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第二章「アルデュイナ魔術学院」
第二章「アルデュイナ魔術学院」1/5
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古くなって使われなくなった机や椅子が陳列した空き教室。
壁に掛けられた時計は電池が切れているのか動いていない。
誰もいない静かな空間の中、時雨とリンネは対面する形で足を止めた。
「あのなぁ、あんな言い回しをするやつがいるか。完全に俺たち誤解されてたぞ?」
「誤解? でも私は事実を申し上げたまでですよ?」
リンネは先程の状況を全く理解していないかのようにきょとんとした表情で首を傾げている。頭に疑問符を浮かべているようだ。
「まぁ、その話はいいか。実はだな……俺はあの時の記憶がとても曖昧な状態で、君と竜神に出会ってから先のことがどうもよく思い出せないんだ」
「……そうでしたか」
「勿論、術式結界のことは覚えてるんだが。その件は本当に済まなかった! 何か大事な儀式の途中だったんだろ? 俺が立ち入ったばっかりに本当にごめん!」
時雨は頭を深々と下げて謝罪をする。
「そんな! 謝らないでください。あれは私の過失でもあるんです。むしろ、あなたを巻き込んでしまったのは私の方。私こそ本当にごめんなさい!」
リンネも慌てるように深々と頭を下げて謝罪をする。
二人が顔を上げると、両者とも同じ姿勢で謝っていることに思わず笑みがこぼれる。
「まぁ、お相子ってことだな」
「そ、そうですね。お相子です」
リンネは、にこっと可愛らしい笑顔を浮かべる。
時雨はふと初めて彼女を見た時のこと、洗練された神楽を舞っていたのを思い出す。
「そういえば、神楽の舞すごく綺麗だったな。正直、見惚れてたよ」
「え? き、綺麗だなんて。そんな……どうも、ありがとうございます」
リンネは沸騰したように顔を真っ赤に染める。
「たしか、あの時は巫女の格好をしてたよな。やっぱり神様に精通してる家系とかなのか?」
「いえ、そう言う訳ではありません。ただ……」
「ただ?」
リンネは言うべきなのか、言わないべきなのか、歯切れ悪く口籠る。
「心配するなって! 家庭の事情とかで言えないようなら無理に言う必要はないよ」
「いえ、そうじゃないんです。ただ……信じてもらえそうになくて」
「うん? 大丈夫。リンネのこと疑ったりしないから良かったら言ってみ?」
「絶対……笑わないで下さいよ」
リンネは上目づかいで照れるように頬をほのかに赤らめながら呟いた。
あまりの可愛らしさに時雨は思わずドキッと脈を打つ。
「わかった。絶対笑わない」
時雨は鼓動が早まるのを抑えながら、リンネの蒼く輝くサファイアの瞳を真剣に見詰めて答える。
リンネはその言葉に安堵するかのように胸を撫で下ろし、軽く呼吸を整えた。
そして、次の瞬間――――リンネは口を開いた。
「実は私……天使なんです!」
…………。
しばらく流れる沈黙の時間。
時雨は困惑するよりも先に笑いが込み上げてしまう。
だが、先程疑わないと言った手前正直に顔に出すことはできずに、必死に笑いを
堪えた。しかし、それは結果的に逆効果だったようで、リンネは再び赤面を露わにする。
「わ、笑わないって言ったじゃないですか!」
「いや、別に笑ってないさ。ただ、天使って返されるとは思ってなくて、つい……ぷふ」
「だ、だから、笑わないで下さいよ! これでも意を決して話したつもりなんですから。笑うなんてあんまりです」
リンネは顔を火照らせながら、ぷくっと頬を膨らませる。
「ごめんごめん、冗談だよ。なんだろうな、なぜか不思議と懐かしいような気がしてさ。ふと笑いが込み上げてきたんだ」
「……そう、なんですか。きっと過去にも似たようなことがあったのかもしれませんね」
時雨がリンネの顔色を窺うと、リンネの表情は先程と打って変わりどことなく遠い世界を眺めているような寂しげな表情を浮かべている気がした。
彼女がどうしてそんな表情を見せるのか時雨にはよく分からなかったが、時雨がリンネの頭を手で撫でると、落ち着くような柔らかい笑顔を浮かべてくれる。
すると―――
「シグレ。人気のない教室で一体何をしているのかなぁ?」
のらりくらり。窓側のカーテンの影が風も吹いていないのにも関わらずゆらゆらと不気味に揺れる。そして、そこから声がしたかと思うと、影は縦方向に伸びて人の姿へと形を変えた。
それはよく知った顔どころか先程もクラスの教室の後ろの席で見た顔だった。
「エレナ! なんでお前がここに!」
時雨はおどろいた表情で思わず一歩後退する。
「なんで? そんなの決まってるじゃない。シグレがこの子と変なことをしないか監視してたんだよ」
エレナは影から這い出てくるなり暗黒オーラ全開でこちらに詰め寄ってくる。
リンネはその隣で「変な事?」とでも言うかのように不思議そうに首を傾げている。
「変なことっておまえな。俺をなんだと思ってるんだよ」
「女の子好きの男装女子!」
「人をタラシのように言うな! てか、俺は女子じゃない! どっからどう見ても男だ」
「時雨さんは、女の子だったのですか? 確かに言われてみれば、容姿がどことなく女の子っぽいですね。肌もすごく澄んでいますし、健康的な物腰をしておられます」
冷静に分析を開始したリンネ。
淡々と話す様子はまるで先程笑ったことへの仕打ちに反撃の狼煙を上げるかのようだった。
「いや、至って俺は普通の男子だ! なんでお前らもクラスの連中も俺のことを女子だと認識するんだ! 俺は普段からクール系男子を装っているはずだぞ」
「え? あれクール系のつもりだったの?」
なん……だと?
時雨は学園生活において、周囲からは女の子のように見られがちであるため、普段はなるべく声質を低くして話し、素振りも男っぽく粗々しく、窓辺を眺めてはため息を吐くようなミステリアスさをも演出していたはずだ。
それが、「クール系のつもりだったの?」と疑問形で返されることになろうとは。
…………一体全体どうなっているのか。
「あれはクールというよりも可愛い感じだったよ? 声は上擦ったようでいて怯える小動物のようで、素振りはドジっ子が一生懸命に張り切る様でいてあざとく、窓辺を眺めて黄昏る姿はまさに恋する乙女のようだったよ」
エレナは話をするに当たって少し興奮気味に語った。
「そんな……バカな!」
「いやぁ、これが真相なんだよ、シグレ。現実を見なよ。世界は君が女であることを強いているんだよ。恐れなくてもいい。私が全て受け入れてあげるから!」
エレナは腕に纏わりつくように接近してくる。
その際、もちろん二つの膨らみが密接に押し当てられる形となった訳だが、時雨は正直それどころではなくただ茫然としていた。
「世界が……俺を女と……認めただと? モウオレカミサマシンジナイ」
「時雨さん、しっかりして下さい!」
壊れたロボットのような口調でぶつぶつと呟く時雨を見たリンネは慌てた表情を浮かべて、時雨の肩を揺する。
その時リンネの視界には、時雨の腕に柔らかい二つの塊が弾力を見せつけるように変形を繰り返す様が移った。時雨を揺さぶることで、腕にこれ見よがしにくっつくエレナもまた揺さぶられ、時雨の腕に胸が当たったり離れたりしているのだ。
リンネは自分の胸をさりげなく見下ろすと、あまりにもかけ離れたその迫力の差に悔しさと悲しさを感じた。
それを察したかのようにエレナは「ふっ」と嘲笑するような表情でリンネに視線を送っていた。まるで「君にはこんな芸当到底できないだろう?」とでも言うかのように。その行為は明らかに敵を威嚇するような、喧嘩を吹っ掛けているかのようだった。
リンネが視線をエレナに戻すと、案の上その意図を受け取ったようで、悔しさを噛みしめるように身体を震わしていた。
「……な、なんですか。む、胸が大きいことがそんなに偉大なことなんですか……神様は言いました。大きな胸よりも小さな胸の方が需要があると。所詮はただの脂肪の塊に過ぎないのだと。私は決して……負け組などではありません。いえ、むしろ勝ち組ですよ!」
「あはは。それはきっとその神様がただのロリコンだからじゃないかな? それに、脂肪の塊だからって発言は大方貧乳女子が大きな胸を持てなかったことへの言い訳だよね!」
「あ……うぅ……。そんなことないです。神様の判断はいつだって公平……ですよ? ロリコ……オホン! 貧乳好きだなんてそんなわけ……ないじゃないですか。それに大きな胸になんて……これっぽっちも全然興味なんてないですから」
リンネは歯切れ悪く反論するが先程以上に言い訳臭かったのか、エレナはまたもや「ふっ」と嘲笑するかのような表情を浮かべている。圧倒的優勢の立場にいることを自覚してなのか自分の胸とリンネの胸を見比べて「負ける気がしないね」と自信満々といった感じだ。
「うぅ……なんなんですか、その勝ち誇った表情は! 第一、時雨さんを女の子と言っていた割にはやけにスキンシップ過多ではないですか?」
「それは言葉の綾ってやつだよ。女の子のように可愛らしいという意味で―――」
「じゃあ、エレナさんは時雨さんを性別上男として認識しているってことでいいですか?」
「え?」
ぴくっ!
「男」という単語に時雨は反応を示し顔色にわずかながら鮮やかさが戻っていく。
時雨としても非常に気になる質疑であるため、エレナの眼をしっかりと見つめて解答を待つ。
急に真剣な表情になって見詰められたせいか、エレナは仄かに顔を赤らめた。
「エレナ、どうなんだ? お前は俺を男として見てくれてるのか?」
「えっと、その……それは……その」
「さぁさぁ、どうなんですか?」
何やら誤解がありそうな質疑を繰り返す時雨。
今度はこちらの番だ、といわんばかりに詰め寄るリンネ。
エレナは顔を真っ赤にして前髪で表情を隠すようにもじもじしている。
まるで、今から決死の思いで告白でもするかのような仕草だ。
「……そうだよ。シグレは男の子。そんなこと最初から分かり切ったことだよ。私はシグレのことかっこいいとも思うし、ちゃんと男の子としての一面も知ってるんだから。い、今更改まって確認することでもないんじゃない……かな」
エレナは自身の思いを吐露すると、照れ臭いのか視線を逸らす。
時雨は「自分を男として見てくれている」という事実に喜びを隠せないようで、歓喜の表情を浮かべていた。
「そうか! エレナは俺のこと本心では男だと見てくれていたんだな! なんか、すごい嬉しい! 生きてて良かったと今、ここに実感した!」
「あはは。そ、そんなに嬉しいの?」
「あぁ、あまりの嬉しさに涙さえ浮かべてしまいそうだ」
「そう、なんだ。へへぇ、そうなんだ~」
エレナはどことなく嬉しそうに頬を緩めて笑みをこぼす。
そんなエレナを尻目にリンネはというと―――
「じー」
「ん? リンネどうしたんだ?」
「……女の子好きの男装女子」
「え……いやいや、なんでそうなるんだよ!」
「知りません。自分の胸に聞いてみたらどうですか?」
自分が想像していた結果通りに事が運ばなかったことに憤りを感じたのか、ジト目で時雨を見詰めていた。そして、時雨の鈍感な反応から拗ねたように頬を膨らませてそっぽを向く。時雨は言われたように視線を自分の胸部に落とした。
「自分の胸……あれ? どういう意味だ? まさか、追い打ち! まだ俺が女であると言い足りないっていうことなのか? それとも別の意図があって――――」
「…………」
時雨がリンネの様子を見兼ねて慌てた様子で答える。
それに対して、リンネはもはや返しの言葉も出てこない様子で、ただ短いため息を一つ吐いた。
これを鈍感の一言で表して良い物なのであろうか。まさかの斜め上を行く発言に無償に頭を抱えたくなったリンネだったが、憤りを感じる間もなくただただ呆れるしかなかった。
その表情から時雨は何かを悟ったのか喉元まで出掛っていた後に続く言葉を飲み込む。
未だに惚けているエレナを余所に微妙な空気が渦巻きつつあるのを感じた時雨は、気を取り直して本来の疑問を幾つか質問することにした。
「そういえば、リンネはどうしてこの学院に? 天使が具体的にどんな文化を持っているかはよくわからないが、何か目的があって来たんだよな?」
時雨が付け焼刃にそう問うと、リンネは意外にもきょとんとした様子で答える。
「いえ、目的という程の理由はありませんよ。私は土地鑑というものがあまりないものですから、右も左もわからずにこの学院の前と森とを往復していた際、偶然とある女性の方に声を掛けられ学院内に誘導されてきました。学院長にもお会いしましたが、美しくて慈愛に満ちた優しいお方でしたね。私が身寄りのない者だと知るや否や、迅速に入学手続きを済ませ寮の一室での生活さえ許可してくださいました」
いや、それって要するに拉致られたってことなのでは……。
待遇が無駄にいいだけに一概にそうとは言い切れないが。見境がないにも程がある。
「あれ? 学院長にさっき会ったばかりだが、そんなこと一言も……」
「そういえば、入学手続きの際に何か言っておられましたね。【このことは、坊主には内緒にしておこう。さすれば顔合わせした時の慌てた反応はきっと見物であろうな】とかなんとか」
あの性悪学院長め……。
時雨は幼少の頃から学院長と関わりがあり付き合いも長い。
大方、彼女がやりそうなことではあるが、【見物である】と断言したのならば何らかの手段を用いてその時の様子をどこからか観察していたことだろう。今頃「見事に引っ掛かったな、坊主♪」と不敵な笑みでも浮かべていることだろう。もしかしたら、教室に急がせたのは講義の出席を促したというよりもこちらが本命だったのかもしれない。今更ながら、とんでもない野郎だ……。
「……ってことは、ここに来たのは偶然で雨風を凌ぐための住居を提供してもらった上で学院の生徒として迎え入れられた訳で、事実大した目的もなく、俺と再開したのは意識的にではなく本当に単なる偶然だと?」
「そうなりますね」
(昨晩のことを警戒して教室まで飛び出して聞きだした真実がこんなだとは……)
時雨も昨晩の結界での件は非常に気掛かりがあったために、たしかに好都合ではあったのだが、神楽の妨害に対する逆襲的なのを想像してしまっていた自分がどうにも恥ずかしく思える。
時雨が無念そうに胸中で呟いていると、窓の外からそよ風が吹き込み一枚の再生紙で造られた折り鶴が飛び込んできた。
それは時雨の眼前で静止したかと思うと、折り目に合わせて巻き戻るように一枚の平坦な再生紙になって宙に浮かぶ。なにやら、四行程度の簡単な文章が書かれているようで、時雨は怪訝そうにその文章に目を通し朗読する。
「えっと、なになに。【やぁ、見せてもらったよ、坊主。実にいい狼狽っぷりだった。私はこれで今日をやり遂げたような達成感でいっぱいだよ。幼少の頃からそうやっていつも引っ掛かってくれる君は本当に愛らしいね。これからもしっかりと精進したまえよ! by 学院長】……」
最後まで読み終えると、再生紙は込められた核力を失い重力に従って落下を始める。
時雨は苦々しくもその再生紙を掴み、ぐしゃぐしゃと丸めて近くのゴミ箱に力いっぱい投げ入れた。
「やっぱ見てたんじゃねぇかっ! あの性悪女っ!」
愛らしい? 精進? 完全にからかわれていたこの状況に時雨は悔しさと恥ずかしさを覚える。地団駄を踏みそうになったところで、この反応すらも彼女の思惑通りなのだろうと気付くと、呼吸を整えて行き場のない葛藤を静めた。
「時雨さん、随分と可愛がられているんですね。生徒と講師。それ以上の関係のように思えます。学院長の文面からもそうですが、時雨さんもすごく楽しそうです」
「いやいや、楽しいことなんてあるか。話せば長い話になるんだけどな。まぁ、幼少の頃に身寄りのない俺の面倒を見てくれたこともあって、それ以来こんな感じだ。昔から人のことをおちょくっては魔女のような不敵な笑みを浮かべて、変な骨董品とかにも目がなくて、誰かれ構わず学院に引っ張り込むような滅茶苦茶でつかみどころのないような本当に変わったやつだよ」
時雨はやれやれと手振りをして嘆息吐いた様子で呟いた。
「そこまでお互いのことを理解し合っているのなら、やはり時雨さんにとっても大切な存在なんだと思いますよ。今の話をされる時雨さんの表情はどこか嬉しそうでした。なんだか……少し学院長が羨ましいですね」
リンネは胸の前に手をかざして、また遠くの景色を見るような寂しげな瞳で時雨を見詰めて言った。
「はっ! まさかシグレ、学院長までも手籠めにしようと? それともっ! いや、まさかのまさかでもうすでに事後だったり――――」
「そんなわけあるかっ! それこそありえない話だっての! というか、お前はどうしていつもそっちの方にばかり思考を巡らせようとするんだよ!」
「それはシグレがせっそうなしのどうしようもないタラシだからに決まってるじゃん♪ 生涯の伴侶として浮気なんて許さないんだから!」
「……俺はお前の中ではタラシ決定なのか? そもそもお前の生涯の伴侶になったつもりは毛頭ない」
時雨とエレナの他愛もない会話。
先程の学院長・シャルデオの話をするときに似た屈託のない表情。言葉こそ否定的でそっけない態度に見えるそれには【信頼と安心】が込められているような気がした。
それは彼女らと時雨が長い年月をかけて築いた絆なのだろう。
リンネはその【絆】に少しばかりの不満と嫉妬、そして羨望の念を抱いてただ静かにその風景を眺めていた。
時雨が反論すると、エレナはまたもや腕に抱きついてこようとする。
時雨は体を逸らしてそれを巧みに躱すも、エレナは負けじと時雨の腕を掴もうと躍起になる。
空き教室がドタバタと騒がしくなったところで空き教室の扉が途端に開け放たれた。
一同がそちらに視線を移すと、そこには茶髪のツンツン頭に首から提げたプラチナ製のヘッドフォンの少年、雨宮雷斗が立っていた。
「やっぱりここか。おまえら、用事は済んだか? そろそろ午前の講義が始まっちまうぞ」
「げっ、やっば! 完全に講義のこと忘れてた!」
「そういえば、この教室って時計壊れてたんだったね。あはは、エレナさんも完全に見落としてたよ」
「お前は普段から講義に関しては穴だらけだろ」
「たしかにそれは同意だ」
「え、二人してひどい! 私だって講義の三分の一はしっかり起きてるんだからね」
「……それが胸を張って言う台詞か?」
「まぁ、エレナが講義で寝ようが寝まいが今はどちらでもいいさ。それよりも次は堂本の講義だぞ。遅れたりなんてしてみろ、面倒どころの話じゃない」
「ど、堂本……。たしかにそれだけは勘弁だな」
「じゃあ、私はお先に~。影から移動なら時間短縮も余裕だもんね~♪」
堂本の名前が出た瞬間にエレナは速攻で影の魔術を展開すると、先程カーテンの影から出現したように廊下の影に溶け込み、一人だけそそくさと空き教室を飛び出していった。
「……こういうときエレナの魔術って便利でいいよな」
「さて俺たちもさっさと行くぞ。後、四分程しかない」
「いやいや、マジで遅刻は勘弁だ! リンネ―――」
「え?」
ガシッ!
時雨はリンネの方を振り返ってリンネの小さくて柔らかな白い手を取る。
リンネはいきなり手を握られたことに少し顔を赤らめて驚いたような声を上げる。
そんな様子に気付いているのかいないのか、時雨は――――
「初めての講義いきなり遅刻なんて不名誉だろ? まだ学院内のこともよく分からないだろうから、俺の手しっかり握っといてくれよ。ちょっとばかし飛ばしていくからな。それと質問ばっかで肝心なこと言ってなかったよな」
時間がないと焦るようでいて、どこか楽しげでリンネの手を握る力を少しばかり強めると、心から笑うようなあの屈託のない表情を浮かべて――――
「アルデュイナ魔術学院にようこそ。これからよろしくな、リンネ」
時雨にとってその言葉にどれだけの意味が込められたものなのかリンネには分からない。でも、たった一つ確かなものを感じてリンネは握られた手を強く握り返した。そして、彼の気持ちに応えるように自然と顔が綻ぶのがわかった。
「はい。こちらこそよろしくお願いします。時雨」
その時のリンネの笑顔を時雨はきっと忘れないだろう。
輝かしく眩いそれはまさしく―――――――天使そのものだった。
壁に掛けられた時計は電池が切れているのか動いていない。
誰もいない静かな空間の中、時雨とリンネは対面する形で足を止めた。
「あのなぁ、あんな言い回しをするやつがいるか。完全に俺たち誤解されてたぞ?」
「誤解? でも私は事実を申し上げたまでですよ?」
リンネは先程の状況を全く理解していないかのようにきょとんとした表情で首を傾げている。頭に疑問符を浮かべているようだ。
「まぁ、その話はいいか。実はだな……俺はあの時の記憶がとても曖昧な状態で、君と竜神に出会ってから先のことがどうもよく思い出せないんだ」
「……そうでしたか」
「勿論、術式結界のことは覚えてるんだが。その件は本当に済まなかった! 何か大事な儀式の途中だったんだろ? 俺が立ち入ったばっかりに本当にごめん!」
時雨は頭を深々と下げて謝罪をする。
「そんな! 謝らないでください。あれは私の過失でもあるんです。むしろ、あなたを巻き込んでしまったのは私の方。私こそ本当にごめんなさい!」
リンネも慌てるように深々と頭を下げて謝罪をする。
二人が顔を上げると、両者とも同じ姿勢で謝っていることに思わず笑みがこぼれる。
「まぁ、お相子ってことだな」
「そ、そうですね。お相子です」
リンネは、にこっと可愛らしい笑顔を浮かべる。
時雨はふと初めて彼女を見た時のこと、洗練された神楽を舞っていたのを思い出す。
「そういえば、神楽の舞すごく綺麗だったな。正直、見惚れてたよ」
「え? き、綺麗だなんて。そんな……どうも、ありがとうございます」
リンネは沸騰したように顔を真っ赤に染める。
「たしか、あの時は巫女の格好をしてたよな。やっぱり神様に精通してる家系とかなのか?」
「いえ、そう言う訳ではありません。ただ……」
「ただ?」
リンネは言うべきなのか、言わないべきなのか、歯切れ悪く口籠る。
「心配するなって! 家庭の事情とかで言えないようなら無理に言う必要はないよ」
「いえ、そうじゃないんです。ただ……信じてもらえそうになくて」
「うん? 大丈夫。リンネのこと疑ったりしないから良かったら言ってみ?」
「絶対……笑わないで下さいよ」
リンネは上目づかいで照れるように頬をほのかに赤らめながら呟いた。
あまりの可愛らしさに時雨は思わずドキッと脈を打つ。
「わかった。絶対笑わない」
時雨は鼓動が早まるのを抑えながら、リンネの蒼く輝くサファイアの瞳を真剣に見詰めて答える。
リンネはその言葉に安堵するかのように胸を撫で下ろし、軽く呼吸を整えた。
そして、次の瞬間――――リンネは口を開いた。
「実は私……天使なんです!」
…………。
しばらく流れる沈黙の時間。
時雨は困惑するよりも先に笑いが込み上げてしまう。
だが、先程疑わないと言った手前正直に顔に出すことはできずに、必死に笑いを
堪えた。しかし、それは結果的に逆効果だったようで、リンネは再び赤面を露わにする。
「わ、笑わないって言ったじゃないですか!」
「いや、別に笑ってないさ。ただ、天使って返されるとは思ってなくて、つい……ぷふ」
「だ、だから、笑わないで下さいよ! これでも意を決して話したつもりなんですから。笑うなんてあんまりです」
リンネは顔を火照らせながら、ぷくっと頬を膨らませる。
「ごめんごめん、冗談だよ。なんだろうな、なぜか不思議と懐かしいような気がしてさ。ふと笑いが込み上げてきたんだ」
「……そう、なんですか。きっと過去にも似たようなことがあったのかもしれませんね」
時雨がリンネの顔色を窺うと、リンネの表情は先程と打って変わりどことなく遠い世界を眺めているような寂しげな表情を浮かべている気がした。
彼女がどうしてそんな表情を見せるのか時雨にはよく分からなかったが、時雨がリンネの頭を手で撫でると、落ち着くような柔らかい笑顔を浮かべてくれる。
すると―――
「シグレ。人気のない教室で一体何をしているのかなぁ?」
のらりくらり。窓側のカーテンの影が風も吹いていないのにも関わらずゆらゆらと不気味に揺れる。そして、そこから声がしたかと思うと、影は縦方向に伸びて人の姿へと形を変えた。
それはよく知った顔どころか先程もクラスの教室の後ろの席で見た顔だった。
「エレナ! なんでお前がここに!」
時雨はおどろいた表情で思わず一歩後退する。
「なんで? そんなの決まってるじゃない。シグレがこの子と変なことをしないか監視してたんだよ」
エレナは影から這い出てくるなり暗黒オーラ全開でこちらに詰め寄ってくる。
リンネはその隣で「変な事?」とでも言うかのように不思議そうに首を傾げている。
「変なことっておまえな。俺をなんだと思ってるんだよ」
「女の子好きの男装女子!」
「人をタラシのように言うな! てか、俺は女子じゃない! どっからどう見ても男だ」
「時雨さんは、女の子だったのですか? 確かに言われてみれば、容姿がどことなく女の子っぽいですね。肌もすごく澄んでいますし、健康的な物腰をしておられます」
冷静に分析を開始したリンネ。
淡々と話す様子はまるで先程笑ったことへの仕打ちに反撃の狼煙を上げるかのようだった。
「いや、至って俺は普通の男子だ! なんでお前らもクラスの連中も俺のことを女子だと認識するんだ! 俺は普段からクール系男子を装っているはずだぞ」
「え? あれクール系のつもりだったの?」
なん……だと?
時雨は学園生活において、周囲からは女の子のように見られがちであるため、普段はなるべく声質を低くして話し、素振りも男っぽく粗々しく、窓辺を眺めてはため息を吐くようなミステリアスさをも演出していたはずだ。
それが、「クール系のつもりだったの?」と疑問形で返されることになろうとは。
…………一体全体どうなっているのか。
「あれはクールというよりも可愛い感じだったよ? 声は上擦ったようでいて怯える小動物のようで、素振りはドジっ子が一生懸命に張り切る様でいてあざとく、窓辺を眺めて黄昏る姿はまさに恋する乙女のようだったよ」
エレナは話をするに当たって少し興奮気味に語った。
「そんな……バカな!」
「いやぁ、これが真相なんだよ、シグレ。現実を見なよ。世界は君が女であることを強いているんだよ。恐れなくてもいい。私が全て受け入れてあげるから!」
エレナは腕に纏わりつくように接近してくる。
その際、もちろん二つの膨らみが密接に押し当てられる形となった訳だが、時雨は正直それどころではなくただ茫然としていた。
「世界が……俺を女と……認めただと? モウオレカミサマシンジナイ」
「時雨さん、しっかりして下さい!」
壊れたロボットのような口調でぶつぶつと呟く時雨を見たリンネは慌てた表情を浮かべて、時雨の肩を揺する。
その時リンネの視界には、時雨の腕に柔らかい二つの塊が弾力を見せつけるように変形を繰り返す様が移った。時雨を揺さぶることで、腕にこれ見よがしにくっつくエレナもまた揺さぶられ、時雨の腕に胸が当たったり離れたりしているのだ。
リンネは自分の胸をさりげなく見下ろすと、あまりにもかけ離れたその迫力の差に悔しさと悲しさを感じた。
それを察したかのようにエレナは「ふっ」と嘲笑するような表情でリンネに視線を送っていた。まるで「君にはこんな芸当到底できないだろう?」とでも言うかのように。その行為は明らかに敵を威嚇するような、喧嘩を吹っ掛けているかのようだった。
リンネが視線をエレナに戻すと、案の上その意図を受け取ったようで、悔しさを噛みしめるように身体を震わしていた。
「……な、なんですか。む、胸が大きいことがそんなに偉大なことなんですか……神様は言いました。大きな胸よりも小さな胸の方が需要があると。所詮はただの脂肪の塊に過ぎないのだと。私は決して……負け組などではありません。いえ、むしろ勝ち組ですよ!」
「あはは。それはきっとその神様がただのロリコンだからじゃないかな? それに、脂肪の塊だからって発言は大方貧乳女子が大きな胸を持てなかったことへの言い訳だよね!」
「あ……うぅ……。そんなことないです。神様の判断はいつだって公平……ですよ? ロリコ……オホン! 貧乳好きだなんてそんなわけ……ないじゃないですか。それに大きな胸になんて……これっぽっちも全然興味なんてないですから」
リンネは歯切れ悪く反論するが先程以上に言い訳臭かったのか、エレナはまたもや「ふっ」と嘲笑するかのような表情を浮かべている。圧倒的優勢の立場にいることを自覚してなのか自分の胸とリンネの胸を見比べて「負ける気がしないね」と自信満々といった感じだ。
「うぅ……なんなんですか、その勝ち誇った表情は! 第一、時雨さんを女の子と言っていた割にはやけにスキンシップ過多ではないですか?」
「それは言葉の綾ってやつだよ。女の子のように可愛らしいという意味で―――」
「じゃあ、エレナさんは時雨さんを性別上男として認識しているってことでいいですか?」
「え?」
ぴくっ!
「男」という単語に時雨は反応を示し顔色にわずかながら鮮やかさが戻っていく。
時雨としても非常に気になる質疑であるため、エレナの眼をしっかりと見つめて解答を待つ。
急に真剣な表情になって見詰められたせいか、エレナは仄かに顔を赤らめた。
「エレナ、どうなんだ? お前は俺を男として見てくれてるのか?」
「えっと、その……それは……その」
「さぁさぁ、どうなんですか?」
何やら誤解がありそうな質疑を繰り返す時雨。
今度はこちらの番だ、といわんばかりに詰め寄るリンネ。
エレナは顔を真っ赤にして前髪で表情を隠すようにもじもじしている。
まるで、今から決死の思いで告白でもするかのような仕草だ。
「……そうだよ。シグレは男の子。そんなこと最初から分かり切ったことだよ。私はシグレのことかっこいいとも思うし、ちゃんと男の子としての一面も知ってるんだから。い、今更改まって確認することでもないんじゃない……かな」
エレナは自身の思いを吐露すると、照れ臭いのか視線を逸らす。
時雨は「自分を男として見てくれている」という事実に喜びを隠せないようで、歓喜の表情を浮かべていた。
「そうか! エレナは俺のこと本心では男だと見てくれていたんだな! なんか、すごい嬉しい! 生きてて良かったと今、ここに実感した!」
「あはは。そ、そんなに嬉しいの?」
「あぁ、あまりの嬉しさに涙さえ浮かべてしまいそうだ」
「そう、なんだ。へへぇ、そうなんだ~」
エレナはどことなく嬉しそうに頬を緩めて笑みをこぼす。
そんなエレナを尻目にリンネはというと―――
「じー」
「ん? リンネどうしたんだ?」
「……女の子好きの男装女子」
「え……いやいや、なんでそうなるんだよ!」
「知りません。自分の胸に聞いてみたらどうですか?」
自分が想像していた結果通りに事が運ばなかったことに憤りを感じたのか、ジト目で時雨を見詰めていた。そして、時雨の鈍感な反応から拗ねたように頬を膨らませてそっぽを向く。時雨は言われたように視線を自分の胸部に落とした。
「自分の胸……あれ? どういう意味だ? まさか、追い打ち! まだ俺が女であると言い足りないっていうことなのか? それとも別の意図があって――――」
「…………」
時雨がリンネの様子を見兼ねて慌てた様子で答える。
それに対して、リンネはもはや返しの言葉も出てこない様子で、ただ短いため息を一つ吐いた。
これを鈍感の一言で表して良い物なのであろうか。まさかの斜め上を行く発言に無償に頭を抱えたくなったリンネだったが、憤りを感じる間もなくただただ呆れるしかなかった。
その表情から時雨は何かを悟ったのか喉元まで出掛っていた後に続く言葉を飲み込む。
未だに惚けているエレナを余所に微妙な空気が渦巻きつつあるのを感じた時雨は、気を取り直して本来の疑問を幾つか質問することにした。
「そういえば、リンネはどうしてこの学院に? 天使が具体的にどんな文化を持っているかはよくわからないが、何か目的があって来たんだよな?」
時雨が付け焼刃にそう問うと、リンネは意外にもきょとんとした様子で答える。
「いえ、目的という程の理由はありませんよ。私は土地鑑というものがあまりないものですから、右も左もわからずにこの学院の前と森とを往復していた際、偶然とある女性の方に声を掛けられ学院内に誘導されてきました。学院長にもお会いしましたが、美しくて慈愛に満ちた優しいお方でしたね。私が身寄りのない者だと知るや否や、迅速に入学手続きを済ませ寮の一室での生活さえ許可してくださいました」
いや、それって要するに拉致られたってことなのでは……。
待遇が無駄にいいだけに一概にそうとは言い切れないが。見境がないにも程がある。
「あれ? 学院長にさっき会ったばかりだが、そんなこと一言も……」
「そういえば、入学手続きの際に何か言っておられましたね。【このことは、坊主には内緒にしておこう。さすれば顔合わせした時の慌てた反応はきっと見物であろうな】とかなんとか」
あの性悪学院長め……。
時雨は幼少の頃から学院長と関わりがあり付き合いも長い。
大方、彼女がやりそうなことではあるが、【見物である】と断言したのならば何らかの手段を用いてその時の様子をどこからか観察していたことだろう。今頃「見事に引っ掛かったな、坊主♪」と不敵な笑みでも浮かべていることだろう。もしかしたら、教室に急がせたのは講義の出席を促したというよりもこちらが本命だったのかもしれない。今更ながら、とんでもない野郎だ……。
「……ってことは、ここに来たのは偶然で雨風を凌ぐための住居を提供してもらった上で学院の生徒として迎え入れられた訳で、事実大した目的もなく、俺と再開したのは意識的にではなく本当に単なる偶然だと?」
「そうなりますね」
(昨晩のことを警戒して教室まで飛び出して聞きだした真実がこんなだとは……)
時雨も昨晩の結界での件は非常に気掛かりがあったために、たしかに好都合ではあったのだが、神楽の妨害に対する逆襲的なのを想像してしまっていた自分がどうにも恥ずかしく思える。
時雨が無念そうに胸中で呟いていると、窓の外からそよ風が吹き込み一枚の再生紙で造られた折り鶴が飛び込んできた。
それは時雨の眼前で静止したかと思うと、折り目に合わせて巻き戻るように一枚の平坦な再生紙になって宙に浮かぶ。なにやら、四行程度の簡単な文章が書かれているようで、時雨は怪訝そうにその文章に目を通し朗読する。
「えっと、なになに。【やぁ、見せてもらったよ、坊主。実にいい狼狽っぷりだった。私はこれで今日をやり遂げたような達成感でいっぱいだよ。幼少の頃からそうやっていつも引っ掛かってくれる君は本当に愛らしいね。これからもしっかりと精進したまえよ! by 学院長】……」
最後まで読み終えると、再生紙は込められた核力を失い重力に従って落下を始める。
時雨は苦々しくもその再生紙を掴み、ぐしゃぐしゃと丸めて近くのゴミ箱に力いっぱい投げ入れた。
「やっぱ見てたんじゃねぇかっ! あの性悪女っ!」
愛らしい? 精進? 完全にからかわれていたこの状況に時雨は悔しさと恥ずかしさを覚える。地団駄を踏みそうになったところで、この反応すらも彼女の思惑通りなのだろうと気付くと、呼吸を整えて行き場のない葛藤を静めた。
「時雨さん、随分と可愛がられているんですね。生徒と講師。それ以上の関係のように思えます。学院長の文面からもそうですが、時雨さんもすごく楽しそうです」
「いやいや、楽しいことなんてあるか。話せば長い話になるんだけどな。まぁ、幼少の頃に身寄りのない俺の面倒を見てくれたこともあって、それ以来こんな感じだ。昔から人のことをおちょくっては魔女のような不敵な笑みを浮かべて、変な骨董品とかにも目がなくて、誰かれ構わず学院に引っ張り込むような滅茶苦茶でつかみどころのないような本当に変わったやつだよ」
時雨はやれやれと手振りをして嘆息吐いた様子で呟いた。
「そこまでお互いのことを理解し合っているのなら、やはり時雨さんにとっても大切な存在なんだと思いますよ。今の話をされる時雨さんの表情はどこか嬉しそうでした。なんだか……少し学院長が羨ましいですね」
リンネは胸の前に手をかざして、また遠くの景色を見るような寂しげな瞳で時雨を見詰めて言った。
「はっ! まさかシグレ、学院長までも手籠めにしようと? それともっ! いや、まさかのまさかでもうすでに事後だったり――――」
「そんなわけあるかっ! それこそありえない話だっての! というか、お前はどうしていつもそっちの方にばかり思考を巡らせようとするんだよ!」
「それはシグレがせっそうなしのどうしようもないタラシだからに決まってるじゃん♪ 生涯の伴侶として浮気なんて許さないんだから!」
「……俺はお前の中ではタラシ決定なのか? そもそもお前の生涯の伴侶になったつもりは毛頭ない」
時雨とエレナの他愛もない会話。
先程の学院長・シャルデオの話をするときに似た屈託のない表情。言葉こそ否定的でそっけない態度に見えるそれには【信頼と安心】が込められているような気がした。
それは彼女らと時雨が長い年月をかけて築いた絆なのだろう。
リンネはその【絆】に少しばかりの不満と嫉妬、そして羨望の念を抱いてただ静かにその風景を眺めていた。
時雨が反論すると、エレナはまたもや腕に抱きついてこようとする。
時雨は体を逸らしてそれを巧みに躱すも、エレナは負けじと時雨の腕を掴もうと躍起になる。
空き教室がドタバタと騒がしくなったところで空き教室の扉が途端に開け放たれた。
一同がそちらに視線を移すと、そこには茶髪のツンツン頭に首から提げたプラチナ製のヘッドフォンの少年、雨宮雷斗が立っていた。
「やっぱりここか。おまえら、用事は済んだか? そろそろ午前の講義が始まっちまうぞ」
「げっ、やっば! 完全に講義のこと忘れてた!」
「そういえば、この教室って時計壊れてたんだったね。あはは、エレナさんも完全に見落としてたよ」
「お前は普段から講義に関しては穴だらけだろ」
「たしかにそれは同意だ」
「え、二人してひどい! 私だって講義の三分の一はしっかり起きてるんだからね」
「……それが胸を張って言う台詞か?」
「まぁ、エレナが講義で寝ようが寝まいが今はどちらでもいいさ。それよりも次は堂本の講義だぞ。遅れたりなんてしてみろ、面倒どころの話じゃない」
「ど、堂本……。たしかにそれだけは勘弁だな」
「じゃあ、私はお先に~。影から移動なら時間短縮も余裕だもんね~♪」
堂本の名前が出た瞬間にエレナは速攻で影の魔術を展開すると、先程カーテンの影から出現したように廊下の影に溶け込み、一人だけそそくさと空き教室を飛び出していった。
「……こういうときエレナの魔術って便利でいいよな」
「さて俺たちもさっさと行くぞ。後、四分程しかない」
「いやいや、マジで遅刻は勘弁だ! リンネ―――」
「え?」
ガシッ!
時雨はリンネの方を振り返ってリンネの小さくて柔らかな白い手を取る。
リンネはいきなり手を握られたことに少し顔を赤らめて驚いたような声を上げる。
そんな様子に気付いているのかいないのか、時雨は――――
「初めての講義いきなり遅刻なんて不名誉だろ? まだ学院内のこともよく分からないだろうから、俺の手しっかり握っといてくれよ。ちょっとばかし飛ばしていくからな。それと質問ばっかで肝心なこと言ってなかったよな」
時間がないと焦るようでいて、どこか楽しげでリンネの手を握る力を少しばかり強めると、心から笑うようなあの屈託のない表情を浮かべて――――
「アルデュイナ魔術学院にようこそ。これからよろしくな、リンネ」
時雨にとってその言葉にどれだけの意味が込められたものなのかリンネには分からない。でも、たった一つ確かなものを感じてリンネは握られた手を強く握り返した。そして、彼の気持ちに応えるように自然と顔が綻ぶのがわかった。
「はい。こちらこそよろしくお願いします。時雨」
その時のリンネの笑顔を時雨はきっと忘れないだろう。
輝かしく眩いそれはまさしく―――――――天使そのものだった。
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