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第1章 修道院での子供時代

19、シチリアの神の恵み(1)

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「カルロス院長、大変です!大発見です!」

学習室でカルロス先生に勉強を教わっている時に突然ニコラス先生が入って来て大声で話した。ニコラス先生は胸に青い大きな物を両手で大事そうに抱えていた。

「なんだね、騒々しい。話があるなら落ち着いて話してくれ」
「いえ、興奮せずにはいられません。こちらに来て見てください」
「わかった。ミゲルはいつものように自分で勉強していなさい」
「はい、カルロス先生」

2人の先生は私から少し離れた席に座り、ニコラス先生は机の上に持っていた青いものを置いた。分厚い本のようであるが、表紙はただ青い布が貼られているだけで豪華な写本に見られるようなミニチュア絵などは描いてない。

「この本は?」
「初代修道院長、修道士ニコラが書いたものと思われます」
「なぜそれがわかる?」
「私はこの本の最初と最後の部分を少しだけ読んでみました。シチリアで30年暮らした後ここへ来たのは修道士ニコラの他にはいません」
「修道士ニコラはたくさんの手記や修道院の日誌を残している。それらと似たようなものではないのか?」
「いいえ、手記などと違いこの本は手書きですが字の大きさや字体をそろえて書かれ、何よりもきちんと製本されています。深い青色の布地を使い、金でタイトルが刻まれているのです。ただの手記にそこまで手を加えるでしょうか?」
「もしこれが本当に修道士ニコラが書いた本だとしたら・・・」
「はい、大発見です」
「そのような本は心して読まなければならない。私は今から手を清め、息を整えてから戻ってくる。しばらく待っていてくれ」
「わかりました」

カルロス先生は部屋を出ていった。ニコラス先生は私の机のすぐそばに来た。

「ミゲル、君もあの本に興味があるか?」
「もちろんです!」
「ならばこの席でいつものように黙って私たちの話を聞いているとよい。ところであの本を発見したのは私ではない、フェリペだ。あの子は本当に勘がよい」
「フェリペが発見したのですか?」
「カルロス院長が戻って来る。続きはまた後で話す」

ニコラス先生は本が置いてある席に戻った。



カルロス先生が戻って来て席に座った。先生は本に触れることもなく、しばらくの間、本を上からじっと眺めていた。

「間違いなくこの本は初代修道院長、修道士ニコラが書いたものだ」
「カルロス院長もそう思われますか?長い間探し求めていた幻の本がついに発見されたのです」
「そして大発見の手柄を立てたのはそなたではなくそなたの助手だった」
「は・・・?」
「そなたは苦労して勘のいい助手を手に入れ、本の山を探検し、偶然助手が幻の本を発見した。そんなところか」
「フェリペのことですか?」
「他に誰がいる?」
「おっしゃる通りです。この本を見つけたのは私ではなくフェリペです。私が何年かかっても見つけられなかった本を彼は3日で見つけてしまいました」
「私も何年も探していたが見つけることはできなかった」
「カルロス院長のような方でも見つけられなかったのですか?」
「あの場所は異教徒の本も多数置かれている。いくら精神を集中させてもそうした本、それから私が持ち込んだものでもあるが、下手な画家が描いた下手な絵などに邪魔されて本当に必要な本を見つけることができなかった」
「フェリペは今年13歳、まだまだ子供の純粋な感性を持っています。だからこそこの本を見つけることができたのでしょう」
「前置きはこれぐらいでいい。幻の本を読んでみよう」



カルロス先生は本の表紙をめくり、声を出して読み始めた。

「神は人間に言葉を与えた。言葉によって我々人間は他の人間に自分の意志を伝え、協力して働くことができるようになった。また文字を知ることで、遠い時代のこと、見たことのない景色についてもまるで今目の前にあるかのように生き生きと思い浮かべることができるようになった。神は人間に言葉を与え、人間を人間にした」

カルロス先生の声はミサの時と同じでよく響いた。ラテン語で書かれた本の最初の部分はどこかで聞いたことのあるような言葉であった。

「私はシチリアに来て神の恵みという言葉の本当の意味を知った。シチリアの青い海は太陽の光を受けてより美しく輝く。空はどこまでも青く澄みわたる。私はシチリアの海の美しさをどう表現したらいいか、その真実の言葉を知らない。海を見たことがない者に海について確実に伝えることは不可能である。人間は神によって言葉を与えられた。だが言葉で何かを伝えるには限界がある。海について、この島の美しさについて、私はうまく表現するすべを知らない。シチリアには本当の海と空と太陽の光、そして人間の営みがあった」

「シチリアにはキリストが生まれる1000年以上前に人が住みつき、500年ほど前にはエンペドクレス、アルキメデスなどの優れた学者が生まれた。キリストが生まれる前からギリシャ人は高度な文明を築き、独自の神を信じていた。ギリシャ語の書物を読み、ギリシャ人の知識に触れた時、その知識の深さと広さに驚かされる」

「私は若いアントニオを連れてよく街へ出かけた。修道院から歩いてすぐの場所に街の中心があり、市場にもすぐに行くことができた。私たちは僧衣ではなく商人のような服装で街を歩いた。市場では多数の魚と一緒に今まで見たこともないような海の生き物がたくさん並べられていた」

同じカルロス先生の声で同じラテン語で語られているのだが、急に神や歴史ではなく身近な生活の話になってきた。

「私は哲学者アリストテレスが未来の王アレクサンドロスやプトレマイオスを連れて海の生き物を観察したのと同じように大いなる好奇心を持って並べられている海の生き物を観察した。人の頭ほどの大きさで赤黒く足の多い奇妙な生き物がクネクネと動いている。足には小さくて丸いものがたくさんついている」

「今朝取れたばかりのタコだよ。1匹買うか?」
「買ってどうするのだ?」
「食べるに決まっているだろう。タコを知らないなんてあんたたち2人はシチリアの人間ではないのか?」
「少し前にこの島に来たばかりだ」
「それなら向こうでタコを切って焼いたものを食べるといい」
「本当に食べられるのか?」
「当たり前だ。よそから来た人間はたいていタコを食べてびっくりする。シチリアの海の恵みは素晴らしい」
「シチリアの海の恵みか・・・」

「私とアントニオはタコというものを切って焼いている店に行って、串に刺さったのを2本買った。1本をアントニオに渡したのだが、彼は私の顔を見てばかりいて食べようとしない。私は覚悟を決めてそのタコという謎の生き物を口に含んだ。肉とは違う不思議な歯ごたえがある。おいしいのかおいしくないのかよくわからない。ふと見るとアントニオがニコニコしながら口を動かしている。アントニオにとっておいしいものなら、きっと私にもおいしいものだろう。そう思って私は奇妙な生き物を飲み込んだ」

「やがて私たちは市場に行くたびにタコを買って修道院に持ち帰るようになった。まだ生きているタコを海の水と一緒に皮袋に入れてもらい、修道院の調理場に運んだ。アントニオが素早く絵に描き、すぐに私は大鍋に湯を沸かしてタコを入れ、ゆであがったタコを食べやすい大きさに切って塩を振り、修道士たちにふるまった。彼らもまた最初は私と同じように気味悪がったが、慣れると私たちがタコを買ってくるのを楽しみに待つようになった。こうして私たちはシチリアの海の恵みについて理解した・・・もういい!この本は全部こんなことが書いてあるのか!」

突然カルロス先生が本を閉じた。

「修道士ニコラが書いた本だというから期待して読んだのだが、タコの話ばかりでないか。これならば手記や伝説の方がまだ役に立つ話を伝えている」
「役に立つ話と言いますと・・・」
「私が知りたいのは修道士ニコラの奇跡についてだ。教会で正式に認定されてないが、修道士ニコラは1度死んで生き返り、また死んだ後も降誕祭の前夜に広場に姿を現して説教を行ったという伝説が残っている。どのような修行を行えばそれができるのか、私が知りたいのはそのことだ。タコの食べ方ではない」
「修道士ニコラは200年以上前に生きた人間です。奇跡の話は間違って伝えられたかもしれません」
「それでも修道士ニコラはキリスト教徒だけではない、異教徒や死者ですら救いをもたらす特別な力を持っていた。私にはそれができない。私の目には死者が生きている人間と同じように見える時がある。目の前で人が殺されれば、その恐怖や苦痛がまるで自分のことのように感じてしまう。それなのに私は彼らを救う力を持ち合わせていない」
「カルロス院長。あなたは神から大いなる力を与えられました。でもあなたはその力を真に使う術を持ち合わせていません。その手掛かりがこの本に隠されているかもしれません」
「そうかもしれないが、私は忙しい。タコの食べ方について長々と書かれている本をきちんと読む忍耐力も持ち合わせていない。ニコラスよ。そなたはその本を全部読んだのか?」
「いいえ、最初と最後の部分だけです」
「それならばそなたが助手のフェリペを使ってその本を読み、要点をわかりやすく私に説明してくれ。どれだけ時間がかかってもかまわない。ただしタコの部分はもう読まなくていいからな」
「わかりました」



「ところでカルロス院長、今年の降誕祭についてご提案があるのですが・・・」
「降誕祭か。確かにそろそろ準備が必要だ」
「この本の後ろで修道士ニコラは降誕祭について詳しく語っています。準備の仕方とか降誕祭前夜の説教についてなど書かれていました」
「そなたはその部分を読んだのか?」
「はい、その部分はきちんと読んでいます」
「それを早く言ってくれ。本を読み上げなくてよい。要点だけそなたがかいつまんで話してくれ。タコの話はしなくていいぞ」
「大丈夫です。降誕祭の部分はここスペインの修道院に来てからの話です。海から遠く離れたこの地域にタコはやってきません」
「それならよい」

ニコラス先生は本の後ろのページを開いて話し始めた。
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