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第2章、悪夢と狂気の中で

47、フェニキア文字とヘブライ文字(2)

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私はニコラス先生から手渡された本の最初のページを開いた。左側に大きな牛の絵が描いてある。写本のように挿絵に色がついているのではなく、黒いペンで簡単に描かれた絵である。

「これは牛の絵ですね」
「その通り。フェニキア文字、ヘブライ文字でアレフは雄牛という意味である。紀元前の地中海世界では雄牛は財産として大切に扱われ、ギリシャ神話では雄牛が出てくる話がいくつもある」
「ゼウスが雄牛に姿を変えたり、牛の頭を持ったミノタウロスという怪物が出てきたり・・・」

子供用に書かれたギリシャ神話の本の内容を思い出した。少し前の時代なら子供がギリシャ神話の本を手にすることなどなかったと思われるが、印刷された安い本が出回るようになり、修道院の図書館にも置いてあった。

「でも、ギリシャ神話というのはあれは全部作り話ですよね。神が雄牛に変身したり、牛の頭を持った化け物が出て来るというのはあり得ないですから」
「あり得ない話であるが、地中海世界では長い間牛は神聖視されていた。だからこそギリシャ神話という形でいくつもの物語が残り、そしてフェニキア文字の最初の文字アレフは牛を表現している」
「フェニキア文字のアレフはアルファベットのAを横に倒して真ん中の線が飛び出たような形をしています。でもヘブライ文字のアレフはフェニキア文字のアレフとはあまり似ていないし、雄牛の形にも見えません」
「文字というのは使われる中で次々と形を変えていく。ヘブライ文字やアラビア文字、それから私達が使っているアルファベットも文字の形を見てフェニキア文字での形や意味を想像するのは難しい。だが、フェニキア文字とヘブライ文字を並べて比べれば、その文字がどのように生まれて変化したかがよくわかる」

私は雄牛の絵の横にあるフェニキア文字のアレフとヘブライ文字のアレフを指でなぞってみた。書き順がわかるように文字の横に小さな字で数字と矢印が書いてある。

「子供の時の私もそうやって字をなぞって覚えた。そこに書いてあるヘブライ文字は線文字と言って、活字体で使われる飾り文字とは少し違っている。5歳の子供でも簡単に書けるように線文字でお手本を書き、書き順も書いて自分が仕事で忙しい時は私が1人で勉強できるように工夫した教科書を作ってくれた。叔父は多くを語る人ではなかった。だが私はその本で多くのことを学んだ」

最初のページの雄牛の絵の部分にはいくつもの染みがついていた。ニコラス先生は子供の時に泣きながらこの本のページをめくり、絵の上に涙が零れ落ちた。それでも何度も何度も指で字をなぞり、次第に心は落ち着き、涙も乾いていった。この手作りの本が先生の悲しみをしっかり受け止めていた。






「ベートという文字は家という意味がある。簡単ではあるが、その絵は家を表している」
「フェニキア文字のベートは帆を張った小さな船のようですね」
「なるほど、そういうことか。そうか、わかったぞ!」

ニコラス先生の顔が急に輝いた。

「どうしたのですか?」
「子供の時の私は、フェニキア文字のベートは家を意味しているのになぜこんな形をしているのか不思議だったが、ミゲル、君の言葉を聞いてやっとわかった。フェニキア人は交易の民だった。船で地中海に乗り出し新しい街へとたどり着いた。フェニキア人にとって船は交通手段になっているだけでなく、生活の場でもあり、立派な船は代々続く財産にもなった。もちろん地上の家も大切な財産だが、船も同じように大切にされ、その形が文字になったに違いない」
「そう言われて見れば、ヘブライ文字のベートも船に人が乗っているようにも見えますね。でもヘブライ文字のところにはベートの横にもう1つ文字がありヴェートと書いてあります」
「ヴェートはフェニキア文字にはなく、ヘブライ文字にだけある。ベートに似ているが、この文字はbではなくvの発音をする」
「フェニキア文字にはなく、ヘブライ文字にだけある文字があるのですね」

私はフェニキア文字のベートをなぞった。そこに描いてあるのは小さな家だったが、私は海に浮かぶたくさんの船を思い浮かべた。もちろん私はこの時まで海を見たことは1度もなかった。でも前にニコラス先生に案内された図書館の上にある秘密の部屋には本だけでなくたくさんの絵や彫像もごちゃ混ぜに置いてあった。カルロス先生が異端審問官に貴重な本を没収されないようにと考えて、わざと整理をしないでいろいろな年代のものを集めて置いているらしい。私はフェリペやアルバロと一緒に秘密の部屋に案内され、そこに置いてある絵もみせてもらった。その中には海や船を描いたものもたくさんあった。芸術的に価値ある絵とは思えなかったが、それでも子供が海や船について理解するには十分な絵だった。青い海とたくさんの小さな白い船が思い浮かんだ。

「世界は私達が考えているよりも遥かに大きく、そして長い歴史を持っている。私はフェニキア文字やヘブライ文字を通じてそのことを君に伝えたい」

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