あなたのライカ

さかしま

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第二話

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 椅子に座ると床ギリギリのところで黒い艶髪が揺らめいている。それをフリードリヒ・ダルムシュタット大佐の斜め後ろから眺めながらいつにも増して美しいと思ってしまうのだから、この目はハロルド・モーガン中佐への贔屓目でできている。
 彼を取り囲むように老若の男性陣たちは厳つい表情を見せるのに、彼自身は涼しい顔でいるのも良い。恵まれた長い四肢に、薄いがすらりとした高身長。百九十センチメートルの大佐よりも高いから、二メートルに届かない程度のところだろうか。百八十に数センチ届かなかった自分としては少しくらい分けてほしくなるが、それはそれとして、ここが美術品のオークション会場なら彼の長身を損なわせるような想像をする間もなく、追撃も許さず競り落としていただろう。俺の目には彼はそれほどまでに美しい。

「異議はあるか」
「ありません」

 ハロルド様本人は即答するが、俺にはあった。強く唱えたいが、大佐の補佐としての入室を認められているだけの自分には、席と同じく発言権はない。
 軍法会議は着々と進んでいく。軍内部の汚職が発覚したのは、ずいぶんと今さらなことだった。俺が十三歳で志願兵になったときには、ハロルド様はすでに汚職軍人だったはずだ。そもそも十歳当時から鉄道事案はハロルド様の案件で、俺の故郷のようになにもない場所はともかく、潰す地区の下調べはつけていただろう。つまりは、十五年以上モノだ。
 今回の議題にされているのは、暗殺と贈賄がメインだった。本人ですら概ね認めているし、このままでは懲戒免職どころかよくて塀の中暮らしになるだろう。もちろん悪くて死罪だ。
 せっかく武力行使の現場仕事から戻ってきたのもつかの間の帝都での内職第一発目がこれだなんて、困る。異議は大いにある。

「大佐殿。かねてより保留にしていた功績への私的賞与についてですが、彼を私の主に求めることは可能でしょうか?」
「こんなときに冗談か?」
「いいえ。冗談はうまく言えた試しがありません」

 改まった場所での発言に装飾を施し大佐に耳打ちをすれば、ナイスガイも形無しに「はあ?」と大口を開けた大佐に振り向かれ、視線を合わせることになった。しかしここは信頼関係がものを言うだろう。
 じっと見つめる三秒。二、一。
 察しのいい大佐は眉を大いにひそめ、俺の顔を覆ってしまうには簡単なほど大きな手のひらで自分の目元を覆い、長い息をゆっくりと吐いていく。
 信頼関係がものを言う手前のアクションに、薄く微笑む。手柄を積み立て貯金しておいてよかった。ただ、追撃は保険としてさせてもらうが。

「私が帝都勤務を希望し続けているのは彼がここに所属していたからです。私の出身をお忘れですか?」

 雪深い北方ラザロ自治区。鉄道が通り駅が設けられ、安定した物資を得られる今でこそ餓死凍死者は減ったものの、本来そこに住んでいた獣人は住みかを追われ、鉄道が完成する前にそもそも半分は数を減らしている。
 俺が森を出るとき、おいて行かないでと泣いて引きとめてくれた可愛い妹は死んだだろうか。生きていてほしい。兄たちや、両親は……。
「復讐か?」俺にだけ聞こえる声量で問われる。
「恋ですよ」彼にだけ聞こえる声量で心外ですと苦く笑う。
 十歳のただの狼だった俺は、彼を一目見て決めたのだ。人の言葉を覚え、文字の読み書きを覚え、その四つ足で帝都に向かい二つ足になり、十三歳で志願兵となった。それからは先の戦争とこの内戦で叩き上げられここに立っている。
 少年兵ながら実力社会を勝ち抜き若くして大出世したのは、全てがただ、帝都勤務のハロルド様に近付くためだ。
 改めてみると執着甚だしいが、本人へ突撃一択ばかりがメジャーな獣人種のアプローチに比べると、自分はずいぶんと謙虚だと認識している。話しかけたことすら未だにないのだ。
 大佐が意を決して静かに息を吸う。俺は無表情を仮面につけて、背を伸ばし背後に控える。

「……異議あり。ハロルド・モーガン中佐の不起訴を願い出ます。贈賄はモーガン中佐の個人資産から、贈収は金銭で受け取っておらず全てが軍事産業の技術促進のための支援としてあちらから軍へ公的に申し込んできた慈善事業の域であることは変えようもない事実であります。暗殺は、まあ、死んで当然の奴らだったろ、とはここで言うべきではないか。ですが、依頼者になった覚えのない関係者はここにいないとどの口が言えますか。私以外に何名いるのでしょうか。ひとり、ふたり、……五人くらいか。三十名近くいてそれだけでしょう。明るみになっては不味い詳細に蓋をするのは結構ですが、贄にするには惜しい男です。それは皆さんが重々承知しておられるはず」
「フリードリヒ・ダルムシュタット大佐、何が言いたいんだね」
「身柄を預かりたいと。過渡的軍事国家が司法国家に戻る瀬戸際の今、汚れ役を買って出ていたモーガン中佐の始末を早々につけようとしているだけの茶番とお見受けしております。なら私の責任のもとで働いてもらいたい。私は主として前線の現場勤務ですから、内勤に強い部下は以前から所望しておりましたし、いい機会ではありませんか。皆さんは本気でモーガン中佐のコネクションを切りたいのですか?」

 各々の悪事がバレる要因は残しておきたくないだろう。それでも口をつぐむのは、この謂われある断罪では、もはや強行することこそが自らの隠匿した殺人等を認める行為になるからだ。
 三十名近く出席してる席で五人程度しか潔白じゃないなんて、だから内戦なんてものが勃発しているのだ。軍隊派遣の頻度も多く、内戦を終わらせる気があることについてはまだ救いはあるだろうが、それにしても酷い。

 重苦しい会議が終わり、三人が残った会議室で背中を丸めぶつくさ呟いている大佐の背を撫でる。

「司法を殺した気分だ。いや、殺した……」
「司法どころか俺たちはそもそも未来を勝ち取ろうとしている若者殺しですよ。でもかっこよかったです。大佐はただの脳筋だと思っていましたが見直しました」
「自分の胸にも刺さる繊細な部分をネタにするのはやめろ。本当に冗談下手だな。つか、これでもう全部チャラだからな……。むしろ貸しにしたいくらいだ……」
「出世から遠退いちゃいましたか?」
「それはないな。総大将あたりのお偉いさん方は眠そうにしてただろ。興味ないから今日中には忘れてくれるはずだ。親父も引退済みで助かった……」
「大佐のお父さん、大佐には厳しいですもんね」
「ああ、お前には甘いのにな。だからこそ痛手にゃならん。何か言われたら俺を庇えよ?」
「もちろんです」
「では、今後の話をしましょう」

 頭上から降ってくる声に顔をあげると黒い瞳と目があった。
 食堂でテーブルを同じくすることも、狭くもない通路ですれ違うくらいの距離も何度か重ねたけれど、視線を合わせたのは今日が初めてだった。彼は基本、仕事で必要な会話以外のときは人と目を合わせない。
 知ってはいたが、黒い瞳だ。髪の色と同じ、吸い込まれそうな、深い黒。黒いマフラーと白い呼吸が似合うと思ってしまうから、軽い火傷のように胸に疼いていた恋は存外重症な初恋だったらしい。
 丸めていた背を伸ばし、大佐が立ち上がる。大佐は大男だ。無駄にある筋肉の分厚い身体には見た目通りの重量感があり、戦地で背中を預けるにはこれ以上ないほどの安心感を抱かせる自他共に誰もが認める「いい男」。笑うとピンクの歯茎にしっかりと支えられた真っ白な歯並びがキラリと輝く。
 対してハロルド様は大佐よりも身長は高いが、並べてみると乾燥肌なのかな、となんとなく思ってしまうような、酷く薄く頼りない身体つきだった。一般人としてはマッチョの部類でも、軍人としてはギリギリの筋肉量だろう。服の上からでもわかるガリガリの手前。現場勤務のときは留守番させなければ。恐らく部下の兵たちも満場一致で頷くはずだ。

「モーガン中佐、俺の下についたからには悪事からは手を引けよ。勝手にそういう話を受けることもナシだ。事後連絡はもってのほか。そして今より過去の所業は不問とするが、俺は部下の身辺調査はしっかりとするタチだ。家宅捜索を行うため自宅には帰るな。宿舎ではなく賃貸暮らしだろ? 近々引き払わせるからな。それ以外は事後処理と通常業務を俺の隊の勤務室で行うこと。ローデン曹長の頼みで拾ってやったんだ、獄中死せずにすんだことを重々俺とローデン曹長に感謝しろ。ローデン曹長、中佐の部下には下げ渡さないが、中佐は帰るべき自宅がなくなった。面倒をみてやってくれ。あと、これは個人的なことだがな、ライカ。ライカ・ローデン曹長。お前は俺の部下だ。中佐の、ではない。俺はお前を手離す気はさらっさらないからな、くれぐれもそれを忘れるなよ」
「ありがとうございます、ダルムシュタット大佐。了解です、と言うより、俺だって大佐の補佐は天職ですから手離されても困ります。他の士官は大佐ほど融通がききませんし、気概もないですもん」

 俺は大佐がいいんですと笑顔を作ると、大佐に「くそ、ぶりっ子しやがって」と舌打ちで頭部を撫で回され、それをきゅっと閉じるまばたきで受け入れる。

「モーガン中佐。ローデン曹長は中佐の身元預り人となる。この意味がわかるな?」
「わかっていますが……むしろ、本気ですか?」

 問う視線に頷き微笑むのは俺だ。

「ハロルド様のことは、ずいぶん前からお慕いしておりました。なんでしたら、自分のことは犬と思ってくださってもいいです。俺、北方の犬種の獣人なんです」
「犬の獣人、ですか」
「正確には狼ですね。ダブルコート毛なのでそれなりにもふもふです」
「はあ」
「掴み外してんぞライカ」

 へたくそと笑われ頬を膨らませると大た、佐はからかうようにもう一度俺の頭をひと撫でしてきた。今度は受け入れることなく、子どものようにその手を頭突きの要領ではねのけた。また笑われた。

「じゃ、俺は事務処理して直帰する。お前らも今日はさっさと帰って風呂入って寝ろよ。あー、今すぐ飯食って風呂入って酒飲んで寝てえ。今日が週末でマジでよかった。んじゃ、週明けな」

 まあまあ頑張れよとの言葉と大佐の退室にふたり残され、静寂はまだ少し居心地が悪いものだから、仕方なしにもう一度目を合わせる。

「私を拾ったのは、情けのつもりですか」
「え、そのつもりはまったくなかったですよ」

 情けなんて。慕っているとストレートに伝えたはずだが、まさか本当に会話の掴みの下手な冗談だと思われたのか。残念だ。表情には出さないように努めたけれど、まだ胸がドクンドクン弾んでいるくらい、勇気を振り絞ったのに。
 まあいい。まだ、始まったばかりだ。
 信じていないと言いたげな顔で頭の天辺から足元までを品定めされ、顔をそらされる。目が合っただけの甘い疼きと、容赦ない拒絶の苦い痛み。それらをまるごと苦笑に丸め込んで、手のひらを差し出すも、握手はそのままそっぽで返された。
 ……まあ、いい。それはそうだ。信じてもらうにはまだ出会ったばかり。
 俺は、結構昔からあなたに尻尾を振っていた。
 人の姿だったから見えなかっただけ。
 なんて言うには、まだ恥ずかしさが勝ってしまうからとても言えやしない。

「ハロルド・モーガン中佐。俺は、ライカ・ローデンです。階級は曹長です。先の戦争でダルムシュタット大佐に目を掛けられ共に成り上がってしまいました。数ヶ月後に二十六歳になるので、ハロルド様より丁度十歳年下になりますね。至らないことは多いと思いますが、これよりどうぞよろしくお願いします」

 腰を折り頭を下げて、そうして見上げる。そこにはもう十年以上片想いしてきたハロルド・モーガン中佐がいる。
 整った顔立ちにすらりと長い手足。腰中までのストレートロングヘアーは所々白髪が混じっているものの、艶は健在で癖毛ひとつない。三十代を折り返すだけあって肌のはりは衰えぎみで、目元にうっすらと寝不足の隈を残して、どこかくたびれた印象を抱かせる。そんな優男だ。いくら身長があっても軍の中にいては小枝に称されることもあるだろう。
 俺は、そんなこの人を今でも美しいと思う。近くで見ても、造形がぼんやりと、色味程度しかわからないほど遠くとも。美しいものは美しい。
 汚職がなんだと言うのだろう。俺は少年兵から老兵まで、数多の屍を増やしていった。本質的にはそこに差なんてほぼないはずだ。大義名分であるはずの愛国心すらまるでない分、俺の方が、むしろ、よっぽど生き汚い。

 戦地にて、瞼を閉じればきっと今日を思いだす。言葉を交わしたのは初めてだった。視線を合わせたのも初めてだった。握手は残念ながらできなかったから、苦笑までをセットでこの人を想う。
 胸の奥で、じくじく膿を孕んでいるように心が疼いている。それでも口元が緩み、微笑んでしまう。
 怪訝な瞳が俺を見下ろす。
 それだけで、この人だ、と尻尾を振るには十分だった。だって、恋とはそういうもののはずだ。

 ……まあ、初恋を拗らせた童貞のたわごとでもあるんだけれど。

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