蟲籠の島 夢幻の海 〜これは、白銀の血族が滅ぶまでの物語〜

二階堂まりい

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終章

1 Lethe diana

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凜王りお、ちょっと上を向いて」
 母に言われて、昆虫図鑑に熱中していた少年は、ついと顔を上げた。

 帽子の顎紐が緩んでいたらしく、凜王と同じ目線までしゃがんだ母は、それを締め直してくれる。


 凜王の通う幼稚園でも夏休みが終わり、年中は秋の発表会に向けて毎日バイオリンの練習をさせられている。

 そして一息つける日曜日でも、母は凜王に色んなものを見て学んでほしいと言って、
一日で行って帰ってこられる範囲ならばあらゆる施設を連れ回す。

 博物館に美術館、バーベキューにダム見学、そして今日はお仕事体験が出来るとかいう施設。
 だから凜王はこの暑い中、駅のホームで電車を待っていた。

 母が見せてくれる物事には全く興味が無いわけでもないが、
もう少し涼しい日を選んでくれても良かったのに、と、透き通る青空を見上げながら思う。


再び図鑑に目線を戻そうとした時、目の横に黒い影がちらついた。
 
 目玉模様のある、茶色い蝶。
 クロヒカゲだ、と思った。

 ちょっと捕まえて、図鑑と見比べてみたい。
 凜王は蝶に手を伸ばす。


 しかし蝶の身体は、凜王の掌にめり込んだ。
 互いにどこかがひしゃげたわけでもなく、痛みもない。
 煙のように擦り抜けていく。


 同時に、頭の中に流れ込んでくる映像があった。
 赤い瞳の男、彼がこちらに包丁を差し出してくる姿、その頭上でぼうっと輝く電球。
 風景は全体的に暗く、包丁だなんて危ないものも出てくるのに、なぜか心が暖かくなる。
 
 
 白昼夢のような体験に凜王が呆けているうちに、『お化けの蝶々』は消え去っていた。

 慌てて辺りを見回すと、蝶は線路の方へと移動している。
 そしてホームの際に立っている五十代くらいの男の肩に留まった。


 特急列車が通過する旨のアナウンスがスピーカーから流れてきた。
 
 幼い我が子が大人しくしているか念のため確認しようと、母の視線が文庫本からベンチへ移される。
 行儀よく座ってはいるが、訝しげに線路を睨んでいる凜王を見て、母が何か言いかけた。

 それは特急のブレーキ音と凄まじい悲鳴によって打ち切られる。

 察した母は、凜王の頭を胸の中に抱え込んだ。
「ごめんね、今日のお出掛けは中止……電車さんが人とぶつかったみたい」
「……落ちたね。お化けの蝶々が留まったおじさん」
 凜王は事故を目にしてしまったのだ。

 五歳の子にとってはトラウマになってしまうのではないだろうか。
 せめて死体が酷い有り様でなければ心配は軽いのだが、と思いつつ母は線路へ振り向く。
 
 不幸中の幸いなどと言ってしまっては悪いかもしれないが、血や肉片は見当たらなかった。
 
 ほっとしたところに、運転手と駅員の会話が聞こえてくる。
「駅の外まで吹っ飛ばされでもしたんですかね」
「まさか! 
 おれ、確かに車輪の下に巻き込んだなって……見てしまったんですから。
 思い込みで、この高さを吹っ飛ぶ人を見逃せますか」

 ホームの下、車両の下、線路上、道路との間に立つ高めのフェンス。
 その間を行ったり来たりしながら、二人は探し物をしている。

 探しているのは、線路に落ちた男のことだろう。
 人一人が跡形も無く消えてしまった、とでも言うのだろうか。
 そんなはずは無い。

 いずれ真相が判明すれば新聞にでも載るだろう――今はとりあえず、帰って凜王の側についていてあげよう。
 母は凜王を抱え上げると、駅を出て行った。



 赤黒い呪詛の海へ男を叩き込み、まぬけ面をしている彼を嘲笑う。

 死神め、と罵る彼の的外れな罵倒に優しく訂正をくれてやる。
「殺しやしませんよ。
 ただ私の大切な人を苦しめた貴方に、報いを与えるだけ。
 未来へ進むための儀礼として」

「おれが誰を苦しめたって!」
 駅から突如として上も下も無い異空間に叩き落された男は汚く喚き散らす。
 その首に大量の百足がずるりと巻き付いた。

「お前にその自覚が無くても……
妻を怒鳴りつければ子は胸を締め付けられるし、お前がこれみよがしな溜め息一つ吐くだけで子は怯える。
 両親の間に絆が無いというのは、子にとっては天地が裂けるような恐怖だ。
 それをお前は毎日……」
「おい、子って……深夜美みやびのことか? 
 深夜美とお前に、深夜美とこの蟲共に、何の関係があるんだよ!」

 嵐師あらしの声に反応したらしく、海の波のように、夜空に浮かぶ極光のように、蟲が四方八方でざわめきだす。
 嵐師の恐怖や怒りを啜って狂喜しているのだ。
 楼夫たかおはその中から一匹の蠍を摘まみ上げ、嵐師へ放り投げる。
 集る蟲たちに包まれて身動きがとれない嵐師の腕に、その毒針が突き刺さる。

 嵐師は絶叫を上げるが、底無しの呪詛の中では、
その叫びは反響することなく、虚しく通り過ぎていく。

「今注入したのは、カルーの民の血……平たく言えば、願いに沿った能力を一つ授けてくれる血」
 喚き続ける口にでっぷり太った蝦蟇を一匹押し込みながら囁く。

 酒浸りで濁った瞳が楼夫に縋るような視線を向けてきたが、哀れみなど起こらない。

「お前は今、死にたくないと願ったな。
 だから叶えてやった。
 お前は死なないさ……ただし、時空の狭間でただ一人、神或いは化け物の玩具にされながら」

 時空の狭間や神などと言われてもよく分からないらしく、嵐師は涎を垂らしながらひたすら頭を振っている。
 その目には涙が浮かんでいた。
 恐怖の涙か、後悔の涙か――そんなことはどうでもいい。

 深夜美は悪として咲くことを選んだ。
 悪は何もかもを踏みつけて進むものだ。
 ましてや復讐で立ち止まるなど有り得はしない。

 楼夫は親指から中指までの三本を嵐師の眼窩に押し込み、眼球を潰す。
「お前が泣いてんじゃねえぞ! 
 深夜美様の心の痛みが、目玉一個で償えるわけがないだろう! 
 百個捧げられても足りはしない!」
 指を引き抜くと、傷口はじわじわと修復されていく。
 塞がりきる前に眼窩の中へ蛆虫の姿をした呪力を入れると、蛆は嵐師の脳へ上っていった。

「お前が狂いそうになっても、その蛆が正気に戻してくれる。
 名状し難き恐怖を永遠に味わうといい……」

 楼夫は頭上を見上げ、一転して優しい声で告げる。
「全ての拵えが出来ました、深夜美様」
 それに応えるように闇が増幅し、嵐師を包み込んで収縮する。
 
 嵐師の姿は一瞬で消え去り、後には蝦蟇が一匹転がっているのみであった。
 その蝦蟇も、蟲の群れの中に戻って行って見えなくなる。


 炎のように苛烈な紅蓮の呪力。
 父への復讐を果たし、呪いの主は再び神へ挑む。
 今度は帝雨荼ていあまたのような低次の神が相手ではない。
 より高次、世界の構造そのものへ。

 二ツ河島での勝利は、彼の神話においてはほんの篇首に過ぎない。
 大剣を振るう赤き災厄は、いつか再び戦へ飛び込んでいく。
 そして楼夫は彼を必ず勝利へ押し上げるのだ。
「必ず、一緒に闇の帝国を見ましょう」
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