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第1章 美少年の来訪
10、まさか自分が
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百花は二十五歳になった。
カイリと出会って別れた時から二年がたち、変わらずサツキベーカリーで早朝から働く日々を過ごしている。
恋人はいない。今でもカイリを忘れられないからだ。
というのも、原因は彼にある。
『ももかへ
だいすきだよ
だから
ぼくのことをあきらめないで
かいり』
折り目部分がすすけて鉛筆の色もどこか薄まってきた手紙を、ため息とともに眺めて、また折りたたむ。文章なんかとっくに覚えているが、カイリの筆跡が見たいがために、朝起きたら開くのが百花の日課だった。
朝起きて、手紙を読んで、彼を思い出してから出勤する。
なんて生活だろうと思う反面、もはや習慣づいてしまったから、何の感情も浮かばなくなってきた。
「あきらめないでって言われてもねぇ」
あきらめてって言われた方がマシだったかも。
苦笑いしつつ、支度を始める。今日は休日だが榊と会う予定があった。隣町に新しくオープンしたパン屋に、偵察がてら行ってみようという計画だ。昼前に待ち合わせて榊の車でその店へ行く。
ブーランジュリー・マツという和洋折衷なネーミングのその店は敷地面積も広く、駐車場は完備。パンの種類も豊富だった。サツキベーカリーの倍以上は並んでいる。気になるパンをかたっぱしから購入して、再び榊の車で戻ってくる。彼の家で試食会というのがいつものコースだ。ここ一年くらい、月に一回のペースでこういうふうに百花は榊と出かけ、彼の家でパンを食べている。パンを食べて、あーだこーだ感想を言い合い、彼の車でアパートまで送ってもらう。
家に二人きりというのはどんなものかと思ったが、男女の関係になりそうな雰囲気はまるでないので、百花も安心していた。
けれど、その日の榊は違った。
「お前、俺が独立するっつったら、ついて来てくれるか」
パンを食べた後で告げられたのは、引き抜きの言葉だった。
榊が開業に向けて修行として店で働いているのは知っていた。だいぶ経験も積んだからそろそろなんて本人も言っていたから、百花もそうなのかくらいに思っていた。
けれど、その開業に自分が関わってくるなんて、露とも感じていなかった。
聞けば、店長には話を通してあると言う。
百花の気持ち次第で、と了承は得ているそうだ。
「お前のやり方はずっと見て来て信頼できるし、一緒にやればうまくいくビジョンもある。だから頼む。俺と来て欲しい。苦労させるかもしんねえけど、絶対幸せにするから」
「……なんかそれプロポーズみたいなんですけど」
冗談めかして反応してみれば「プロポーズもかねてる」と榊は大真面目な顔でうなずいた。
「はい? え、ついて来てほしいって、パン職人としてじゃなくて嫁としてってことですか!?」
「ちっげーよ! パン職人兼嫁だよ!」
けん、のところを強調して、榊が主張した。百花としては寝耳に水である。好意を持たれてるなんて、考えたこともなかったのだ。
「お前がなぁ、あんまり無防備にのこのこうちにくるから、出したい手も出せねえんだよ! どうしてくれる!」
しかも榊は何故かキレている。百花としては困惑するばかりだ。
「いやだって榊さん、ちょっとそれ話飛びすぎですよー。引き抜きだけならまだしも、結婚とか、いきなりしようって言われてハイとか言えるわけないですから!」
「どうせ同じだ」
「いやいや、全然違いますから!」
榊の思考にまったくついていけない。大声で押し問答をして、勢いでキスまでされたが、とりあえず返事はせずに百花は榊の部屋を後にした。てんやわんやな試食会だった。送ると言われたが「狼お断りです!」と断固拒否して、電車で帰宅する。
榊の申し出をすぐに断らなかった理由は多分二つある。
電車に揺られながら、百花は自分を分析した。
一つは、彼のパン職人としての未来に、自分も可能性を感じているから。
そしてもう一つは……認めたくないけれど、多分、人肌恋しいから。
正直、榊からの好意は嬉しかった。ずっと一緒に働いていて榊の人柄は知っている。簡単にああいうことを言えないタイプだと知っているから信じられたし、重みもあった。
カイリのような線の細さはまったくない、無骨で大きな男。
まるでタイプが違う榊なら、いちいちカイリを思い出さなくて済むのかもしれない、と一瞬だけ思った。
(あきらめたい、のかもしれない)
自分は、カイリを。
もう二度と会えない人を想い続けるならばーー。
(……会いたい)
生きているだろうか。戦争は終わっただろうか。あのパンはちゃんとカビる前に食べられただろうか。
二年前の切ない恋の記憶が呼び覚まされ、とぼとぼとアパートに戻ってくる。おなじみの鍵をまわして、ドアを開けて中に入る。
どっと疲れていたため、百花は気づかなかった。
その時、自分も二年前のカイリと同じように異界渡りをしたことを──。
カイリと出会って別れた時から二年がたち、変わらずサツキベーカリーで早朝から働く日々を過ごしている。
恋人はいない。今でもカイリを忘れられないからだ。
というのも、原因は彼にある。
『ももかへ
だいすきだよ
だから
ぼくのことをあきらめないで
かいり』
折り目部分がすすけて鉛筆の色もどこか薄まってきた手紙を、ため息とともに眺めて、また折りたたむ。文章なんかとっくに覚えているが、カイリの筆跡が見たいがために、朝起きたら開くのが百花の日課だった。
朝起きて、手紙を読んで、彼を思い出してから出勤する。
なんて生活だろうと思う反面、もはや習慣づいてしまったから、何の感情も浮かばなくなってきた。
「あきらめないでって言われてもねぇ」
あきらめてって言われた方がマシだったかも。
苦笑いしつつ、支度を始める。今日は休日だが榊と会う予定があった。隣町に新しくオープンしたパン屋に、偵察がてら行ってみようという計画だ。昼前に待ち合わせて榊の車でその店へ行く。
ブーランジュリー・マツという和洋折衷なネーミングのその店は敷地面積も広く、駐車場は完備。パンの種類も豊富だった。サツキベーカリーの倍以上は並んでいる。気になるパンをかたっぱしから購入して、再び榊の車で戻ってくる。彼の家で試食会というのがいつものコースだ。ここ一年くらい、月に一回のペースでこういうふうに百花は榊と出かけ、彼の家でパンを食べている。パンを食べて、あーだこーだ感想を言い合い、彼の車でアパートまで送ってもらう。
家に二人きりというのはどんなものかと思ったが、男女の関係になりそうな雰囲気はまるでないので、百花も安心していた。
けれど、その日の榊は違った。
「お前、俺が独立するっつったら、ついて来てくれるか」
パンを食べた後で告げられたのは、引き抜きの言葉だった。
榊が開業に向けて修行として店で働いているのは知っていた。だいぶ経験も積んだからそろそろなんて本人も言っていたから、百花もそうなのかくらいに思っていた。
けれど、その開業に自分が関わってくるなんて、露とも感じていなかった。
聞けば、店長には話を通してあると言う。
百花の気持ち次第で、と了承は得ているそうだ。
「お前のやり方はずっと見て来て信頼できるし、一緒にやればうまくいくビジョンもある。だから頼む。俺と来て欲しい。苦労させるかもしんねえけど、絶対幸せにするから」
「……なんかそれプロポーズみたいなんですけど」
冗談めかして反応してみれば「プロポーズもかねてる」と榊は大真面目な顔でうなずいた。
「はい? え、ついて来てほしいって、パン職人としてじゃなくて嫁としてってことですか!?」
「ちっげーよ! パン職人兼嫁だよ!」
けん、のところを強調して、榊が主張した。百花としては寝耳に水である。好意を持たれてるなんて、考えたこともなかったのだ。
「お前がなぁ、あんまり無防備にのこのこうちにくるから、出したい手も出せねえんだよ! どうしてくれる!」
しかも榊は何故かキレている。百花としては困惑するばかりだ。
「いやだって榊さん、ちょっとそれ話飛びすぎですよー。引き抜きだけならまだしも、結婚とか、いきなりしようって言われてハイとか言えるわけないですから!」
「どうせ同じだ」
「いやいや、全然違いますから!」
榊の思考にまったくついていけない。大声で押し問答をして、勢いでキスまでされたが、とりあえず返事はせずに百花は榊の部屋を後にした。てんやわんやな試食会だった。送ると言われたが「狼お断りです!」と断固拒否して、電車で帰宅する。
榊の申し出をすぐに断らなかった理由は多分二つある。
電車に揺られながら、百花は自分を分析した。
一つは、彼のパン職人としての未来に、自分も可能性を感じているから。
そしてもう一つは……認めたくないけれど、多分、人肌恋しいから。
正直、榊からの好意は嬉しかった。ずっと一緒に働いていて榊の人柄は知っている。簡単にああいうことを言えないタイプだと知っているから信じられたし、重みもあった。
カイリのような線の細さはまったくない、無骨で大きな男。
まるでタイプが違う榊なら、いちいちカイリを思い出さなくて済むのかもしれない、と一瞬だけ思った。
(あきらめたい、のかもしれない)
自分は、カイリを。
もう二度と会えない人を想い続けるならばーー。
(……会いたい)
生きているだろうか。戦争は終わっただろうか。あのパンはちゃんとカビる前に食べられただろうか。
二年前の切ない恋の記憶が呼び覚まされ、とぼとぼとアパートに戻ってくる。おなじみの鍵をまわして、ドアを開けて中に入る。
どっと疲れていたため、百花は気づかなかった。
その時、自分も二年前のカイリと同じように異界渡りをしたことを──。
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