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ホームレス殺人事件
ホームレス殺人事件10『怒り』
しおりを挟む川沿いの古びたアパートの一室、優斗は水谷英一に促されるまま、質素なリビングに通された。
部屋はこぢんまりとしており、昔ながらの家具が所狭しと並んでいる。
その一角に、小柄な老婦人が座っており、彼女が水谷久美子であることはすぐに分かった。
彼女は優斗の姿を見て、不安そうに夫の英一に視線を向けた。
「お前は大丈夫だ。警察がまた来ただけだ、何も心配するな。」
英一は優しく声をかけ、久美子を安心させるように手を握った。
だが、その顔には深い疲れと悲しみの色が浮かんでいる。
優斗は久美子に軽く頭を下げた後、英一に向き直った。
「お話を伺わせていただき、ありがとうございます。再開発地区での立ち退きに関して、具体的にどのような嫌がらせを受けたのか、教えていただけますか?」
英一は長いため息をつき、テーブルの上に置かれた一冊の古いアルバムに目をやった。
「あの家は、俺たちにとってかけがえのない場所だったんだ。娘がまだ小さい頃に買った家で、彼女が育ち、そして…亡くなった場所でもある。」
言葉を詰まらせる英一に、優斗は静かに耳を傾けた。
家族の思い出が詰まったその家を、無理やり奪われたことがどれほどの苦しみを伴ったのか、想像するだけで胸が締め付けられる。
「再開発が始まるって話が持ち上がった時、最初は何も感じなかったんだ。だけど、反対した途端に状況が変わった。毎日のように腐ったゴミを玄関先に置かれたり、深夜に大音量の音楽が鳴り響いたり、家の壁に卑猥な落書きまでされるようになった。警察に相談しようと思ったけど、民事不介入だと言われて、まともに取り合ってもらえなかった。」
英一は苦々しい表情を浮かべながら、拳を固く握りしめた。
久美子はその手を優しく包み込み、震える声で続けた。
「私たちは怖くて、外にも出られなくなった。警察にも何度も電話したけど、担当の人は来てくれなくて…。もう、どうしようもなくて、ただ耐えるしかなかったんです。」
優斗は心の中で深く悔しさを感じた。
彼らは助けを求め続けていたのに、それを誰も聞き入れなかったのだ。
再開発の裏で何が行われていたのか、彼らのような一般市民がどれほどの犠牲を強いられてきたのか、今さらながらに重く突きつけられる思いだった。
「水谷さん、本当に申し訳ありませんでした。警察として、私個人として、深くお詫びします。ですが、今私たちはこの再開発に絡む事件を調査しています。どうか、これまでの経緯や何か気づいたことがあれば、教えていただけませんか?」
優斗は深々と頭を下げ、誠意を込めて謝罪した。
英一はしばらく黙り込んだ後、再び重い口を開いた。
「そうだな…あの時、俺たちはもうどうすることもできなかった。だが、ピアニストの速水聡さんが立ち退き反対の署名活動を手伝ってくれていたんだ。彼がいなければ、俺たちはもっと早く追い出されていただろう。」
優斗はその言葉に驚き、顔を上げた。
「速水さんが署名活動を?そのことについて、もう少し詳しく教えていただけますか?」
「彼はいつも演奏会の合間に時間を割いて、住民を集めて再開発の反対運動をしてくれた。あの時はまだ、彼がピアニストだった頃の話だ。俺たちにとっては、本当に救世主のような存在だったよ。でも、彼もだんだんと様子がおかしくなっていって、突然姿を消したんだ。後から聞いた話じゃ、何かに巻き込まれたらしい。」
英一の言葉に、優斗は再び速水聡の悲劇的な転落を思い出した。
彼はただ無関心に自分の音楽だけを追い求めていたわけではなく、住民のために戦っていたのだ。
その活動が、速水の転落の一因だったのかもしれない。
「ありがとうございます、水谷さん。とても重要な情報です。これから、さらに詳しく調査を進めますので、またお話を伺わせてください。」
英一は重くうなずきながら、「どうか…速水さんの無念を晴らしてやってくれ」とだけ呟いた。
優斗はその言葉に強く心を揺さぶられ、深々と頭を下げて水谷夫妻の元を後にした。
---
警視庁の生活安全課に到着した優斗は、廊下を駆け抜け、課長室のドアを叩いた。
出てきたのは、生活安全課の課長である中年男性、菅原である。
彼は冷ややかな視線で優斗を見据えた。
「捜査一課の竹内です。課長、少しお時間をいただけますか?」
優斗は一礼し、菅原の目を真っ直ぐに見つめた。
「捜査一課? …何の用だ?」
「実は、再開発地区で水谷さんというご夫婦が立ち退きの際に嫌がらせを受けていた件でお聞きしたいことがあります。以前、こちらの生活安全課に何度も相談をしていたと伺ったのですが、その記録が残っているか確認させていただけませんか?」
菅原は眉をひそめ、手元のパソコンを操作し始めた。
「水谷さん?そんな名前の相談者がいたかな…。少し待て、今調べる。」
しばらくの沈黙の後、菅原はパソコンの画面から目を離し、優斗を見上げた。
「申し訳ないが、こちらにはそういった記録は残っていない。相談を受けていたのが本当なら、何らかの記録があるはずだが…。」
その冷淡な返答に、優斗は心の中で激しい怒りを感じた。
だが、それを必死に押し殺し、冷静に尋ねる。
「本当に記録がないんですか?水谷さんご夫婦は何度も相談をしていたと言っています。にもかかわらず、記録が残っていないというのはおかしいじゃないですか。」
「申し訳ないが、事実を確認する術がない以上、これ以上の協力は難しい。悪いが、他を当たってくれ。」
その冷たい態度に、優斗は堪えきれず怒鳴り声を上げた。
「こんなふざけたことがあっていいのか!市民が助けを求めていたのに、何もせずに放置したんだぞ!あなたたちのせいで、水谷さん夫婦はどれほどの苦しみを味わったと思っているんだ!」
菅原は面倒くさそうな表情を浮かべながら、優斗の言葉を聞き流す。
「落ち着け、竹内さん。私は当時のことは知らんし、記録がない以上どうしようもない。申し訳ないが、これ以上お前の相手はしてられないんだ。」
優斗は悔しさと怒りを滲ませながら、強く菅原を睨みつけた。
だが、これ以上ここで騒いでも意味がないことは分かっている。
彼は深く息を吐き、悔しさに拳を握り締めながら、生活安全課の課長室を後にした。
廊下を歩く足取りは重く、苛立ちが胸の内で渦巻いている。
市民を守るべき警察が、こうも無力である現実に、怒りと無力感が交錯していた。
「くそっ…」
優斗は小さく呟き、深呼吸して感情を抑え込む。
いま自分ができるのは、真実を追い続けることだけだ。
課長室では、菅原が机の上に置かれた受話器を手に取り、番号を押していた。
「…… 私です。今、本庁の刑事が来ました。竹内という男です……」
彼の声は低く、どこか冷ややかで、電話の相手にだけ届くような静けさを含んでいた。
「ええ、再開発地区の件で少し聞かれまして……ええ、大丈夫です。特に動揺した様子もありませんでしたが、何か怪しい素振りを見せていました。」
菅原は一瞬、廊下の方へ視線を向けたが、すぐに受話器に目を戻した。
「はい、こちらでうまく対応しますので……ええ、かしこまりました。今後の動向は注視しておきます。」
菅原は短く答え、受話器をゆっくりと戻した。
その顔には、先ほどまでの冷淡な表情とは異なる、不気味な静けさが漂っていた。
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つづく。
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