首のない死体は生者を招く

新藤悟

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第拾伍節(その2)

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「どうしたんですか?」
「え……あ、ごめんなさいね」識也の声に木梨は笑ってみせ、目元を拭った。「ちょっと昔の事を思い出しちゃって。ダメね、歳を取ると涙もろくなっちゃう」
「……音無先生に関すること、ですか?」
「さて、どうかしら?」

 木梨ははぐらかした。窓の方に向けた顔には柔和な笑みが浮かんでいるが、微かに「失敗した」というように目元が歪んでいた。

「……」
「……はあ、そうよね。気になっちゃうわよね」

 識也の視線に木梨は観念し、困った様に笑ってみせた。

「他人の事情を伺うのは気が引けますが、できれば。それに思い出して涙を浮かべてしまうということは、木梨先生もずっと気に病んでいるのでしょう? 僕で良ければ聞きますよ?
 ――幸い、ここには美味しいお茶もお菓子もあることですし」
「……ずるいわ。そんな風に言われたら拒めないじゃない」

 泣き笑いに近い微笑みを浮かべる。法令線が深く刻まれ、先程より年老いたようにも見えた。
 木梨は一度深く溜息を吐き出し、「他の人には絶対に黙っててね?」と念押しし、識也が「誓って」と告げると訥々と話し始めた。

「何年か前……音無先生が教師として一歩を踏み出した年だったわ。
 教師としては一年目だったけれど、さっきも言った通り彼女はすぐに人気の先生になったわ。彼女自身はそれに戸惑ってたみたいだけど、新しいやり甲斐を見つけて順調に歩み始めたの」
「……」
「先生になってもよくこの部屋に来てたわ。おしゃべりなタイプじゃないけど、居心地が良かったのかしら。気分転換だって言ってここで仕事をしてたりしてた。私の居ない時に保健室に来た生徒の相手も代わりにしてくれてたりしたの」
「何も問題はなさそうですけれど……」
「ええ、本当。何も問題なかったわ」木梨はため息を吐いた。「でも、その年の秋から冬に掛けて頃からだったかしら……一人の女子生徒が保健室に来るようになってから少しずつ歯車がおかしくなっていったの。
 その生徒は普段は殆ど保健室に来ることは無かったのだけれど、その日は偶然体調が悪かったのね。授業の途中で保健室にやってきて、その時は私は不在だったからちょうど代わりに音無先生が居たの。もちろん彼女は優秀なお医者さんだったからきちんと診察してくれたわ。対応に何も問題は無かった」
「ということは生徒の方に問題が?」
「問題があった、とは言わないわ。ただ――その女の子が恋に落ちてしまったの」
「……誰にです?」
「音無先生に、よ」

 木梨の予想外の回答に識也はやや困惑した。だがそういう事もあるだろうとすぐに得心する。

「……なるほどレズビアンだったということですか」
「ええ、そう。でもそれ自体は問題じゃないの。同じ性別の人を愛してしまうことだってあるでしょうし、その子にとってはそれが自然だっただけのこと。
 けど、それが彼女にとっての初恋。だからのめり込んでしまったんでしょうね。それからというもの、事あるごとに保健室にやってきて音無先生にアプローチをしていったの。仮病も頻繁に使ってね。それはもう熱烈なアプローチだったわ」
「音無先生も、対応に苦慮してたんじゃないですか?」
「そうね……戸惑いもあったし、どう接していいか分からなかったというのもあって、最初はよく相談されたわ。あの年頃の子は対応にも注意が必要だし、だからといって教師と生徒が付き合うというのも大問題になるでしょうし。そこら辺は彼女もしっかりわきまえていたから慎重ながらも話を聞いてあげていたわ。傍で見ていてもその対応にも何も問題が無かったと思ったわ。だから私も途中から安心してた。でも……」
「でも?」

 木梨は識也の問いかけに口を噤み、深い溜息を吐き出して一度顔を覆った。

「でも……私は彼女に任せきりにすべきじゃなかった。いえ、違うわね……もう少し見守ってあげるべきだったの。だって……彼女にとっても初恋だったから」
「え? それはどういう……」
「音無先生も彼女に恋をしてしまったのよ」

 識也は眼を見張った。

「そう、だったんですか……」
「恋心をこんな風に言うのも良くないのでしょうけど……思えばあの頃の彼女はご両親を亡くして、お医者さんも止めて新しい仕事を始めて精神的に不安定な時期だったわ。あまり感情を表に出さない子だから忘れてたけど、きっと音無先生だって毎日不安だったでしょう。
 勝手な想像ではあるのだけれど、彼女も誰かを求めていたのでしょう。だからついに一線を越えてしまったの……職業倫理とのせめぎあいの果てにね」

 まさか音無教諭にそんな過去があったとは。識也はあまり感情を表に出さない化学教諭の意外な過去に小さく唸った。

「しかし……そうだとするとかなり問題になったんじゃないですか?」

 世間一般の反応から察した識也の疑問に、だが木梨は首を横に振った。

「いいえ……それを知ってたのは本人たちと私だけ……もちろんその生徒が音無先生に懐いていたのは色んな生徒が知ってたけど、まさかそれが恋心とは誰も思っていなかったし、まして音無先生がそれに応じるなんて思いもしてなかったの。本人たちも決して口外しなかったから」
「木梨先生は止めなかったんですか?」
「止めようとはしたわ。せめて、卒業してからって。けれど……恋心なんて理屈じゃないもの。それに」少しだけ木梨の顔が綻んだ。「付き合っている時の音無先生は笑顔でいることも多かったから、本気で止めることができなかった。卒業までの一年半だけ秘密にできれば、後は何の問題もないと思ったの」
「その言い方だと……何かがあったんですね?」
「ええ、そう……付き合い始めて一年が経った頃かしら。二人の様子がおかしくてね、尋ねてみたの。そうしたらケンカしちゃったみたいで、生徒の方も保健室には来るんだけど、カーテン越しに背を向けあって会話はしないのね」
「痴話喧嘩ですか」
「私もそうだと思ったわ。だからそこまで気に止めて無かったの。
 けれどまもなくして――その生徒が行方不明になったの」
「――……っ」

 木梨の手が震え、カップの中の紅茶が波紋を立てた。柔和な笑みは鳴りを潜め、眼には涙。ただ眉間に深く皺が寄っている。

「……結局、その生徒は見つかったんですか?」
「いいえ……」木梨は首を横に振った。「……その子が行方不明になって数年が経ったけれど、未だ不明のままだわ。何があったのか、誰も分からない……無事だと信じたいけれど、何処でもいいから生きていてくれればいいのだけれど……」

 彼女の中では最悪の事態が何度も過っているのだろう。恐らくは確信めいたものになっているはず。信じたくない。けれどそう思わざるを得ない。

「その、音無先生は大丈夫だったんですか? 何か事情を知ってたりは……」
「……彼女は何も知らないようだったけれど、本当のことは良くは分からないわ。手がかりがないか聞こうとしたけれど、ショックを受けてる彼女を私は深く追求することはできなかった……」
「何も、ですか?」

 木梨は再び首を横に振った。

「何も……ただ大丈夫か、尋ねることが出来ただけだったわ」
「その時は先生は何と?」
「一言だけ……無理して笑いながら言ったの。『失ってから気づくものもあるんですね』って……泣きながら笑うの……
 それを聞くともう……それ以上は何も言えなかったわ」

 それはかつて音無が識也に告げたのと同じセリフ。恋人を失った事を悔いるように聞こえる。だが識也の頭の中では、前の世界での彼女の仕草や言動と木梨から聞いた彼女の話が複雑に絡み合っていく。

「そうですか……」

 識也は口元を隠して少し考え込む仕草をした。静まり返った部屋で時計の針が時間を刻む音だけが響く。
 そうしてどれだけ時間が経ったか、識也の口端が微かに吊り上がった。そしてゆっくりと立ち上がり、カップを部屋の隅にある流し台へ片していく。

「すみません、言いづらい話をありがとうございました。もうだいぶ遅くなってしまったので僕はこの辺で」
「……あら、本当。もう六時前」

 木梨が顔を上げると陽はすっかり傾いていた。空は茜色から瑠璃色に変わり、完全な日没も近い。
 木梨は目元の涙を拭い立ち上がると、識也に「大丈夫よ」と微笑みかけた。

「ごめんなさいね。変なお話を聞いてもらっちゃって。本当なら私の方が識也くんの話を聞く立場なのにね」
「いえ。僕には先生ほどの人生経験もありませんし、話を聞くぐらいしかできませんがそれで先生のお気持ちが楽になったのでしたら良かったです」
「ふふ、本当にどっちが先生でどっちが生徒か分からないわね」

 少し恥ずかしそうに笑う木梨。識也は人懐っこい笑みを顔に貼り付けると一礼した。

「それでは僕はこの辺で。また美味しいお菓子とお茶を頂きに来ます」
「今度は貴方のお話を聞かせてちょうだいね? 何か困ったことがあればいつでも相談に乗るわ。お勉強の相談でも進路の相談でも、好きな子ができたとかでも、ね?」

 気持ちを持ち直して茶目っ気をみせる木梨に識也は困ったように頭を掻いてみせ、苦笑いを浮かべながら保健室のドアを開けた。
 一歩部屋の外に出る。だがそこで識也は立ち止まり、扉に手を当てたまま振り返った。

「どうしたのかしら? 何か話したいことがあった?」
「いえ……一つ確認したいのですが」

 識也は首だけを木梨に向け、そして尋ねた。

「先程の行方不明になった生徒ですが――もしかして、四年前じゃありませんか?」






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