森の雫、リン

ぽぽ太

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第二章

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「ありがとう」
 タックは右手を幹から離しながら山を登らずに済む道順を教えてくれた大木にお礼を言った。
全てを今夜中に終わらせたい。目が覚めてタックがいないことに気が付けば、村人たちは慌てるだろう。巨木に伝言は頼んでおいたが、タックのせいでいらない混乱を呼ぶことになることはなるべく避けたい。ただでさえ、村の人たちは精神が弱り切っているのだ。一見相反する表現に思えるかもしれないが、気が立っていると言ってもいい。
 タックが目指しているのは、山脈のすぐ向こうにあるであろうナゴタ国軍の拠点だ。ナゴタ国の首都グルタグまではここから馬で五日はかかる。近いことには近いが、気軽に往復できるような距離ではない。軍の拠点が戦地からそう離れては不便であることから推測すれば、近くに拠点があると考えた方が自然だ。だとしたら、昨日の今日で、捕らえられたリンのいる場所も、ここから近い拠点である可能性の方が高い。
昼と違って大人の目をそこまで気にする必要もないので、堂々と北への一本道を歩いた。リンと迷子になった反省も半分くらい入っている。
 国境壁では誰か村の人が見張っているだろう。昨日の水が乾ききっていない今夜に、また火族が攻めてくる可能性は低いが、それでも全く無いとは断言できない。
 タックはしばらく黙々と歩いた。頭によぎる様々な可能性が彼を焦らせたけれども、それでも歩むペースだけは一定に保った。
「ここが……」
 目も当てられないほどに燃やされた木々の中、突然現れた煉瓦造りの壁。昨日は辿り着けなかった壁。ところどころ破壊されていて、立つ場所を選べば、壁の向こうを一望することさえできる。が、そんなことは二の次だ。
「高い……」
 村からは木々が邪魔して見ることはできなかったが、こうして目の前にするとその高さに圧倒される。タックの背丈の倍はあろうその煉瓦造りの壁は空気さえも遮っているように感じた。
 この壁を見る限り、なり村の所属するナジーシ国はナゴタ国からの襲撃を予期していたようにも思う。未だ、中央から何の伝達もなければ、援軍さえこない状況で断言はできないが、それでも、確実にこの壁は防壁だ。国と国の間の線引き以上の役割を期待されている。
 国境壁。
 国境を隔てる壁。
 国境とはなんだ、国とはなんだ。
 リンに聞けばそれらしい答えをくれるような気もするが、そのリンが今隣にはいない。
「じゃぁ、訊きにいけばいい」
 自分を奮い立たせるために少し声を出してみた。
 密出国、やってやろうじゃないか。


  タックの巨木に、モナたちが訪ねてきたのは今から七年も前のことだ。
「今日からまたお世話になります」
 そう言ったモナは傷だらけだった。モナは失礼にならないように、背負っていた弓を戸の近くに置くと、ジウに目線を定めた。近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。弱り切っているのは火を見るより明らかだった。
 当時まだ村の外へ出たことのなかったタックは、怖くなって母のテテの背後に隠れて、顔だけのぞかせていた。しかし、ジウはそんなモナに温かく手を差し伸べた。
「おかえりなさい」
 その言葉を聞いて、タックは初めて目の前にいる人が自分の仲間なのだということを知った。
 その後、巨木のこととか、畑のこととか、大人たちは難しい話をしていた気がする。
 モナが自分と同じぐらいの歳の少女を連れていることに気づいたのは、彼女がジウ巨木を出ていくそのときだった。
 その体躯は身長こそタックより一回り大きかったが、細い腕は重いものを持てば折れてしまうのではないかというほどだった。髪は煤けた茶色をしていて、この村にいる誰とも違っていた。
 しかし、最も印象に残っているのはそのどれでもない。目だ。ただ開けているという目。見るために開けているのではなく、開いているから見えているという、彼女の意志がどこにも感じられない目。
「名前は?」
 タックは勇気を出して今まさに巨木から出ようとしている彼女に声をかけた。名前が知りたかったのではない。彼女に名前があるのか知りたかった。
「あなたは?」
 問い返された。棘のある声だった。名を尋ねるなら自分から名乗れと言いたいのだ。
――いた
 彼女がちゃんとそこにいた。
 目にはなかった彼女の意志が、その声にはちゃんとあった。
「タック」
「……リン」
「よろしく、リン」
 リンはタックの差し出した手を不思議そうに見つめた。
 リンはしばらくあてもなく様々な場所に目線を泳がせてから、モナに背中を押されて一歩前に出た。
 そして、タックの手をつかんだ。
「正解」
 タックは満面の笑みで、つかんでくれたリンの手を握り返した。
 リンに対する恐怖はもぅ消えていた。怒った顔をした、困った顔をした、そして今ぎこちなく、はにかんだ。彼女は人間だった。
「よろしく、タック……?」
 彼女を守りたいと思った。


 意気込んだのが良かったかのかは知らないが、国境壁は拍子抜けするぐらいに簡単に超えることができた。見張りがいるのであろう塔の灯りを背にそう遠くないであろうナゴタの拠点を目指す。
 国境壁は建設中で、なおかつ至るところが破壊されていたので、どこからでも通り抜けができる、まさにザルのような壁だった。だからこそタックは見張りの目をかいくぐることができたのだと思う。こんな警備で大丈夫かと心配にもなるが、本気で警備をしようと思うと人手が足りないのかもしれない。灯りを掲げているだけでも牽制にはなる。
 暗目にも左右に立派な木々が立ち並ぶ。
 国境壁を越えると一気に緑が増えた。ナゴタの兵たちは村の外では炎を使わなかったらしい。
 緑と同様、虫の声も大きくなった。背中にへばりつくようにしつこい夏の暑さは、昼にこそまだ顔をのぞかせていたが、夜になった今では見る影もない。ひんやりとした風がタックのむき出しの一の腕をさらりと撫でていく。
 目指す宿営地は、目の前にある山と山の間の谷のあたりだとタックは睨んでいる。タックは北の国境を越えたのは初めてだったが、迷わずに真っすぐ進んでいった。タックの予想が正しければ、そろそろ目的の場所に着けるはずだ。ここまで近くに軍を構えられながら、襲撃されるその日まで気づけなかったとは残念な話もあったものだが、気づけないほどに今までナリ村が戦がなく平和だったとも言うことができる。
 そもそも今度のことは戦と言っていいのだろうか。宣戦布告すらなく、奇襲と言ってもいい。やり方が限りなく卑劣だ。礼儀知らずの国として他国から非難を受けても何も言い返せない振る舞いである。他国からの信頼を失うリスクを背負ってまでナリ村を攻めたきたナゴタの目的はいったいなんなのだろうか。
「おい、グルタグからの出撃命令はまだ来ねぇのか!」
 近くで野太い男の声がした。タックは慌てて手頃な木に登って身を潜めた。
 男だ。二人いる。
「落ち着けって。王も何かお考えがあるんだ」
「んなこと言ったってよ!」
 バキバキと木の枝が折れる音がした。
 腹いせで声の主が蹴り折ったのだ。
――許せない
 自分の不機嫌で無抵抗な者を傷つけるなんて、絶対にやってはいけないことだ。
 目の前の命を助けられなくて何が守るだ。
 気づいたら体が勝手に動いていた。タックは今いる木から男の脳天めがけて飛び降りた。タックの左足のかかとが見事に男の頭に命中して男は倒れた。
「貴様っ!何者だ!」
 もう一人の男が慌てて片手をタックに向けてくる。そしてその手のひらから発射された火の玉をしゃがんで避ける。
 タックの背後で火の玉が木の幹に当たり、ボォと音を鳴らした。一瞬ひやっとしたが、夜露に濡れた幹は一部分が焦げただけだ。タックは、視界の隅でそのことを確認すると、口に出さずに一言謝って、またも片の手のひらをタックに向けた男に向かって膝を伸ばしながら前に勢いよく跳んだ。
 頭突きだ。
 タックの頭突きが男の腹に入るか入らないかのタイミングでタックは横の腹に重い衝撃を受けた。慌てて体を横に回転させて衝撃を軽減させようとするが、遅かった。タックは地面に転がると、痛む脇腹から意識を逃し、気力で顔を上げた。
 手のひらがあった。
 タックの頭の中が一瞬真っ白になる。
「なぁ、こいつは正当防衛ってことでいいよなぁ!ああ!?」
 タックがさっきかかとで頭を蹴った男だった。木に登るために作られたナリ村の履物は薄い。意識までは奪えなかったようだ。
「恨みなら聞いてやるよ。ただし!お前が燃えた後にだけどな!」
 男が炎を放ったその刹那、タックは後ろに飛び退いた。男がゴチャゴチャ言っている間に体勢を整えることができていた。タックが低い位置にいる限り、炎はいつだって下に向けて放たれる。タックが避けた拍子に男たちから放たれた火が木に当たってしまうことはなくなる。
「すばしっこいガキだ」
「無実の弱者を、虐げるな!」
 タックはまた、男に飛びかかろうとした。が、それは叶わなかった。後ろから羽交い締めにされたのだ。
 しまった、敵は二人だった!
 目の前の男に集中しすぎたのと、過度の緊張で当たり前のことが頭から抜け落ちた。実地での経験が足りない証拠だ。
「死ねーーー!」
 目の前の男が燃やすのはさすがにまずいと思ったのか、タックの三倍はあろう太い右腕が振り上げられた。
 タックはしかし、その腕が振り下ろされる様をついに見なかった。目を瞑ったのではない、男の肩に矢が刺さって倒れたのだ。
「なんだ!?」
 タックを羽交い締めにしている男は、いきなり仲間が倒れたことに動揺して、腕の力がほんの少し弱まった。その隙を見逃すタックではなかった。
「てぃ!」
 男の手から逃れると、振り返り、大きな声を腹の底から出すと、男のみぞおちに握りこぶしを入れた。
 男はその場で腹を抱えてうずくまった。
 タックはその様子を確認すると、矢が飛んできた方に目を向けた。
「モナさん!」
 そこに立っていたのは意外な人物だった。
 タックは自分の感情が整理できずにその場に立ち尽くす。
 モナはゆっくりとタックの前に来ると、
「愚か者っ」
 と短く言った。
「タック君」
「でも、こいつら!木を!」
 傷付けた。一方的に。
 分かっている。彼らにとっては喋らぬ木は石ころ同然。タックだって、機嫌が悪いときに石を蹴ったりする。
 タックは足元で蹲る二人の男を見た。多少やりすぎた気もする。
 でも……
「木の声が聞こえる俺らが木を助けてあげないと」
 さっき火族の男がした行為は、無抵抗な少女を一方的に蹴りつけるのとなんら大差のない行為だ。なぜ、それに気づかない、気づけない。
「それに、火族は敵だ……」
 今そういう話をしているのではないことは頭では分かっていても感情が追いつかなかった。
「君はリンの、村のみんなの大切な人。死なれちゃ困る」
 静かな声でそう告げてモナは男の肩に刺さっている矢を垂直に抜いた後、男の傷口を腰にある小さな物入れから出した包帯を使って巻いた。
「睡眠矢」
 タックがあまりに見つめるから答えてくれたようだ。
 タックの知っている矢と違って鏃が柳の枝先のように細かった。人を殺すためのものでないことはその形状から窺い知れた。
「モナさん、俺……」
「帰りなさい」
「!」
「こっちにはリンはいない。何人かの火族を捕らえて聞いたけど、皆がそう言う」
 モナは歯を食いしばりながら言葉を紡いだ。タックにはとても嘘を付いているようには聞こえなかった。
「それなら、グルタグだ。リンは火族に連れ去られたんですよね?」
 焦る気持ちが敬体と常体をごっちゃにさせる。
「帰りなさい。リンは必ず私が助け出す」
「俺も行く!」
「いけない」
 モナが東がほんの少し明るんできた森の中で反射的に、抑えた声で言った。敵兵に気づかれてもおかしくない。
「戦は、そんなに甘いものじゃない……」
 モナがタックを睨みつける。
「分かってます」
「帰りなさい」
 今夜リンを取り戻して帰ればいいと来るときは思っていた。甘かった。
 リンはここにはいない。
 心臓が汗をかいているような内側からの不快感がタックを襲う。
「もぅ逃げないから!」
 リンを助けるのが自分じゃなければ嫌だなんて、そんな、傲慢な思考は無い。
 ただ、もう逃げたくない。
 リンはタックのことを行動力があると言って褒める。でも、本当は違う。いざという時、本当に行動力があるのはリンの方だ。普段は無鉄砲なくせにこういうときだけ足が竦む自分が嫌だ。怖くなって逃げ出す自分が嫌だ。
 論理も何もあったもんじゃない。
 自分の言葉は論理的な繋がりを早々と放棄し、無秩序な頭の中が流れ出ることを制御する理性が見当たらない。
 そう、子供のわがままだ。そんなこと、自分でも分かっている。分かってるけど、そう思っちゃうから仕方ないじゃないか。
「俺は死んでも構わない。だから!」
「だから!」
 今度のモナは反射じゃなかった。意図的な大声だった。
「だから、連れていけない……」
 モナは、強い眼光を放ちながらタックを見ていた。
「……」
「……」
「絶対に死なないから。危なくなったら逃げるから」
 逃げないと決めたばっかなのに……!
「……」
 逃げることを前提にしか彼女を助けに行けないなんて、どうしてこうも無力なのだろうか。
「村の人たちには?」
「巨木に言ってきた」
「武器は?」
「鍛えてる」
「世情」
「兄の仕事柄」
「……この道は危ない。山を登る」
 モナは静かに告げてタックに背を向けた。
 拒絶でもなければ、肯定でもないモナの言葉。タックは黙ってモナを追いかける。
 鳥のさえずりと、確かなその空の色はもう間もなく夜明けが来ることを告げていた。
 辺りが明るくなって初めて、タックは自分がモナに助けてもらったことに思い至った。
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