上 下
38 / 55

異国の夏空

しおりを挟む
それは王宮の外れにある崩れかけた塔だった。古えには王宮として使われていたが、今は忘れ去られてひっそりと存在している。

「エレーヌさまは、母親とここに住んでおりました。生まれてよりずっと」

塔の中に入れば、階段は二つあるが、一方は崩れ落ちていた。屋根も崩れており、塔の半分は野ざらしだ。

入り口には、かまどらしきものがあり、辺りには据えた臭いが立ち込めている。

階段を上がれば、居住スペースらしきものがあったが、床の半分はやはり崩れ落ちている。

「こんなところに?」

あまりにわびしい住まいに、ゲルハルトは胸を突かれた。そこは到底住めたものではないはずだが、人が住んでいた跡が残っている。

隅っこに暮らしていたらしく、壁際に粗末な寝台が一つあり、棚にはこまごまとしたものが残っていた。

「母親は今はどこに?」

一人の老婆が呼ばれた。

老婆のブルガン語を宰相が帝国語に訳す。

母親は二年前に塔を出た、と言う。

「どうしてだ、どうして母親は、エレーヌを置いて出たのだ? どうしてエレーヌをたった一人にしたのだ?」

「母親は病気だったそうです。塔の中で死ねば虫が湧くと考えたのでしょう。エレーヌさまにはお母さまの遺体を捨てることなどできなかったでしょうから」

ゲルハルトは胸が詰まって何も言えなくなった。エレーヌのつらさと母親のつらさが胸に迫り、苦しくなった。

当時のエレーヌはまだ15。そんな子どもを置いていくしかなかった母親と置いていかれたエレーヌのことを考えると憐れでならなくなった。

「それからもずっと一人でここに?」

「エレーヌさまは、お母さまにずっと塔にいるようにと教えられていました」

「どうしてだ」

そこで、ゲルハルトはブルガン王妃の様子を思い出した。エレーヌの名に顔が険しくなった王妃。

「ブルガン王妃か?」

しかし、宰相は何も答えなかった。いくら婿とはいえ、王家の家庭事情を、そうやすやすとは口にできないのだろう。

(可哀想に、エレーヌ。こんなところに一人で)

ゲルハルトは棚から古い本を手に取った。ボロボロで崩れそうだ。宰相が老婆を訳す。

「エレーヌさまは本が好きで、ときおり、この老婆に本を頼んでいたと。しかし、老婆に用意できるのはこんな本しかなく」

(老婆のせいではない、ブルガン王のせいだ。王がもう少し、気にかけてあげていれば)

エレーヌがラクアに来たとき、不健康そうに見えたのは、長い馬車旅のせいではなく、17年間もこんな塔に閉じ込められて住んでいたからだ。

(ひどい父親だ。一度でも情けをかけた女性とその娘を、こんなところに住まわせ続けるなんて。衣服だってこんなに粗末で)

棚には、つぎはぎの衣服が二枚しかなかった。サイズから一つは母親のもので、一つはエレーヌのものだろう。替えの衣服が一枚あるだけの生活だったようだ。

エレーヌが母親の衣服を自分のサイズに直さなかったのは、帰ってくるのを待っていたのではないか、と思えば憐憫が湧いてしようがなかった。

ベッドには兎の毛皮をつないだものがあった。

冬はこれでは寒くてたまらなかっただろう。おそらく一つの寝台で母子は肩寄せあって寝たのだろう。しかし、それも二年前までで、そこから、エレーヌは一人きりで。

(エレーヌ……! あまりに可哀想だ……!)

棚には刺繍を施された布もあった。

「エレーヌさまは刺繍を、食べ物や本と交換していたそうです」

刺繍のほとんどが花や果物の図柄なのに、一枚だけ、母親と娘と思われる二人が寄り添っている図柄があった。とても温かなものだった。

(母親を想って刺していたのか……、どれだけ寂しかったことだろう……)

ゲルハルトの胸が詰まった。

それでも、二年の間、一人で生き延びたのだ。天から見ている母親は、さぞかし、エレーヌを誇らしく思うことだろう。そして、エレーヌを育てた自身をも誇りに思っているだろう。

(可哀想に、エレーヌ……、だが、立派だ、母親もエレーヌも立派だ......)

ゲルハルトの頬に涙が伝うのを見て、宰相は恐縮した顔で目を逸らした。

老婆はエレーヌの母親の顛末も知っていた。

老婆の案内で、エレーヌの母親の葬られた共同墓地に向かった。

ゲルハルトは途中の花屋で花を買い、花を捧げて弔った。

(母御よ、エレーヌを育ててくれて、ありがとう)

老婆は、身振り手振りでゲルハルトに何かを言ってきたが、宰相は一向に訳そうとしなかった。下賎な者の言葉を国王の耳に入れるのは良くないと思ったのかもしれなかった。

ゲルハルトは自分の連れてきた通訳に訳させれば、エレーヌの現状について訊いてきたらしかった。老婆は老婆でエレーヌを案じていたらしい。

おそらく、老婆は老婆なりに心を砕いてエレーヌの面倒を見てきたのだろう。それも、自分で出来る限りの親切心を発揮して。老婆にしてもとても粗末な身なりだ。

「エレーヌは………」

ゲルハルトは言葉に詰まった。

エレーヌの現状を訊かれるのはゲルハルトにはとても苦しいことだった。

「エレーヌはラクアで息災にしている、幸せにしている、と言ってくれ」

ゲルハルトはそう言うしかできなかった。老婆はそれを聞くとほっとしたような顔をして、微かに唇の端を上げただけだったが、満足な答えを得たことがわかった。

ゲルハルトの胸はキリキリと痛んだ。

(幸せなどと……。俺は幸せにすることができなかった……、俺はエレーヌを幸せにすることが、できなかった………)

ゲルハルトはブルガン王宮を去ることにした。

(エレーヌ、どうか、この先、あなたに幸せが満ちていますように………)

ゲルハルトは異国の夏空を見上げた。

ラクアの軍勢は石畳に轟音を残してブルガンを去っていった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】お世話になりました

こな
恋愛
わたしがいなくなっても、きっとあなたは気付きもしないでしょう。 ✴︎書き上げ済み。 お話が合わない場合は静かに閉じてください。

そんなにその方が気になるなら、どうぞずっと一緒にいて下さい。私は二度とあなたとは関わりませんので……。

しげむろ ゆうき
恋愛
 男爵令嬢と仲良くする婚約者に、何度注意しても聞いてくれない  そして、ある日、婚約者のある言葉を聞き、私はつい言ってしまうのだった 全五話 ※ホラー無し

夫に離縁が切り出せません

えんどう
恋愛
 初めて会った時から無口で無愛想な上に、夫婦となってからもまともな会話は無く身体を重ねてもそれは変わらない。挙げ句の果てに外に女までいるらしい。  妊娠した日にお腹の子供が産まれたら離縁して好きなことをしようと思っていたのだが──。

愛してほしかった

こな
恋愛
「側室でもいいか」最愛の人にそう問われ、頷くしかなかった。  心はすり減り、期待を持つことを止めた。  ──なのに、今更どういうおつもりですか? ※設定ふんわり ※何でも大丈夫な方向け ※合わない方は即ブラウザバックしてください ※指示、暴言を含むコメント、読後の苦情などはお控えください

結婚して5年、冷たい夫に離縁を申し立てたらみんなに止められています。

真田どんぐり
恋愛
ー5年前、ストレイ伯爵家の美しい令嬢、アルヴィラ・ストレイはアレンベル侯爵家の侯爵、ダリウス・アレンベルと結婚してアルヴィラ・アレンベルへとなった。 親同士に決められた政略結婚だったが、アルヴィラは旦那様とちゃんと愛し合ってやっていこうと決意していたのに……。 そんな決意を打ち砕くかのように旦那様の態度はずっと冷たかった。 (しかも私にだけ!!) 社交界に行っても、使用人の前でもどんな時でも冷たい態度を取られた私は周りの噂の恰好の的。 最初こそ我慢していたが、ある日、偶然旦那様とその幼馴染の不倫疑惑を耳にする。 (((こんな仕打ち、あんまりよーー!!))) 旦那様の態度にとうとう耐えられなくなった私は、ついに離縁を決意したーーーー。

どうやら婚約者が私と婚約したくなかったようなので婚約解消させて頂きます。後、うちを金蔓にしようとした事はゆるしません

しげむろ ゆうき
恋愛
 ある日、婚約者アルバン様が私の事を悪く言ってる場面に遭遇してしまい、ショックで落ち込んでしまう。  しかもアルバン様が悪口を言っている時に側にいたのは、美しき銀狼、又は冷酷な牙とあだ名が付けられ恐れられている、この国の第三王子ランドール・ウルフイット様だったのだ。  だから、問い詰めようにもきっと関わってくるであろう第三王子が怖くて、私は誰にも相談できずにいたのだがなぜか第三王子が……。 ○○sideあり 全20話

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

あなたの仰ってる事は全くわかりません

しげむろ ゆうき
恋愛
 ある日、婚約者と友人が抱擁してキスをしていた。  しかも、私の父親の仕事場から見えるところでだ。  だから、あっという間に婚約解消になったが、婚約者はなぜか私がまだ婚約者を好きだと思い込んでいるらしく迫ってくる……。 全三話

処理中です...