上 下
45 / 49
第2章、悪夢と狂気の中で

45、人間ではなくロバとだけ話せばいい

しおりを挟む
「私はフアンを懺悔室に連れて行き、体を固定して鞭で打った」
「どうしてそんなことしたのですか!」

 カルロス先生の言葉に孤児院のアタガルト先生は驚いていた。

「フアンはまだ5歳です。彼は足が不自由で他の子供のように走ることはできない、それに体もかなり小さい子です。それをなぜ・・・」
「フアンを自由にしゃべらせるのは危険だ。だからこう言いながら鞭で打った。人間ではなくロバとだけ話せばいい」
「人間ではなくロバとだけ話せばいい・・・カルロス院長、本気でそんなこと言ったのですか?」
「私は本気だ。アタガルトよ。孤児院の院長であるそなたに命じる。フアンは孤児院の個室に入れ、他の子供とは一切話をさせてはいけない」
「それはかなり厳しいのでは・・・」
「無理ではない。他の子供と話をするようなら食事の時間などは1人で食べるようにすればよい。仕事や勉強も他の子とは別にする。ニコラス医師よ。今後フアンに勉強を教えることを禁ずる」
「他の子と話すことも勉強することも禁じられて、フアンは何をすればいいのですか?」
「馬やロバなど家畜の世話だけさせればよい。今家畜の世話をしている村人のところに毎日行かせて世話する方法だけ教えればよい。フアンはロバが大好きだ。家畜の世話がうまくできれば足が不自由でしゃべれなくても農家に引き取ってもらえる。アタガルトよ。フアンが他の者としゃべっていないか厳しく見張り、すぐに私に報告してくれ。家畜の世話をする村人にも話しておく。フアンに対しては言葉を使わずに、身振りだけで仕事を教えて欲しいと」
「なぜそこまで・・・」
「それからニコラス医師よ。孤児院の子に勉強を教えるのはいいが、スペイン語の読み書きや計算だけにしてくれ。ラテン語などは孤児には教えなくてよい」
「でも、フェリペなどは・・・」
「フェリペは例外だ。彼はここに来た時に7歳になっていて、それまでにかなり学んでいた。だが今孤児院にいる子は物心ついた時からずっとここにいる。無理に学問などさせず、必要なことだけ教えればいい」
「わかりました」
「アタガルトよ。夜遅くに呼び出してすまなかった。フアンはしばらくは病院内で暮らすが、その後はそなたに世話を任せる。私の言ったことをよく覚えていてくれ」
「かしこまりました」

 ドアの開く音が聞こえた。孤児院のアタガルト先生が出て行ったようだ。










「さて、2人きりになった。ニコラスよ。そなたは私に言いたいことがたくさんあるようだ」
「フアンの体を見て驚いた。5歳の子供が罰として鞭で打たれる傷ではなかった。カルロス院長、何があったのですか?どうしてあれほど酷く・・・」
「フアンは私の子だ。どうしようと私の勝手だ!」
「カルロス院長!」

 ニコラス先生の大きな声が響いた。

「すまぬ、つい大声を出してしまった。今の話を他の者に聞かれては困る」
「私も気を付けます。ですが、フアンのあの傷は黙ってはいられません」
「人間ではなくロバとだけ話せばいい、そう言いながら何度も鞭打った。最初フアンは泣きながら謝っていたが、やがてぐったりしてきた。私はそれでも鞭で打ち続け、やがてフアンは意識を失った」
「あなたは確か、人の痛みが自分の痛みとして感じてしまうのでは・・・だから異端者の処刑を目の前で見て薬を大量に飲まずにはいられなかった・・・」
「そしてフアンが生まれた。あの子は神が私を罰するために与えた子だ」
「フアンがどのようないきさつで生まれたにしろ、子供に罪はありません。それをあんなに酷く鞭で打つとは・・・」
「フアンは危険な子だ。好き勝手にしゃべらせれば何を言い出すかわからない。この修道院には密告者がいる。フアンを自由にしゃべらせてはいけない」
「でもだからと言って・・・」
「フアンはロバのビエホーが大好きだ。毎日ロバの所に行っていろいろ話しかけていた。人間は醜い。それぞれが神について都合のいいように解釈し、都合の悪い者は容赦なく抹殺する。フアンは不思議な力を持っている。だがこのまま彼の力が増し、自由に見たことをしゃべっていればすぐに密告されて殺される。人間はいつ裏切るかわからない。だが、馬やロバは決して裏切ることはない。言葉を失い、ただ馬やロバを友として生きれば、あの子は幸せに生きられる・・・だから・・・」

 カルロス先生のすすり泣く声が聞こえた。

「最初はただ鞭で脅すつもりだった。今はまだ何も考えずにしゃべっている子供に対して、しゃべっていいことと悪いことの区別がつくようになるまで、なるべくしゃべらないようにと言うつもりだった。だが、泣き叫ぶフアンの姿を見て私の何かが変わった。これは神に与えられた正しい使命だと自分に言い聞かせ、夢中になって鞭を振っていた。不思議なことに自分の体に痛みは全く感じなく、それどころか今までにない快楽と幸福感に包まれていた。私は我が子を鞭で打ちながら、神の使命を果たし、神と一体になっているのを感じた。ニコラスよ、医者としてのそなたの意見を聞きたい。私は気が狂っているのか?それとも聖人と同じように神に選ばれた特別な体験をしているのか」
「私は拷問を受け、気が狂ってしまった者の手当てをしたことが何度かあります。拷問で完全に気が狂ってしまえば、もう理性も崩壊して言うことは支離滅裂になります。あなたの話は支離滅裂ではないし、聖人のように奇跡を体験したわけではありません。ただ今のあなたは精神が酷く弱り、正しい判断ができなくなっています。医者として忠告します。今のあなたはフアンやミゲルに近付くのは危険です。フアンは孤児院のアタガルトに任せて、しばらくはあなたの言うように家畜の世話だけをさせるのがよいでしょう。ミゲルの教育もしばらくは私に任せてください。あなたは修道院長の仕事だけをしてください。夜眠れないのであれば薬を飲み、修道士として規則正しい生活をするのです。そうやってまずはあなたの精神を回復させてください。それからいろいろなことを考えていきましょう」
「そなたのいうことはいつも正しい・・・」
「私は医者です。医者として人間の体と精神について学びました。あなたの精神は今ひどく傷ついています。このままでは正常な判断はできなくなります」
「私はフアンもミゲルも愛している・・・どちらも大切な我が子だ。決して失いたくない・・・」
「わかっています。あなたがどれだけフアンやミゲルだけでなくここにいる全ての者を愛しているか、私にはよくわかります。あなたは聖人ではありません。でもこの修道院には必要な人です。だからどうか弱った精神を回復させてください」
「そなたがいてくれてよかった」


しおりを挟む

処理中です...