森の雫、リン

ぽぽ太

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第一章

Ⅰ-ⅰ

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 リンは小鳥達のさえずりで目を覚ました。世の中には鳥と会話できる人もいるのだと、いつの日かタックが教えてくれた気もするが、もちろんリンにはそんな能力はない。小鳥達がどんなにつまらない世間話をしていようと、それは爽やかなさえずりでしかないのだ。
 隙あらば閉じようとする自分の瞳を勢いで持ち上げて、リンは部屋の端にある植木に掌から水をあげる。この植木がいつからここにあったか記憶は定かではないが、いつからにせよ、リンと出会ってからほとんど伸びていない様子を見るとそういう品種なのかもしれない。枯れていないだけ、リンの水やりは無駄ではないのだろう。
 眠い目をこすりながらリンは子屋から出てくる。そして、慣れた体裁きで枝伝いに根元を目指していたリンは小麦粉の焼ける良いにおいのする母屋の前に着地した。久々に母のモナに起こしてもらわずに目を覚ますことのできたリンは、調子に乗って普段より少し高いところから跳び下りたせいでしりもちをついてしまった。誰が見ている訳でもないのに、小声で言い訳をしてみる。
 母屋の中からは妹のナナと父のルルが札遊びに興ずる楽しげな声が聞こえてくる。声がしない母のモナは朝餉の支度をしているのだろう。
 そして、母屋に入る前のいつもの一言。
「おはよう」
リンは家である巨木を見て微笑んだ。


 リンの住むナリ村は町から外れた小山にある。小山と言っても森の中なので見晴らしが良いとはとても言えないが、木の上から南を見渡せば、たしかにそこが高地にあることが確認できる。ちなみに北を向くと、すぐ先に聳える山脈のせいであまり自分が高地にいる実感が持てなかったりする。
町への道は一本しか無く、山脈の手前、村をすぐ北に下ったところで隣国に接しており、立地としては世間的に見れば不便極まりないのだろうが、リンはこの村が好きだった。それに、定期的に商人たちがやってきては必要なものをそこそこの安値で売ってくれるので、特別不便を感じたことはない。
 そして、この村の住人は家庭ごとに家である巨木に住んでいた。先祖代々守り継がれてきた巨木で、幹はこれからどんな天災が起ころうとも、全く動じなさそうなほどに太く、がっしりしている。その枝々に部屋にあたる子屋が、根元には母屋と呼ばれる居間の役割を果たす子屋より一回り大きな小屋が建っているのだ。
 とはいえリンの家族はこの村では珍しく核家族なので、子屋二つ、母屋一つの新築で中くらいの大きさの木に住んでいる。この家はリンとモナがこの村に来る前に村人総出で作ってくれたものなので、まだところどころに新しさが見え隠れしていた。父のルルのとこに住んでもよかったのだが、どうしてか、村長のジウが新しく家を建てることを勧めたらしい。一目見れば圧倒される他の人たちの巨木が羨ましくないわけではなかったが、この家はこの家でこぢんまりとしていてリンは気に入っていた。
「お母さん手伝おうか?」
札遊びに夢中になりすぎていて、リンが起きてきたことに全く気づいていない二人を傍目にリンは朝餉の支度をしているモナの隣に来た。モナはリンの言葉をたいして聞いていなかったらしく、おはようとだけ口にしてリンの申し出には答えてくれなかった。仕方ないので火を見ておくことにする。
 木に少しでも火があたらないようにと、とても頑丈に作られた竈の中では今にも焼きあがりそうなパンが膨らんでいた。おそらく昨日から準備していたのだろう。パンを作るのにはとても手間がかかる。
「今日パンなのは収穫だから?それともお父さんがいるからかな?」
独り言のつもりだったが、今度の声はちゃんとモナに届いたらしく、どっちもよ、と言って笑ってくれた。
 嬉しいな。
 純粋にリンはそう思えた。そしてそう思えた自分に驚いた。
 もちろん、毎朝忙しいルルがみんなとの朝餉の席にいてくれるのは無条件に嬉しい。だから、そちらではなくて収穫だ。リンは木と話せないが故にいつも見ているだけで参加できなかった。勿論今年だってそうだろう。でも、みんなが嬉しそうにしている収穫の時期それ自体は、リンは嫌いではなかった。ただいつも自分が参加できていないというもどかしさがある。だから、そのもどかしさを乗り越えて、素直に収穫を喜べている自分に驚いたのだ。
 自分の気持ちに他人事のように評価を与えながらも、あと幾何かすれば始まる今年の収穫に胸を躍らせる心持になれていたリンはモナに目で確認をとってからパンを竈から取り出すと、机の真ん中に音を立てながら景気良くのせた。
「おお、今日はパンか!ひさびさだな!」
 いい香りが焼いているときからしていたので、気づいていなかったはずもないのだが、ルルはわざわざ大きな声を張り上げると、手に持っていた札を膝元にぶちまけた。
「ああ、お父さんずるい!ナナ勝ってたのに!」
「そんなこと言ったって仕方ないだろ。ほら、パンだ、パン」
妹のナナが不満の声をあげるのを特段気にした様子もない。そういう人だ、お父さんは。別に負けず嫌いだというわけでもないのだが、なにかと逃げるのが上手い。たまに、おもしろがってわざと負けそうになってから放り出しているのではないかと疑いたくなるときすらある。
「何が仕方ないなの!?」
「ううん、空が青いことかな」
子供相手とはいえ、はぐらかし方があまりに堂々としいて、かえって言い返す気が失せるようなことを言う。いつものことなのでナナも諦めたらしく、黙って札を片付け始めた。これではどちらが大人か分かったものではない。たしかにルルの見た目は二十代で十分に通じる顔をしているが、さすがにそんなことはないだろう。ルルの正確な年齢は知らないが、ルルの妻であるモナは、たしか三十五ぐらいだったはずだ。モナは嘘を付かない。
 ルルはまだパンしかのっていない机を前に腰掛けると、不思議そうな顔をしてリンを見てきた。
「おい、朝餉じゃなかったのか」
心底驚いているらしい。まだ呼んでもないのに。
「おはよう、お父さん。わたし、まだ何も言ってないよ。パンを机にのせただけ」
「おお、そうか、じゃあ手伝うか」
ちょっと強く言い過ぎたかなとリンが思い返す間も与えずに、ルルは軽い口調で手伝いに名乗り出ると竈の方に行ってしまった。
 リンはそのまま壁の役割を果たしている巨木の表面に背を預けた。北側であるせいか、ひんやりとした感覚が背中から服越しでも伝わってくる。そして、この感触がリンは好きだった。
この村の人はみんな木の温かさに愛しみの感情を持つようだが、リンにとっては、このひんやりした感じが自分の奥まですんなり入ってくれるようで心地よいのだ。
こういう細かいことで村のみんなとの違いを感じるのはしょっちゅうだ。さすがにもう八年もここに住んでいるから、みんなだったらどう考えるのが普通か、どう行動するのが普通かってことぐらい分かっているし、それにさりげなく合わせるのももうなんともない。自分はみんなとは幼いころ育った環境が違うのだからと、自分の中でも折り合いがついている。
それでもリンは自分の本当の気持ちを捨てているわけではないし、それどころかむしろ大切にしているくらいだった。
ルルがスープをよそい終わったところで、モナが朝餉を告げた。準備を手伝ってなかったのは妹のナナだけだったので、わざわざ大きな声を上げて呼ぶこともないのではないかという気もしたが、朝餉を知らせる行為はモナに染み付いている習慣なのかもしれなかった。
 ルルがここ半年くらい早朝からの仕事だったので、家族四人が朝餉の席に揃ったのはずいぶんと久しぶりだ。自然と明るい気持ちになる。
 家族は不思議だ。ただそこにいるだけで幸せな気持ちになれる。どうしてなのだろう。
いつものごとく思案をすると迷宮をさまようことになるのは明白だったので、リンはひとまず疑問は疑問のままで今に浸ることにした。
「お姉ちゃん、どうしてにやけてるの?気持ち悪い」
 姉にむかってひどい言いぐさだが、本人には全く悪気はないのだろう。言葉とは正反対に純粋無垢な表情をしていて、ナナには悪意のひとかけらも入る隙がなさそうだ。まああの父親だ。口も悪くなるだろう。
「お姉ちゃんね、みんなといられて幸せだなあって思ってたんだよ」
「なんだ、その言い草は。リンは明日死ぬのか」
 ぽかんとしてしまったナナに代わってリンに応えたのはルルだった。
「なんでそうなるの?お父さんは家族を愛する可愛い娘に死んでほしいの?」
「また、自分で可愛いとか言う」
「今そういう話じゃないでしょ」
ルルは本当に論旨を切り替えるのが上手い。しかし、そうは言っても、いつものように茶化してくれるルルと話をしていることも、リンの中では家族の幸せの中に入るのだった。
「ふむふむ、まあ、俺の子供なんだから可愛いのは当たり前か」
「親ばか」
「……っ」
さすがはお母さん。お父さんの暴走を一言で止めてしまった。
それに可愛いのが遺伝なら明らかにお母さんのおかげだろう。モナの美人さは彼女を知っている人なら誰もが認めるはずだ。リンは一目ぼれという概念があまり理解できないが、仮に自分が男性だったとして、モナにだったらしてしまうかもしれないと思う。
いや、そもそもさっきの可愛いというのは見てくれではなくて、親から子に対する愛情の一種として用いた表現だったのだが……。さすがはルル、ここでも論旨をすりかえている。
「明日からも、ずうっと朝いるの?」
ナナがリンも気になっていた疑問をルルに投げかけると、ルルは珍しく少し渋い顔を作ってみせた。
「ううん、しばらくは、ね」
答えとしてリンが望んでいたものよりはるかに曖昧だったが、それでもしばらくは朝からお父さんに会えるらしい。これこそ素直に喜んでいいのだろう。
「収穫の時期だけは国境壁建造はお休みになるのよ。収穫ばかしは男手がほしいものね」
「はいはい、男は男らしく働きますよ」
勿論普段の仕事をしているときだって、日が沈む少し前には帰ってくるから、毎日会えることには会えていたのだが、一日中一緒にいられる収穫の期間は特別だ。そんなことを考えていると、自分も案外お父さんのことが好きなのかもしれないと思う。ただ少し認めるには照れくさい。どうしてだろう、お母さんへ好きな気持ちは素直に認められるのに。
「ナナも今年はちゃんと収穫手伝うからね」
何も言わないルルとモナを見る限り、今年からはナナも収穫に参加するようだ。困った。それでは今年はリンの遊び相手が誰もいないではないか。
予想外の、あるいはうすうす予想はしていたけど気づかないふりをしていた問題が浮き彫りになって、リンは少し動揺してしまった。なに、一人でぼうっとしているのだってなかなか楽しいかもしれないではないか。
リンは、私も収穫参加したいな、という喉まで出かかった言葉を必死の思いで飲み込んだのだった。
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