女化町の現代異類婚姻譚

東雲佑

文字の大きさ
上 下
27 / 36
最終章 帰つ寝

8.キツネは化かす

しおりを挟む
 暮れなずむ境内で、何度も夕声の名前を呼んだ。
 通話履歴から彼女の番号にコールしてもみたし、SNSのアプリからメッセージを送ってもみた。

 だけど、いくら呼んでも応える声はなかった。
 繰り返すコールが自動音声のアナウンス以外につながることもなければ、どこかから着信音が聞こえてくるということもなかった。


 そのようにして夕声は僕の前から姿を消した。


 しばらく呆然と立ち尽くしたその後で、どうにか気持ちを奮い立たせて帰宅の途についた。
 ……その場に背を向けて歩き始めるには気持ちを奮い立たせる必要があった。

 日常的に歩き詰めた片道十分の道が、なんだか心細く不案内なものに感じられた。
 耳に届くすべての音が、奇妙な具合に近くなったり遠くなったりした。
 なにもない場所でなにかに蹴躓つまづいて転びそうになった。

 そうして、どうにかこうにか我が家に辿り着いて、鍵をあけて玄関に入って。
 そこで、限界を迎えた。

 靴も脱がずに、尻餅をつくのと同然の有様でその場に腰を下ろした。
 心臓が早鐘を打っていた、耳に聞こえるほどに。

 己の拍動を聞くともなく聞きながら、大変なことをしてしまった、と思った。

「……大変なことをしてしまった」

 声に出して言ってみた。
 状況をより明瞭にするために。
 より明瞭に自分に現実を思い知らせるために。

 おい、お前は大変なことをしでかしたんだぞ。

 まず第一に、僕は夕声を傷つけてしまった。
 最初から(つまり、ノーの答えを携えて家を出た時から)ひとつも傷つけずに終わらせられるなどとは思ってもいなかったのだけれど、しかし、それならせめて少しでも与える傷を浅くしようと……
 そう無駄な気を回した結果、最悪の想定を遙かに超えて深く傷つけてしまった。

 さて、その結果どうなったか?

 夕声は僕の前からいなくなってしまった。
 しかも、様々な要素からかんがみるに、かなり強固な意志を持って彼女は姿を消した。

 ――まるで、本当に消えてしまおうとしているみたいに。

 自分の内側に湧いた印象に、自分で凍り付いた。

『もう永久に、僕は夕声に会えないかもしれない』

 そう考えるのは、僕にとってはまったく純粋な恐怖だった。




 
 日が沈んで家の内外が真っ暗になってから、僕はようやくその場から立ち上がった。
 リビングに行って、テレビをつけて、そのまま消した。
 食欲はなかったけれど義務的に軽い食事を準備して、義務的にそれを食した。
 夏目漱石言うところの『なまりのような飯』とはこういうものかと、そう感じさせるような味のしない食事だった。

 食事が済むと風呂にも入らずに二階にあがり、ベッドに身を投げ出した。
 眠くはなかったし眠れる気もしなかったけれど、今日は起きていてもろくなことがない気がした。
 ろくなことをしないだろうし、きっとろくなことを考えないだろう。

 そうだ、今日の僕はどこまでもろくでもないのだ。
 だから一番傷つけたくなかった女の子を傷つけてしまった。

 眠れぬまま無為に横たわるうちに、いつしか僕は眠りを獲得していた。

 真夜中過ぎ一度目が覚めて、ふとスマホを見た。
 夕声に送ったメッセージには、まだ既読がついていなかった。



 
      ※


 翌朝。翌日。

 昨日の僕はどこまでもろくでもなかった。ろくでもないほどにボンクラだった。
 だから、まさか翌日の今日がさらにろくでもないことになるなんて、予想もしていなかったのだ。



 夕声が姿を消した翌日、時刻は十一時を少し過ぎた頃。
 僕は菓子折の入った紙袋を手に女化神社を訪っていた。

 幸い、尋ね人の姿はすぐに見つけることが出来た。
 いや、もちろん夕声に会えたならそれが一番よかったのだけれど……でもとにかく、社務所しゃむしょの前の参道をいましも紫色の袴が横切っていくのが遠目に見て取れた。

宮司ぐうじさん!」

 まだ少し距離のある場所から僕がそう声をかけると、呼び止められた宮司さんがこちらに向き直り、すぐに相好そうごうを崩す。

「おお、椎葉くん」

 僕に向かって丁寧にお辞儀をしてくれる宮司さんに、小走りに駆け寄る。

 女化神社の敷地内には幾棟 いくむねかの家屋が存在しており、夕声はその一軒に住まわせてもらっている。
 夕声にとって、こちらの青木宮司は家主であり巫女さんバイトの雇い主であり、また人間社会での後見人のような存在でもあった。
 夕声の親しい友人として認められている僕も、宮司さんにはなにかとよくしていただいている。

「やぁ、今日はどうしたんだね?」

 宮司さんはニコニコと僕に質問する。
 この反応から察するに、僕と夕声の間にトラブルがあったことはまだ宮司さんの耳には入っていないのだろう。

 少しだけ安心すると共に、そんな風に安堵を感じている自分に軽く自己嫌悪を覚えもする。
 まるで悪さがばれていないとわかった悪ガキみたいだ。

「あの、本日は宮司さんに、折り入ってご相談があって伺いました」

 そう言って、僕は深々と頭を下げる。

「実は昨日、夕声さんと喧嘩と言うか……いえ、双方に原因のある喧嘩というのではなく、非は完全に僕にあるのですが……とにかく、僕の言葉と態度によって、心ならずも夕声さんを傷つけてしまったんです」

 申し訳ありません! と言いながら、もう一度、平謝りに低頭する。
 宮司さんは夕声の後見人で、砕けた言い方をすれば保護者のような人だ。
 ならば、大切な子供を傷つけてしまったことを、まずは誠心誠意謝らなければなるまい。

「そういうわけで、どうしても夕声さんに会って直接謝りたいんですが、昨日から僕からの連絡は受け取ってもらえなくなっているみたいで……それで、虫のいいお願いであるとは重々承知しているのですが、宮司さんから一言、『椎葉が連絡を待っている』と彼女にお伝えいただけないでしょうか?」

 そう言って、僕は持っていた紙袋を差し出した。
 朝一でニュータウンのショッピングモールまで出かけて買ってきたものだった。宮司さん用に和菓子の詰め合わせと、夕声に洋菓子店の焼き菓子をそれぞれ選んだ。
 彼女が食べてくれることを祈りながら。

(……ダメか)

 差し出した菓子折を、宮司さんはなかなか受け取ってくれなかった。
 当たり前だ、いい大人が高校生の女の子を傷つけて、それで仲裁をお願いしてるなんて、そんな……。

「あの、椎葉くん」

 宮司さんが、ややあってからようやく口を開いた。
 僕は緊張しながら宮司さんの言葉を待った。
 叱られても怒鳴られても甘んじて受け入れようと、そう身構えながら。

 しかし、宮司さんの次の台詞は、そのどちらでもなかった。

 叱られたり怒鳴られたりしたほうが、よほどましだった。

「椎葉くん、その夕声ってのは、一体全体どなただろう? 私の知ってる人かい?」



      ※



 家には帰らなかった。長山北の信号で左手に折れて、そのまま土浦竜ヶ崎バイパスを南に向かって歩きはじめた。
 特に行く当てがあったわけでもなければ、なにかしらの目的意識に裏打ちされた行動でもなかった。

 手にしていたはずの菓子折の紙袋はいつのまにか消えていた。
 宮司さんに受け取ってもらえたのかもしれないし、どこかに落としてきてしまったのかもしれない。
 ついさっきのことのはずが、もはや別の時代の記憶のように判然としないのだ。

 白紙と化した脳内で、ただ宮司さんの言葉ばかりが明瞭だった。

『その夕声ってのは、一体全体どなただろう?』

 この展開は、僕からすべての思考を剥奪してあまりあった。
 それほどまでにショッキングで、さらに付け加えるならば絶望的な成り行きだった。

 頭がクラクラした。
 目がチカチカした。
 口の中はベタベタに乾いていた。

 脳と心をしっちゃかめっちゃかにしながら、僕はただ黙々と歩き続けた。
 断続的ながらも中央分離帯に隔てられた片側二車線の幹線道路、地方道路網の大骨格たる県道48号線沿いは考え事をしながら歩くのには最適の道だったし、なにも考えずに歩くのにはさらにもってこいだという気がした。

 何も考えたくなかった。
 というか、なにも考えられなかった。

 しかしそれでも僕は考えなければならない。
 なにを?

 一生懸命考えて悩んで、どうにかこの状況を打破しなければならない。
 どうやって?

 ……なるわけないじゃないか、どうにも。

 だって夕声は、消えてしまったのだ。
 僕の前から姿を隠したというシンプルかつ単一的な失踪に留まらず、もっと完璧に、徹底的に、彼女は消失してしまったのだ。
 一切の痕跡を残さずに、僕以外の人の記憶にも残らずに。

 最初から、どこにもいなかったみたいに。

 歩いて、歩いて、歩く。
 ずっと歩き続ける。

 落花生農家の直売所の前で、椅子に座ったお婆さんが車の流れに熱心な視線を注いでいた。
 僕の地元にもこういうご老人がいた。なにをするでもなく、日がな一日道路沿いで車の往来を眺めているお爺さんが。
 彼らはまるで雄大な川の流れや世の中の移り変わりを見つめるように自動車交通を見つめていた。

 あのお婆さんの隣に座って僕も同じようにしようかと、ふとそんなことを考えた。
 その思いつきはなんだかとても素敵なことのように感じられた。
 しかしあいにく、どうしようか考えている間にも僕の足は進み続けて、気がつけばお婆さんははるか後方 しりえへと遠ざかっていた。

 このまま歩き続けて、どこか知らない土地まで行ってしまえたら、それもいいかもしれない――我ながら思春期めいてると思いながら、そんなことを考えていた。

 しかし歩きはじめてから一時間と少しが過ぎた頃、僕の前の前には見知らぬ土地どころか、よく見知った建物が姿を現した。

 龍ケ崎市役所である。

「……バイパスはここにつながってたのか」

 脳内で独立した点として存在していた二つの地域が、土浦龍ケ崎バイパスという線によって直通につながった瞬間だった。
 そしてそんな現実的な発見が、ふわふわとぼやけていた僕の心と意識に少しだけ輪郭を取り戻させもした。


   ※


 以前にも書いた通り、市役所と商店街は至近の距離にある。
 そこにいけばなにかが変わるような気がして、というか少しでもなにかが好転することを期待して、すがるような気持ちで僕はその店を訪ねた。

 龍ケ崎コロッケ発祥の店『まいん』。
 水沼さんがパートで働いているお店だ。

 店内に入ると、飲食と談話の用途を兼ねたテーブルで、顔見知りの子供が計算ドリルに取り組んでいた。

「こんにちは、桔梗ちゃん」

 僕がそう声をかけると、桔梗ちゃんがドリルから顔をあげてこちらを見る。
 黙ってこちらを凝視した数秒後、ぺこりとお辞儀をしてくれた。

 ――よかった。この子がいるということは、彼女もいる。

「あら、椎葉さん?」

 僕がそう思うのとほぼ同時に、期待していた人が厨房から現れた。

「水沼さぁん……」

 なんだか安心してしまって、思わずのび太めいて情けない声が出た。

 しかし、そんな僕の顔を一目見るや、水沼さんの顔が少しだけ曇った。

 ややあってから彼女は言った。

「椎葉さん、もしかして、化かされちゃってません?」
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

晴明さんちの不憫な大家

烏丸紫明@『晴明さんちの不憫な大家』発売
キャラ文芸
最愛の祖父を亡くした、主人公――吉祥(きちじょう)真備(まきび)。 天蓋孤独の身となってしまった彼は『一坪の土地』という奇妙な遺産を託される。 祖父の真意を知るため、『一坪の土地』がある岡山県へと足を運んだ彼を待っていた『モノ』とは。   神さま・あやかしたちと、不憫な青年が織りなす、心温まるあやかし譚――。    

あやかし雑草カフェ社員寮 ~社長、離婚してくださいっ!~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 令和のはじめ。  めでたいはずの10連休を目前に仕事をクビになった、のどか。  同期と呑んだくれていたのだが、目を覚ますと、そこは見知らぬ会社のロビーで。  酔った弾みで、イケメンだが、ちょっと苦手な取引先の社長、成瀬貴弘とうっかり婚姻届を出してしまっていた。  休み明けまでは正式に受理されないと聞いたのどかは、10連休中になんとか婚姻届を撤回してもらおうと頑張る。  職だけでなく、住む場所も失っていたのどかに、貴弘は住まいを提供してくれるが、そこは草ぼうぼうの庭がある一軒家で。  おまけにイケメンのあやかしまで住んでいた。  庭にあふれる雑草を使い、雑草カフェをやろうと思うのどかだったが――。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】召しませ神様おむすび処〜メニューは一択。思い出の味のみ〜

四片霞彩
キャラ文芸
【第6回ほっこり・じんわり大賞にて奨励賞を受賞いたしました🌸】 応援いただいた皆様、お読みいただいた皆様、本当にありがとうございました! ❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。. 疲れた時は神様のおにぎり処に足を運んで。店主の豊穣の神が握るおにぎりが貴方を癒してくれる。 ここは人もあやかしも神も訪れるおむすび処。メニューは一択。店主にとっての思い出の味のみ――。 大学進学を機に田舎から都会に上京した伊勢山莉亜は、都会に馴染めず、居場所のなさを感じていた。 とある夕方、花見で立ち寄った公園で人のいない場所を探していると、キジ白の猫である神使のハルに導かれて、名前を忘れた豊穣の神・蓬が営むおむすび処に辿り着く。 自分が使役する神使のハルが迷惑を掛けたお詫びとして、おむすび処の唯一のメニューである塩おにぎりをご馳走してくれる蓬。おにぎりを食べた莉亜は心を解きほぐされ、今まで溜めこんでいた感情を吐露して泣き出してしまうのだった。 店に通うようになった莉亜は、蓬が料理人として致命的なある物を失っていることを知ってしまう。そして、それを失っている蓬は近い内に消滅してしまうとも。 それでも蓬は自身が消える時までおにぎりを握り続け、店を開けるという。 そこにはおむすび処の唯一のメニューである塩おにぎりと、かつて蓬を信仰していた人間・セイとの間にあった優しい思い出と大切な借り物、そして蓬が犯した取り返しのつかない罪が深く関わっていたのだった。 「これも俺の運命だ。アイツが現れるまで、ここでアイツから借りたものを守り続けること。それが俺に出来る、唯一の贖罪だ」 蓬を助けるには、豊穣の神としての蓬の名前とセイとの思い出の味という塩おにぎりが必要だという。 莉亜は蓬とセイのために、蓬の名前とセイとの思い出の味を見つけると決意するがーー。 蓬がセイに犯した罪とは、そして蓬は名前と思い出の味を思い出せるのかーー。 ❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。. ※ノベマに掲載していた短編作品を加筆、修正した長編作品になります。 ※ほっこり・じんわり大賞の応募について、運営様より許可をいただいております。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

処理中です...