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第四章

第二十一話

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 ヴラスはそっと俺の手を離し、背を向けた。

「……じきにペトがここに来る。二人で一杯飲むといい」
「ヴラスは飲まないの?」
「ああ。私は先に宿に戻るよ」
「……怒ってる?」
「怒ってなんかいないよ。……私が欲深いだけさ」
「……」

 ヴラスの言った通り、人の姿をしたペト――この町の女の人と同じような控えめな服を着ている――が冒険者ギルドに入ってきた。

「お待たせいたしました、ヴラス様」
「片時もエイベルから目を離すんじゃないよ」
「はい。もちろんです」

 ヴラスはペトと二言三言言葉を交わしてからギルドをあとにした。
 取り残された俺は、おそるおそるペトに尋ねる。

「ねえ、やっぱりヴラス怒ってるよね……?」
「いいえ。怒っていませんよ」
「じゃあなんで俺置いて先に帰るのさ」
「エイベル様に一杯飲ませてあげたかったからですよ」
「じゃあなんでヴラスは一緒に飲んでくれないの?」
「耐えられないからです。エイベル様が他の人とお話ししているところを見るのが」
「うぅん……」

 それより、とペトが辛気臭い雰囲気を変えようと手を叩く。

「せっかくヴラス様が機会をくださったのです。一杯飲みましょう」
「……うん、そうだな。飲もう」

 俺はヴラスの言いつけを守り果実ジュースを、ペトは俺の憧れのエールを注文した。
 席に座ってから気付いたが、冒険者ギルドにいる人たちが俺たちのことをコソコソ見ている。さっきの騒動を見ていた人たちが身震いしながら囁き合っていたり、ペトの美しさに鼻の下を伸ばしてニヤニヤしたりしている。

 俺はできるだけその人たちが視界に入らないよう、隅っこのテーブルに腰を下ろした。そしてグラスを持ち上げ、ずっとやってみたかったことをやってみる。

「ペト。か、乾杯っ!」

 ペトはにっこり笑い、俺のグラスに自分のグラスをこつんと当てた。

「エイベル様に幸あれ。乾杯」

 わぁぁ……。俺、冒険者ギルドの酒場で一杯飲んでいる……!(果実ジュースだけど)
 乾杯なんてしちゃってさ。大人の声でガヤガヤとうるさい酒場で、乾杯を……!

「ペト。エール美味しい?」
「はい。人が作ったお酒を飲むのは初めてなのですが、これはこれで……!」
「天界にもお酒があるの?」
「はい。どれも美味しいですよ」
「へー! 飲んでみたいなー」

 そう言うと、ペトが首を傾げた。

「あら。あなたは一度飲みましたよ」
「えっ?」
「この前お渡ししたじゃありませんか」
「……もしかして媚薬のこと言ってる?」
「はい! あれは私お手製のお酒です!」

 ヴラスのヤツ……! 何が「君はまだ子どもなんだからお酒は飲むな」だ。飲ませてんじゃねえか!

「また私のお酒が欲しくなったらお声がけくださいね。ふふ」
「ペトのはいらない! あれひどかったぞ!?」
「ええ、ええ。効果絶大だと天界でも人気でしてね!」
「二度と持ってこないで!?」

 思った以上にペトと飲むのは楽しかった。話が盛り上がり、グラスが空になってからも俺たちのおしゃべりは止まらなかった。

「なあ、ペト。もしかしてなんだけどさ」
「はい」
「ヴラスって、俺のことめちゃくちゃ好きだったりする……?」
「はい、そうですよ」

 そうじゃないと百年も休暇をとって一人の人間のそばにいるわけがないじゃないですか、とペトは笑った。

「俺のどこがそんないいの? 俺、ただの弱っちいガキでしかないんだけど……」
「ふふ。それはヴラス様ご本人にお尋ねください」

 そう言って、ペトが立ち上がる。

「少し長居しすぎましたね。そろそろお戻りにならないと、ヴラス様がいよいよ不機嫌になってしまいますよ」
「あっ、そうだな。ヴラスを待たせてるんだった」

 俺はぼそっと呟く。

「ヴラスとも飲みたかったなあ……」

 それを聞いたペトは困ったように眉を下げる。

「神はみな嫉妬深いのです。その筆頭がヴラス様なので……」
「嫉妬かあ……」

 嫉妬なんて感情、俺は感じたことがないからよく分からない。

「それに、今までヴラス様に思い通りにできないことはなかったので。少し拗ねているのかもしれませんね。ふふ」
「なんでペトが嬉しそうなの?」
「そりゃあ、いつもふんぞり返っている上司がしょげているところを見ることほど面白いことはありませんから」

 そう言った瞬間、ペトが「う"っ……!」と痛そうな呻き声を上げた。
 よく見ると、右腕が焼けただれて骨が覗いている。
 俺は短い悲鳴を上げた。

「う、腕っ……! どうしたの!?」
「上司から折檻されましたぁ……これは完全に八つ当たりですよぉ……」
「ひぃぃ……っ。い、医者っ……」
「大丈夫です大丈夫です。仮の姿が痛んだだけですから、実際には傷一つ負っていませんよ。……ちょっと痛いだけで」

 これ以上ヴラスを待たせたら二重の意味でクビが飛びかねないからと、ペトは大慌てで俺を宿に連れて行った。
 宿の前で、ペトとお別れをする。

「じゃあね、ペト。また一緒に飲んでよ」
「ぜひ! また食事もご一緒したいです」
「うん! 今日は楽しかった! ありがとう!」

 いつものように、ペトは金色の光となって姿を消した。光が完全に消えると、俺は全速力でヴラスが待っている部屋に向かった。

「ヴラス! ただいま!」
「……おかえり」

 ヴラスはまた窓に腰掛けて空を眺めていた。俺が部屋に入っても、背を向けたままだ。

「楽しめたようだね」
「うん。楽しかったよ」
「そうか」
「……」
「……」

 気まずい。まるで俺がなにか悪いことをして帰ってきたような気分だ。
 ヴラスが明らかに拗ねている。俺の方を頑なに見ようとしないし、うしろから見たら項垂れているように見える。そのせいか、いつもより背中が小さく見えた。

 俺はおずおずとヴラスに近づき、手を握った。それでもヴラスはこちらを向こうとしない。

「ヴラス。今日はありがとう」
「私は何もしていないよ。……礼を言われるようなことは、何も」
「ううん。いっぱいしてくれたよ」

 俺のお願いを聞いて人を傷つけないでくれた。
 本当は嫌なのに、我慢して俺に一杯飲ませてくれた。

 俺はおそるおそる、ヴラスの腰に腕を回す。しょげていても、ヴラスの背中は変わらずあたたかい。
 ヴラスはしばらくそっぽを向いていたが、やがて痺れを切らして俺を見つめた。

「エイベル」
「ん?」
「触れてもいいかい?」

 今までそんなこと聞いたことなかったのに。俺が酒場で言ったことがよっぽどこたえたようだ。……ちょっと悪いことしちゃったな。

「……そんなの、聞かなくていいよ」

 ヴラスはためらいがちに俺の頬に手を添える。そして、いつもより控えめに唇を重ねた。
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