森の雫、リン

ぽぽ太

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第三章

Ⅱ-ⅱ

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 カイトの靴屋を出てクルルと帰路につく頃には、日はすっかりとその姿を地の下に隠し、空は紫に群青を混ぜたような澄んだ色に染まっていた。
 クルルはその細い両の腕に、今日買ったものを麻袋に入れて抱えている。その姿にリンは微笑みつつ、それでも、歩きながら決意を伝える。
「私、帰るよ」
 コイックニーに聞かれないように、小さな声で。
「あら、そう」
「うん、今夜には出ていこうと思う」
 もう、ぐずぐずしていられない。一刻も早くみんなに会いたい。家族とか、家族じゃないとか関係ない。とにかく、みんなに会いたい。
「だからね、クルル」
「しっ!」
 リンの言葉はクルルによってさえぎられた。
「静かに、止まって!」
「どうしました?」
 数歩後ろを歩いていたコイックニーが立ち止まったリンたちに追いついて、問いかけてきた。
「……」
 クルルは黙って答えない。しかし、無言というのが、答えになっているとも言えた。
 クルルの視線の先には、クルルとデラトスの家を取り囲む十人ほどの男達。向こうはこちらに気づいていないようだが、とても穏やかな雰囲気とは言えない。家を取り囲む男達の中には、コイックニーと交代でリンの見張りをしていた長身の男も含まれていた。
 いったい何があったのかは分からないが、今家に戻っては、彼らに捕まってしまうであろうことは明確だった。しかし、それは困る。なんたってつい今しがたリンは、村に戻ることを決意したばかりなのだ。
「うわ!」
「ちょっと!あなた何しているの!」
「逃がさないこと、国王のご命令ですので」
 リンが帰ると言ったさっきの言葉を聞かれていたのか、いや、靴屋での会話だけで彼にとっては充分だったのかもしれない。
 何はともあれ、今リンはコイックニーに羽交い絞めにされていた。迂闊だった。目の前に気を取られすぎていた。毎日傍にいたから見張りの男に対する警戒が無意識のうちに薄れていたのだ。
「わたしとデラトスのお客さんよ!離して」
「国王のご命令ですので、どうぞ、ご理解ください」
「国王って言ったって、要はガジータでしょ!」
「国王のご命令ですので」
「くっ……!」
 クルルは恨みがましい目でコイックニーを睨み付ける。しかし、彼はその視線を首を回してさらりとかわすと、息をめいいっぱい吸ってから叫んだ。
「二等国王警備隊コイックニーより報告!水族の女はここだぁー!」
「なっ!」
 腹から空気を震わせるその声は、静まり返っていた夜に入りかけの町に響き渡った。
 家の周りにいた男たちの半分がこっちまで一直線に駆けてくる。訓練された走りだ。子供二人でどうにかなる相手では絶対にない。
 迷っている暇などない。何か、何か!どうにかして逃げなければ!
「えい!」
 先に行動したのはリンではなく、クルルだった。クルルは、両手に抱えた買い物袋から、小さな木箱を取り出すと、蓋をあけてリンを羽交い絞めにしている男に投げつけた。
 しかし、非力な少女の反撃が国王警備隊コイックニーに当たるはずもなく、造作なく避けられる。
 が、
「ぐあっくしゅん!」
 クルルがコイックニーに投げつけたのは、辛味粉だった。
 さすがの国王警備隊も無数にまき散らされたその赤い粉を防ぐ術はもっていなかったらしく、ほんの一瞬リンを捕えている腕に力が鈍った。リンはその隙を逃さず、コイックニーの羽交い絞めから逃れる。
 辛味粉が目に入って痛い。それでも今は我慢だ。
 リンとクルルは一目散に逃げ出した。
 デラトスの家を背に全力で走る。
「先に行って!」
 クルルが叫んだ。普段山の中を駆けずり回っているリンと比べてクルルの体力、脚力は著しく低かった。無理もない。彼女はただの子どもだ。
「一か八か!」
 リンは立ち止まって、後ろを振り返った。
 どうせリン一人で走っても、追いつかれるのは時間の問題だ。もとよりクルルを見捨てる気はない。
「んっ!」 
 リンは右手を前に突き出して意識を集中させる。早くなる動悸に目を瞑る。微かな風がリンの前髪を揺らした。
 今だ!
「だああああああああああああああああ!」
 リンは叫んだ。気づけば、コイックニーはクルルを追い抜いて、もうリンの目の前に迫ってきていた。
 リンの発射した水が!
 ……?
「え……?」
――ガシッ!
 リンは両腕をコイックニーに捕えられた。
「リン!」
 クルルが躓いて転んだ。こっちに来ることはかなわない。
「離しなさい!リンを、離しなさい!」
 クルルはコイックニーを睨み付ける。
 思考が停止し、抵抗することもままならないリンの耳に、厭に秩序だった音が入ってきた。駆け足のそれらは、リンの目の前まで来て止まった。
「一等国王警備隊ヅースだ。あなたがリンで間違いないか」
「うん……」
「殺害命令が出ている。悪いが死んでもらう」
 リンはヅースと名乗った気味の悪い男の目を見た。迷いのない目だ。
「国王警備隊とやらは随分と礼儀正しいのね!」
 クルルがヅースに向かって強気な発言をする。しかし、その両手は、他の国王警備隊にがっつりとつかまれていた。
「人違いだと困りますので」
 ヅースという男はねっとりとした笑顔でクルルの皮肉を受け流す。
「殺せ」
 そして、冷たく言い放った。

――ボゥ!
 燃えた
「ぐあああああああ!」
 リンではなく、ヅースの頭が。
 リンは、無意識的に一瞬怯んだコイックニーから飛びのいた。
「おおっと、わーりっ、強面さんたちが小っちゃい女の子たちいじめてたからつい」
 その声は……
「デラトス!」
「よ!ただいま!」
 相変わらず飄々としているが、例のごとくその目は笑っていなかった。
「悪いけど、あんたの抱いてる嬢ちゃん、俺の家族なんだわ」
 デラトスは軽い足さばきでクルルをとらえてる男の方を見た。それと同時に、男の肩から真紅の炎が上がる。
「ひゃぁ!」
 男は情けない声を上げると、数歩後ずさった。
 クルルがその隙に、慌ててデラトスに駆け寄る。
「遅いわ!遅すぎよ!」
「わりぃ」
 クルルの湿った声に、デラトスが何でもない風に応える。
「うわぁ!ぐわぁ!水!」
 叫ぶヅースはさっきと打って変わって威厳も何もあったものではなかった。
 少しやりすぎな気もした。彼はリンを殺そうとしたけれども、デラトスは、リンを助けてくれたけれども、それでもなんだか耐えられなくて……。
「だああ!」
 リンは、右手を燃え盛るヅースの頭に向けると、水を発射した。
「……」
 ヅースの頭の火は消え、ほんの一瞬、本来の時刻を思い出したかのように、交差点は、静まり返った。
 それでも、その静寂を呼び水に、今度は嘘のように、怒号が飛び交う。
「誰か!ヅース一等を運べ!」
「逃がすな!取り囲め!」
「狙いは茶毛の少女一人だ」
「援護を!」
「国王に報告だ!」
 一瞬のうちに火族たちがリンたちを七歩ほどの距離を置いて警戒しながら取り囲む。いつの間にか、リンたちを中心に円ができていた。
「リン、俺、お前のそういうとこ大好きだぜ」
 そういうとことはどういうとこのことだろうか。敵であるヅースを助けたことだろうか。
 デラトスの頬がにぃっと吊り上げられて、真っ白い犬歯がのぞいた。
「けどごめんな、今はお前が一番必要なんだよね」
 そう言うと、デラトスは取り囲む男達に向けて、左の腕を伸ばして、左肘に右手を添えた。左の掌は、まっすぐに正面を向いている。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 デラトスがゆっくりと、その場で一回転した。すると、取り囲む男たちの肩や膝などが順番に燃え始めた。まるで、デラトスが、遠くから見たものを意識的に燃やしているかのように。いや、なにもそんなに驚くことではない。 リンは、見たことがあるではないか。デラトスが、硝子越しにいる男のフードを燃やした様子を。手のひらから火の玉を発射するのではなく、遠くのものを直接燃やす様子を。
「すごい……」
「ほら、今のうちだ!」
 デラトスは、右手でリンの背中を一回ドンと押すと、自分は、クルルを肩に担いで、一目散に走り出した。


「ガッちゃんが、もう一度ナリ村を攻めることを決めた」
「それって……」
「あぁ、リンの力が必要になった。よろしく頼む」
「うん……」
「リンは、自分の村を救ってくれればいい。そうすれば、ガッちゃんは目を覚ましてくれるかもしれない。一石二鳥ってやつだ」
「……」
 分かってはいた。この人はリンを見ていない。リンの目を見ながら、ガジータを見てる。
 出会って三日だ。まして、他族。助けてくれたり、面倒見てくれたりしたのは、彼からしてみれば、ガジータのためということなのだろう。時たま見える優しさは、リン個人にあてたものというよりは、デラトス自身の性格によるところが大きい。悲観ではない。ここ数日で考えた、リンなりの冷静な分析だ。だが、それでいい。無償の親切は、ここまで複雑な関係だと信用しがたい。他人の気持ちや行動の理由が見えることは、敵味方に限らず安心できる要素になる。
 だから、それはいい。
「どうした?なんか問題あるのか?」
 それはいいのだが……。
 言っていいのかな……。
 心の中で否定したばかりのデラトスの優しさにすがってみたくなる。甘えてみたくなる。
  その瞬間、リンは自分の弱さを自覚した。いや、自覚してしまったから、もうその弱さに寄り掛かることはできなかった。
「いや、何でもない」
――さっき、水が撃てなかった。
 リンは、喉まで出かかった言葉をうんと飲み込んだ。

 馬が小さな声で嘶いた。
 リンたちは今、厩舎に隠れていた。リンたちがいるせいで、馬は眠れないらしい。本当に申し訳ない。
「とにかく、今やるべきは一つだ。ナリ村に戻る。出撃命令だけなら、明日にもナリ村の近くに待機している軍に届くだろう。だけど、ガッちゃんは戦に出向くつもりだ。ガッちゃんより早くナリ村に着くのはそんなに難しいことじゃない」
「うん」
「何か質問は?」
 意外にもクルルが手を挙げた。
「私のことは置いてってちょうだい」
「ダメだよ!クルル!」
 それは危険だ。今は立場や事情は大きく違えど、この三人は等しく国王の命令に歯向かったのだ。クルル一人を置いていくなんて、絶対にできない。
「捕まっちゃうかもしれない」
「そんなの分かってるわ」
 クルルの決意は固い。
「それでも、あなたたちの足手まといには」
「いーや、だめだ」
 クルルの台詞をばっさり切り捨てたのはデラトスだった。
「クルルが人質にでもなってみろ?そしたら俺は国なんか捨ててお前を助けに行くぜ。そっちの方が足引っ張るって」
「……」
「気持ちは嬉しい、でも近くにいてほしいんだ。いいか?」
「……分かったわよ」
 リンはほっと胸をなでおろした。正直、デラトスとクルルの関係はよく分からない。
 年齢的に見て親子ってことはないと思う。あ、でも、ルルも年齢不詳だけど、私のお父さんか。
 でもまあ、個人個人、人の数だけそれぞれの関係、それぞれの距離感があるわけで。リンは、今この二人のそれを見たんだと思った。
「よし、じゃあ、行くぞ、ほら、乗った乗った」
 デラトスは手近な馬に飛び乗ると、自分の後ろにクルルを乗っけて、自分の腹に手を回させた。
「リンは、馬は?」
「乗れる」
 というか、リンが馬に乗れなかったらどうするつもりなんだろうか。さすがに一頭に三人は乗れない。
「ねえ、この馬たち寝てたんじゃ……」
「南に向けて出発だ!」
 リンたちを探しているであろう国王警備隊に見つからないように、デラトスは小さな声で、出発を合図した。
 デラトスの馬の後ろにリンもついていく。久々の馬は、やっぱり慣れなかったけれど、体が覚えていてくれたところも多々あって、心配していたほどではなかった。
 町の外れまでくると、デラトスはあきらかに速度を上げた。
「へへ、ここ、俺の秘密の抜け道なんだ」
 風に乗ってかすかにクルルに話しかけるデラトスの声が聞こえた。
 リンは、刹那、振り返る。ナゴタ国グルタグ。いい街だった。今度は、平和なときに訪れたいと、橙に輝く夜町に灯のような思いを夜風から守るようにして、胸にしまった。
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