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7月のある残り梅雨の日のこと
しおりを挟む雨がしとしとと降り続いている。ここ5日ほど気持ちの良い天気が続いていたが、まだ梅雨明けと喜ぶには早かったらしい。昨日までとは一転してジメジメとした空気だ。
別にそれはそれでいいのだ。20年以上暮らしていて毎年の恒例行事なのだから付き合っていくしかない。
しかし。
偏頭痛だけは、どうにも我慢できない。
梅雨時期だからと自分で意識したことはなかった。だが去年辺りから、どうにも私の偏頭痛は梅雨時期の雨にしか反応しないようだと気付いた。
春や夏、冬に降る雨には反応しない。雲が連なってできた梅雨前線にのみ痛みが発生し、なおかつ秋雨前線には全く痛くならないというのはどうにも解せない。
思い返せば高校生の時には確実になっていた。それ以前がどうだったのかは定かではない。
だから、もしかしたら精神的なものがあるのかもしれないが、考えるよりも痛みに耐えることの方が重要で、あまり深くは考えたことはない。
人間、喉元過ぎればとはよく言うもので、偏頭痛が起き始めてから、ああそういえば、と思い出すのが例年のこととなっている。
脳天を叩き割るような鈍い痛みと戦いながら、ようやく大学の授業をすべて終え帰宅しベッドにダイブする。
このまま眠りの世界に飛び立ちたってゆっくりと休みたいところだが、今日ばかりはそうもいかない。
城木の家から呼び出しがかかっているのだ。
夏休みが近いのだからそれまで待ってもらえないかと交渉してみたのだが、どうしても今日でないといけない用事があるらしい。
用事の内容は教えてくれなかったが、確実に碌でもない事だろう。滅多に仕事をしない女の勘がそう言っている。
あまりにも憂鬱すぎて、現実逃避をしてしまうほど、私の体調は良くないのだが、城木からの呼び出しをバックれるのはあまりよろしくない。
ベッドに沈めていた体を無理やり起こし、準備をする。
準備と言っても、特にこれと言ってすることはない。
強いて言うのなら、持っている服の中で一番上等なものを着るくらいだろう。
洋服ダンスではなく、クローゼットに吊るしてある服に着替え、電話帳から呼び出した城木本家への直通番号へ電話を掛ける。
対応したのは、本家にいるときにお世話になった田中さん。峻のところの田中さんと、いとこ同士なのだそうだ。
双子と見間違うくらい似ているのは、血のつながりがあるからか。
もうすでに駅で待機しているということなので、急いで家を出た。
不本意な帰宅とはいえ、何の非もない田中さんを待たせるのはとても心苦しい。
挨拶もそこそこに、田中さんの運転する車で本家へとたどり着く。
さすがは日本を代表する城木グループ。本家の家はいつみても大きい。無駄にデカい。
戸籍上は城木本家の養女にあたるのだが、養女らしい待遇は今までに受けたことがない。
この本邸に足を踏み入れたのは数えるほどで、いつもはその隣にある、一般家庭よりもすこし大きな別邸で過ごしていた。
それでもデカいことには変わりはないのだけれど。
「ただいま帰りました」
そう言って屋敷に踏み入れても、私を迎え入れてくれる者は誰もいない。使用人たちの冷たい視線だけが本家に帰ってきたことを実感させる。
人の目があるときは、義父も義母も手厚く迎えてくれるくせに、誰もいないとこんなにも冷たい中に入っていかなければならない。
もう、慣れてしまったけれど。
10代の多感な時期にこんな扱いをされたのにもかかわらず、品行方正で優秀な生徒だった自分をほめてあげたい。
「5分の遅刻ですよ」
「……すみません」
義母の私を蔑む目は、周りの使用人たちよりも群を抜いて冷たい。真冬の北極よりも冷たいだろう。
「今日は東雲家との会食なんですよ。将来向こうの家に嫁ぐ身として、もう少し自覚をもちなさい」
「はい、すみませんでした。お義母さん」
東雲の家と会食するなんて聞いていない、などという言い訳めいたことを言えば、説教2時間コースなのは目に見えているので、おとなしく従う。
相変わらず私を見下すような視線と、おばさま特有のキンキン声は頭に響くので、極力しゃべらないでほしい。
なんてことも、口が裂けても言えない。
書斎から客室にでてきた義父は、私に一瞥もくれずに義母を伴って部屋を出て行ってしまう。
どうするべきなのか思案していると、鋭い声で「何をしているの。さっさと行くわよ」と言われてしまった。
本当に、この家の人たちは理不尽だ。
それでも大人しく、2人の後ろについていく。
車庫に着くと、まるで私と一緒の空間にいることが苦痛だとでもいうように、2人は車に乗り込んでさっさと行ってしまった。
私の後ろからついてきていた田中さんに促され、二台目の車に乗りこんで、先に発進していた車の後を追う。
こちらとしては、義母の小言も義父の嫌味も聞かなくて済むから、とても助かるのだが。
ただでさえ理不尽な罵詈雑言を浴びせられているのに、偏頭痛を伴っている今日は、精神的に私の身体を蝕んでしまうから願ってもないことだ。
「……晶様。お加減がすぐれないようですが、大丈夫ですか?」
「んー? うん。なんとかなるよ」
ルームミラー越しに、気遣う田中さん(従兄弟)と視線があう。
正直なところ、ほとんど限界に近いのだが、あの義父と義母には何を言っても帰してもらえないだろう。体調管理もできないのかと、休ませるどころか立ったままで怒声を浴びせられることになるのは想像にかたくない。
田中さんだからこそ、本家に来た時からお世話をしてくれていたからこそ分かってもらえる、そんな些細な体調不良など、あの人たちには関係のないことだ。
「つきました。本日はこちらの料亭で会食となっております」
駐車場に車を停めて、ドアを開けてくれる。
ホテルではなかったことが、せめてもの救いかもしれない。
有名どころの高級ホテルだと、人の喧騒にやられてしまっていただろう。
「ありがとう」
「あまり、ご無理はなさいませんよう……」
その言葉に、曖昧に笑って答えてから二人のもとへと急ぐ。
自分たちでさっさと行くくせに、私が少しでも遅くなると毎回機嫌が急降下する理不尽夫婦をあまり怒らせないようにしなくては。
ガンガンと、誰かが金槌で頭を割れそうなほどたたいているような痛みに耐えながら、それでも二人がいる場所まで小走りで向かう。
体調が悪いせいだろう、たった数メートルの距離でも息が上がってしまった。
入口付近でそれを見ていた二人は、見下すように嗤いながら上機嫌で中に入っていった。彼らの中に他人を思いやるという言葉はないようだ。
だんだんと酷くなっていく痛みに耐えながら、2人の後をついていくと個室に入っていく。
部屋にはもうすでに、東雲の一族が座っていた。末席には峻の姿もある。
目が合っただけでこちらに駆け寄ってきそうな勢いだったが、隣に座る父親に止められ、子犬のようにシュンとしていた。
いつもの私だったらきっと笑っていたであろうことも、体調不良を向こうの人に悟られないようにするのが精一杯で視線を向けてあげることしかできなかった。
「遅くなりまして申し訳ございません。晶さんの到着が遅れてしまいまして……」
丁寧に頭を下げた養父母だったが、私の責任にすることを忘れていなかった。いつもの事なのだが、体調が悪いことで心も弱っているようで些細なことがぐっと胸に刺さる。
改めて私は厄介者であり、毛嫌いされているのだと突きつけられる。
「かまいませんよ。どうぞお座りください」
笑顔でそう答えてくれたのは、東雲グループ社長夫人、つまり峻のお母さん。
50はとうに過ぎたはずなのだが、若々しい姿にいつもながら驚く。義母より年上だということが未だに信じられない。
席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。
峻は今にでも食べ始めそうな勢いで、料理をキラキラした目で見ている。
時刻は午後6時を過ぎた頃だろう。峻はいつも早めに食べているようだから、お腹が空いていたのだろう。待たせてしまって申し訳ない。
「では、いただきましょうか」
料理が全て出そろったところで、峻のお父さんが言った。それを合図に皆それぞれに箸を持ち出す。
周りにならって料理に手を付けるが、それどころではなく頭痛がひどい。
今までで一番酷い痛みだ。
「先日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。その後はどうです?」
「なんとか軌道には乗りました。本当に東雲の皆様方にはいつもいつもお世話になりまして……」
大人たちは、大人の会話を始めたようで、義父と義母がしきりに頭を下げている。
峻は料理に夢中だ。向かいの席に座っている私と、全くと言っていいほど視線が合わない。
その代り、峻の後ろに控えている田中さんからの視線が痛い。頭とどちらが痛いか真剣に考えてしまった。頭の方が痛いに決まっているのに。
東雲ご夫婦の手前、退室するというのも難しい。なにより、そんなことをすれば義父と義母に何を言われるかわからない。
いろんなことを考えている間に、頭の痛さはどんどん酷くなっていく。
頭の内側から割れるような痛みが、継続的に続いている。
いたい、痛い、イタイ。
「晶さん? どうしたの?!」
ドクドクと脈打つ痛みの向こうから、峻の声が聞こえる。その時になってようやく、大人たちが私に視線を移した。
「晶さん? どうなさったの?」
「大丈夫かい?」
焦ったように、東雲夫妻が声をかけてきてくれたが、私の養父母は相変わらずだ。
「何をしている。東雲夫妻の前だぞ」
「みっともない真似はおやめなさい」
「いやしかし、光隆くん。これは酷く辛そうだ」
「いえ、こいつはこうやって気を引こうとしているのです。何の役にも立たないと分かっているからこそ、こういうことしかできないのでしょうな」
「申し訳ありません。わたくしどもの教育が至らないばかりにお見苦しいところをお見せしてしまって……。再教育が必要でしてよ」
なんで、どうして。私はそんなに悪いことをした?
ぐるぐると似たような言葉が頭を回る。わざわざ東雲ご夫妻の前で、そんなにボロクソに言われる理由が、私にはわからない。
教育も何も、そうそうに本邸から追い出したのはそっちじゃないか。体裁があるからか必要最低限のお金は出してもらえたが、別邸にいる使用人からはゴミを見るような目で見られ、夕食は調味料があべこべのものしか出てこなかった。残すとわざわざ本邸から出向いてきて、日々ご飯を食べられる有難みを2時間ほど喚き散らされるので、残さず食べなければいけなかった。食後に吐いても同じだったので、就寝前まで耐えていた。おかげで味覚は家を出てしばらくは死んでいた。
高校を卒業すると、18になったのだからと早々に家を追い出した。幸い義父母が手を付けられない、私名義の貯金があるからなんとか生活できている。もうすでに城木からの援助は全くないのだ。
あるのは戸籍上の繋がりのみ。
理不尽な行動に、嫌気がさす。
余計なことを考えたせいで、頭が余計に痛くなった気がする。吐き気もしてきた。
目の前の世界が、不安定に揺れている。私自身が、不安定な存在みたいだ。
「晶さん? 晶さん!」
峻が叫ぶ。
私のために泣きそうで、でも今ここで泣き喚いてはいけないと我慢している。その存在が愛おしいとなぜだかふと感じた。
が、できれば今は叫ばないでほしい。頭にダイレクトに響く。
「田中さん、お医者様を呼んでちょうだい」
「はい、奥様」
峻のお母さんに言われ、田中さんが動いた。準備していたかのように、すぐに奥に入っていったのをみると、あらかじめ用意をしていたのだろう。
遠のく意識の中、泣くのを我慢しながらも、目を真っ赤にさせて心配そうにのぞき込む駿の姿が、眼に焼き付いた。
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