首のない死体は生者を招く

新藤悟

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第六節、第七節

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 識也が音無に連れられて保健室に着いた時、校医の姿は無かった。不用心にも保健室の鍵は掛けられておらず、翻ってそれはすぐに養護教諭兼校医がすぐに戻ってくる事を意味していると思われた。
 だがここに来てようやく思考が落ち着いたのか、殴られた跡を新たな第三者に見られるのだと識也は思い至った。殴られた原因を端的に表すならば、音無が言う通り痴情の縺れである。その傷跡を急に見られたくなくて、校医が居ないのを幸いと保健室を辞そうとした識也だったが、音無はそれを許さなかった。
 手を掴んで丸椅子に強引に識也を座らせると、自身は棚からガーゼやら絆創膏、湿布薬などを勝手知った様子で取り出し、校医が座るはずの場所に何食わぬ様子で座る。そしてさっさと識也の治療を始めてしまった。
 アルコールで湿った脱脂綿が識也の顔を撫でていく。流れた血を拭い、白い綿がすぐに朱く汚れて、音無は黙って新しい物に取り替えると再び傷跡を拭き始めた。強い薬品の香りが細く長い指先から漂ってくる。
 拭き終えると絆創膏を素早く貼り付け、引き出しからハサミを取り出して湿布薬を適当なサイズに切り分け始める。簡単な作業だがその所作は随分と堂に入っている。まるで本当の校医の様だ。恐らくは識也の様に校医の顔を知らない生徒が来て音無を見たら、彼女を校医と思い込むに違いない。

「……随分と慣れてますね」
校医木梨先生がいらっしゃらない時はいつも勝手に使ってるからな。授業がない時はここで仮眠している時もある。木梨先生よりもこの部屋に詳しい自信があるぞ」
「何やってるんですかこの不良教師」

 よくよく見てみれば、彼女の指先の数ヶ所にこの部屋に置かれているものと同じ絆創膏が巻かれている。授業の準備中にでも怪我したのだろうか。シミ跡といい今の物言いといい、識也は音無の印象を改めた。

「時々私を木梨先生と間違えた生徒が治療を求めてきたりするがな。その時は今の君のように代わりに私が治療してやってる。ああ、もちろん私は木梨校医では無いと断った上でだが」
「それって問題になるんじゃないですか?」
「サボりの事か? それについては他の先生には黙っていてもらえると非常に助かるのだが」
「いや、そうじゃなくて……ああいや、それも十分に教師としては問題だと思うんですが、勝手に生徒の治療をする事が、です」
「問題ない。私だからな」
「どういう理屈ですか、それ……」

 問答の結果出てきた回答に、識也は呆れを多分に含んだ視線を音無にぶつけた。だが音無は、逆にそんな識也の視線の意味が分からないのか不思議そうに釘を傾げ、やがて「ああ」と声を上げた。

「そういえば君のクラスに授業には行っていなかったな」
「何の話ですか?」
「前職の話だよ。数年前まで医者だったんだよ」
「……誰がですか?」
「私が、だ。ほら、何も問題無いだろう?」

 音無は微かに微笑んで見せて胸を張ってみせる。誇らしげな表情は何処か幼くも見える。普段は大人の女性といった風の彼女が見せる子供っぽい様子が、果たして彼女が意図して振る舞っているのか分からず、識也は曖昧に「そうですね」とだけしか返しようがなかった。

「どうかね? 他人と話して少しは気が晴れたかな?」
「……気が晴れた、とは少し違いますが、そうですね、さっきよりは幾分マシになった気がします」
「それは重畳だ。ほら、終わったぞ」

 識也の頬に湿布薬を貼り終え、終わりの合図とばかりに組んでいた膝の上を軽く叩く。熱を持った頬に冷たい湿布がじんわりと染みて、熱と共に胸に渦巻いていた惨めさが少し取り去られていく。そんな気がした。
 だからだろうか。識也のしては珍しく胸中の思いが口をついて出てきた。

「……分からないんですよね、俺」
「何がだ?」
「誰かを好きになる、ということが、です」
「……都筑君のことか」

 識也は顔を伏せた。

「異常なんです、俺。きっと……誰も愛せない。未来は良い奴です。だけど、それ止まりなんです。俺を好きになってくれる分だけ、俺もアイツを好きになってやりたい。けど……ちゃんと言えないんですけど、間違いなく俺は誰も愛する事なんてできない」

 音無からは見えない俯いた顔が歪んだ。声は絞り出すようで、酷く苦しげだ。

「誰の傍にもいたくない。自分が周りと違ってるのがきついから……そんな自分が時々嫌になります。
 すいません、要領を得なくて。こんな話されても――」
「誰しも普通と違う一面は持っているものだ」音無は湿布薬と絆創膏を棚に戻しながら言った。「趣味嗜好は人それぞれだ。中には現代社会において受け入れられないものだってあるだろうよ。だからといって自らでそれを否定する必要はないさ」
「音無先生には分かりませんよ」
「分かるさ。私だってまともに人を愛せない。女として生を受けたが、きっと誰かの子を生むこともないだろう」

 識也は顔を上げた。音無の手元でカタリ、と音を立てて戸棚が閉まった。

「普通とは違う嗜好を得た君に同情する。共感もできる。だが私にできるのはそこまでだ。突き放すようだが……後は受け入れるか、諦めるか、それとも誤魔化しながら生きるか、君自身で選択するしかない」
「そう、ですよね……」
「だがもし愚痴りたくなったら、いつでも私のところに来たまえ。話相手くらいにはなってやる」
「……無いとは思いますが、もしそんな気分になった時はお願いします」

 識也は音無に頭を下げると立ち上がってドアを開けた。そのまま振り返らずに立ち去ろうとしたが、保健室から出た所で音無の声が背中に投げかけられる。

「水崎。自分の気持ちというものは思いのほか自身では分からないものだ。若い時は頑なに自らを他者と比べたくなるのも分かるが、大事なのは自分の気持ちだ。感情に素直になると途端にやるべきことが見えて楽になる。失ってから気づく事もあるが、大切なものであれば失わずに済むに越したことはないぞ?」
「……実感のこもったお話ですね。音無先生もそんな経験を?」
「この歳まで生きていれば、本当に大切なものを失ったことくらい一度はあるさ」腕を組み、音無は少しだけ自嘲気味に笑った。「素直になれば良かったと後悔し、苦悩に苛まれながら過ごすこともあった。もっとも、私がこのような事を言ったところで木梨先生からすれば若輩過ぎて笑うだろうがね」
「すみません……」
「いや、いい。私の場合はそれで得られたものもあったしな。まあ先達の戯言だと思って聞き流してくれていい」
「ご忠告、ありがとうございます。ですが――」

 受け入れられないことだってある。そのセリフは結局は識也の口から出ること無く、胸の内にだけで留まることになった。
 だが音無には伝わったようで、彼女は長い黒髪を掻き上げながら軽く眼を伏せ識也に背を向ける。

「そうか。君がそう決めたのなら口出しはしないさ。頑張り給え、少年」

 それ以上は音無も何も言わず、識也も黙って保健室の戸を閉めて足早に歩き去った。






-七-



 十月九日

 良太に殴られた翌日。やっと迎える事ができた休日を惰眠に費やすことで昨日の出来事を記憶の片隅に追いやっていた識也だったが、朝八時過ぎに掛かってきた電話によって起こされた。
 掛かってきた番号は知らないものだった。だから電話に出るか迷ったが、休日の朝っぱらから掛けてくるのだ。それなりに急ぎなのだろうと、痛む顎でアクビをしながらボタンを押した。

「はい、水崎です……ふわぁ……」
『おはようございます、都月と申します』

 都月、という声に少し眼が覚めた。

『識也くん、かしら? 未来の叔母の葉月です。その、覚えてくれてるかしら?』

 寝起きの胡乱げな思考が少しずつ収束していく。
 ずっと昔、まだ識也が小学生くらいの時分に未来の家へ遊びに行った時、何度かお世話になった女性だ。そして今、両親を亡くした未来を引き取って一緒に暮らしている女性でもある。

「ああ……おはようございます、葉月さん。もちろん覚えてますよ」
『ごめんね、こんな朝早くに。それで、えっと、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……』

 識也の耳に、葉月の歯切れの悪い声が響く。まだ寝足りない識也はアクビをかみ殺し、葉月を促した。

「何ですか? 何か言いづらい事でも別に気にしませんよ?」
『そう? なら恥を忍んで聞くんだけど……未来、識也くんと一緒に居たりしないわよね?』
「? ええ、俺一人ですし、未来もウチに来たことはありませんが」
『そう、よね……ホント、朝早くからごめんなさい。それじゃあ……』
「待ってください」

 手短に用件を済ませ、受話器を置こうとする葉月を識也が呼び止めた。良くない予感がしていた。
 呼び止めたものの、識也は迷った。聞くべきか、聞かざるべきか。知らずスマートフォンを強く耳に押し付けたまま硬直し、逡巡の結果、識也はついに口にした。

「何か……未来にあったんですか?」

 今度は葉月が硬直する番だった。しかし識也のそれよりも遥かに短い時間で心情を立て直した彼女は硬い声で事実だけを端的に識也に告げた。

「未来が……昨日から帰ってこなくて。電話してもメールしても全く連絡が取れないの」



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