだった。
雪の降る日が多くなってきた。
屋外では雪合戦やスケートをして遊ぶ生徒たちも多くなってきた。
そしてとうとう、クリスマス集会の日がやってきた。朝から生徒たちはみんなそわそわし、先生方もちょっと浮ついている。この集会が終わったら、もう休暇だからだ。
体育館に全校生徒が集まって、先生方のイスが最前列で、高等科二年の演劇『ラインの護り』ははじまった。
盛大な拍手と共に幕を開けた。
ニコラ演じるナポレオン三世が捕虜になるシーンでは口笛と拍手が起こった。
パリ進撃のシーンでは、拍手と歓声が起こり、立ちあがって拍手する生徒もいた。
メス要塞でマティアス演じるフランス軍のバゼーヌ元帥が降伏し、書割りの間からゲルマニアに扮したファビーニが現れたときには、体育館中が割れるような歓声に満ち満ちた。
羽搏くような白の衣装をまとい、盾と剣を持ち現れた凛々しくもたおやかなファビーニに誰もが目を奪われた。
先生方も感嘆しながら惜しみない拍手を送った。
ラスト『ラインの護り』を全員で合唱し、それは体育館中の声となり、唱和して、大喝采の後に演劇は終わった。
集会の最後、校長は演劇に出た生徒たちを前に呼び、褒めたたえた。
「なによりファビーニ、君のゲルマニアは本当に素晴らしかった」
校長に言われて、ファビーニは頬を紅潮させて微笑んでいた。
その日の夜はみんな大騒ぎだった。明日から休暇で朝早くの電車で発つため、トランクに荷物を詰め、お土産を揃え、生徒たちは校舎中を右往左往した。
「誰だ! 俺の石鹸とったやつ!」
「石鹸なんて持って行く必要ないだろ!」
「俺の靴がないぞ!」
「あー! 俺のシャツだ! 俺のシャツだぞ、持って行くなよ!」
「誰だよ、枕をトランクに入れてるやつ!」
高等科二年の生徒たちも、休暇は初めてではないにもかかわらず大騒ぎだった。
荷造りに慣れている上級生たちは、さっさと荷物を片付けて、煙草を吸ったり、コニャックを飲んだりしていたが、やはり休暇の嬉しさにそわそわしているらしかった。
テオドールは荷造りを早々に終えて、ファビーニを探したが、ファビーニの姿は就寝間際まで見つけられなかった。
「消灯!」
室長の声で、みんな一斉にベッドに入る。いつもよりみんなが興奮しているのがわかる。しばらく、ざわざわしていたが、それは吸い込まれるような寝息に変わっていった。
翌朝、パンとスープの朝食を済ますと、次々と生徒たちが校舎を飛び出していった。テオドールもファビーニと共にトランクを持って駅へ向かった。
駅まではニコラとマティアスも一緒だった。
「母さんがレープクーヘンを作って家で待っいてくれるんだ。楽しみだな」
マティアスが今にもスキップしそうな勢いで弾む息の合間に言う。
「マティアスのお母さんは、シュトーレンも作るって言ってたよね。料理が上手なんだね」
ニコラが言うと、マティアスは嬉しそうに笑った。
「そうなんだ。母さんの料理は世界一うまいんだよ」
そう言って、マティアスは続けた。
「テオドールとファビーニは一緒の列車?」
ふたりは、テオドールがファビーニの家でクリスマスを過ごすことを知らなかった。
「そうなんだ、9時半の列車で行くつもりだ」
「そしたら、僕らのあとだね」
マティアスが言う。
途中、四人で雪投げをしたりして遊びながら、駅に着いた。駅は、ヴァイスキルヒェン・ギムナジウムの生徒たちでいっぱいだった。
列車が到着するたびに、駅のホームに溢れる生徒たちが減っていった。
ニコラとマティアスを見送った後、ファビーニとテオドールも他の生徒たちと共に次に来た列車に乗った。
二つの駅で列車を乗り継いで、三時間ほどかけてメルツィヒの駅に着いた。
駅にはファビーニの父親が迎えに来てくれていた。ファビーニと同じ金髪で髪を短くして撫でつけていた。目尻にはたくさん皺があり、口ひげをたくわえた優しそうな紳士だった。
「テオドール・ケムナです。この度は、ありがとうございます」
テオドールが改まって挨拶すると、ファビーニの父親は温かく微笑みながら、握手を求めてきた。
「歓迎するよ、テオドール。うちの息子の学校での話をたくさんきかせてくださいよ」
ファビーニはなんだか照れたみたいに笑っていた。
ファビーニの父親は幌付きの蒸気自動車で迎えに来ていた。すごいエンジン音をたてながら、ファビーニの父親は運転をし、ふたりを街から少し外れたところにある写真館の家へと連れていってくれた。
門を入ってしばらく庭が続き、奥まった先に石造りの立派な建物があった。
ドアを開けると、金髪のおさげをした小さな女の子が走り寄ってきた。
「おかえりなしゃい!」
「ただいま、クリスティーネ!」
ファビーニが荷物を置いて、女の子を抱き上げる。そしてそのままテオドールの方を向いた。
「お兄ちゃんのお友達だよ」
クリスティーネはちょっとファビーニの胸元に顔を隠しながら、こんにちは、と小さな声で言った。
「こんにちは。テオドールだよ。よろしくね」
うん、とクリスティーネはくすぐったそうに笑いながらファビーニに顔を押し付けた。
その可愛らしい様子に、テオドールは笑ってしまう。
そこは、写真館のお客が待ち時間を寛ぐ場所のようだった。
彫刻を施されたマントルピースがあり、品の良いソファやテーブルが置かれ、お茶の道具や葉巻も置かれていた。
部屋の奥からファビーニの母親と思われる人が出てきた。
「まぁまぁ、よくいらっしゃいました」
掛けられたそんな言葉だけで、心から歓待してくれているとわかる。
テオドールは心が温かくなるのを感じた。
ファビーニによく似た面持ちの金髪をアップにした青い目の美しい母親は、テオドールの背中を撫でた。
「寒かったでしょう。お茶にしましょう。よく来てくれたわ。その前に、お部屋に案内したほうがいいわね、テオドール。ゆっくり寛いでいってね」
そう言うとファビーニの母親はテオドールを二階の客室に案内した。心地よさそうなベッドとチェスト、テーブルとソファが部屋には用意されていた。
ファビーニの部屋は隣だった。
荷ほどきをした後、一階の庭に面したダイニングでファビーニとクリスティーネと共にお茶をいただいた。
ファビーニの母はレープクーヘンを出してくれた。シナモンとメープルがたっぷり効いていて家で食べるものよりもスパイシーでおいしかった。
そのあと、ファビーニとともに街を散策した。大きな広場や、公園があり、店の通りは肉屋やパン屋やカフェ、おもちゃ屋などが建ち並び、見ていてとても楽しかった。
帰宅してから、ファビーニの父親に仕事場を案内してもらった。
仕事場の片隅には木箱のようなカメラや、真鍮製の望遠鏡のようなカメラなど色々なカメラが保管されていた。
そのうちの蛇腹レンズのついたカメラをファビーニの父親は指さした。
「これは、祖父の代につかっていた湿板カメラだよ。なかなか鮮明で画質もいいんだ。薬剤につけて濡れたガラス板に画像を写すんだけど現像がやっかいでね。すぐ処理をしないといけないんだ。しかも劇薬で画像を定着させるんだ。なかなか危険でね。外で映すときは暗室用のテントと道具一式を持って行ったものだよ」
そう言って、ファビーニの父親は現像する暗室を見せてくれた。暗室の傍にある棚にはよくわからない薬品がたくさん並んでいた。薬品にはCDI2、NH4I、コロジオン、KCNといったラベルが貼られていた。
「今は珍しい湿板カメラで一枚、二人を撮ってあげよう」
ファビーニの父の提案で、ふたりはスタジオで寄り添うようにして並んだ。
ファビーニの父はさっき見せてくれた黒い蛇腹レンズのスタジオカメラを出してきた。カメラの後ろに黒い幕がついていて、ファビーニの父はそれを被って中からふたりを確認した。
「ファビーニはイスに座ったほうがいいね」
そう言って、ファビーニの父が撮影用の猫足の優美な椅子を持ち出してきたので、ファビーニはそれに座った。
「テオドールは、椅子の背に手を掛けて」
言われて、テオドールはその通りにする。
「はい、まばたきも我慢」
ファビーニの父は再び黒い幕を被ってファインダーをのぞいた。ふたりはじっとカメラを見つめていたが、じっとしているとなぜだか笑いたいような気持になってくる。
「はい、動かないで! もう少しだよ」
ファビーニの父が黒い幕の中から声をあげる。ふたりはくすぐったいような気持に笑いだしたくて仕方なくて身体が揺れそうになる。それを我慢した。
「はい、もう少し!」
ふたりの笑いがもう破裂寸前にまでなった時、ファビーニの父が声を掛けた。
「はい、いいよ」
はぁ、とふたりは大きな息を吐いて、顔を見合わせて大きな声で笑い出した。
「何がそんなおかしいんだい」
「なぜだかわかんないよ」
「わかんないんですけれど、おかしくて」
ふたりが腹を抱えてまた笑いだす。ファビーニの父は「若いっていいねぇ」と愉快そうに言った。
そのあと、キッチンで、ファビーニと小さな妹とともにディナーの準備の手伝いをした。
クリスマスのディナーは素敵だった。テーブルの真ん中にグリルしたチキンが置かれ、ジャガイモで作ったクヌーデル、ヴルスト、サラダに、野菜が具沢山のスープとパンが出た。
テオドールは、ファビーニの両親に、靴下と手袋のプレゼントをした。ファビーニの妹にはクマのぬいぐるみをプレゼントした。クリスティーネはすぐに気に入り、そのクマにデリアという名前を付け、今晩は一緒に寝るのだ、と言い張った。ファビーニの両親もテオドールからのプレゼントに驚き、喜び、そして感謝した。
また、テオドールとファビーニはその両親から色違いのマフラーのプレゼントをもらった。
テオドールはファビーニの家族にクリスマス集会でやった演劇の話をした。ファビーニの描いた書割りが素晴らしい出来だったこと、ファビーニがゲルマニアをやったことを知ると、両親はとても喜んだ。ファビーニははにかんだように照れて静かに笑っていた。
そのあと、家族みんなでカードをやって盛り上がり、寝る時間になったので、ファビーニとテオドールは二階の自分の部屋へ戻った。
テオドールはベッドにもぐりこんだが、なかなか寝付けなかった。しばらく、何度か寝返りをうってから、天井を見つめていた。
部屋のドアがノックされた。
起き上がり、はい、と返事をすると、寝巻姿のファビーニが入ってきた。
「まだ寝てなかった?」
ファビーニが声をひそめて聞いてくる。
「なんか興奮して眠れなくて。まだ起きてたよ」
テオドールが言う。
「ここ、座りなよ」
テオドールがベッドをズレて、ベッドサイドに手を置くと、ファビーニがそこに腰を下ろした。
「今日は、どうだった?」
ファビーニは少し伺うようにして聞いてきた。
「とても楽しかったよ。君の家族は愉快でとても素敵なひとたちだね」
テオドールが言うと、ファビーニはほっとしたらしかった。
「君にとっても素敵なクリスマスになって、よかった」
「うん、数年ぶりにとても素敵なクリスマスだったよ。母さんが死んでからこんな楽しいクリスマスは初めてかもしれない」
「そうなんだね。ずっと辛かったんだね」
ファビーニのしんみりとした言葉に、なんだかこみ上げるものがあって、テオドールは無言でただ微笑んだ。
「君に言いたいことがあって来たんだ」
「なに?」
テオドールが少し首を傾げる。
ファビーニはテオドールを見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「僕を演劇に誘ってくれてありがとう」
テオドールはびっくりする。
「ありがとうって言うのは俺の方だよ。嫌がる君を無理やりゲルマニアに仕立て上げたんだから」
ファビーニは首を横に振る。
「あんな風に、みんなのまえで堂々と何かを演じるのは初めてだったし、校長に褒められるのも初めてだったし、なにより僕自身がとても誇らしい気持ちになれたんだ。こんな気持ち、初めてだよ。君のお陰だ」
テオドールはにこりと笑う。
「君がそうなりたいと思ったからできたんだよ。俺の力じゃないよ、君自身の力だよ。君はもっと自分に自信をもったらいいよ」
ファビーニは潤んだような目でテオドールを見つめていた。何か言いたいように口を開きかけ、やめて、そして再び口を開いた。
「君はちょっと変わっているね」
「そうかな。そうかもしれない」
テオドールが明るく笑う。ファビーニもつられたように笑った。
「寝るよ。また明日ね」
ファビーニがベッドサイドから立ち上がる。
「ああ」
ファビーニが部屋を出て行き、ドアを閉めるのを見てから、テオドールはもう一度ベッドにもぐりこんだ。
今度はすぐさま眠気が靄のように覆いかぶさってきた。
数日間、テオドールはファビーニの家族と過ごし、めっきり仲良くなってから、ファビーニとともに休暇明け、ギムナジウムに戻ってきた。
再び、ギムナジウムでの日常が始まった。昼休みになると、テオドールはファビーニとニコラとマティアスとともに校舎裏、裏山沿いの池でスケートをして遊んだ。
「テオ、マフラーがファビーニとお揃いなんだね」
マティアスに言われて、テオドールは照れ笑いをした。
「ふたりともすごく似合ってるよ」
ニコラも言う。
クリスマス休暇、共に過ごした時間を思い出して、テオドールとファビーニは微笑み合った。
ある日の放課後だった。
テオドールが自習室からロッカーへ行くと、手紙が挿しこんであった。
なんだろ……。
封筒に入って封をされた丁寧な書面だった。
『放課後、用具小屋わきの池で、スケートをして待っています。ファビーニ』
そう書かれていた。
いつも、四人でスケートをするときは、裏山沿いの池だった。校庭傍の用具小屋の近くの池は、いつも人気がなかった。テオドールはそこで滑ったことがない。ファビーニは何か自分にだけ言いたいことがあるのだろうか、と思った。
ロッカーからスケート靴を出すと、テオドールは校庭の用具小屋の方へ向かった。
天気の良い午後だった。
傾きかけた陽の光がきらきらと雪面に反射している。あまり人が来ないから、足跡も所々にしかない。苦労しながら用具小屋のあたりから池へ行き、辺りを見回した。
ファビーニはまだらしかった。
先にスケートをしてようと思い、靴を履き替えると、湖面に足を乗せた。ちょっと、氷が解けているような感覚があった。
構わず、足を交互に動かし、滑りだす。だれも滑っていないらしく、氷にはエッジの痕がない。つるつるすべすべの氷だった。
おかしい……。
咄嗟にそう思った。
心臓が緊迫感にきゅっとなる。
岸辺に戻ろうと思い、足を動かした途端、足が氷を踏みぬいた。
「うわぁっ」
身体が一気に水の中に滑り落ちた。
ごふっ……。
凍えるほど冷たい水に一気に飲み込まれる。
「あうぅっ」
足掻く。
手で何かを掴もうともがく。
氷の欠片があたりを漂っているが、掴めるほどの大きさのものがない。
服を着ているので、水を吸って重く沈む。
「だれかぁっ」
水の中の声は、届かない。
水を飲んで、苦しくなる。
なんとか手で掻きあがって、顔を上げたが、すぐ沈む。
水中のものを手探るが、空回りする。
痺れるほど水が冷たい。
「たすけてぇっ」
水を飲みながら、叫ぶ。
なんとか浮き上がり、氷に手をつこうとするが、その氷すらすぐ崩れてしまう。
鼻にも目にも耳にも冷たい水が侵入してくる。
息が、できない。
苦しい。
これじゃ、死んでしまう……。
そう思った時だ。
俺は、死にたくない。
閃くように強く思った。
数か月前、ピストルの銃口をこめかみに押し当てて自殺しようとした自分は、今、強烈に思っていた。
死んでたまるか。
必死に、手で水中を藻掻いた。
「だれかぁっ」
顔をあげて、叫んだ。
氷水が口に流れ込んでくる
身体が重い。
感覚が遠くなる。
意識が鈍くなっていく。
だめだ、死にたくない。俺は、死にたくない。
「だれか、たすけてぇっ」
必死に声をはりあげた。
手を伸ばした。
池の中から這い上がろうとした。でも、力尽きてすぐ水の中に落ちる。
力がもう、入らない。
いやだ、死にたくない。
「だれかぁっ」
声の限り、水の中から叫んだ。
そのときだ。
「テオドールか!」
はっとした。
ニキアスの声だ。
彼は慌てて池のところまで駆け寄り、テオドールだとわかると、辺りを見回した。
「死ぬな!」
ニキアスが用具小屋に走って行くのが分かった。しばらくして、そこから彼が縄網を取り出してきたのを見た。
それが自分に向かって投げられた。
テオドールは渾身の力でそれに手を伸ばす。震え、かじかんだ指が、ゆっくりと網目を掴む。
「引っ張るぞ! ちゃんと捕まってろ!」
ニキアスが叫ぶ。
ゆっくりゆっくりと引き上げられながら、指が引きちぎれそうな痛さで懸命に網を掴んでいた。
数分後、テオドールを引き上げたニキアスは、ローベルト先生とアントン先生を呼びに、校舎に戻っていった。
寒さと痛さと辛さと疲れとで、その場に残されたテオドールはそのまま意識を失った。
気付くと、学校の医務室だった。テオドールが目を開くと、アントン先生とローベルト先生がのぞきこんだ。
「よかった、気付いた」
ローベルト先生がほっとしたように声をあげた。
「気分はどう? テオドール。痛いところとか、苦しいところとかない?」
アントン先生が聞いてきた。テオドールがベッドから起き上がろうとすると、制止された。
「いいよ、そのままで」
テオドールは動きを止めて、身体の様子を探る。
「大丈夫……だと、思います……」
「びっくりしたよ、ニキアスが呼びに来た時は」
ローベルト先生がテオドールのまだ冷たい手を握る。
「俺もびっくりしました」
「なんで、用具小屋の池に行ったの。あそこは氷が薄いから、みんな滑らないんだよ。知らなかった?」
テオドールははっとした。
あの手紙には、はっきりと『用具小屋のわきの池』と指定されていた。
「知りませんでした」
今更のようにテオドールは震えが立ち上ってくる。
ぐい、とローベルト先生に抱き寄せられた。
「怖い想いをしたね」
背中を撫でながら、囁かれる。はい、とテオドールは震えながら頷く。
ローベルト先生の温もりを感じながらあの手紙を書いたのはファビーニじゃない、と確信めいて思った。
同時、恐ろしいような心持ちになった。
俺はもしかしたら、殺されかけたのかもしれない。
あの手紙をもらったことを、先生方には黙っていようと思った。
医務室のドアの向こうに、心配したクラスメイトたちがいるらしかった。ざわざわと話す声が聞こえてくる。
ローベルト先生がドアを開けると、廊下に群がるように生徒たちが押しかけていた。
「テオ、大丈夫か」
「テオ、がんばったな」
「テオ、温かくしろよ」
「ほら、君たち。テオドールは大丈夫だから、戻った戻った」
ローベルト先生が手を振って、生徒たちを追い払って部屋に戻らせる。慌てたように生徒たちが散っていき、最後に、マティアスとニコラとファビーニが残った。
三人はただ黙ってテオドールを見、その姿を確認すると、ほっとしたように笑って手を振り、医務室の前を去っていった。
「なんで用具小屋わきの池に滑りに行ったんだい。人気もなかっただろうからおかしいと気付かなかった?」
アントン先生に尋ねられる。
「たまには、違うところでスケートして気分を変えてみたかったんです。おかしいと思ったんですけど……滑れると思っていたので……。滑りだしてから、やばいなって気付きました。」
テオドールはベッドの中から目だけでアントン先生を見つめながら言った。ローベルト先生が温かいぶどう酒をカップに入れて渡してきた。
テオドールは起き上がって、それを受け取り、口に運んだ。
身体の内臓がほのぼのと温まっていく気がした。
アントン先生は少し納得いかない表情をしつつも頷いた。
「ニキアスが先生に言いつけられて用具小屋にポールを取りに行かなかったら、君は死んでたんだよ」
テオドールは再び怖いような気持になる。顔色が悪いまま、頷いた。
「本当に、反省しています。おかしいと思ったときにやめるべきでした」
「彼は君を引き上げてすぐ、大急ぎで僕らを呼びに来てくれて、君を医務室に運ぶときも手伝ってくれたんだ」
「礼を言っておきます」
「そうだね」
アントン先生は頷いた。
「とりあえず、無事でよかったよ。もし君が希望するなら、一晩医務室を開けて僕も傍についているけれど、どうする?」
「いいえ、フォーラムに戻ります。大丈夫です」
テオドールはそう言い、ぶどう酒を飲んでカップを返し、しばらく医務室で休んでからフォーラムに戻った。
フォーラムでは生徒たちがテオドールを待っていた。彼は温かく迎えられ、肩や背中を叩かれて、無事を讃えられた。
テオドールはすぐさまニキアスの部屋へ行き、彼に礼を言った。
「まさかおまえがあそこで溺れてると思わなかったから、見たときは動転したけど、なんとか助けられたからよかったよ。大したことなくてよかったな」
ニキアスは屈託ない様子でそう言って笑った。
「ほんとうにありがとう。死ぬかと思ったんだ。君が助けてくれてよかった」
テオドールに真摯に言われて、ニキアスは照れたみたいに笑った。
「この学校に来たばかりの時、君に食堂でスプーンを隠す嫌がらせをされて、なんとなく君のこと嫌だなって思ってたけど、考えを改めるよ。君は俺の恩人だ」
「よせよ」
ニキアスは頭を掻きながら、うつむいた。
「あのときは、ごめんな。澄ました転入生が来たから、ちょっとからかうくらいのつもりだったんだ」
「もう気にしてないよ」
テオドールはそう言い、手を差し出した。ニキアスも笑いながらその手を握り、二人は握手した。
フォーラムに戻ると、すぐ消灯時間で、その日テオドールはファビーニに手紙のことを話せずに、ベッドについた。
池に落ちたせいか、手紙のせいか、何とも言えない恐怖にも似た不安がこびりついていて、よく眠れなかった。浅い眠りの中、気持ちの悪い夢を見て、何度も目が覚めた。
夜中、医務室でアントン先生に付き添ってもらって寝たらよかったかな、とぼんやり思った。
そう思いながら、再び浅い眠りに落ち、朝方すっきりしない気分で目が覚めた。
翌日、授業の後、昼休みにテオドールはファビーニをフォーラムに呼んだ。
「ファビーニ、実は昨日、俺は君名義でこんな手紙をもらったんだ」
「手紙?」
ファビーニは訝し気な表情をした。
「なにも書いてないけど」
テオドールはポケットに入れていた封筒を取り出した。
「これが、ロッカーに入っていたんだ。それで俺は昨日、用具小屋わきの池にスケートしに行ったんだけど」
ファビーニは封筒を受け取り、中の書面を取り出した。
しばらく目を走らせて、はっとした表情をした。
彼の表情があからさまに変わった。
「なにか知っているのか」
テオドールに訊かれ、ファビーニは書面の文面を凝視していたが、息つくようにして顔をあげた。
「僕、じゃない」
ファビーニは苦しそうな表情で言った。
「そうだよね。君じゃない。俺もそう思ってる。でも、誰かが君をダシにして、俺を殺そうとした。心当たりある?」
ファビーニのテオドールを見る表情が緊張した。
彼は恐れるようにテオドールを見つめた後、ふるふると首を横に振った。
「わからないよ」
「そうか」
テオドールは頷いて、書面を封筒に片づけた。
「このこと、先生方には話してないんだ。大騒ぎになるだろ。でももし、何か知ってたら、俺に話してほしいんだけど」
「知らないよ」
ファビーニは幾分青い顔をして、うつむき、頑なにそう言った。
「君を責めてるわけじゃないんだよ」
「わかってるよ」
ファビーニはテオドールを見て頷いた。
ファビーニの様子が、明らかにおかしいと思った。
「嫌な事訊いて、ごめんね」
テオドールが言うと、ファビーニは無言で首を横に振った。しかし、彼の顔色は悪く強張った表情はそのままだった。
その日から、ファビーニはテオドールによそよそしくなった。
テオドールはそれが不思議でならなくて、彼自身はいつもどおりファビーニに接しようとしたが、ファビーニは彼を避けた。
ある晩、テオドールはよく眠れずに何度もベッドの中で寝返りをうっていたとき、ファビーニがベッドを抜けるのに気付いた。ファビーニが部屋を抜け出してからすぐ、テオドールはその後を追った。
どうやら、トイレではないらしい。
ファビーニはカモシカのようにしなやかに夜の廊下を駆けていく。
テオドールは気付かれないように、その後を追った。階段を上り、渡り廊下を抜け、再び階段を上り、図書室の前まで来た。
用があるのは、図書室、か?
そう思ったとき、さっと身を翻して、ファビーニはその上につづく階段をのぼった。
この上は、屋根裏……。
テオドールは彼が図書室の階段先に消えたのを見つめながら思い出していた。
アントン先生が言っていた。
『入れなかったよ。鍵がかかっていたんだ。ちょっとしたときに、担任の先生に屋根裏の鍵の在り処を聞いたら、もう大分昔に紛失してわからないって言われた。そのあと鍵を新調した様子もないから、あそこはずっと人が入っていないんじゃないかな』
テオドールは意を決し、湿ってギシギシ音の鳴る階段に気を付けてのぼりながら、廊下の先にあるドアを見つめた。
明かりが漏れている。
誰か、いるんだ……。ファビーニかな。
そう思い、ゆっくりと静かにドアノブを回した。
光が床に零れ落ちる。
開いた……。
そのままそっとドアを開けようとして、動きを止めた。
中から聞こえてくるのは、忙しない息の音と、掠れた吐息めいた声。
あの、娼館の廊下で聞こえたものと同じだ。
しゃがみこみ、開けたドアの隙間から顔を近づけて、中をのぞきこむ。
揺れるロウソクの明かりの中、何かが動いている。
もう少し顔を近づける。
頼りない光のなか、二つの白い裸体が折り重なるように波打っていた。
「はっ」
息を飲んだ瞬間、下になっていた男が顔をあげた。
ファビーニだ。
目が、あった。
とろけるように微熱めいたこぼれそうに潤んだ青い目だった。
「どうした」
動きが止まる。
「なんでもないよ」
ファビーニの声がした。
テオドールは声が出ないように震える手で口を押え、ガクガクする関節を引きずるように動かしながら、ゆっくりと這うようにしてその場を移動し、息をひめて階段を降り、数段は足が絡んで文字通り転げ落ちた。ひどく痛かったけれど、声を抑え、跳ねるようにして逃げ戻った。
フォーラムのベッドに飛び込んでも、身体中の震えがおさまらず、ブランケットを身体に何重にも巻き付けた。
寒さなのか、なんなのかわからない。
とにかく、震えが止まらなかった。
池に落ちた時ですら、こんなにもおののきを感じなかった。
ファビーニの表情や、声や、息の音が、脳裏に焼き付いていた。
ふいに、外出許可でファビーニと街に出た時、されたキスを思い出した。
身体が熱くなった。
ろうそくの光で、相手はよくわからなかった。でも、身体の大きさから上級生のような気がした。
ファビーニは違うんだ。
そう思った感覚が再び押し寄せてきた。
ファビーニが……!
テオドールは幾度となく、ロウソクの火に浮かんだファビーニの身体や動きや声を思い出し、悶々とした。
なんで……あんなことを……!
ファビーニは上級生が好きなのか?
でも、俺たちといる方がいいって言ってた。
じゃ、なんで……!
思考は「なぜ?」と何度も問うことしかできない。堂々巡りだった。出すべき答えがテオドールには見つからない。
なんでなんだよ……!
ベッドの中で頭を抱えた。
なんで……!
頭を掻きむしる。
どうしてだよ……!
ベッドの中でのたうちまわる。そうするうちに、眠くなってきて、いつの間にか寝ていたらしい。
朝になっていた。
ファビーニは早々に起きてベッドメイキングと朝の準備をしていた。
気まずい気がしてテオドールは彼に声を掛けられなかった。ファビーニもテオドールを避けている様子があった。
朝食のあと、土曜日だったので、外出許可を得た生徒たちは街へ繰り出していった。気付くと、ファビーニもいなくなっていた。
「街に行ったの」
テオドールがニコラに訊くと、ニコラは不思議そうな顔をした。
「聞いてないの?」
「え?」
「お母さんの具合が悪くて、メルツィヒに土日で帰るんだって」
クリスマスに会ったファビーニにそっくりの美しい母親を思い出した。
「そうなんだ」
テオドールは呟いた。
ファビーニが一言も言わずに行ってしまったのが気になった。
その土日は、自習をしたり読書をしたり、ニコラとマティアスとともにスケートをしたりして過ごした。
日曜日の夕方、ファビーニはギムナジウムに帰ってきた。彼は誰とも口を利かず、人目を憚っているようだった。テオドールが話をしようと傍に行くと、あからさまに拒絶を示し、逃げられた。顔色も悪かった。
お母さんの具合はそんなに悪いんだろうか、とテオドールは心配になった。ファビーニに様子を聞きたかったが、彼は取り付く島がなかった。
日曜日の晩も、ファビーニはベッドを抜け出した。テオドールはそれを気配だけで察知した。でも、後を追わなかった。これ以上自分が知ってしまったら、逆にファビーニを追い込むような気がした。
翌朝だった。
春めいた陽射しが光る、気持ちのいい青空だった。
高等科五年のヴァルターが雪の中、全裸の遺体で発見された。
早朝、見つけたのは校務員だった。彼は暮らしている離れの小屋から校長室に持って行く新聞を、校舎の玄関先ポストに取りに行く途中だった。
北棟わきを通ったら、人が倒れていたのに気づき、慌てて通報したという。
すでにヴァルターは事切れていた。
この件で、学校中が朝から大騒ぎになった。授業は通常通り始められたが、ほとんどの生徒が集中できなかった。
警察が来て、校舎内や外を色々調べていた。生徒たちも聞き取りの対象になった。高等科五年の生徒は全員一人一人部屋に呼び出され、担任の先生同伴で聴取を受けるという。
「僕たちも受けるのかな」
マティアスがちょっと浮き浮きした様子で言う。
「おまえ、聞き取りなんて楽しくないんだからな。犯人に仕立て上げられるかもしれないんだぞ」
ニコラが諫めている。
ファビーニは青ざめて無言だった。
そのまま授業は通常通りに続けられ、警察が学校に忙しなく出入りする中、週末になった。
テオドールはファビーニをローベルト先生の舎監室に誘った。
「行かないよ」
ファビーニはそっけなかった。ここしばらく、ファビーニはずっとこんな調子だった。
テオドールはカマを掛けるつもりで言った。
「何か気になる事でもあるのか」
ファビーニはきっと眦を向けると、唇をかみしめた。
そんな表情を向けられて、テオドールは彼の母親のことを思い出した。
「お母さんの容体はどうなの?」
「悪くないよ」
一瞬間があったあと、不貞腐れた調子で突き放すようにファビーニは返した。
その口調にテオドールは違和感を覚える。
「ファビーニ、ずっと君、おかしいよ。俺たちのことを避けてるし」
「おかしくなんかないよ」
そういったとき、ファビーニは探るような視線を向けてきた。
互いに屋根裏での「あのこと」を告げるのを迷い、憚っていた。
見なかったふりをしなければいけない、とテオドールは決するように思った。
でもあの時、確実に、ファビーニの目はテオドールを見ていた。
睨むような視線の応酬があったあと、テオドールは言った。
「ローベルト先生のところで、お茶飲もうぜ。いい気分転換になるよ。先生たちに訊けば、ヴァルターのことも警察がどこまで調査しているかとか、わかるかもしれないし」
ファビーニは多少とも興味をひかれたらしく、しばらく迷っていた。
「わかった。行くよ」
彼は強い口調でそう言った。
夕食の後、ふたりはローベルト先生の舎監室を訪れた。そこにはアントン先生もいた。テオドールとファビーニは紅茶をもらい、話題は自然、ヴァルターのことになった。
「どうやら、図書室の窓から落ちたらしい」
アントン先生が言った。
「じゃ、自殺?」
テオドールが言うと、アントン先生は首を横に振った。
「他殺らしい」
「なんで」
「死因は落下によるものじゃないんだ。遺体からは毒物が検出されている。青酸カリだ。しかも自殺なら冬の最中遺体が裸なのはおかしい」
そう言ってアントン先生は、手元の紙に、青酸カリの化学式をさらさらっと書いて線を引いた。
「ヴァルターが他殺で青酸カリ? じゃ、化学室から誰かが持ち出したの?」
テオドールが言うと、ローベルト先生が首を横に振った。
「化学室の青酸カリは厳重に鍵をかけて管理されていて、使用量も毎回メモをとっているそうだ。確認したところ、量は減っていなかったそうだよ」
テオドールが首を傾げる。
「じゃ、どこから持ってきたものなんだろう」
「工場じゃメッキに使用したりするし、昆虫標本でも色が抜けにくくなるって言って、アマチュアでも使用する人はいる。手にいれることはできなくはない」
アントン先生はそう言って顎を撫でた。何か考えているらしかった。
ローベルト先生が口を開く。
「ヴァルターの残された荷物から興味深いものがみつかったよ」
「なんですか」
「屋根裏の鍵だ」
ローベルト先生がそう言ったとき、ファビーニはかたかたと器の音を立てて紅茶のカップを置き、立ちあがった。
「僕、そろそろ戻ります」
「え、ファビーニ?」
テオドールはそう言ってから、屋根裏での彼の行為を思い出した。彼にとって屋根裏は忌まわしい場所なのだ。
話題にすべきではなかった。
しまった、と思った。
「嫌なら、話を変えよう」
テオドールが慌てて言ったけれど、ファビーニはきかなかった。
「失礼」
彼はつっけんどんにそう言うと、舎監室を逃げるように出て行った。
しばらく、部屋に沈黙が落ちた。
「ファビーニはヴァルターに気に入られていたから、ショックなんだろう」
ローベルト先生が言った。
「あんな死に方したら、ファビーニも嫌だろうな」
アントン先生も頷いた。
テオドールはヴァルターの荷物からみつかったという屋根裏の鍵が気になった。
「それで、屋根裏へは警察が調査に入ったんですか」
「まだなんだ。今日、ヴァルターの荷物を家族に渡そうと整理していて、やけに古い鍵がロッカーに入っていたから、おかしいなと思ってさ。校務員に訊いたら、長く紛失していた屋根裏の鍵だって言うから。ヴァルターは校舎内のどこかでこのカギを見つけたのかもしれないな」
そう言って、ローベルト先生はポケットからさび付いた古い鍵を取り出した。
テオドールは、ファビーニがあの部屋で何をしていたのか、どう過ごしていたのか、確認しなければならないと思った。
そして、それを警察なんかよりも先に、自分が知らなければならないと思った。
「今、見に行きませんか」
テオドールが言うと、ローベルト先生とアントン先生は渋い表情をした。
「今? あとで警察同伴で見てもらった方がいいよ。屋根裏は図書室の上だ。もしかしたら、ヴァルターの死について何かわかるかもしれない」
アントン先生が言う。
「そうだな。今、三人で見に行くのは興味本位の野次馬根性みたいでよくないかもな」
ローベルト先生も気が進まない様子だった。
テオドールはどうしても、屋根裏の部屋を見たかった。
そのためには切り札を使ってもいいと思った。
「俺、見たんです」
「え?」
テオドールの言葉に、アントン先生とローベルト先生が目をあげる。
「夜中にベッドを抜け出して屋根裏に行ったことがあったんです。そしたら、明かりがついていて。ドアの隙間からのぞいたら、誰かがいました。多分、事件に関係があるかもしれない。学校の名誉を傷つけるものかもしれません。警察より先に確認したほうがいいと思います」
テオドールの何か知っている風な口ぶりに、ローベルト先生とアントン先生は察するものがあったらしく、目配せしあい、頷いた。
「わかった。行こう」
ローベルト先生が立ち上がった。
三人はランタンの明かりを持って、舎監室を出、北棟に向かった。
階段を降り、渡り廊下を通って、再び階段を上る。図書室の前を通り抜け、暗く湿っぽい屋根裏への階段をぎしぎしと音を軋ませて上りだした。
廊下を歩き、ドアの前で三人は足を止める。ドアノブに明かりを照らす。鍵を挿しこむと鍵穴にぴったりはまった。ローベルト先生が回すと、かちりと音を立てて鍵が開いた。
三人は明かりを照らしながら部屋に入る。
そこは、長年放置された部屋などではなく、まさに誰かがいたらしい秘密の部屋めいた雰囲気が漂っていた。
床には生徒用のブランケットが敷かれ、壁一面に赤い布が貼られ、埃の積もったテーブルの上にはカップやグラス、コニャックの空き瓶、灰の積もった煙草の灰皿や嗅ぎ煙草の缶やクッキーの包装が置かれていた。部屋は甘くすえたような匂いがした。
ファビーニは、ここにいた。
テオドールはそう思った。
この部屋には、妖しいような熱気がまだ残っている気がした。
「これは……」
ローベルト先生は息を飲むようにして明かりを持ち上げ部屋を見回して声をだした。
「ヴァルターは夜な夜なここで遊んでいたのか」
ローベルト先生も辺りを見回しながら呟く。
アントン先生は、テーブルの上に視線を走らせ、散乱しているお菓子の包装を見ている。
「これは、一人じゃないな」
言いながら、アントン先生はテーブルの上のものを探ろうと手を伸ばす。
そのとき、テオドールの脳裏を稲妻めいて記憶のピースが閃いた。
屋根裏をのぞいたときに合ってしまったファビーニの青い目。
ヴァルターの自分に対する脅迫。
自分がもらった手紙。
その手紙を見たときのファビーニの表情。
ファビーニの家族……父親、母親、小さな妹。
ファビーニの家。
写真館で見たスタジオ。
暗室の横にあった薬品棚。
KCN、の文字。
そして、さっき舎監室でアントン先生がメモ帳に手書きした化学式。
「先生、触らないで!」
テオドールは叫んだ。
アントン先生はびっくりしたように手を止めてテオドールを見た。
ローベルト先生が不安げに眉間を寄せる。
「どうした、テオ」
テオドールはゆっくりとローベルト先生とアントン先生を見る。
息を吸い、口を開いた。
「今、わかりました。これは俺の考えですけど、先生方にすべて話します」
そして、テオドールはローベルト先生とアントン先生に今まで自分の身に起こったこと、知っていることの全てを話した。その秘密の檻のような屋根裏部屋で。
翌日の夕方、テオドールは話したいことがあるから、と乗り気ではないファビーニを無理やり連れだした。ファビーニはテオドールが屋根裏に向かうことに気付くと、嫌がった。
「ファビーニ、君と俺とヴァルターのことだ。君ときちんと話したい」
テオドールがまっすぐにファビーニの目を見て言うと、ファビーニは静かに見つめ返してきた。そして、観念したみたいにうなだれて、テオドールの後についてきた。
屋根裏には明かりがついていて、アントン先生とローベルト先生がいた。ファビーニはそれに少し驚いたらしかった。
「こんなところに連れてきて、一体なんなんだい?」
皮肉っぽく笑ってファビーニはテーブルの傍へ行き、三人を振り返った。いつもと違う、少し落ち着かない様子だった。
テオドールは小さく息を吸い、口を開いた。
「ヴァルターを殺したのは、ファビーニ、君だね」
テオドールが切り出すと、ファビーニは目を大きく見開き、視線を下方へ移し、ゆっくりとうつむいた。
「なんで、そんなことを言うの」
そう言ったファビーニの唇が震えていた。テオドールは胸が張り裂けそうに痛むのを堪えながら、口を開く。
「君はヴァルターと関係を持っていた。でも、君が俺と仲良くなるにつれ、ヴァルターは俺と離れるように告げたんだ」
そこまで言って、テオドールは抉られるような胸の痛みを感じながら、ファビーニを見た。
こんなこと、きっと、ファビーニは聞きたくない。
でも、言わなくちゃいけない。
その葛藤に胸が軋んだ。
ファビーニは真っ青な顔をして苦しそうに眉根をひそめていた。
「でも、君はそうしなかった。ヴァルターは君と仲良くなる俺に嫉妬した。俺に君の名前で手紙を書き、池に沈めて殺そうとすらした。君はそれを知り、俺から離れようとした。でも、できなかった」
テオドールは声が力を失っていくのを感じた。胸から血が溢れるかと思うほど、じくじく疼痛がする。
「多分、ヴァルターは俺と縁を切らなければ、俺を殺すと君を脅したんだろう。ファビーニ、君は悩んだ末、自宅の写真館にあった薬品の棚から青酸カリを持ち出し、何らかの方法でヴァルターに摂取させ、彼を殺した」
掠れた声でそう言ってからテオドールは唇を咬んでうつむいた。
しばらく唇を噛みしめて震えていた。
言ってしまった。
友人を、殺人犯にしてしまった。
なんてことを、俺は言ったんだ。一番の友人に。
テオドールは突かれたように顔をあげた。「でも、そんなの嘘だ。嘘だと言ってくれ、ファビーニ」
ファビーニは蒼白になり唇を白くなるほど噛みしめて黙り込んでテオドールを見つめていた。
「ファビーニ」
テオドールが呼ぶと、ファビーニは壊れそうな表情で微笑んだ。
「その通りだ、テオ」
テオドールが息を飲む。
ファビーニは続けた。
「僕はずっとヴァルターをはじめ上級生と関係をここでもっていた。でも、一番しつこかったのはヴァルターだ。彼は僕が君と仲良くなると『あいつを殺しておまえも殺してやる』と言った」
そこまで言い、ファビーニはポケットから煙草を取り出すと、火をつけて吸った。
「最初、僕は本気にしてなかったんだ。単なる脅しだと思ってた。でも、池に君が落ちて死にかけたとき、僕の名前で君が受け取った手紙を見て知ったんだ。あれは、ヴァルターの筆跡だった。彼は本気だって」
そう言いながら、腕を組んで煙草を吸った。
「僕は君とは距離を置こうとした。でも、できなかったよ。楽しかったんだ。ヴァルターはあらゆる手段をつかってでも君を殺すと僕に迫った。僕はヴァルターとの関係を続けるからやめてほしいと頼んだんだ。そんなとき、君に僕とヴァルターの関係を知られた。僕は恥辱に震え、ヴァルターを殺すしかないと思ったよ。そして、実行した」
そう言って、ファビーニは煙草の火を灰皿に押し付けて、嗅ぎ煙草の缶を手に取った。
「ヴァルターはいつもこれを愛用していたんだ」
そう言うとふたを開け、手の甲・反らした親指の窪につまんだ刻み煙草をのせた。彼は形のいい鼻を近づけて、それを吸おうとした。
その瞬間だった。
「だめだ!」
アントン先生が飛び出して、ファビーニの手を振り払い、刻み煙草を払い落とした。
勢いファビーニが床に倒れ、金髪のかかった顔を恨めし気に向けて睨んでくる。
「その嗅ぎ煙草だ。多分青酸カリが入ってる」
そう言って、アントン先生はテーブルの上に置かれた嗅ぎ煙草の缶に明かりを近づけて手に取りしげしげと見つめた。
「わずかな粉末が交ってる」
アントン先生はファビーニを見た。
「ヴァルターを青酸カリで殺して、窓から投げ捨てたのか。ファビーニ」
アントン先生の声に、ファビーニは両手で顔を覆ってうつむき、絶望したようにそっと頷いた。
「ローベルト、警察に連絡だ」
アントン先生がローベルト先生に声をかける。ローベルト先生はアントン先生に促されて、初めて気付いたように頷いた。
ファビーニは嘆くように顔を覆ってうずくまったまま、動かなかった。
テオドールは彼の傍へ行った。
「ファビーニ」
跪き、その手を取った。
手はひどく冷たかった。
両手でその手を挟んだ。
少しでも温もってほしいと思った。
「君は僕を想ってしてくれたことなんだよね」
ファビーニはテオドールを見つめた。
青い目が切なげに揺れる。
潤んだ目から涙がこぼれて幾筋も頬を伝った。
「ごめん。僕、間違っていたかもしれない」
「君が守ってくれたんだ。ありがとう」
テオドールはファビーニの肩を抱き寄せ、ぎゅと力を込めた。
ファビーニは肩口に額を寄せ、声をあげて泣きだした。
警察が到着するまでそのまま彼はテオドールに肩を抱かれてずっと泣きじゃくっていた。
ファビーニがギムナジウムを放校になって、一か月がたった。最初、戸惑っていたクラスメイトも日がたつにつれファビーニの不在に慣れ、そして日常がもどっていった。
でも、テオドールの心は未だファビーニと過ごした時間を忘れられずにいた。彼と過ごした時間は全てにおいて貴重だった。彼の家の写真館で彼と撮影した湿板写真をとりだして見ては、ちょっと泣いた。
写真の中の彼は穏やかに微笑していた。
テオドールは眠れない夜を過ごし、アントン先生に薬を処方してもらっていた。
ニコラとマティアスはテオドールの心中を察し、つかず離れず傍にいてくれた。それがありがたかった。
季節は春になっていた。
花が咲きだし、暖かくなり、池の水が溶け始め、生き物たちが動きだし、生徒たちは事件のことを次第に忘れていった。
そんなある日のことだった。
夕食の前に、名前を呼びながら食堂監督の生徒が郵便を配っていた。
「テオドール、テオドール・ケムナ」
名前を呼ばれ、テオドールは一通の封筒を受け取った。家からの手紙かと思ってうんざりしていたら、それはファビーニからのものだった。
夕食を済ませて、フォーラムに戻り、人気の少ない処でその封筒を開けた。
一枚の絵がでてきた。
それは、まぎれもない、ファビーニが描いたテオドールの横顔だった。
裏には、流れるようなファビーニの文字が書かれていた。
「『メモリア(思い出)』君の横顔が好きだった」
瞬間、写真を撮った時に見合わせたファビーニの笑顔が見えた気がした。
ぐっと、テオドールはこみ上げてくるものがあって、堪えた。
フォーラムの片隅では生徒たちがふざけて騒いでいた。
窓の外に目をやると、夜空に星灯がちらついていた。
ローベルト先生の舎監室でカードをやった帰りに、ファビーニと話したことを思い出す。
『そのものが消滅していても、年月を経て光が届くって、希望だと思わないか?』
今、自分は希望を見ている、と思った。
もう一度、ファビーニが描いた自分の横顔に目を落とす。
とても優しく意思漲る凛とした眼差しをしていた。
こんな風に、彼は見ていたのか。
驚くような気持がした。
夜空を見上げる。
そのままテオドールはいつまでも星の光を見つめていた。
了
参考文献・資料
『飛ぶ教室』 エーリヒ・ケストナー 岩波少年文庫
『寄宿生テルレスの混乱』 ムージル 光文社文庫
『車輪の下で』 ヘッセ 光文社文庫
『トーマの心臓』 萩尾望都 小学館文庫
『知と愛』 ヘッセ 新潮文庫
『発明の歴史カメラ』 鈴木八郎 発明協会
『ドイツ・ギムジウム200年史』M.クラウル ミネルヴァ書房
『写真の歴史に学ぶ未来への物語』 是松忍 講談社エディトリアル
『銀塩写真』 丹野清志 ナツメ社
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