最初のキスまで

フルギノキフルシ

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第1話

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 談話室23時半消灯のルールが全く機能していないことは、入寮して4日でわかった。初日は新寮生歓迎会があったし、3日目くらいまでは、うすうす本当のことに気づきながらも、4月だからと思うことにしていた。
 2週間ほど生活してみて把握できたところによると、清渓寮第1棟では談話室も炊事場も風呂場も24時間自由解放だ。個室設備が充実していて共有部の少ない第2棟第3棟はもしかしたら事情が違うかもしれないと思ったけれど、先輩方の話を聞く限りそんなこともないらしい。だいたい、女子寮たる第4棟とそれ以外の棟との行き来は禁止というルールでさえ実態は曖昧なので、清渓寮自体がそういう場所だと考える方がいいだろう。
 もう日付も変わろうというのに、階下のB談話室の騒音は収まらない。酒盛り、麻雀、スマブラかマリオカート、いつ果てるともなんの意味があるとも知れない無限の議論、夜は長いのだ。
 わたるの住む1棟3階308号室には、B談話室の騒音が床も天井も無視してよく響く。両隣の307号と309号が静まり返っているのは単に住人が出払っているからだ。航は耳栓代わりに使っている100円均一のイヤフォンを耳に詰めて机に向かっている。英語スピーキングの予習をしておきたい。工学部語学はヌルいと先輩方などは笑うけれど、こちらは中学の時点で英語が弱点だったのだから油断ならない。物理数学あたりはもうどうとでもなるのでこちらのカバーに注力したい。成績「可」でのクリアなら問題ないだろうけれども、限界まで「優」で成績表を埋め、在学中に優れた業績を残した者として奨学金のうちのいくらかは返済免除に持ち込みたいのだから、少なくとも1年目の春に落ちこぼれている場合ではない。
 ではないというのに階下ではなんだか知らないけれど大声でミニモニ。を歌い始めた。おまけに、308号室の扉が容赦なく叩かれる。ワタル、ワタル、ワッチってよ。壁も扉も薄いものだから、そうやって繰り返すメロスの声がはっきり聞こえる。無視だ。今夜こそ無視だ。また1時間目に差し支える。教養物理Aは決して厳しい講義ではないけれど、居眠りをしながら成績優良者を狙う自信はない。そもそもスピーキングの予習が終わっていない。
「ワッチよおめぇ寝てる場合じゃねえぞいま下にガンディーさん来てるぞ」
 航はペンを止めた。
 ガンディーさんは清渓寮の主である。と先輩方は言うが、一説によれば寮に住んではいないらしい。一説もなにも全室個室寮なのだから部屋主を確認していけばすぐに真偽はわかりそうなものだけれど、ガンディーさんに関する言説は全てがいいかげんだ。誰も本名を把握していないので名簿に当たっても意味はない。一説によれば寮には住んでいない、またある説によれば屋根裏に常駐している、あるいは、4棟の愛人の部屋でヒモをしている。
 留年2回の6年生とか、大学3周目の32歳とか、いやいやとうに40代だとか、実は普通に20歳だとか言う。文学部哲学思想学科という説もあれば医学部医学科だという人もいるが、医薬歯のキャンパスは別の市にあるのでとりあえず医学科ではないだろうと航は思っている。なお、呼び名については「インドに行ったことがあるから」「非暴力不服従だから」「名字がガンダさん」「ガンジーじゃなくて鑑真」あたりが有力説らしい。
「なあなあワッチさ下行ってガンディーさん挨拶してこようよ俺らまだ会ったことないんだからさ」
 扉の向こうでメロスが訴える。病気の父と気の優しい母、育ち盛りの弟3人が、航を大学に送り込んでくれた。夜中にミニモニ。テレフォンを歌っている場合ではない。航はイヤフォンを外して席を立ち、扉を開けた。
「うはーもう、開けてくれないかと思った」
 鼻の大きい、のっぺりと上品な顔でメロスは笑う。どうも風呂上がりのようで、清潔な湿気のにおいがする。
「おまえがガンガンガンガン叩くからだよ」
「いやだってさあガンディーさんだよこの機会逃せないって」
 メロスの話し方は、語彙には特に目だったところがないけれど、抑揚のつけ方が航や周りの多くの学生とは違う。どこ出身、と入寮した日に聞かれたメロスは、青森の上の方ですと言った。それでついた呼び名がメロスだ。安直すぎるという指摘もあるが、日本の西半分の側にあるこの大学には東北地方からの学生が少ないようで、その場にいた人間の口から出た青森にまつわる言葉は「リンゴ」「縄文」「太宰治」「死の彷徨」で終わりだった。骨太な体のわりには憂いを帯びたいい顔をしているということで、「リンゴ」ではなく「太宰」をベースとし、多少ひねりつつ誰にでもわかりやすい「メロス」に着地した。実際、心中を企図する相手に人生で何べんだか恵まれたほどにはもてたという太宰治のあの有名な肖像を思い起こさせる、どことなく愛嬌のある顔をしているものだから、航はメロスを強く無視できない。
「いやでも、明日も1限からだし。5限まであるし」
 メロスも航と同じ工学科一類なのだから、そのあたりがわかっていないはずはない。
「そんな遅くならないって。5時間くらい寝ればいけるっしょ」
 メロスが二の腕を掴んでくる。航は机の上の時計を確認した。23時47分。1時間以内に戻ってくれば、5、6時間は眠れる。ミニモニ。は終わったらしいけれども、階下からは相変わらず歓声が聞こえる。メロスが上目遣いでこちらを見る。英語が弱いといったってあれは元々の志望校の偏差値に対してのことだ。こっちの大学でヌルゲーと呼ばれている授業ならまあいけるだろう。談話室に入って、特にどこのグループにも入らずに、ガンディーさんの顔を拝見してすぐ帰って寝ればいい。そのよくわからないおっさんに興味はないけれども、皆がそんなに喜んで囲んでいる人を自分だけ知らないのは寂しい。
「ん、じゃあ、まあ、ちょっとなら」
「やっり」
「このままのかっこでいいかな」
「全然いいっしょ」
 メロスに引っ張られるまま部屋を出た。この調子で結局毎晩、航はB談話室に足を踏み入れている。

 B談話室の扉を開けると、部屋の真ん中で寮生たちが円陣を組んで、とっとこハム太郎のオープニングテーマを歌っていた。
 もちろんその場にいる全員が参加しているわけではない。スマブラをしているのがいるし、雀卓の前には4棟のエミリアもいる。隅のソファで発泡酒を舐めていたサカケンさんがこちらを見て片手を上げた。
「おっつ、座る?」
 サカケンさんはソファの端に寄って、2つ分の尻の場所を空けた。ここで腰を下ろしてしまうとややこしくなると思った。気がつくとメロスとサカケンさんに挟まれて座っていた。サカケンさんは体をひねって、背後の冷蔵庫を開けた。
「なに飲む?」
「俺同じのください。ワッチは?」
「あ、えと、ファンタください」
「おっけー」
 メロスは発泡酒の缶を開けて、心底うまそうに一気に飲んだ。航は紙コップで渡されたファンタグレープを少し舐めた。20歳未満での飲酒なんてはっきりした違法行為をする人間の気がしれないというのは建前で、新寮生歓迎会のときに一口もらったビールがびっくりするほど口に合わなかっただけだ。ほろよいのももなら飲める。ただ、ファンタのほうが間違いなくうまい。
「かっぱえびせんもあるけど」
 経済学部3年のサカケンさんは1棟の中でも面倒見のいい先輩で、差し出したかっぱえびせんの袋をメロスがあーいるっすいるっすと半ば引ったくっても平気で笑っている。その顔を見ると、どうにも胸が詰まる。日に焼けた頬に向かって思い切り下がっている目尻のせいかもしれない。本名は石川さんというらしい。坂口憲二に心持ち似ているだけだ。
 航は紙コップを顎に当てたまま、B談話室を見渡した。2年のタカチホさんも留学生のハリドもいるけれど、知らない顔はない気がする。メロスがサカケンさんに言った。
「ガンディーさんいるって俺ら聞いてきたんですけど」
「いたよ。いたけど今いないな。帰ったかな」
「どこに?」
「よくわかんないけど」
 それなら早く戻ろうと航は思った。ファンタを飲んで、サカケンさんにお礼を言って。
「そしたらワッチ、ウノやろうぜ。サカケンさんと、あ、タカチホさんもどうすか」
 いや俺は、と言ったときにはもうカードが配られていた。タカチホさんがソファの前の地べたに座った。大丈夫? とサカケンさんだけが言ってくれたけれど、その上唇の尖り方に気を取られて、大丈夫ですと返してしまった。

 ウノをして、エミリアの好きな哲学者の本についてプレゼンを受けて、タカチホさんの好きなニコニコ動画の歌い手の曲を聞いていたら3時になっていた。俺寝ようかなとサカケンさんが言ったので、そのタイミングでついに席を立つことに成功した。メロスはどう見ても徹夜したがっていたので、もう放っておくことにした。B談話室を出るなりサカケンさんが言った。
「ごめんな遅くまで」
「や。楽しかったんで。いいです」
 4階に帰っていくサカケンさんの後ろ姿を、階段の下から見送った。山岳サークルの所属だそうで、格別大柄というわけでもないけれど、骨が太くて筋が硬い、大人の男性の体をしている。航は父が病気をした高1の夏にハンドボール部をやめた。背は伸びたけれどうまく筋肉がつかない。
 301から316号室までが並ぶ暗い廊下を歩く。奥の方で足音がする。こんな時間にと思ったが人のことは言えなかった。トイレにでも行くのかもしれない。足音が近づいてくる。影が見えた。えらく痩せた人だ。幽霊みたいだ。背中を丸めて、首を前に突き出して歩いている。長い髪が頬にかかっている。すれ違うときに横顔を見た。苦しそうな顔だと思った。
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