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第一章 きつね火
6.狐の穴
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帰宅してテレビをつけると、マーティ・ケリー監督の『ブラッドフォビア』が放送されていた。僕が生まれる何年か前の映画だ。当時三十歳のココ・ココ・マチューカ・プラードは現代に生きる僕から見ても美しい。この映画で彼女はアカデミーの主演女優賞を受賞したのだ。
僕はソファに腰掛け、重火器を振り回して吸血鬼と戦うココ・ココの活躍を見守る。お祭りで買ってきた焼きそばを食べながら。
しかし結局、僕は主人公レイモンドとコートニーのロマンスも、彼らと吸血鬼の戦いの行方も見届けることができなかった。
映画の途中でいつの間にか眠ってしまっていたのだ。
目が覚めたとき、部屋の中はすっかり暗くなっている。
暗闇の中でスマホを探って時刻を確認する。ロック画面のデジタル時計は、二〇時二十六分を示している。
それから、繰り返し鳴らされ続けている玄関チャイムに気づく。
我が家の二つある玄関のうち、『昔側』の来客を告げる音。
――夕声だ。
そこからはまるっきり昨日の再現だった。
僕は慌てて飛び起きると、寝ぼけ眼を擦りながら昨日と同じ台詞を叫んで廊下を走った。はいはい、今出ます。
しかしあにはからんや、訪問者は、昨日と同じ人物ではなかった。
「こんばんわ」
「こんばわ」
「おこんばんわです」
玄関先にいたのは、小学生の三人組だった。男の子が二人と女の子が一人。ご丁寧にも全員が黄色い通学帽を被っている。
見るからに低学年だ。
「夕声ちゃんが呼んでる。来て」
男の子の一人が代表して言い、残る二人が「来て」「来て」と声を揃える。
そうして、唖然としている僕の袖を、三人揃って引っぱる。意外なほど強い力で。
三人に導かれるまま、僕はサンダルをつっかけて家を出た。
当たり前だけど、室内と同じように外はもうすっかり暗い。
というか、露骨なまでの対比が闇の中に浮かび上がっていた。
我が家を境にニュータウン側の道は街灯もあって明るいのだけれど、逆方向の女化方面に続く道は民家の明かり以外には一本の街灯もないのだ。
その暗闇の中を、子供たちは少しも怯まずに歩いていく。
まるで暗闇を見通す夜行性の目でも持っているかのように。
スマホに内蔵されたライト機能を頼りに、僕はどうにか子供たちの後を追う。
「ねえ君たち、もうすぐ九時になるけど、大丈夫? お家の人は心配してない?」
ようやく眠気が晴れてきた僕は、いまさらのようにそう聞いてみる。
返答はなかった。前を進む三人はほんの一瞬だけ歩みを止めたものの、揃って僕を一瞥した後で、やはり揃って馬鹿にしたような笑みを浮かべて再び歩き出した。
ヤなガキどもだな、と僕は思った。
案の定と言うべきか、子供たちが向かっている先は女化神社のようだった。
昼間通ったルートをなぞって僕たちは歩く。神社の看板で左折して、パチンコ屋の前の道を直進して、大きな道路の信号を渡る。昼間とまったく同じ道筋。
そのルートから、子供たちが不意に横道にそれた。
神社とは全然違う方向に向かって。
老人ホームの駐車場を、家と家の合間の狭い道を、さらには民家の庭を遠慮も会釈もなしに横切って子供たちは進む。
後に続く僕は誰もいない闇に向かってお辞儀なんかしつつ、小さくなってこそこそと進む。こう見えて僕は小市民なのである。
やがて到着した先は、住宅地の奥にあるこんもりとした小さな森だった。距離にして神社から徒歩五分くらいだろうか。
民家の横の道路を起点に、いくつもの鳥居が森の中へと続いていた。
まるで女化神社の参道みたいだ、と僕は連想する。
「それじゃ、ちゃんと連れてきたからね」
やはり男の子が代表して宣言し、残る二人が「あんないしゅーりょー」「おつとめかんりょー」と言う。
それから子供たちは、あとはもう僕になんてちっとも構わずに、脇目も振らずに森の中へと走り出した。
真っ暗な中を、各々全速力で。
その駆けていく姿が、突如、闇に溶けるように消えた。
びっくりして、反射的にスマホのライトを森へと向ける。
LEDの白い光が一瞬だけ捉えたのは、四つ足で駆け去る三匹の小動物の姿だった。僕はその動物を一度だけ見たことがあった。
「……タヌキ?」
※
子供達の後を追って、おっかなびっくりと森を進む。
もはや描写するのも馬鹿馬鹿しいのだけど、森の中はものすごく暗い。
なにしろ光が全然ないのだ。民家の光どころか、頭上を幾重もの梢に遮られているため星の光もここには届かない。
完全なる闇の世界だ。とてもとても暗黒。
あの子供たちは本当にこんなところに入っていったのか、と僕は訝しむ。
というか、本当に夕声はこんなところにいるのか?
疑わしい。はなはだ疑わしいぞ。暗いし怖いし、正直もう帰りたい。
しかしそうは思っても歩みを止めない僕である。
なぜなら子供たちが入っていくのを見ちゃったから。それを放っといて大人の僕が帰っちゃうのは、それは、なんかまずい。
責任感というよりは問題化を恐れる保身が僕を突き動かしていた。小市民なのだ。
いくつもの鳥居を通過して森の中の道を進んだ。
鳥居はいくつも連なっている。いくつも連なって、森の奥へ、奥へと僕を誘う。
というかこの森、なんかやたらと深くないか? 外から見た感じだともうとっくに踏破しちゃってる頃では?
ひとつ鳥居をくぐるたびに、『鳥居は此界と異界を隔てる結界なのだ』とか『異世界へ通じている門なのだ』とか、そういう余計な知識が脳裏をよぎる。
まさか帰って来れなくなったりしないよな。
ふと沸いたそんな思考に、まさか、と自分で反論する。
おいおい、夕声の中二病が伝染ったか? そんな非現実的なこと、あるわけないだろ。
と、そのとき。
進む先に、仄かな灯りが見えた。そしてその灯りを認識した途端に、わいわいと盛り上がる人々の声も聞こえはじめる。
救われたような気分で、僕は微かな光明に向かって歩いた。
やがてたどり着いたのは、森の中の広場だった。
広場には無数の、そして大小様々なお稲荷様があった。
ホームセンターで数千円で売ってるようなものから、見るからに立派な特別製のものまで。新しいものから古いものまで。宮や祠の類はなくて陶器の狐だけが置かれている一画もあった。
周囲の木々には洗濯ばさみで固定されて油揚げがつるされている。
僕はそれらをはっきりと視認できている。
なぜなら広場にはいくつも提灯が吊るされて、その下でいましも宴会が催されていたから。
「よう、ハチ」
いくつかある座卓の人々の列から僕を呼ぶ声があった。
「こっち、こっち」
声のした方をみると、探し求めていた人物が手招きをしていた。
「夕声さぁん……」
僕は情けない声を出して彼女の元に急ぐ。
近くに座っていた人たちがくすくす笑いながら場所を開けてくれた。
様々な、実に様々な人種がいた。家事の途中で抜け出してきたようなエプロン姿の主婦もいれば、この場をライブの打ち上げ会場と誤認してしまいそうになるビジュアル系のバンドマン、さらにはつま先から頭のてっぺんまで完璧に着付けた和装の美女も。
これ、いったいどういう集まりなんだ? こんな真っ暗い森の奥で。
「神社でお祭りがあった日はこっちでも宴会をやるんだ」
夕声が説明した。やっぱり僕の心を読んだように。
「こっちでもって、ここ、なんなの? それにこの人たちは?」
「ここは女化神社の奥の院だよ。そして」
そこでもったいぶるように言葉を切って、続ける。
「ここが女化ヶ原さ。別名、根元ヶ原」
「根元ヶ原……それって、昔話の中で正体のバレた狐が消えていった、あの?」
せいかーい、と夕声。
「地元の人は狐の穴って呼んでる。ここにあるお稲荷さんはみんな町の人が置いてくれたもんだし、今でも毎日油揚げをお供えしてくれる人もいるんだ。そこらにつるされてる油揚げもみんなそうだ。昼間に町の人がつるしてったんだよ」
愛されてんだろ、と夕声は胸を張る。
「毎日こんな森の奥まで来る人がいるの?」
「いや、いつもは入り口からここまで一分もかからないよ。小さい森だもん」
「は?」
「今日は宴会だから、邪魔が入らないように道の長さを化かしてんだよ。まさかあんたまで引っかかっちゃうとは思わなかったけどさ」
何言ってんだこいつ?
「何言ってんだこいつ、って思ってるだろ?」
「うん」
素直に頷く僕である。素直さは僕の美徳の一つだ。
夕声は大きく、そしてわざとらしくため息をついた。もしかしてそれは僕の真似か?
「まぁ、あんたがあたしの話をすこッッッしも信じてないのはわかってたよ。だからこそ、今夜はこうしてあたしらの宴会に招いたんだ」
「? どういうこと?」
「ヘンケンの塊みたいなあんたに。ひとつ現実を見せてやろうと思ってさ。……おーい、松、竹、梅! ちょっとこっちゃおいでー!」
夕声がそう呼びかけると、宴席の人々の中から三匹の動物が飛び出して、トコトコとこちらに歩いてくる。
「タ、タヌキだ……」
なんだこれ、飼いならされてるのか?
タヌキって、人間に慣れるの?
「なぁハチ、もちろんあんたはこいつらのこと知ってるよな?」
「は? このタヌキたちのこと? 知らないよ、知るわけないよ」
僕がそういうと、夕声は肩をすくめて呆れを表現した。アメリカ人のように。
「薄情なやつ。ここまで案内してもらっといてそれかよ」
「は?」
「よっし、松、竹、梅。このあんちゃんにちょっと現実見せてやってくれ」
夕声がタヌキたちに言った。
すると、タヌキたちはおもむろに前脚を持ち上げて、人間のように後ろ足だけで立ち上がった。
それから、唖然としている僕の前で、くるくると回転し始める。
そんなことして目を回さないのだろうかと間抜けな感想を抱きながら見ていると、案の定三匹は目を回して転んでしまうのだけれど……。
「へ?」
回転が止まった時、タヌキたちがいた位置には、互いに背中を預けて尻餅をついている三人の子供がいた。
男の子が二人と女の子が一人。全員、黄色い通学帽。
「は? え? は?」
唖然を通り越して呆然も通り越してただただ我が目を疑う僕。
そんな僕の前で、男の子の一人が「まつー」と言い、残る二人が「たけー」「うめー」と続く。
とても見覚えのあるやり取りをする、すごく見覚えのある三人。
「見たか? こいつが現実だ」
あまりにも現実離れした光景に、貧血を起こしそうになる。
タヌキが人に化けた。変身した。
変身……変身……へんしん……。
「……グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目覚めると……自分が一匹の巨大な毒虫に変わって……」
「あんたって斬新な現実逃避の仕方すんだなー」
はっ、ショックのあまりカフカの『変身』なぞ朗読してしまっていた。
「なにこれ……? いったい、どういうトリック……?」
「トリックなんかじゃねーよ。『トリック』って『騙す』って意味だろ? こいつらは騙してもいなけりゃ化かしてすらいない。ただ化けただけだもん」
「ただ化けただけって……え、あの、ほんとに……ほんとにタヌキ……?」
まじで? と尋ねる僕に、まじで、と答える夕声。
子供たちが「タヌキー」「むじなー」「ぽんぽこー」と言っていたが、気に留めている余裕がないのでとりあえず無視する(……むじな? いやダメだ、気にしたら負けだ)。
僕は集まっている人たちを眺め渡す。
提灯の灯りの下で盛り上がっている宴会の面々を。あの統一性のない老若男女。お祭りから調達してきたのであろう焼きそばやフライドポテトをつまみにビールを飲んでいるみなさんを。
「……ここにいる人たち、まさかみんな、タヌキなの?」
「まぁほとんどはタヌキだな。ヘビとかもいるけど」
ヘビ……! ヘビだってよ……!
本気かこいつ? そして僕はいま正気なのか?
「それで、あの、君は……キツネ?」
「そうそう」
やっと信じる気になったか、と夕声が嬉しそうに僕の背中を叩く。にゃははーと笑いながら。
「……ありえない……こんなの、まるっきり常識はずれだ……」
「それそれ、あんたがヘンケンの塊だってのはまさにそれだよ。知ってるか? 『常識ってのは十八歳までに集めた偏見のコレクション』なんだぜ。漫画の台詞だけど」
「いや、それ確か元はアインシュタインの台詞だし……というか、漫画読むの? キツネなのに?」
「キツネだって漫画も読むしスマホも持ってるよ。令和の時代にどんだけ考え古くさいんだっつの」
令和の時代にタヌキだのキツネだの言われてるこっちの身にもなって欲しい。
と、その時だった。
「夕声さん。場も温まってきましたし、そろそろはじめましょうや」
話しかけてきたのは恰幅のいい和服の旦那だった。
なんらかの権威ある団体の役員のような(あるいは組長のような)貫禄のある、僕の父よりいくらか年上と思しき年齢の男性。
そんな人が、さんづけで夕声を呼んでる。というか、敬語で話してる。
「ん、わかった。みんなにはじめるって伝えといてよ」
そしてタメ語でなにやら指示を伝える夕声。貫禄のある旦那は笑顔で夕声にお辞儀をして引き下がる。年長者の自分に指図をする小娘に少しも不満を感じていないらしい。
「い、いったいなにがはじまるの?」
小物感も丸出しに尋ねる小市民な僕である。
そんなこちらの反応がいたくお気に召したらしく、「ふふーん」と鼻高々にご満悦の夕声。キツネじゃなくて天狗じゃないのかこいつ。
それから、彼女は言った。
「宴会のお楽しみといったら、なんといっても余興、かくし芸、宴会芸、だろ?」
僕はソファに腰掛け、重火器を振り回して吸血鬼と戦うココ・ココの活躍を見守る。お祭りで買ってきた焼きそばを食べながら。
しかし結局、僕は主人公レイモンドとコートニーのロマンスも、彼らと吸血鬼の戦いの行方も見届けることができなかった。
映画の途中でいつの間にか眠ってしまっていたのだ。
目が覚めたとき、部屋の中はすっかり暗くなっている。
暗闇の中でスマホを探って時刻を確認する。ロック画面のデジタル時計は、二〇時二十六分を示している。
それから、繰り返し鳴らされ続けている玄関チャイムに気づく。
我が家の二つある玄関のうち、『昔側』の来客を告げる音。
――夕声だ。
そこからはまるっきり昨日の再現だった。
僕は慌てて飛び起きると、寝ぼけ眼を擦りながら昨日と同じ台詞を叫んで廊下を走った。はいはい、今出ます。
しかしあにはからんや、訪問者は、昨日と同じ人物ではなかった。
「こんばんわ」
「こんばわ」
「おこんばんわです」
玄関先にいたのは、小学生の三人組だった。男の子が二人と女の子が一人。ご丁寧にも全員が黄色い通学帽を被っている。
見るからに低学年だ。
「夕声ちゃんが呼んでる。来て」
男の子の一人が代表して言い、残る二人が「来て」「来て」と声を揃える。
そうして、唖然としている僕の袖を、三人揃って引っぱる。意外なほど強い力で。
三人に導かれるまま、僕はサンダルをつっかけて家を出た。
当たり前だけど、室内と同じように外はもうすっかり暗い。
というか、露骨なまでの対比が闇の中に浮かび上がっていた。
我が家を境にニュータウン側の道は街灯もあって明るいのだけれど、逆方向の女化方面に続く道は民家の明かり以外には一本の街灯もないのだ。
その暗闇の中を、子供たちは少しも怯まずに歩いていく。
まるで暗闇を見通す夜行性の目でも持っているかのように。
スマホに内蔵されたライト機能を頼りに、僕はどうにか子供たちの後を追う。
「ねえ君たち、もうすぐ九時になるけど、大丈夫? お家の人は心配してない?」
ようやく眠気が晴れてきた僕は、いまさらのようにそう聞いてみる。
返答はなかった。前を進む三人はほんの一瞬だけ歩みを止めたものの、揃って僕を一瞥した後で、やはり揃って馬鹿にしたような笑みを浮かべて再び歩き出した。
ヤなガキどもだな、と僕は思った。
案の定と言うべきか、子供たちが向かっている先は女化神社のようだった。
昼間通ったルートをなぞって僕たちは歩く。神社の看板で左折して、パチンコ屋の前の道を直進して、大きな道路の信号を渡る。昼間とまったく同じ道筋。
そのルートから、子供たちが不意に横道にそれた。
神社とは全然違う方向に向かって。
老人ホームの駐車場を、家と家の合間の狭い道を、さらには民家の庭を遠慮も会釈もなしに横切って子供たちは進む。
後に続く僕は誰もいない闇に向かってお辞儀なんかしつつ、小さくなってこそこそと進む。こう見えて僕は小市民なのである。
やがて到着した先は、住宅地の奥にあるこんもりとした小さな森だった。距離にして神社から徒歩五分くらいだろうか。
民家の横の道路を起点に、いくつもの鳥居が森の中へと続いていた。
まるで女化神社の参道みたいだ、と僕は連想する。
「それじゃ、ちゃんと連れてきたからね」
やはり男の子が代表して宣言し、残る二人が「あんないしゅーりょー」「おつとめかんりょー」と言う。
それから子供たちは、あとはもう僕になんてちっとも構わずに、脇目も振らずに森の中へと走り出した。
真っ暗な中を、各々全速力で。
その駆けていく姿が、突如、闇に溶けるように消えた。
びっくりして、反射的にスマホのライトを森へと向ける。
LEDの白い光が一瞬だけ捉えたのは、四つ足で駆け去る三匹の小動物の姿だった。僕はその動物を一度だけ見たことがあった。
「……タヌキ?」
※
子供達の後を追って、おっかなびっくりと森を進む。
もはや描写するのも馬鹿馬鹿しいのだけど、森の中はものすごく暗い。
なにしろ光が全然ないのだ。民家の光どころか、頭上を幾重もの梢に遮られているため星の光もここには届かない。
完全なる闇の世界だ。とてもとても暗黒。
あの子供たちは本当にこんなところに入っていったのか、と僕は訝しむ。
というか、本当に夕声はこんなところにいるのか?
疑わしい。はなはだ疑わしいぞ。暗いし怖いし、正直もう帰りたい。
しかしそうは思っても歩みを止めない僕である。
なぜなら子供たちが入っていくのを見ちゃったから。それを放っといて大人の僕が帰っちゃうのは、それは、なんかまずい。
責任感というよりは問題化を恐れる保身が僕を突き動かしていた。小市民なのだ。
いくつもの鳥居を通過して森の中の道を進んだ。
鳥居はいくつも連なっている。いくつも連なって、森の奥へ、奥へと僕を誘う。
というかこの森、なんかやたらと深くないか? 外から見た感じだともうとっくに踏破しちゃってる頃では?
ひとつ鳥居をくぐるたびに、『鳥居は此界と異界を隔てる結界なのだ』とか『異世界へ通じている門なのだ』とか、そういう余計な知識が脳裏をよぎる。
まさか帰って来れなくなったりしないよな。
ふと沸いたそんな思考に、まさか、と自分で反論する。
おいおい、夕声の中二病が伝染ったか? そんな非現実的なこと、あるわけないだろ。
と、そのとき。
進む先に、仄かな灯りが見えた。そしてその灯りを認識した途端に、わいわいと盛り上がる人々の声も聞こえはじめる。
救われたような気分で、僕は微かな光明に向かって歩いた。
やがてたどり着いたのは、森の中の広場だった。
広場には無数の、そして大小様々なお稲荷様があった。
ホームセンターで数千円で売ってるようなものから、見るからに立派な特別製のものまで。新しいものから古いものまで。宮や祠の類はなくて陶器の狐だけが置かれている一画もあった。
周囲の木々には洗濯ばさみで固定されて油揚げがつるされている。
僕はそれらをはっきりと視認できている。
なぜなら広場にはいくつも提灯が吊るされて、その下でいましも宴会が催されていたから。
「よう、ハチ」
いくつかある座卓の人々の列から僕を呼ぶ声があった。
「こっち、こっち」
声のした方をみると、探し求めていた人物が手招きをしていた。
「夕声さぁん……」
僕は情けない声を出して彼女の元に急ぐ。
近くに座っていた人たちがくすくす笑いながら場所を開けてくれた。
様々な、実に様々な人種がいた。家事の途中で抜け出してきたようなエプロン姿の主婦もいれば、この場をライブの打ち上げ会場と誤認してしまいそうになるビジュアル系のバンドマン、さらにはつま先から頭のてっぺんまで完璧に着付けた和装の美女も。
これ、いったいどういう集まりなんだ? こんな真っ暗い森の奥で。
「神社でお祭りがあった日はこっちでも宴会をやるんだ」
夕声が説明した。やっぱり僕の心を読んだように。
「こっちでもって、ここ、なんなの? それにこの人たちは?」
「ここは女化神社の奥の院だよ。そして」
そこでもったいぶるように言葉を切って、続ける。
「ここが女化ヶ原さ。別名、根元ヶ原」
「根元ヶ原……それって、昔話の中で正体のバレた狐が消えていった、あの?」
せいかーい、と夕声。
「地元の人は狐の穴って呼んでる。ここにあるお稲荷さんはみんな町の人が置いてくれたもんだし、今でも毎日油揚げをお供えしてくれる人もいるんだ。そこらにつるされてる油揚げもみんなそうだ。昼間に町の人がつるしてったんだよ」
愛されてんだろ、と夕声は胸を張る。
「毎日こんな森の奥まで来る人がいるの?」
「いや、いつもは入り口からここまで一分もかからないよ。小さい森だもん」
「は?」
「今日は宴会だから、邪魔が入らないように道の長さを化かしてんだよ。まさかあんたまで引っかかっちゃうとは思わなかったけどさ」
何言ってんだこいつ?
「何言ってんだこいつ、って思ってるだろ?」
「うん」
素直に頷く僕である。素直さは僕の美徳の一つだ。
夕声は大きく、そしてわざとらしくため息をついた。もしかしてそれは僕の真似か?
「まぁ、あんたがあたしの話をすこッッッしも信じてないのはわかってたよ。だからこそ、今夜はこうしてあたしらの宴会に招いたんだ」
「? どういうこと?」
「ヘンケンの塊みたいなあんたに。ひとつ現実を見せてやろうと思ってさ。……おーい、松、竹、梅! ちょっとこっちゃおいでー!」
夕声がそう呼びかけると、宴席の人々の中から三匹の動物が飛び出して、トコトコとこちらに歩いてくる。
「タ、タヌキだ……」
なんだこれ、飼いならされてるのか?
タヌキって、人間に慣れるの?
「なぁハチ、もちろんあんたはこいつらのこと知ってるよな?」
「は? このタヌキたちのこと? 知らないよ、知るわけないよ」
僕がそういうと、夕声は肩をすくめて呆れを表現した。アメリカ人のように。
「薄情なやつ。ここまで案内してもらっといてそれかよ」
「は?」
「よっし、松、竹、梅。このあんちゃんにちょっと現実見せてやってくれ」
夕声がタヌキたちに言った。
すると、タヌキたちはおもむろに前脚を持ち上げて、人間のように後ろ足だけで立ち上がった。
それから、唖然としている僕の前で、くるくると回転し始める。
そんなことして目を回さないのだろうかと間抜けな感想を抱きながら見ていると、案の定三匹は目を回して転んでしまうのだけれど……。
「へ?」
回転が止まった時、タヌキたちがいた位置には、互いに背中を預けて尻餅をついている三人の子供がいた。
男の子が二人と女の子が一人。全員、黄色い通学帽。
「は? え? は?」
唖然を通り越して呆然も通り越してただただ我が目を疑う僕。
そんな僕の前で、男の子の一人が「まつー」と言い、残る二人が「たけー」「うめー」と続く。
とても見覚えのあるやり取りをする、すごく見覚えのある三人。
「見たか? こいつが現実だ」
あまりにも現実離れした光景に、貧血を起こしそうになる。
タヌキが人に化けた。変身した。
変身……変身……へんしん……。
「……グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目覚めると……自分が一匹の巨大な毒虫に変わって……」
「あんたって斬新な現実逃避の仕方すんだなー」
はっ、ショックのあまりカフカの『変身』なぞ朗読してしまっていた。
「なにこれ……? いったい、どういうトリック……?」
「トリックなんかじゃねーよ。『トリック』って『騙す』って意味だろ? こいつらは騙してもいなけりゃ化かしてすらいない。ただ化けただけだもん」
「ただ化けただけって……え、あの、ほんとに……ほんとにタヌキ……?」
まじで? と尋ねる僕に、まじで、と答える夕声。
子供たちが「タヌキー」「むじなー」「ぽんぽこー」と言っていたが、気に留めている余裕がないのでとりあえず無視する(……むじな? いやダメだ、気にしたら負けだ)。
僕は集まっている人たちを眺め渡す。
提灯の灯りの下で盛り上がっている宴会の面々を。あの統一性のない老若男女。お祭りから調達してきたのであろう焼きそばやフライドポテトをつまみにビールを飲んでいるみなさんを。
「……ここにいる人たち、まさかみんな、タヌキなの?」
「まぁほとんどはタヌキだな。ヘビとかもいるけど」
ヘビ……! ヘビだってよ……!
本気かこいつ? そして僕はいま正気なのか?
「それで、あの、君は……キツネ?」
「そうそう」
やっと信じる気になったか、と夕声が嬉しそうに僕の背中を叩く。にゃははーと笑いながら。
「……ありえない……こんなの、まるっきり常識はずれだ……」
「それそれ、あんたがヘンケンの塊だってのはまさにそれだよ。知ってるか? 『常識ってのは十八歳までに集めた偏見のコレクション』なんだぜ。漫画の台詞だけど」
「いや、それ確か元はアインシュタインの台詞だし……というか、漫画読むの? キツネなのに?」
「キツネだって漫画も読むしスマホも持ってるよ。令和の時代にどんだけ考え古くさいんだっつの」
令和の時代にタヌキだのキツネだの言われてるこっちの身にもなって欲しい。
と、その時だった。
「夕声さん。場も温まってきましたし、そろそろはじめましょうや」
話しかけてきたのは恰幅のいい和服の旦那だった。
なんらかの権威ある団体の役員のような(あるいは組長のような)貫禄のある、僕の父よりいくらか年上と思しき年齢の男性。
そんな人が、さんづけで夕声を呼んでる。というか、敬語で話してる。
「ん、わかった。みんなにはじめるって伝えといてよ」
そしてタメ語でなにやら指示を伝える夕声。貫禄のある旦那は笑顔で夕声にお辞儀をして引き下がる。年長者の自分に指図をする小娘に少しも不満を感じていないらしい。
「い、いったいなにがはじまるの?」
小物感も丸出しに尋ねる小市民な僕である。
そんなこちらの反応がいたくお気に召したらしく、「ふふーん」と鼻高々にご満悦の夕声。キツネじゃなくて天狗じゃないのかこいつ。
それから、彼女は言った。
「宴会のお楽しみといったら、なんといっても余興、かくし芸、宴会芸、だろ?」
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二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
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