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四章
9 最強の呪物、深紅の悪夢
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艶子が帰ってから十時間後、楼夫のベッドの上に広がっていたのは、長い黒髪だった。
ラジオからは、フランス古典文学の朗読が流れている。
深夜美は目を閉じて聴き入っていたが、ふいに猫のような鋭い瞳を開いて、床に座っていた楼夫に話しかける。
「どうだった、こんな良い男から妻を奪った感想は……」
そこには怒りでも嘲りでもなく、気心の知れた者同士の揶揄いだけが含まれていた。
しかし楼夫は真顔を崩さない。
「特に何も。私には深夜美様しか見えていませんので」
楼夫の答えに、深夜美から苦笑が零れる。
すると楼夫も思い出したように問うてきた。
「そういえば、素朴な疑問がありまして……。
深夜美様が人の心を読むのに長けているのは分かっています。
今日だって、艶子とのやりとりは貴方の用意した台本通りになった。
あの女の言動は全て貴方様の掌中でした。
しかし、それにしたって艶子が私に弱みを打ち明けるのが早すぎはしませんか。
彼女は多くの島民と同じように、私を嫌っていた」
「そのことか。
じゃあ……楼夫が私に一つ秘密を教えてくれたら、種明かししようかな」
深夜美は悪戯っぽく言う。
「私の、秘密?」
楼夫はしばらく考え込むと、さっと顔を赤くして、上半身をベッドの下に潜り込ませる。
深夜美がぽかんとしていると、楼夫はカラーボックスを抱いて這い出て来た。
「実は、私……漫画が好きなんです!」
そう言い放ち、楼夫は箱を開ける。
深夜美は呆気にとられつつ、身を乗り出してそれを覗き込む。
全十巻の、古くはあるが大切に読まれてきたらしきコミックス。
「子どもっぽいと馬鹿にされるのが怖くて……。
今まで親にも内緒で持っていたのです」
恥ずかしげに苦笑する楼夫の前で、深夜美はあらすじをなぞる。
吸血鬼の一族と吸血鬼ハンターの一族が、場所を変え時代を変え、超能力で戦ったり学園で恋をしたり殺人事件の推理をしたりと、なにやら忙しいストーリーだった。
「楼夫はもっと、自分の心が示す好悪に素直になっていい。
物事をこんなにも心から愛することが出来る貴方は素敵だ。
これ、私も読ませてもらっていいかな」
「ええ、是非……!」
ぱあっと笑う楼夫に、深夜美は顔を寄せた。
「超能力で戦う物語を読んでいるのなら、能力の秘匿がいかに重要かは分かるだろう?
楼夫が秘密を教えてくれたのだから、私も能力を見せよう……特別だ」
紅い瞳が間近に迫る。
蛇のような瞳孔から、紅い虹彩に暗闇が滲み出し、異様な文様を描き出す。
赤と黒は眼窩を越えて広がり楼夫を包み込む。
純粋すぎる憤怒を飼い慣らし、穢土に潜んで生きて来た『呪詛の器』の裔。
汚泥を裂いて生まれた、悪魔のための蓮の台。
自らを包む深紅の宮殿に見惚れていると、意志に反して楼夫の両手が頭へ伸び、猫っ毛を複雑に編み込みはじめた。
こんな器用に髪を結ったことなど無いにも関わらず、だ。
「手が、手が勝手に!」
楼夫が助けを求めるように叫ぶと、一面の赤は消え、視界は自分の部屋へと戻ってくる。
しかし手は止まらず、編み込みは完成してしまう。
「楼夫の父親と、艶子から集めた恨みで、僅かながら他者に暗示をかけられるようになったのだ。
瞳に浮き出る模様、それを補助する体の薫香や声の周波数で対象の脳を攻撃し、操ることが出来る。
心の底から拒んでいない限りは、私の言いなりになる。
カルーの民を操るのは少し骨が折れたが、彼女がだいぶ精神的に弱っていたせいか上手くいって良かった」
深夜美が説明してくれる。
「つまり艶子が私に簡単に悩みを打ち明けたのは、その御力のせいなのですね」
「暗示など無くても彼女はいずれ楼夫に靡いただろうが、時期は早い方が良いからな。
少し後押ししてやった」
「さすがは赤松……アサルルヒの裔、旧支配者の再臨」
異様な力を目にしても、楼夫に浮かんでいたのは恐怖ではなく陶酔であった。
「勝ってください、深夜美様」
悪魔を讃える言葉が口を衝いて出る。
「漫画では善なる主人公が勝つべくして勝つものです。
悪は散り際こそが華とも言われる。
だが現実にはヒーローなんて居ない。
それならこの腐った旧き神の秩序を破壊し、変革出来るのは、秩序がはじき出した悪だけだ。
全て壊して……そして叶えてください。貴方の夢を」
すると深夜美は、子どものような優しい笑みを一瞬浮かべた。
それはすぐに鋭い微笑に塗り替えられる。
「元よりそのつもりだ。
母のくれたものを無駄にはしないさ」
枕元にあった手鏡――赤い漆塗りの古めかしいそれを掲げながら深夜美は呟く。
鏡の裏には、黒い正円がきっぱりと塗り分けられている。
そして円の中に、小さな白い点と、牛の角のような二本の曲がった線が描かれているという、あまり華やかではない絵。
「母が遺してくれたものはほんの少し。二ツ河島の神話、この手鏡、我が名と身体。ぼくは母の望み通り、最強の呪物になる」
ラジオからは、フランス古典文学の朗読が流れている。
深夜美は目を閉じて聴き入っていたが、ふいに猫のような鋭い瞳を開いて、床に座っていた楼夫に話しかける。
「どうだった、こんな良い男から妻を奪った感想は……」
そこには怒りでも嘲りでもなく、気心の知れた者同士の揶揄いだけが含まれていた。
しかし楼夫は真顔を崩さない。
「特に何も。私には深夜美様しか見えていませんので」
楼夫の答えに、深夜美から苦笑が零れる。
すると楼夫も思い出したように問うてきた。
「そういえば、素朴な疑問がありまして……。
深夜美様が人の心を読むのに長けているのは分かっています。
今日だって、艶子とのやりとりは貴方の用意した台本通りになった。
あの女の言動は全て貴方様の掌中でした。
しかし、それにしたって艶子が私に弱みを打ち明けるのが早すぎはしませんか。
彼女は多くの島民と同じように、私を嫌っていた」
「そのことか。
じゃあ……楼夫が私に一つ秘密を教えてくれたら、種明かししようかな」
深夜美は悪戯っぽく言う。
「私の、秘密?」
楼夫はしばらく考え込むと、さっと顔を赤くして、上半身をベッドの下に潜り込ませる。
深夜美がぽかんとしていると、楼夫はカラーボックスを抱いて這い出て来た。
「実は、私……漫画が好きなんです!」
そう言い放ち、楼夫は箱を開ける。
深夜美は呆気にとられつつ、身を乗り出してそれを覗き込む。
全十巻の、古くはあるが大切に読まれてきたらしきコミックス。
「子どもっぽいと馬鹿にされるのが怖くて……。
今まで親にも内緒で持っていたのです」
恥ずかしげに苦笑する楼夫の前で、深夜美はあらすじをなぞる。
吸血鬼の一族と吸血鬼ハンターの一族が、場所を変え時代を変え、超能力で戦ったり学園で恋をしたり殺人事件の推理をしたりと、なにやら忙しいストーリーだった。
「楼夫はもっと、自分の心が示す好悪に素直になっていい。
物事をこんなにも心から愛することが出来る貴方は素敵だ。
これ、私も読ませてもらっていいかな」
「ええ、是非……!」
ぱあっと笑う楼夫に、深夜美は顔を寄せた。
「超能力で戦う物語を読んでいるのなら、能力の秘匿がいかに重要かは分かるだろう?
楼夫が秘密を教えてくれたのだから、私も能力を見せよう……特別だ」
紅い瞳が間近に迫る。
蛇のような瞳孔から、紅い虹彩に暗闇が滲み出し、異様な文様を描き出す。
赤と黒は眼窩を越えて広がり楼夫を包み込む。
純粋すぎる憤怒を飼い慣らし、穢土に潜んで生きて来た『呪詛の器』の裔。
汚泥を裂いて生まれた、悪魔のための蓮の台。
自らを包む深紅の宮殿に見惚れていると、意志に反して楼夫の両手が頭へ伸び、猫っ毛を複雑に編み込みはじめた。
こんな器用に髪を結ったことなど無いにも関わらず、だ。
「手が、手が勝手に!」
楼夫が助けを求めるように叫ぶと、一面の赤は消え、視界は自分の部屋へと戻ってくる。
しかし手は止まらず、編み込みは完成してしまう。
「楼夫の父親と、艶子から集めた恨みで、僅かながら他者に暗示をかけられるようになったのだ。
瞳に浮き出る模様、それを補助する体の薫香や声の周波数で対象の脳を攻撃し、操ることが出来る。
心の底から拒んでいない限りは、私の言いなりになる。
カルーの民を操るのは少し骨が折れたが、彼女がだいぶ精神的に弱っていたせいか上手くいって良かった」
深夜美が説明してくれる。
「つまり艶子が私に簡単に悩みを打ち明けたのは、その御力のせいなのですね」
「暗示など無くても彼女はいずれ楼夫に靡いただろうが、時期は早い方が良いからな。
少し後押ししてやった」
「さすがは赤松……アサルルヒの裔、旧支配者の再臨」
異様な力を目にしても、楼夫に浮かんでいたのは恐怖ではなく陶酔であった。
「勝ってください、深夜美様」
悪魔を讃える言葉が口を衝いて出る。
「漫画では善なる主人公が勝つべくして勝つものです。
悪は散り際こそが華とも言われる。
だが現実にはヒーローなんて居ない。
それならこの腐った旧き神の秩序を破壊し、変革出来るのは、秩序がはじき出した悪だけだ。
全て壊して……そして叶えてください。貴方の夢を」
すると深夜美は、子どものような優しい笑みを一瞬浮かべた。
それはすぐに鋭い微笑に塗り替えられる。
「元よりそのつもりだ。
母のくれたものを無駄にはしないさ」
枕元にあった手鏡――赤い漆塗りの古めかしいそれを掲げながら深夜美は呟く。
鏡の裏には、黒い正円がきっぱりと塗り分けられている。
そして円の中に、小さな白い点と、牛の角のような二本の曲がった線が描かれているという、あまり華やかではない絵。
「母が遺してくれたものはほんの少し。二ツ河島の神話、この手鏡、我が名と身体。ぼくは母の望み通り、最強の呪物になる」
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