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エレーヌの新たな日々

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シュタイン夫人の馬に乗せてもらえば、ほどなくして、シュタイン城が見えてきた。

シュタイン城は山を下りたところにあり、辺りには田園が広がっていた。民家が立ち並び始めたと思えば、教会も見えてきた。街道を南に向かう道に曲がれば、並んだ木立に隠れるようにしてシュタイン城はあった。

夫人はエレーヌを南向きの部屋に連れて行った。快適そうな居間に続きの寝室がある。客間というよりは、この城の令嬢のための部屋のようだった。

「ここでお休みになって」

てっきり使用人部屋に案内されると思っていたエレーヌは後ずさった。

「あの、もっと粗末な部屋でも十分です。使用人の部屋で」

「だめよ、あなたは大事なお客さまよ。何といっても命の恩人だもの」

エレーヌは針子として働くつもりだったために恐縮した。命の恩人と言っても水をくんできただけだ。

エレーヌは何度も断るも、夫人は引き下がらなかった。

「命の恩人を使用人扱いだなんて、どうか、わたくしを恩知らずに仕立て上げないで。先祖に向ける顔もないわ」

そこまで言われると、エレーヌにも断り切れなかった。ありがたく使わせてもらうことにした。ただし、エレーヌが使ってもいいような部屋ではないことだけはわきまえておくつもりだった。

(とにかく親切な夫妻に出会えて良かったわ)

エレーヌは自分の幸運に感謝した。

部屋に夕食が届いたが、エレーヌは食欲が湧かず、パンだけ口にした。

侍女がやって来て、エレーヌに湯あみをさせた。湯に浸かり、そこでやっと気がほぐれてきた。

(助かった……、この命、助かったんだわ………)

昨日、王宮を出て、今日、殺されそうになった。しかし、今は温かい湯船にいる。

ほっとして涙ぐむ。

侍女がナイトドレスに着替えさせてくれた。そのドレスは、少々サイズが大きかった。

疲れ果てていたエレーヌはベッドに横になるとすぐに寝入った。

夜半、目が覚めて、エレーヌはひどい喪失感に襲われた。

ゲルハルトの温もりはもうない。

(二年もひとりぼっちで生きてきたのに、一人で目覚めるのがこんなに寂しいなんて)

ゲルハルトと親密に過ごしたのは正味一か月ほどだ。

(ゲルハルトさまのせいで随分と私は寂しがり屋になったのね。こんなに一人が寂しいなんて)

ゲルハルトの触り心地が恋しかった。ふわふわした眉毛が恋しい。

(ゲルハルトさまはどこを触っても怒らなかったわ。嬉しそうにしてたわ)

エレーヌはゲルハルトを思って涙した。

***

軽い朝食の後、着替え終わったところへ、シュタイン夫人が入ってきた。

「エレーヌ、おはよう。気分はどう?」

「ええ、とてもいいですわ。あの、何から何までありがとうございます」

エレーヌに侍女までつけてくれている。それに、部屋着も靴も何もかも、使わせてもらっている。おそらくはこの部屋の主のものを。

エレーヌは赤色のワンピースを着ていたが、それもナイトドレス同様、少々サイズが大きかった。

衣裳部屋を覗かせてもらえば、そこにには、ドレスに靴に小物類が、昨日まで使われていたかのように良い状態で並べられていた。

やはり、この部屋は、令嬢のものに違いなかった。

鏡台やキャビネットの引き出しの中も、令嬢のものであふれている。

結んだあとのあるリボン、毛が一本残っている櫛、インクの付いたままのペン。そのインクは乾いてさほど時間が経っていないように見えた。

「あの、この部屋は、どなたの部屋ですか? 私が使ってもいいのでしょうか」

誰かの部屋を黙って使っているようで、エレーヌは心苦しかった。

シュタイン夫人は、一瞬、気まずそうな顔をしたが、すぐに、にこやかな顔を向けてきた。

「え、ええ。養女が、この部屋を使っていたのよ。でも、今は、いないから、あなたの自由に使ってちょうだい」

エレーヌはこの部屋の北向きの壁に、小ぶりな肖像画を見つけており、そこに描かれた赤毛の令嬢が養女なのだろうと思った。櫛に残っていたのは赤毛だし、ドレスも小物も赤毛を引き立てるような鮮やかな色味のものが多かった。

(荷物を全部置いていなくなるなんて、養女さんに何かあったのかしら)

気にはなったが、シュタイン夫人が答えにくそうにしていたために、エレーヌにはもうそれ以上訊くことができなくなった。

シュタイン夫人は侍女に持たせたかごを指した。

「今日は、刺繍道具を持ってきたのよ。侍女たちにも刺繍を教えてくださいな」

二人の侍女たちはどちらも、エレーヌとそう変わらない年頃に見えた。

ソファに座って、刺繍を楽しむことになった。

シュタイン夫人の刺繍の腕は良かった。

しかし、エレーヌの腕はさらに良く、シュタイン城に伝わる薔薇の図柄を難なく刺せば、シュタイン夫人も侍女らも歓声を上げた。

「素晴らしいわ! あなた、これで食べていけるわ!」

「エレーヌさま、####、すごい」

「####」

実際、刺繍で食べてきたエレーヌには、令嬢の嗜み程度では済まないだけの技量があった。

侍女同士がラクア語で何やら楽しそうに話している。ところどころしかわからないエレーヌに、シュタイン夫人は訳してきた。

「この地には、エプロンにいっぱいの薔薇を刺繍することができれば、恋が叶うというおまじないがあるのよ。でも、本物と見まがうほどの美しい薔薇じゃないと駄目なの。エレーヌなら、きっと恋が叶うだけの薔薇が刺せる、と言っているわ」

ゲルハルトの元を去ってきたばかりのエレーヌには、恋の成就など考えようもないことだった。

「私にはもう恋など要らないものです。でも、薔薇の刺繍なら、いくつでも刺してきましたから、侍女たちに教えて差し上げることはできますわ」

年若い侍女らは、いつも賑やかだったハンナに重なり、エレーヌの鼻の奥がツンとした。

(礼も言えなかったわ。どうか元気にしていてね、ハンナ)

***

午後は、シュタイン夫妻と散策に出ることになった。

シュタイン城の周囲は木立で囲まれているが、木立までの間にちょっと開けた原っぱがあった。式典に使ったり、有事には野営も張れそうだったが、馬場としても持って来いの場所だった。

乗馬好きの夫妻らしく、散策も騎馬でするようだった。エレーヌもズボンに穿き替えていた。

「エレーヌ、あなたも一人で乗ってみる?」

エレーヌはゲルハルトとよく乗馬をした。エレーヌも一人で乗ってみたかったが、とうとうそれをゲルハルトに伝えられないままだった。

ジェスチャーで何度も伝えてみるも、ゲルハルトは首をかしげるばかりだった。もしかしたらエレーヌを一人で乗せる気がなかっただけなのかもしれなかった。

「まあ、いいんですか」

目を輝かせるエレーヌにシュタイン夫人も嬉しそうな顔をした。

「この馬はおばあちゃん馬なの。急に走り出すこともないから大丈夫よ」

エレーヌは鞍にまたがって、腹に蹴りを入れた。どんなに蹴りを入れても歩き出そうとしない。

しまいには手に持った鞭《べん》でやっと歩き始めた。

馬の首を打つのは可哀そうな気がしたが、「おばあちゃんだけど動かさないとますます弱ってしまうのよ」と夫人が言ってきたので、手加減しながら打つことにした。

エレーヌは原っぱの真ん中を、夫妻はその外周をやはり馬で回る。

(なんて気持ち良いの)

並み足で歩いているだけだが、馬の揺れが心地いい。

馬から降りると、足ががくがくと震えていた。これまではいくら乗ってもこんなになることはなかったが、それはゲルハルトが背後で支えてくれていたからだ。

一人で乗れば足の筋肉をどれだけ酷使しなければならないかがわかったが、エレーヌは一人乗りも楽しいと思えていた。

伯爵も夫人も、ぎこちなく歩くエレーヌを見て笑って何か話し合っている。

「エレーヌ、あなた筋が良いわよ。おばあちゃん馬とも相性が良さそうだと、主人が言ってるわ。ここしばらくで、あんなに長い間歩かせることができた人はいなかったって」

その夜は、三人での晩餐となった。エレーヌは運動しすぎたのか、食欲がなかったが、三人での会話は楽しいものだった。

夫人は、エレーヌに向けられた会話のみならず、夫妻同士の会話も、必ず、エレーヌに訳してくれた。

「大きな一粒栗だ。砂糖漬けだな。私の大好物なんだ」

「あなた、甘いもの好きなのよね」

そんなたわいな会話でも必ず、夫人は訳してくれた。

(ディミーはそんなことなかったわ)

思えば、ディミーはディミーの基準で訳すか訳さないかを決めていた。

エレーヌは、ディミーのことを考えれば、思考が鈍くなった。エレーヌにはまだディミーをどうとらえればよいのかわからなかった。

別れた朝に向けられた侮蔑のこもる目を思えば、裏切られたのだとは思う。

しかし、本当にディミーはそんな人だったのか、と、まだ納得しきれていない。

エレーヌにはまだ、それを考えるには時間がかかっていた。それに今となってしまえば、ディミーについて考えても無駄なことであるようにも思える。

(とにかく、今はシュタイン夫妻に拾われたのだから)

エレーヌはディミーのことを頭から追い払った。

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