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夏休み中旬:朱鷺

63話 8月16日:怜の母親

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 マンションを出た俺たちは、急いで怜の実家に車を走らせた。高浜社長より先に怜の母親と接触しないと、高浜社長が何をするか安易に想像できたからだ。
 事情を知らないまま車に乗せられた彼女は、困惑しながらも息子との再会を喜んでいた。

 鶯巣はひとまず大阪のホテルで一泊することを提案した。東京に連れて帰る前に母親に事情を話す必要があるし、なにより怜が疲弊しきっていた。

 ホテルに到着し、鶯巣とミサが名刺を渡すと、怜の母親は飛び跳ねた。慌てて立ち上がり、頭が膝にくっつきそうなほど深くお辞儀をする。ミサはそんな彼女の頭を上げさせ、俺を紹介した。

 俺が怜の恋人だと聞くと、母親は目を見開いた。「これで怜の将来は安泰だ」と安堵しているのが伝わってきた。
 怜の母親を安心させることができてよかったという気持ちが半分、そんな目で俺を見ないでくれという気持ちが半分だ。オメガのこういう視線はあまり得意ではない。俺を見ているはずなのに目が合わないこの違和感に、何年経っても慣れない。

 俺たちの挨拶が終わったあと、怜が母親に全てを話した。言いづらいのか声が小さいし、ずっと俯いたままだ。
 長年にわたり怜が義父に抱かれていたと知った母親は、思いっきり怜の頬をぶった。痛いはずなのに、怜はうんともすんとも言わず、変わらず俯いている。

「なによそれ……!! なによそれ!!」
「……ごめんなさい」
「そんなこと……どうして……どうしてもっと早く言わなかったの!!」
「……」

 母親は泣き崩れ、痛ましいほど悲痛な泣き声を上げた。

「私、どうして気付いてあげられなかったの……。ごめんなさい……ごめんなさい、怜……!!」
「ううん。お母さんに知られないようにしてたのは僕だから。お母さんは悪くない。僕の方こそごめんなさい……」
「こんなことならさっさと私の体を売れば良かった……!!」
「そんなこと言わないで……」
「どうして私の代わりに怜が体を……!! あの人にだけじゃなく、いろんな人と接待までさせて……私は……そのお金でずっとごはんを食べていたのね……」

 母親がよろよろと立ち上がり、ふらついた足取りで部屋の中を歩き出した。何かを探すようにあたりを見回し、ふと足を止め、カトラリーが入った引き出しを開ける。その中からナイフを取り出し自分に向けた。

 そんな彼女の頬を引っ張たいたのは、ミサだった。

「あなた、いい加減にしなさい」
「だって……!! だって、私のせいで、怜が……!!」
「あんなことをしてまで怜くんがあなたを守ろうとしていたことが分からないの?」
「……っ」
「今までの怜くんを否定するようなことはやめなさい。あなたが自分のことしか考えていないのなら、別に死んでもかまわないけれど。もし少しでも怜くんを大切に想っているのなら、怜くんと共に生きなさい」
「……」

 顔を真っ青にした怜が、母親の手を握る。

「お母さん……。苦しい思いをさせて、本当にごめんなさい……」

 母親はぶんぶんと首を横に振り、嗚咽を漏らした。

「あのね、お母さん。僕たち、もう自分たちで生きていけるよ。ミサさんにお願いして、株式会社〇〇で働かせてもらえるようになったんだ」
「え……?」
「僕も、お母さんもだよ。だから一緒に東京に行こう。それで、もう一回やり直そうよ」

 怜は涙を流しながらも、にっこりと笑った。

「僕たち、今度はきっと、しあわせになれるよ」
「怜……」

 それから、怜の母親は迷わず高浜社長と離婚することを決意した。そして東京へ行くことも、株式会社〇〇で働くことも。

 鶯巣は怜の母親に、マンションの一戸を用意すると申し出た。

「一般的な、狭い2LDKのマンションですが。よければ自由にお使いください」

 鶯巣であればもっと良いマンションを用意することもできただろう。そうしなかったのは、余計な恩を着せないようにとの気遣いからなんじゃないかと俺は勝手に解釈した。

 俺はしばらく迷ったあと、怜に言った。

「怜。お前もそこで住め」
「えっ」

 本音は……俺が怜と一緒に暮らしたい。怜と一緒に暮らせるのなら、怜の母親にあの実家を譲って狭いマンションに移り住んでもいい。ついこの間のように、ずっと怜と一緒にいたい。
 だが……

「お前、今まであんまり母さんと仲良くできなかったろ。ほら……あいつのせいで、いろいろ負い目とか感じてただろうし」
「……うん」
「だからさ。せっかくなんだから、東京では親子水入らずで仲良く暮らせよ。そっちの方が、お前にとっても母さんにとっても良いだろ。きっと母さん、東京で一人だと不安だろうしさ」

 怜は顔を上げ、俺を見た。
 ……そんな顔で見るなよ、怜。分かっているよ。お前だって俺と一緒に暮らしたいんだろ。でもその反面、母さんとも二人でしあわせに暮らしたいとも思っているんだな。欲張りはよくないぜ、怜。

 無言のメッセージが伝わったのか、怜はこくりと頷いた。

「ありがとう、朱鷺」
「おう。でも、土日のどっちかは俺にくれよな」
「うん。僕もそうしたい」

 鶯巣はホテルを三室とっていた。一室には鶯巣とミサが使うことは確定していた。
 俺が遠慮して怜と母親を同じ部屋にあてがおうとすると――

「怜、あなたは朱鷺さんと同じ部屋で寝なさいよ」
「え、でも……」
「私は大丈夫だから」

 そう言って、怜の母親は俺に泣きそうな顔で微笑んだ。

「朱鷺さん……ずっと気を遣わせてしまってごめんなさい」
「いえ。気なんて遣ってませんよ」
「ありがとう……でも、私は大丈夫です。今晩は怜と一緒にいてあげてください」

 怜の母親はクスクス笑い、怜の肩を叩いた。

「この子がさっきからずっと、朱鷺さんと一緒にいたいって思っているのが、痛いほど伝わってくるの」
「っ!? お、お母さん!?」
「だから、この子のワガママ聞いてあげてくれないかしら」

 怜は顔を真っ赤にして俯いた。その様子があまりに可愛くて、俺も鶯巣もミサもキュンキュンしたあまり怜に抱きついた。鶯巣とミサがさりげなく怜の匂いをクンクン嗅いでいたので蹴り飛ばした。

 俺はよいしょと怜を抱き上げ、怜の母親に目礼する。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ええ。……朱鷺さん、なにからなにまで、ありがとうございます」
「いえ。俺は何もしていませんよ」
「いいえ」

 怜の母親は首を振り、目じりを下げた。

「怜を愛してくれたじゃないですか」

 その微笑が怜とそっくりで、ああ、この人は本当に怜の母親なんだな、と思った。

「ちょっと、朱鷺」

 胸元で、怜の不機嫌そうな声が聞こえた。

「鼓動が早くなった」
「へ?」
「体温も急に上がった」
「そ、そうか?」

 そしてムスッと俺を睨みつける。

「僕以外の人にときめかないでよ」
「ちがっ……」
「バカ」
「違うだろぉ!? 母さんがお前にそっくりだったからキュンとしただけでだなあ!!」
「フン」

 不機嫌そうな怜に、鶯巣が茶化すように言った。

「あれ? でも怜くん、私と初めて会ったとき、すごくドキドキしてたよね?」
「えっ」
「はぁぁぁ!?」
「それも私が朱鷺と似ていたからだろう? 顔も匂いもそっくりだから」
「そういえば……似てる……」
「全然似てねえよ!! 俺の方が顔も匂いも良いだろうがクソがこら怜このやろぉぉぉ!!」
「いや似てるよ!! うわあ、どうして気付かなかったんだろう僕……」
「だから似てねえって!!」

 くだらない言い合いをしながら部屋を出て行く俺と怜を、大人たちはクスクス笑いながら見送っていた。
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