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ホームレス殺人事件
ホームレス殺人事件2『音楽』
しおりを挟む夜が明けた捜査本部では、竹内優斗は徹夜の疲れも見せず、机に向かって速水聡の資料を読み込んでいた。
彼の頭の中では、あの楽譜の断片が何を意味するのか、そしてピアニストとしての速水聡の転落が、どうしてホームレスという結末に繋がったのかという疑問がぐるぐると回っていた。
「速水聡、かつては一流のピアニストだった…それが、どうしてこんなことに…」
手元の資料には、速水がかつて国際コンクールで優勝し、その後も世界的に名を馳せた天才ピアニストであったことが記されている。
彼の名前は音楽業界では一時期、絶対的なものだった。だが、その栄光は十年前を境に急速に陰りを見せ、その後彼は完全に姿を消してしまったのだ。
優斗はデスクの上に広げられた速水の写真を見つめた。
若かりし頃の速水は、鋭い眼差しと穏やかな笑顔を持つ、いかにも音楽家らしい佇まいをしていた。
しかし、昨日の現場で発見された遺体は、その面影さえ残っていなかった。
「翔さん、この速水聡は、本当に天才ピアニストだったんですね。こんなすごい経歴を持つ人が、どうしてホームレスになったんでしょう?」
リモートで繋がったスマートフォン越しに、翔が優斗の問いかけに応じる。
「俺もまだ完全には分からない。だが、彼の転落には何か大きな理由があったはずだ。栄光からどん底へ――それは単なる偶然や不運じゃないだろうな。何かが彼を壊したんだ。」
翔の冷静な声に、優斗は重みを感じた。
翔は速水聡の音楽にかつて救われたという。
そして、今やその音楽家が命を落とし、ホームレスとして人生を終えることになった。
その事実が、翔にとっても特別な意味を持っているのは明白だった。
「速水の身辺を洗い出すために、まずは彼がいた場所や周囲の人物関係を徹底的に調べる。優斗、お前はまず、彼が最後にどんな人と接触していたのかを突き止めろ。特に、再開発地区に彼がいた理由を探るんだ。ここに何か鍵があるかもしれない。」
「了解です、翔さん。」優斗はメモを片手に立ち上がり、捜査を進めるべく準備を始めた。
---
その日、優斗は再開発地区に向かい、現地の聞き込みを開始した。
昼過ぎには、地区に残るわずかな住民や商店に足を運び、速水聡に関する情報を探し回る。
だが、予想以上に情報は少なく、再開発の影響で多くの人がすでに引っ越してしまったという。
夕方、最後に立ち寄った小さな居酒屋で、ようやく手がかりを掴むことができた。
居酒屋の主人は、速水のことをかすかに覚えていた。
毎晩のように、店の片隅で一人、酒をあおりながら誰とも話さず過ごしていたという。
「確かに彼を見かけたよ。背の高い、やつれた男で、いつもボロボロのコートを羽織ってた。最初はただの酔っ払いだと思ったが、ある日、酔った勢いで少し話しかけてみたんだよ。そうしたら彼、音楽の話ばかりしてたんだ。自分がかつてはすごいピアニストだったとか言ってさ。信じられなかったけど、ある日、ここでピアノを弾かせたんだ。驚いたよ。あんなにうまいとは思わなかった。」
居酒屋の主人は、懐かしむようにその時のことを話す。
「でも、その後、急に来なくなったんだよな…。何があったかは知らないけど、彼が現れるようになった頃、再開発が本格的に始まったんだ。偶然だろうけどな。」
「再開発が始まった時期と速水の動きが重なっている…」
優斗はその偶然が気になったが、それ以上に速水が再開発地区に残っていた理由が、まだ見えない。
何が彼をそこに留めていたのか。
「他に速水さんのことを覚えている人はいませんか?」
優斗がそう尋ねると、主人は一瞬考え込み、ぽつりと呟いた。
「ああ、そういえば、彼がよく一緒にいた男がいたな。背が低くて、ちょっと柄が悪そうな感じの…名前は、確か『藤原』だったかな。」
「藤原…」
優斗は急いでメモを取り、その名前が何かの手がかりになるかもしれないと考えた。
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夜になり、捜査本部に戻った優斗は、すぐに翔に連絡を入れた。
スマートフォンの画面越しに、翔の顔が映し出される。
「翔さん、速水さんが行きつけだった居酒屋の主人から話を聞きました。速水さんは、再開発地区の居酒屋でよく酒を飲んでいたそうです。それと、彼の近くにはいつも『藤原』という男がいたそうです。」
「藤原…それがどんな人物か、まだ情報はないのか?」
「まだ詳細は不明ですが、柄の悪い男だという証言がありました。速水さんとどんな関係だったのか、これから調べてみます。」
翔は黙って優斗の話を聞いていたが、彼の脳裏には別の可能性が浮かんでいた。
速水がホームレスになった理由、再開発地区に居続けた理由――そのすべてが、ただの偶然ではなく、何か計画的な陰謀に絡んでいる可能性が高い。
「藤原の素性を徹底的に洗い出せ。それに、再開発の背後に何があるのかも探るんだ。この事件、もっと大きなものが隠されているかもしれない。」
「わかりました。すぐに動きます。」
優斗は翔の指示を受け、さらに捜査を深める決意を固めた。
速水聡が命を落とした背景には、まだ見えていない何かがある――それを突き止めることが、この事件の真実に迫る鍵だという確信が、優斗の胸に強く残っていた。
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翔はモニター越しに一人、静かに考え込んでいた。
速水聡という名前が再び現れたことは、彼にとっても複雑な感情を呼び起こす。
速水の演奏には、かつて外出恐怖症(アゴラフォビア)が重症化した自分自身が救われた時期があった。
だが、今、その彼が無惨な形で命を落とした。
「何があったんだ、速水…」
翔の呟きは静かな部屋の中に消えていく。
---
つづく。
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