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第3章 旅で得るもの、失うもの
9、大事なもの
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美少女の睨みは、なかなかの迫力がある。
今まで生きてきて、こんなふうに誰かから強い視線を受けることなんてなかったから、百花の心臓が早鐘を打ちだした。
(ものすごいプレッシャーを感じる……! でも負けない!)
可能性の糸口があるならば、それをなんとしてもつかみたい。
「まだ、あきらめきれないんです」
やっとの思いで口を開いても、アリスはまだ無言だった。それでも少しだけ視線が和らいだ気がする。
「こっちに残りたいんです。お願いします、方法があるなら教えてください」
百花は立ち上がってアリスの正面にまわると、頭を下げた。直角になるくらいに腰を折ると、酒が勢いよく頭に逆流して、ぐらぐらしてくる。それでも百花はそのままアリスの反応を待った。
一分か五分か十分か、どのくらい時間がたったかはわからない。
いい加減頭が痛くなってきたところでかけられた言葉は「あなたは全てを捨てられるの?」という静かな問いかけだった。
ゆったりと顔をあげると、無表情のままのアリスと目があう。そこに威圧的な視線はなく、彼女の硬質な美しさが凛とした空気を醸し出していた。
「自分の両親も、これまでの暮らしも、文化も、何もかも。今まで生きて来た全てを投げ捨ててまで、あなたはここにいたいの?」
それは何度も自分に問いかけてきたことだった。
ずっとここで暮らせたらと夢想した。
もしも日本に戻ったらと想像もした。
家族のことも、サツキベーカリーのことも、これまでの自分の全てのことも、ひっくるめて考えていた。
「……いたいです」
何を失っても、離れたくない人ができてしまった。
しっかり者なのにどこか脆い彼が、崩れないように支えたい。
聡いからこそやせ我慢する彼の本心を、さらけ出して包みたい。
大事な人を失うことを恐れている彼に「大丈夫」と言いたい。
「そばに、いたいんです」
あの澄んだ微笑みをいつまでも自分に向けていてほしい。
呆れた顔で「仕方ないなぁ」とため息をつかれながら、支えられたい。
あの細いくせに力強い腕に抱かれたい。
だから、やっぱり帰りたくない。
百花が涙の滲む目でアリスを見つめていると、彼女は短く息をついて立ち上がった。
「座って」
なかば強引にソファに再び座らせられると、今度はアリスが百花の目の前に立った。目線が同じ高さで、至近距離から覗き込まれる。
「あなたがもしもこちらにい続けたいと願い、それを実行しようとするならば、あなたはもう一つ大事なものを失わないといけないわ」
「!! じゃあ……何かしら方法はあるってことですか!!」
百花の色めきだった反応にアリスは目を細めて「奥の奥の禁じ手よ。……本当はしたくないの。だってあなたの世界の神は、本当に怖いんだもの!」と自分で自分の肩を抱きしめた。
「でもウェインのように選択肢の一つも与えないのは無慈悲だわ。だから言うのよ。……でも私に言えるのはここまで。だってウェインが怒ってる」
「怒ってる? わかるんですか?」
アリスが口を開くのを遮るように、突如十字の光が空間を走った。
「わかるわ……」
アリスが目を細めて視線を流した先には、ウェインが立っている。
「……アリス」
地を這うような低い声が響く。彼はアリスに向かって静かに一歩を踏み出した。
「こういう時つながっているというのは不便ね!」
アリスは半ば叫び、頬をふくらませてウェインを睨みつけた。ウェインの方も目が据わっている。おそらくは怒りからくるもので、その静かな迫力に百花の方が震えあがってしまった。
「勝手なことをしてはいけないよ」
「そんなの知らないわ。私は私の思った通りに動くだけよ」
ウェインは無言でアリスを見下ろす。二人の視線が火花でも飛ばしそうなほどの緊迫感で交わり、百花は声を挟むこともできずにそれを見守ることしかできなかった。
(元は同じ存在といっても、意見が食い違ったりするんだ……)
確かに別人格って言ってたもんな、と百花が一人納得していると「モモカ」と今度はウェインが百花に視線を向けた。そこにはさすがに怒りの色はないが、どこか冷たい雰囲気がある。
「……可能性が欲しいかい?」
「欲しいです!」
「後悔するとわかっていても?」
「……わかっていても」
ウェインの視線だけでなくアリスも百花に視線を注いでいる。二人の強い視線にさらされて、百花は拳を握りながら立ち上がった。
「もしも方法があるなら、最後まであきらめたくないんです」
そう言ってウェインを見返す。瞬きもせずに見つめ続けていると、やがてウェインは「答えがわかったら言ってみるといい」と平らな表情のまま告げた。
「答え?」
「ここに残るために、あなたが失わないといけない大事なものよ。それは人間を人間たらしめる……」
「アリス」
鋭い静止にアリスは口をつぐんだ。悔しそうに歯噛みして「……わかってる。あとは自分で考えて」と言い、百花から視線をそらした。
◆
あの後ウェインは再び閃光とともに消え、百花とアリスは中央庭園に戻って来た。しばらく中座したものの、晩餐会は依然として和やかな雰囲気で盛り上がっている。
アリスは「難問かもしれないけど頑張って」と言うなり、彼女を呼ぶ騎士の元へとかけて行った。
残された百花は今度はヒオンというバナナのような果物の酒を給仕から受け取った。さきほどのナパ酒も甘かったけれど、こちらはそれ以上に甘い。一口飲んで、少しだけ頭がくらっとした。結構アルコール度数が強いようだ。
(カイリはまだ戻ってない。ウェイン王子はあれからまたカイリのところに戻ったっていうことなのかな……)
一体二人はどんな話をしているんだろう。
おそらくカイリはウェインがニアであることを知ったと思っていいだろう。百花がアリスに聞いた『可能性』の話も聞いたのだろうか。
(とにかくそのへんはカイリが戻って来たら聞いてみよう)
しっかり話をしないとと思いつつ、ヒオン酒を再び飲む。途端、ふわふわとした浮遊感に包まれた。アルコールがまわった時特有の視界が狭まる感じがして、ようやく百花は飲みすぎ注意という言葉が頭に浮かんだ。
こりゃまずいと思ったところで、背後からがっしりとした腕に支えられる。
「おいおい、大丈夫か」
かたい胸板に頭を預ける形になり、その鼓動の力強さに百花は一瞬ドキッとした。カイリとは全然違う感触の男の人。振り向くとエンハンスが心配そうに百花を見下ろしていた。
「あれ、ハンス……いつのまに?」
「急にいなくなったと思ったら、これまた急に戻って来て、酒を一人であおってるから気になってな」
ゆったりとした動作で百花の手からグラスを奪うと、代わりに自身の腕をつかませる。
「ちょっと休んだ方がいいんじゃないか?」
「うん」
そうしようと思っていた百花に異存はない。エンハンスが案内したのは、宴でにぎわっている場所から少し離れたところにあるベンチだった。花壇に囲まれていて、夜だというのにそのまわりでは花が咲いている。オミの国では大体の花は夜になるとその花弁を閉じているから、珍しい光景だった。
夜光蝶が光の軌跡を描きながら飛んでいて、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。少し遠くに晩餐会の賑わいも聞こえるけれど、まるでエンハンスと二人で違う空間にいるかのようだ。
「お茶飲んだら?」
いつのまに調達したのか、エンハンスから琥珀色の液体が入ったグラスを手渡される。ハーブティーが胃に優しく染みていく。
「ありがとう、ハンス。わたしここで休んでるから、ハンスは戻っていいよ? 料理とかちゃんと食べた?」
「しっかりいただいたさ。俺も少し休みたいところだからいいんだ。さすがに国王と話して、気力削られたからな」
「え、気力削られちゃったの? なんか和やかな感じじゃなかった?」
「ああ、まあ、別に張り詰めた空気になったわけじゃないんだけどな……俺でも多少は緊張するってことだよ」
「へえ。そうなんだ。意外」
ハンスはいつも堂々としているからなぁと笑うと、エンハンスは「そう見せているだけさ」と片方の口の端をあげた。初めて見るエンハンスの皮肉げな笑みだった。
「王様とどんな話したの? 和平のこととかもちらっと話題に出たの?」
「ああ。詳しくは明日話し合うけど、ダイス国王が三国会談を呼びかけてくれることになりそうだ」
「おおっ! それってすごいことだよね!?」
色めき立つ百花にエンハンスは大きくうなずき「そこでダイス国王を盟主として、三国同盟を結ぶ方向性で進めようという話になった」と力強く答えた。
(本当に、和平の手助けしてくれるんだ……!)
神様が動くのだから、きっとこの戦争はおさまるところにおさまるだろう。安心して「よかったねぇ」と笑う百花に対して、エンハンスは複雑な表情だ。嬉しくないわけではないようだけれど、手放しでも喜べない。そんな表情。
「どうしたの? せっかく戦争が終わる目処がたちそうなのに」
「うん……まあ……」
歯切れが悪いエンハンスなんて珍しい。百花は「何かあるなら、話すと楽になるよ?」と声をかけて、自分はお茶をまた飲んだ。冷たくて美味しい。まだ頭がぼんやりして酔っ払っている自覚はあるけれど、先ほどのようにぐらついたりするほどでもない。
エンハンスは苦笑いしながら「何かを得るには対価が必要だってことさ」と自嘲気味に呟いた。
「対価……見返りってことだよね? 何が欲しいって言われたの?」
「国王の首」
「えぇっ!!!!!」
大きくのけぞって驚く百花にエンハンスは吹き出した。
「モモカの反応、面白いな」
「い、いやだって、それちょっと無茶ぶりにもほどがあるでしょ!」
「冗談だよ。別に国王を殺せと言われたわけじゃないさ」
「そうなの? じゃあ何て言われたの?」
エンハンスは一瞬だけ眉根を寄せて、その目に苦悩をにじませた。けれどそれを一瞬でかき消して「ダイス国王が望むのは、オミの国が先進国になることだそうだ。農業大国としてその名を轟かせ、世界にその種をまいてほしいと頼まれたよ」と笑った。
「そのためには、今の国王のように目先の利益のために関税を釣り上げたりするような指導者ではいけない。……多分ダイス国王はそう言いたかったんだろう」
「で、でも、オミの国の王様ってまだまだ現役でしょう?」
「ああ。ダイス国王もそれは分かってる。……多分、俺に内部から国を変えていくよう期待してるんだろうな」
途方も無い宿題だよと、エンハンスは頭の後ろで腕を組んで大きく伸びをした。
「……俺が王になれたらな」
ふうと息を吐くように言った後で「あ、これは誰にも内緒な」とエンハンスは指を口にあてた。
「大丈夫、自分の使命はわかってる。俺の使命は、ゆくゆくは王になるリンガードを支えることだ」
言葉は力強いが、エンハンスの目には憂いが浮かんでいる。かたく引き結んだ口元に彼が普段背負っているものの大きさが見えるようだった。それとともに、おそらく彼が感じている迷いが与える心のひずみまて感じ取り、百花は何を言うこともできずただエンハンスの顔を見つめた。
(……知らなかった。ハンスでも、こんなふうに悩むんだ……)
改めて考えてみれば、彼は王族として国の未来を背負っている。戦争の終結のために尽力していた姿は頼もしく威厳すら感じるほどだったけれど、国がどう進むべきかという舵取りをするにはまだ若すぎる年齢だ。
何か言って元気付けたい、励ましたいとは思うものの、何も思い浮かばない。焦りにも似た気持ちが心中でもがいている。
百花の沈黙を受け取ったエンハンスは「急にこんな話しても困るよな」と自嘲気味に呟いた。
二、三度自分の頭を叩いてから、気遣うように百花に優しい視線を向ける。
「まああれだ、酒の席ということで大目に見てくれ」
そして今度はどんと百花の背中を叩いた。妙に力が込められていて「わっ!」と百花の身体が前に傾く。グラスを落とさなかったのは幸いだった。
「あ、ごめんごめん。勢い良すぎたな」
豪快に笑いながら、エンハンスは百花の腕を引っ張って体勢を戻した。すでにその顔は、普段通りの明るい彼に戻っていた。
「それで、改めてモモカには頼みたいことができたんだ」
今まで生きてきて、こんなふうに誰かから強い視線を受けることなんてなかったから、百花の心臓が早鐘を打ちだした。
(ものすごいプレッシャーを感じる……! でも負けない!)
可能性の糸口があるならば、それをなんとしてもつかみたい。
「まだ、あきらめきれないんです」
やっとの思いで口を開いても、アリスはまだ無言だった。それでも少しだけ視線が和らいだ気がする。
「こっちに残りたいんです。お願いします、方法があるなら教えてください」
百花は立ち上がってアリスの正面にまわると、頭を下げた。直角になるくらいに腰を折ると、酒が勢いよく頭に逆流して、ぐらぐらしてくる。それでも百花はそのままアリスの反応を待った。
一分か五分か十分か、どのくらい時間がたったかはわからない。
いい加減頭が痛くなってきたところでかけられた言葉は「あなたは全てを捨てられるの?」という静かな問いかけだった。
ゆったりと顔をあげると、無表情のままのアリスと目があう。そこに威圧的な視線はなく、彼女の硬質な美しさが凛とした空気を醸し出していた。
「自分の両親も、これまでの暮らしも、文化も、何もかも。今まで生きて来た全てを投げ捨ててまで、あなたはここにいたいの?」
それは何度も自分に問いかけてきたことだった。
ずっとここで暮らせたらと夢想した。
もしも日本に戻ったらと想像もした。
家族のことも、サツキベーカリーのことも、これまでの自分の全てのことも、ひっくるめて考えていた。
「……いたいです」
何を失っても、離れたくない人ができてしまった。
しっかり者なのにどこか脆い彼が、崩れないように支えたい。
聡いからこそやせ我慢する彼の本心を、さらけ出して包みたい。
大事な人を失うことを恐れている彼に「大丈夫」と言いたい。
「そばに、いたいんです」
あの澄んだ微笑みをいつまでも自分に向けていてほしい。
呆れた顔で「仕方ないなぁ」とため息をつかれながら、支えられたい。
あの細いくせに力強い腕に抱かれたい。
だから、やっぱり帰りたくない。
百花が涙の滲む目でアリスを見つめていると、彼女は短く息をついて立ち上がった。
「座って」
なかば強引にソファに再び座らせられると、今度はアリスが百花の目の前に立った。目線が同じ高さで、至近距離から覗き込まれる。
「あなたがもしもこちらにい続けたいと願い、それを実行しようとするならば、あなたはもう一つ大事なものを失わないといけないわ」
「!! じゃあ……何かしら方法はあるってことですか!!」
百花の色めきだった反応にアリスは目を細めて「奥の奥の禁じ手よ。……本当はしたくないの。だってあなたの世界の神は、本当に怖いんだもの!」と自分で自分の肩を抱きしめた。
「でもウェインのように選択肢の一つも与えないのは無慈悲だわ。だから言うのよ。……でも私に言えるのはここまで。だってウェインが怒ってる」
「怒ってる? わかるんですか?」
アリスが口を開くのを遮るように、突如十字の光が空間を走った。
「わかるわ……」
アリスが目を細めて視線を流した先には、ウェインが立っている。
「……アリス」
地を這うような低い声が響く。彼はアリスに向かって静かに一歩を踏み出した。
「こういう時つながっているというのは不便ね!」
アリスは半ば叫び、頬をふくらませてウェインを睨みつけた。ウェインの方も目が据わっている。おそらくは怒りからくるもので、その静かな迫力に百花の方が震えあがってしまった。
「勝手なことをしてはいけないよ」
「そんなの知らないわ。私は私の思った通りに動くだけよ」
ウェインは無言でアリスを見下ろす。二人の視線が火花でも飛ばしそうなほどの緊迫感で交わり、百花は声を挟むこともできずにそれを見守ることしかできなかった。
(元は同じ存在といっても、意見が食い違ったりするんだ……)
確かに別人格って言ってたもんな、と百花が一人納得していると「モモカ」と今度はウェインが百花に視線を向けた。そこにはさすがに怒りの色はないが、どこか冷たい雰囲気がある。
「……可能性が欲しいかい?」
「欲しいです!」
「後悔するとわかっていても?」
「……わかっていても」
ウェインの視線だけでなくアリスも百花に視線を注いでいる。二人の強い視線にさらされて、百花は拳を握りながら立ち上がった。
「もしも方法があるなら、最後まであきらめたくないんです」
そう言ってウェインを見返す。瞬きもせずに見つめ続けていると、やがてウェインは「答えがわかったら言ってみるといい」と平らな表情のまま告げた。
「答え?」
「ここに残るために、あなたが失わないといけない大事なものよ。それは人間を人間たらしめる……」
「アリス」
鋭い静止にアリスは口をつぐんだ。悔しそうに歯噛みして「……わかってる。あとは自分で考えて」と言い、百花から視線をそらした。
◆
あの後ウェインは再び閃光とともに消え、百花とアリスは中央庭園に戻って来た。しばらく中座したものの、晩餐会は依然として和やかな雰囲気で盛り上がっている。
アリスは「難問かもしれないけど頑張って」と言うなり、彼女を呼ぶ騎士の元へとかけて行った。
残された百花は今度はヒオンというバナナのような果物の酒を給仕から受け取った。さきほどのナパ酒も甘かったけれど、こちらはそれ以上に甘い。一口飲んで、少しだけ頭がくらっとした。結構アルコール度数が強いようだ。
(カイリはまだ戻ってない。ウェイン王子はあれからまたカイリのところに戻ったっていうことなのかな……)
一体二人はどんな話をしているんだろう。
おそらくカイリはウェインがニアであることを知ったと思っていいだろう。百花がアリスに聞いた『可能性』の話も聞いたのだろうか。
(とにかくそのへんはカイリが戻って来たら聞いてみよう)
しっかり話をしないとと思いつつ、ヒオン酒を再び飲む。途端、ふわふわとした浮遊感に包まれた。アルコールがまわった時特有の視界が狭まる感じがして、ようやく百花は飲みすぎ注意という言葉が頭に浮かんだ。
こりゃまずいと思ったところで、背後からがっしりとした腕に支えられる。
「おいおい、大丈夫か」
かたい胸板に頭を預ける形になり、その鼓動の力強さに百花は一瞬ドキッとした。カイリとは全然違う感触の男の人。振り向くとエンハンスが心配そうに百花を見下ろしていた。
「あれ、ハンス……いつのまに?」
「急にいなくなったと思ったら、これまた急に戻って来て、酒を一人であおってるから気になってな」
ゆったりとした動作で百花の手からグラスを奪うと、代わりに自身の腕をつかませる。
「ちょっと休んだ方がいいんじゃないか?」
「うん」
そうしようと思っていた百花に異存はない。エンハンスが案内したのは、宴でにぎわっている場所から少し離れたところにあるベンチだった。花壇に囲まれていて、夜だというのにそのまわりでは花が咲いている。オミの国では大体の花は夜になるとその花弁を閉じているから、珍しい光景だった。
夜光蝶が光の軌跡を描きながら飛んでいて、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。少し遠くに晩餐会の賑わいも聞こえるけれど、まるでエンハンスと二人で違う空間にいるかのようだ。
「お茶飲んだら?」
いつのまに調達したのか、エンハンスから琥珀色の液体が入ったグラスを手渡される。ハーブティーが胃に優しく染みていく。
「ありがとう、ハンス。わたしここで休んでるから、ハンスは戻っていいよ? 料理とかちゃんと食べた?」
「しっかりいただいたさ。俺も少し休みたいところだからいいんだ。さすがに国王と話して、気力削られたからな」
「え、気力削られちゃったの? なんか和やかな感じじゃなかった?」
「ああ、まあ、別に張り詰めた空気になったわけじゃないんだけどな……俺でも多少は緊張するってことだよ」
「へえ。そうなんだ。意外」
ハンスはいつも堂々としているからなぁと笑うと、エンハンスは「そう見せているだけさ」と片方の口の端をあげた。初めて見るエンハンスの皮肉げな笑みだった。
「王様とどんな話したの? 和平のこととかもちらっと話題に出たの?」
「ああ。詳しくは明日話し合うけど、ダイス国王が三国会談を呼びかけてくれることになりそうだ」
「おおっ! それってすごいことだよね!?」
色めき立つ百花にエンハンスは大きくうなずき「そこでダイス国王を盟主として、三国同盟を結ぶ方向性で進めようという話になった」と力強く答えた。
(本当に、和平の手助けしてくれるんだ……!)
神様が動くのだから、きっとこの戦争はおさまるところにおさまるだろう。安心して「よかったねぇ」と笑う百花に対して、エンハンスは複雑な表情だ。嬉しくないわけではないようだけれど、手放しでも喜べない。そんな表情。
「どうしたの? せっかく戦争が終わる目処がたちそうなのに」
「うん……まあ……」
歯切れが悪いエンハンスなんて珍しい。百花は「何かあるなら、話すと楽になるよ?」と声をかけて、自分はお茶をまた飲んだ。冷たくて美味しい。まだ頭がぼんやりして酔っ払っている自覚はあるけれど、先ほどのようにぐらついたりするほどでもない。
エンハンスは苦笑いしながら「何かを得るには対価が必要だってことさ」と自嘲気味に呟いた。
「対価……見返りってことだよね? 何が欲しいって言われたの?」
「国王の首」
「えぇっ!!!!!」
大きくのけぞって驚く百花にエンハンスは吹き出した。
「モモカの反応、面白いな」
「い、いやだって、それちょっと無茶ぶりにもほどがあるでしょ!」
「冗談だよ。別に国王を殺せと言われたわけじゃないさ」
「そうなの? じゃあ何て言われたの?」
エンハンスは一瞬だけ眉根を寄せて、その目に苦悩をにじませた。けれどそれを一瞬でかき消して「ダイス国王が望むのは、オミの国が先進国になることだそうだ。農業大国としてその名を轟かせ、世界にその種をまいてほしいと頼まれたよ」と笑った。
「そのためには、今の国王のように目先の利益のために関税を釣り上げたりするような指導者ではいけない。……多分ダイス国王はそう言いたかったんだろう」
「で、でも、オミの国の王様ってまだまだ現役でしょう?」
「ああ。ダイス国王もそれは分かってる。……多分、俺に内部から国を変えていくよう期待してるんだろうな」
途方も無い宿題だよと、エンハンスは頭の後ろで腕を組んで大きく伸びをした。
「……俺が王になれたらな」
ふうと息を吐くように言った後で「あ、これは誰にも内緒な」とエンハンスは指を口にあてた。
「大丈夫、自分の使命はわかってる。俺の使命は、ゆくゆくは王になるリンガードを支えることだ」
言葉は力強いが、エンハンスの目には憂いが浮かんでいる。かたく引き結んだ口元に彼が普段背負っているものの大きさが見えるようだった。それとともに、おそらく彼が感じている迷いが与える心のひずみまて感じ取り、百花は何を言うこともできずただエンハンスの顔を見つめた。
(……知らなかった。ハンスでも、こんなふうに悩むんだ……)
改めて考えてみれば、彼は王族として国の未来を背負っている。戦争の終結のために尽力していた姿は頼もしく威厳すら感じるほどだったけれど、国がどう進むべきかという舵取りをするにはまだ若すぎる年齢だ。
何か言って元気付けたい、励ましたいとは思うものの、何も思い浮かばない。焦りにも似た気持ちが心中でもがいている。
百花の沈黙を受け取ったエンハンスは「急にこんな話しても困るよな」と自嘲気味に呟いた。
二、三度自分の頭を叩いてから、気遣うように百花に優しい視線を向ける。
「まああれだ、酒の席ということで大目に見てくれ」
そして今度はどんと百花の背中を叩いた。妙に力が込められていて「わっ!」と百花の身体が前に傾く。グラスを落とさなかったのは幸いだった。
「あ、ごめんごめん。勢い良すぎたな」
豪快に笑いながら、エンハンスは百花の腕を引っ張って体勢を戻した。すでにその顔は、普段通りの明るい彼に戻っていた。
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