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第3章 旅で得るもの、失うもの

10、見立て通りだっただろう?

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 エンハンスの頼みごとというのは、パンのレシピを書き起こして欲しいということだった。
 同盟を結ぶ際の条件の一つとして、製パン技術を差し出すつもりだとエンハンスは言った。その話をする時の資料としてレシピ集が欲しいそうだ。

「同盟が成立したら、今度はモモカにも帝国やダイスに行って、実際の作り方を教えてもらいたい。……もちろんこれは全てがうまくいった場合の話だ。ダイス国王は賛成してくれているが、肝心の身内がどう出るかはわからないからな」

 でも一応心づもりだけはしてもらえたらと思ってる、というエンハンスの言葉に、百花はすぐにはうなずけずにいた。

(もちろん協力したいけど、それができるかどうかは『大事なもの』の答えにたどりつかないといけない……!)

 アリスの言っていた『人間を人間たらしめている』とは、どういう意味だろう?
 家族や友達、仕事や生活環境よりも大事なもの。

(……だめだ、全然思いつかない)

「モモカ?」

 黙り込んだ百花をエンハンスがのぞきこむ。

「別に一人で行ってもらうわけじゃない。オウルやシアと一緒に行けば色々とやりやすいだろうし、カイリや俺だってついて行くこともできる」
「あ、うん。そうだよね、ありがとう」

 あわてて返事をしたからか、上滑りしたような響きを持ってしまった。言った直後にそれに気づき、百花は「ごめん、行きたくないとかじゃないの。もしその時がきたら、精一杯頑張るから!」と今度はエンハンスの目を見て言った。

「ああ。ありがとう」

 エンハンスは何か言いたそうな目をしていたが、実際に口を開くことはしなかった。代わりに自身の手にあるグラスをあける。彼のグラスにはエールが入っているようだった。

「こうして外で飲むというのも気持ちがいいな」

 ふわりと気まぐれにとんでいる夜光蝶を、エンハンスは柔らかい目をして追っている。ゆったりとした時間の流れは、先ほどのアリスやウェインとのひりついたやりとりで強張っていた百花の心をゆっくりとほぐしていった。

「ハンスは……人間を人間たらしめている大事なものって言ったら何だと思う?」
「何だよ、急に」
「人が、他の生き物と違う部分って何かな……」

 つぶやきながら考え込む百花を一瞥して、エンハンスは「そうだなぁ」と顎に手をあてた。

「まず一番大きいのは言葉じゃないか? 動物は鳴くけれど、意味のある言葉を使いこなすのは人間だけだろう?」
「言葉……」
「あとは、魔法。こっちの方がもしかしたら人間特有の能力かもしれない」
「確かに」

(でもそのどっちもわたしは持ってない……)

 今だって自分は毎朝魔法をかけてもらって言語コミュニケーションをとれるようにしてもらっているのだ。そんな状態で言葉を失っても、あまり『大事なもの』をいう感じはしない。
 そして魔法については、そもそも百花には魔力がない。

(うーん……どっちもピンとこない)

「それがとけると何があるんだ?」

 眉間にしわを寄せる百花に、エンハンスが問いかけた。

「答えがわかれば、わたしがこっちにいられる時間が増える、はず」
「それは本当か」

 エンハンスは瞠目し「それなら何としても解き明かさないといけないな」と芯のある声で言った。

「そうなの。だから他にも何かこれだって思いついたら教えてくれる?」
「それはかまわないが……」
「わたし、やっぱりまだこっちにいたいの。だから最後まで諦めないで、いられる方法を探したいと思ってる」
「もちろん、俺も協力するさ。帰国したら城の書庫をあたってみよう。何か資料があるかもしれない」
「ありがとう」

 百花は微笑み、小さく頭を下げた。顔をあげるとエンハンスの優しい笑みと視線がぶつかる。その大きな手がゆっくりと移動して、百花の頭に置かれた。

「カイリのことが、本当に好きなんだな」

 改めて言われると、何だか照れる。百花ははにかみながらうなずいた。

「カイリも言ってたよ。もう離したくないって」
「えっ、嘘! 本当に!?」
「さっき晩餐会の支度をしている時に、ちょうどカイリの異界渡りの話をしてさ。あいつが本当に感慨深いとか言うから、お前はもうモモカに一生頭があがらないなって言ったんだ。そうしたら」

『彼女と一生いられるなら、それでいい』

 そうカイリは言ったそうだ。

「どうすれば離れずに済むか、そればっかり考えてるとも言ってたよ」
「カイリが……」

 こうして他の人の口からカイリの想いを聞くと、また違う重みを伴って心に届く。百花が「わたしも同じだよ」とかみしめるように言うと、エンハンスは「俺を伝書鳩に使うのはやめてくれよ」と肩をすくめた。

「でもやっぱり、俺の見立てた通りだっただろう?」
「見立て?」
「君がカイリの生きる理由になるって」
「ああ……そういえば言ってたね」
「だからこそ、君にはここにできる限り長くいてもらわないと。俺はもうあいつに抜け殻のようになってほしくない」

 エンハンスは視線を遠くに移した。慈しむような視線の先には、おそらくカイリの面影を浮かべているのだろう。

「抜け殻みたいになったこともあったの?」
「二年前、母親が亡くなった時にな。その時は既にカイリの父親……近衛騎士をしていたんだが、その父親は殉職していたから、母親が病で亡くなったことでカイリは頼れる身内が誰もいなくなった。親戚はいたんだが、そりが合わなくてな……。一応城勤めの者が住む寄宿舎はあったんだが、カイリは一人が気楽だからと街に家を借りて暮らすようになった」

 必要なものは全てそろっていて、逆にそれ以外の余白のない家。あのこじんまりとしたカイリの家を思い出して、百花は彼の過去を想像した。十六歳で精神的にも生活的にも自立しなくてはならないなんて、自分に置き換えてみたら恐ろしさしかわいてこない。

「……そういえば本人からは、過去の話はあまり詳しくは聞いたことなかったよ」
「まあ積極的に話すようなことじゃないからな。その時のカイリは見てられなかったよ。髪は伸び放題だし、目はうつろで、食事だって食べたり食べなかったりだった。しかも何を思ったか娼館に通ったりもして……」
「しょ、娼館!?」

 齢十六にして、娼館通い!?

(だから床上手なのか!!)

 何だか妙に納得してしまう。あの手慣れた感じは娼館で培ったものだったのか。経験豊富だよなぁと漠然と思っていたけれど、謎が判明して良かった。

「まあ通ったと言っても、そう長い期間じゃないけどな。……気になる?」
「いや全然。わたしと会う前にめちゃくちゃ仲良しの恋人がいたとかよりは、娼館で発散してましたって方が良いもん」

 百花のリアクションにエンハンスは吹き出した。

「さすがだよ。これでこそだな」
「いや、そんなことないって。……あ、でも、娼館通いをやめたきっかけって、恋人ができたからじゃないよね!?」

 急に気になってしまい、百花はエンハンスに詰め寄った。

(これまでの様子から多分いないとは思うけど、でも念のため……)

 眉毛がハの字になってしまっている百花にエンハンスは微笑みかけて「どうだと思う?」とはぐらかした。

「あー、そういうの今いらないって! 気になり始めたら止まらないんだから!」
「本人に聞けばいいだろ?」
「そうだけどさぁ!」

 エンハンスはニヤニヤと笑うばかりで、百花の追求をそらしてばかりいる。そうなると、まさか本当に恋人がいたのかもしれないと思ってしまい、百花も引き下がれなくなってきた。
 やいのやいの言い合っているところで「こんなところにいたの」と涼しい声がかかった。

 背の高い花壇の脇から、すっとカイリがやってくる。花の向こうに姿が隠れていたから、最初に声だけが聞こえた時は驚いてしまった。

「何騒いでるの」

 不思議そうなカイリに、エンハンスは顎をなでながら意地の悪い笑みを返した。

「いやあ、お前の娼館通いの話をしてたらつい盛り上がってな」
「なっ……!」

 カイリは声をあげたきり、わなわなと震え出してしまった。眉毛がつり上がってきたのを確認して「違うって! それだけじゃないから!」と百花は弁明する。

「カイリに恋人がいたかどうかをハンスに確認してただけ!」
「はあ?」

 今度はカイリは百花に視線を向けた。

「そんなのハンスじゃなくて僕に聞くことでしょ」

 口をとがらせながら、カイリは百花とエンハンスの間に座る。勢いがついていたから、ベンチがかすかに揺れた。至近距離でにらまれて「うっ……す、すいません……」と百花は小さくうなだれる。

 カイリはため息をつき、そんな姿を見てエンハンスがにやにやしながら「ちゃんと真面目な話もしたさ。お前に言えないような、秘密の話もな」とからかった。途端に顔色を変えたカイリに「冗談だって」と高笑いしながら、エンハンスは立ち上がる。

「まあ邪魔者は蹴られないうちに退散するよ。そろそろ晩餐会も終わるだろうから、何か食べたいものがあれば食べといた方がいいぞ」
「あっ、じゃあわたしデザート最後に食べたい!」

 つられて立ち上がった百花に「ちょっと!」とカイリが不満気な声をあげる。

「ごめんって。カイリの分もデザート持ってくるから、待っててよ」
「そういうことじゃないんだけど……」

 まったくもうと憤慨しながらも、結局カイリも立ち上がり、三人でテーブルの方へ戻ることにした。エンハンスが軽口をたたいて、カイリがそれに呆れながら合いの手を入れる。二人の息のあった様子に気持ちが和んだ。
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