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第1章 美少年の来訪
7、そばにいるからわかること
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百花に初めて彼氏ができたのは、高校二年生の時で同級生だった。なんとなくウマがあって、冗談を言い合って笑いあっているうちに、付き合うことになった。恋人というよりは友達の延長という感じで、手をつないだりキスをするだけで大騒ぎだった。受験生になってお互いの志望大学がずれて、別れた。
大学に入学してからは、サークルの同期と付き合った。こちらも友達として仲良くしているうちに恋人になった。二人きりで遊ぶのと同じくらい、友達も呼んでワイワイと遊ぶのが好きな人だった。セックスはしたけれど、そこまで情熱的だった記憶はない。
そして、現在。
あの夜から十日ほど経過したが、あれは一夜の過ちということにはならなかった。
ちょっと性欲が昂ったからとか気の迷いとか、そういう泡のような消える気持ちではなく、カイリは百花を恋愛対象として想っていると、改めて翌日の夜に告げられたのだ。
『抱いてる時好きって言ったでしょ。僕は嘘でこんなことは言わない』
そう確固たる瞳で言われ、百花は喜びとともにそれを全面的に受け入れた。そしてそのままセックスになだれこみ、翌朝の出勤にあわや支障が出そうだった。朝に強いのが百花の特技だったのに寝坊しそうになって、しかも首筋にキスマークをつけられていたため洋服を選ぶのに時間がかかり、散々だった。
(カイリが彼氏かぁ……)
百花は真剣な表情で薬草図鑑を読み込んでいるカイリの横顔を見ながら、間違いなく顔は歴代彼氏の中で断トツでかっこいいと思った(と言っても比較対象は二人しかいないが)。
時刻は夜の七時を過ぎたところ。夕食後にカイリが少し図鑑を読みたいというから、百花はコーヒーをいれて隣でくつろいでいたのだ。
美人は三日で飽きるなんてことわざもあるが、カイリの顔はいくら見ていても飽きない。
「ーー見過ぎ」
「あ、ばれた?」
「気づかない方がおかしいでしょ」
気になって仕方ないとカイリは口をとがらせ、すねた調子で百花に視線を送った。
「だってカイリって目の保養になるんだもん」
冗談を言いつつ、確かに勉強の邪魔をするのもなということで百花は立ち上がった。
あの日曜日に薬草園に行って以来、カイリはまるで天啓を受けたかのように薬学にのめりこんでいる。
薬草園内にある温室で、薬用植物を一つ一つ確かめては似たようなものが祖国にもあるとかないとか呟き、薬になるまでという展示室では音声ガイドを聞きながら食い入るようにパネルを見つめていた。
帰りにはミュージアムショップで分厚い薬草図鑑を購入し(もちろん百花のお金)、それ以来毎日それを読み込んでいる。
(興味があることができたのは良いんだけど……)
キッチンでコーヒーのおかわりをいれながら、そっとカイリを盗み見る。
今こうして彼が頑張っているのは、いつか祖国に帰った時にその知識を生かすためだと思うと百花の心は寂しさでうめつくされた。
いつ帰れるかはわからない。むしろ帰れるかどうかもわからない。
そんなことを言っていたのに、あれではもう帰る気満々ではないか。むしろ、自分は必ず帰れると確信してさえいる気がする。
(まあ普通に考えたら、故郷に帰りたいよね……)
自分の生まれ育った故郷が一番なのはわかる。しかも現在戦争中と言っていたから、色々と心配なんだろうとも思う。けれど、残される百花はどうなってしまうんだろうか。彼がいなくなった時のことを想像すると、底知れない恐ろしさがはいあがってくるのだ。
『モモカが僕のことを好きなのはわかってる』
そう言われた時はとっさに否定したけれど、なんてことはない。今となっては百花だってしっかりとカイリを異性として意識していたし、愛しく思う気持ちがあった。それは彼に抱かれて生まれたのかもしれないけれど、そうだとしても今確かにある感情だ。
「ーー何考えてるの」
不意に背後から声がかかり、ついでカイリの腕がまわされた。いつのまにキッチンにきたのだろう。まるで気配に気づかなかった。
(やっぱり忍者だ……)
小さく笑って、百花は手をカイリの腕に添えた。
「正直に言っていいの?」
「いいよ」
「カイリが図鑑に夢中だから、ヤキモチやいてた」
「ーーそうだろうと思ってた」
もう終わりにしたよと言いながら、カイリは百花を振り向かせた。ゆるく抱きしめられて、その肩越しに部屋をのぞくと、確かにテーブルの上にはもう図鑑はのっていなかった。
自分を優先してくれて嬉しい。
でも、勉強の邪魔をして申し訳ない。
(うーん……この相反する感情のケアは、なかなか難しいぞ)
どうしたものかと百花はカイリの背中に手をまわしながら、こっそり唸った。
◆
六月に入り、関東地方も例年通り梅雨入りした。
今年はしっかりと雨が降る梅雨のようで、連日雨模様である。
土曜日である今日も朝から雨が降っていて、サツキベーカリーの客足も少し鈍い。そんな中で百花はあんぱんの成形をもくもくと行なっていた。手の上でパン生地を平たくし、あんこをのせて、また丸く包み直す。生地によれがでないよう合わせ目を閉じるにはコツが必要だったが、もう五年もその作業を続けている百花にはお手の物だった。
「おいお前、どうした」
向かいでパン生地をスケッパーで分割している榊が声をかけてくる。何がですか、と顔をあげると、榊が心配そうな目をしていた。
「さっきからため息つきすぎじゃねえか」
「あれ、ため息ついてました?」
「無意識かよ」
ちっと舌打ちして「なんかあったんじゃねえの?」と榊は眉を寄せた。
「最近疲れたまってるだろ。目の下にクマできてるぞ」
「えぇっ……ほんとですか」
全然気づかなかった。というか、朝顔を洗った後に鏡なんてほとんど確認しないで家を出るから、確認もしていなかった。
榊が言うように疲れがたまっているというのは、間違っていない。
ただーー。
「小僧はまだいるのか」
「いますよ」
「いいかげん親元へ帰せよ。いつまでも居座られたらお前も身がもたねえだろ」
「……身はまあ、何とかもってるんですけど……」
「あん?」
「なんかこう、気分がぱーっと晴れることってないですかね。榊さんってストレス解消はどうやってしてるんです?」
「俺か? 俺は──そうだなぁ」
「あ、やっぱりいいです。なんか榊さんのやり方、真似できなそうだから」
「おい! 聞いたからには答えるまで待てよ! 筋トレだよ!」
「ほらやっぱり! 全然興味ないし、むしろそんなの更にストレスたまるに決まってます」
「じゃあランニングはどうだ?」
「嫌です。榊さんのストレス解消法は、身体を思い切り動かす系ってことがわかりました。参考になりません」
「お前、失礼すぎるだろ!」
「正直な感想です。ほら、作業に戻りましょ。雑談しすぎるとパンに失礼ですよ。いつもみたいにロックな調子で分割しちゃってくださいよ」
「なんだよロックな調子って……」
呆れた調子の榊を無視して、百花も成形作業に戻る。ひたすら手を動かしながら、そろそろ誰かに相談しないとまずいなぁと考えていた。
(このままためこむと多分カイリの前で爆発しちゃう。でも、一体誰にどうやって相談したらいいんだろう)
年若い恋人が、自分の前から消える準備を進めている。
どうしたらそれを引き止められるだろうか、なんて。
休みのたびに、漢方ミュージアムやら東洋医学研究所などの医学的博物館を巡る中で、カイリは薬学にどんどん没頭していった。百花はそれを応援しているし、協力もしている。分厚い薬草図鑑に懸命にふりがなを振る作業なんて、我ながらかなり頑張ってやっているし、カイリからも本当に感謝の気持ちを伝えらえている。
けれど、カイリが努力すればするほどに、彼自身が百花との別れをしっかり視野にいれて動いていることがつきつけられてしまうのだ。
そんな生活が一ヶ月以上続いて、百花はそろそろ自分が耐えきれなくなる時がくると感じていた。
榊に聞いたのは冗談ではなく、本気でガス抜きの必要があるからだ。筋トレもランニングも興味はないが、頭を空っぽにするには案外いいのかもしれない。
(今日帰ったら、ちょっと走ってみようかな……あ、だめだ、雨降ってるんだった)
同じ室内でいきなり筋トレなんて始めたら、確実にカイリにおかしな顔で見られるだろう。しかも勉強の邪魔だ。
(いっそ帰らないくらいがちょうどいいのかも)
どうせ帰ったって、カイリは図鑑と向き合っているに違いない。最近は夕食もさっと作るようなメニューが増えてきた。作ってもらっている身だし、味は文句なしに美味しいから、それについて何かを言ったことはないけれど、それでも彼の薬学への情熱がすけてみえるのはつらかった。
(よし、今日はちょっとカイリと離れてみよう。プチ家出だ!)
都合のいいことに明日は日曜日。誰かあいている人がいたら飲みに付き合ってもらって、その後はインターネットカフェにでも行けば、良い気晴らしになるかもしれない。
仕事をあがってまず百花はカイリに『かえるのおそくなるから、先にねててね』とメッセージを作った。いつもは『今からかえるよ』という内容なのに真逆なので、カイリからは『なんで!?』と速攻で返信がきた。『ともだちとのみあかすことにした』と返し、トーク画面を消す。その後カイリからは何度もメッセージがきたが、適当にいなした。
店を出ると雨は小降りになっていた。百花はよしと気合を入れて、家とは反対方向──駅の方へ向かって走り出した。
◆
残念ながら、土曜日の夜にあいている友人はつかまらず、結局百花は隣駅のラーメン屋でお腹を満たし、そのまま駅前のインターネットカフェに入った。
そこは女性客を大いに意識したつくりで、店内はこぎれいでもちろん完全個室だし、シャワーのアメニティも充実していた。シャワーは朝浴びればいいやと思って、まずは心ゆくまで映画を観ることにした。こういう時は痛快アクションものと百花の中で相場が決まっている。できる限りバタバタしていてノンストップでスリリングなもの、という基準で洋画を選ぶ。
それを観始めて三十分ほどたったところで、ドアがノックされた。ヘッドフォンをしていたからもしかしたら気づくのが遅くなったかも知れない。店員だと疑いもせずにドアを開けたら、カイリが立っていた。
「ぎゃ……」
驚きに叫びかけた百花の口は、カイリに素早くふさがれた。ごくりとつばを飲み込んで見た先のカイリの表情は、能面のように真っ平らだった。カイリがすぐに手を離したから「どうしてここに?」と百花は小声で聞く。
「それ、こっちのセリフだから。一体なんでこんなことしてるの」
「いや……それは、その……」
「とりあえず家に帰ろう」
有無を言わさず手を引かれ、これはチェックメイトだと悟る。プチ家出終了。あっという間だった……。
おとなしく百花は退室準備をした。カイリは「外で待ってるから」と言い置いて、さっさと通路の先に消えていく。それを追いかけて曲がっても彼の姿はなく、暇そうにカウンター業務をしている店員と目が合うだけだった。
(一体どこへ消えた!?)
キョロキョロと辺りを見回しながら会計を済ませ(結構不審な目で見られた)、狐につままれた気分で店から出ると、エレベーターホールでカイリは待っていた。
「先に出てたの? ていうかどうやって入ったの? 身分証ないのに。そもそもなんでこの場所が──」
矢継ぎ早に質問する百花を鬱陶しそうに見て、カイリは「別に店の中なんて簡単に入れたよ。死角通っただけ。あと、場所の特定には魔法を使った。人の気配を探す魔法があるから」と早口で説明した。そうしてむんずと百花の手をつかむと「もう行こう」とエレベーターに乗り込む。
そこからすぐに電車に乗って最寄り駅に着いた時、時刻はまだ夜十時だった。
(なんか前と同じ流れだな……)
合コンの夜を否が応にも思い出す。カイリはあの時のように激怒している様子はなかったけれど、不機嫌ではあった。百花の突拍子もない行動に苛立っているのだろう。
別に迎えに来てほしいと思ってとった行動じゃなかった。
けれど、心の片隅ではそれを願っていたのかもしれない。
だってこうしてカイリに手を引かれて、喜んでいる自分がいるのだ。見つけてもらえたと歓喜に震えている自分がいるのだ。
(わたしってもしかして……結構めんどうくさいやつだったのかも……)
がっくりしつつアパートに戻り、まずは「ごめん」とカイリに謝った。玄関に入った瞬間に頭を下げた百花だったが、カイリは「うん」と言ったきりふいと奥の部屋へと向かう。手をつないだままだったので、そのまま百花もカイリに続いて部屋に入り、そのままベッドへと連行された。と言っても、押し倒されたりするわけではなく、横に並んで座るという状態だ。
「……怒ってる?」
「怒ってない」
嘘だ。絶対怒ってる。カイリの口はへの字だし、目だって百花と合わせようとせずに前方を向いたままだ。
百花は「……急に変なことしてごめん」とうつむいた。
「変なことって自覚はあるんだ」
「いやまあ……ね、我ながらちょっと突拍子なかったかなぁなんて」
あははと空笑いしてもカイリが乗ってくる様子はまるでない。空気が冷えたままなので、肩を落として「いやほんと心配かけてすいません」と肩を落とした。
「嘘までついて、家に帰りたくなかったの?」
そうたずねるカイリの眼光は鋭い。
大学に入学してからは、サークルの同期と付き合った。こちらも友達として仲良くしているうちに恋人になった。二人きりで遊ぶのと同じくらい、友達も呼んでワイワイと遊ぶのが好きな人だった。セックスはしたけれど、そこまで情熱的だった記憶はない。
そして、現在。
あの夜から十日ほど経過したが、あれは一夜の過ちということにはならなかった。
ちょっと性欲が昂ったからとか気の迷いとか、そういう泡のような消える気持ちではなく、カイリは百花を恋愛対象として想っていると、改めて翌日の夜に告げられたのだ。
『抱いてる時好きって言ったでしょ。僕は嘘でこんなことは言わない』
そう確固たる瞳で言われ、百花は喜びとともにそれを全面的に受け入れた。そしてそのままセックスになだれこみ、翌朝の出勤にあわや支障が出そうだった。朝に強いのが百花の特技だったのに寝坊しそうになって、しかも首筋にキスマークをつけられていたため洋服を選ぶのに時間がかかり、散々だった。
(カイリが彼氏かぁ……)
百花は真剣な表情で薬草図鑑を読み込んでいるカイリの横顔を見ながら、間違いなく顔は歴代彼氏の中で断トツでかっこいいと思った(と言っても比較対象は二人しかいないが)。
時刻は夜の七時を過ぎたところ。夕食後にカイリが少し図鑑を読みたいというから、百花はコーヒーをいれて隣でくつろいでいたのだ。
美人は三日で飽きるなんてことわざもあるが、カイリの顔はいくら見ていても飽きない。
「ーー見過ぎ」
「あ、ばれた?」
「気づかない方がおかしいでしょ」
気になって仕方ないとカイリは口をとがらせ、すねた調子で百花に視線を送った。
「だってカイリって目の保養になるんだもん」
冗談を言いつつ、確かに勉強の邪魔をするのもなということで百花は立ち上がった。
あの日曜日に薬草園に行って以来、カイリはまるで天啓を受けたかのように薬学にのめりこんでいる。
薬草園内にある温室で、薬用植物を一つ一つ確かめては似たようなものが祖国にもあるとかないとか呟き、薬になるまでという展示室では音声ガイドを聞きながら食い入るようにパネルを見つめていた。
帰りにはミュージアムショップで分厚い薬草図鑑を購入し(もちろん百花のお金)、それ以来毎日それを読み込んでいる。
(興味があることができたのは良いんだけど……)
キッチンでコーヒーのおかわりをいれながら、そっとカイリを盗み見る。
今こうして彼が頑張っているのは、いつか祖国に帰った時にその知識を生かすためだと思うと百花の心は寂しさでうめつくされた。
いつ帰れるかはわからない。むしろ帰れるかどうかもわからない。
そんなことを言っていたのに、あれではもう帰る気満々ではないか。むしろ、自分は必ず帰れると確信してさえいる気がする。
(まあ普通に考えたら、故郷に帰りたいよね……)
自分の生まれ育った故郷が一番なのはわかる。しかも現在戦争中と言っていたから、色々と心配なんだろうとも思う。けれど、残される百花はどうなってしまうんだろうか。彼がいなくなった時のことを想像すると、底知れない恐ろしさがはいあがってくるのだ。
『モモカが僕のことを好きなのはわかってる』
そう言われた時はとっさに否定したけれど、なんてことはない。今となっては百花だってしっかりとカイリを異性として意識していたし、愛しく思う気持ちがあった。それは彼に抱かれて生まれたのかもしれないけれど、そうだとしても今確かにある感情だ。
「ーー何考えてるの」
不意に背後から声がかかり、ついでカイリの腕がまわされた。いつのまにキッチンにきたのだろう。まるで気配に気づかなかった。
(やっぱり忍者だ……)
小さく笑って、百花は手をカイリの腕に添えた。
「正直に言っていいの?」
「いいよ」
「カイリが図鑑に夢中だから、ヤキモチやいてた」
「ーーそうだろうと思ってた」
もう終わりにしたよと言いながら、カイリは百花を振り向かせた。ゆるく抱きしめられて、その肩越しに部屋をのぞくと、確かにテーブルの上にはもう図鑑はのっていなかった。
自分を優先してくれて嬉しい。
でも、勉強の邪魔をして申し訳ない。
(うーん……この相反する感情のケアは、なかなか難しいぞ)
どうしたものかと百花はカイリの背中に手をまわしながら、こっそり唸った。
◆
六月に入り、関東地方も例年通り梅雨入りした。
今年はしっかりと雨が降る梅雨のようで、連日雨模様である。
土曜日である今日も朝から雨が降っていて、サツキベーカリーの客足も少し鈍い。そんな中で百花はあんぱんの成形をもくもくと行なっていた。手の上でパン生地を平たくし、あんこをのせて、また丸く包み直す。生地によれがでないよう合わせ目を閉じるにはコツが必要だったが、もう五年もその作業を続けている百花にはお手の物だった。
「おいお前、どうした」
向かいでパン生地をスケッパーで分割している榊が声をかけてくる。何がですか、と顔をあげると、榊が心配そうな目をしていた。
「さっきからため息つきすぎじゃねえか」
「あれ、ため息ついてました?」
「無意識かよ」
ちっと舌打ちして「なんかあったんじゃねえの?」と榊は眉を寄せた。
「最近疲れたまってるだろ。目の下にクマできてるぞ」
「えぇっ……ほんとですか」
全然気づかなかった。というか、朝顔を洗った後に鏡なんてほとんど確認しないで家を出るから、確認もしていなかった。
榊が言うように疲れがたまっているというのは、間違っていない。
ただーー。
「小僧はまだいるのか」
「いますよ」
「いいかげん親元へ帰せよ。いつまでも居座られたらお前も身がもたねえだろ」
「……身はまあ、何とかもってるんですけど……」
「あん?」
「なんかこう、気分がぱーっと晴れることってないですかね。榊さんってストレス解消はどうやってしてるんです?」
「俺か? 俺は──そうだなぁ」
「あ、やっぱりいいです。なんか榊さんのやり方、真似できなそうだから」
「おい! 聞いたからには答えるまで待てよ! 筋トレだよ!」
「ほらやっぱり! 全然興味ないし、むしろそんなの更にストレスたまるに決まってます」
「じゃあランニングはどうだ?」
「嫌です。榊さんのストレス解消法は、身体を思い切り動かす系ってことがわかりました。参考になりません」
「お前、失礼すぎるだろ!」
「正直な感想です。ほら、作業に戻りましょ。雑談しすぎるとパンに失礼ですよ。いつもみたいにロックな調子で分割しちゃってくださいよ」
「なんだよロックな調子って……」
呆れた調子の榊を無視して、百花も成形作業に戻る。ひたすら手を動かしながら、そろそろ誰かに相談しないとまずいなぁと考えていた。
(このままためこむと多分カイリの前で爆発しちゃう。でも、一体誰にどうやって相談したらいいんだろう)
年若い恋人が、自分の前から消える準備を進めている。
どうしたらそれを引き止められるだろうか、なんて。
休みのたびに、漢方ミュージアムやら東洋医学研究所などの医学的博物館を巡る中で、カイリは薬学にどんどん没頭していった。百花はそれを応援しているし、協力もしている。分厚い薬草図鑑に懸命にふりがなを振る作業なんて、我ながらかなり頑張ってやっているし、カイリからも本当に感謝の気持ちを伝えらえている。
けれど、カイリが努力すればするほどに、彼自身が百花との別れをしっかり視野にいれて動いていることがつきつけられてしまうのだ。
そんな生活が一ヶ月以上続いて、百花はそろそろ自分が耐えきれなくなる時がくると感じていた。
榊に聞いたのは冗談ではなく、本気でガス抜きの必要があるからだ。筋トレもランニングも興味はないが、頭を空っぽにするには案外いいのかもしれない。
(今日帰ったら、ちょっと走ってみようかな……あ、だめだ、雨降ってるんだった)
同じ室内でいきなり筋トレなんて始めたら、確実にカイリにおかしな顔で見られるだろう。しかも勉強の邪魔だ。
(いっそ帰らないくらいがちょうどいいのかも)
どうせ帰ったって、カイリは図鑑と向き合っているに違いない。最近は夕食もさっと作るようなメニューが増えてきた。作ってもらっている身だし、味は文句なしに美味しいから、それについて何かを言ったことはないけれど、それでも彼の薬学への情熱がすけてみえるのはつらかった。
(よし、今日はちょっとカイリと離れてみよう。プチ家出だ!)
都合のいいことに明日は日曜日。誰かあいている人がいたら飲みに付き合ってもらって、その後はインターネットカフェにでも行けば、良い気晴らしになるかもしれない。
仕事をあがってまず百花はカイリに『かえるのおそくなるから、先にねててね』とメッセージを作った。いつもは『今からかえるよ』という内容なのに真逆なので、カイリからは『なんで!?』と速攻で返信がきた。『ともだちとのみあかすことにした』と返し、トーク画面を消す。その後カイリからは何度もメッセージがきたが、適当にいなした。
店を出ると雨は小降りになっていた。百花はよしと気合を入れて、家とは反対方向──駅の方へ向かって走り出した。
◆
残念ながら、土曜日の夜にあいている友人はつかまらず、結局百花は隣駅のラーメン屋でお腹を満たし、そのまま駅前のインターネットカフェに入った。
そこは女性客を大いに意識したつくりで、店内はこぎれいでもちろん完全個室だし、シャワーのアメニティも充実していた。シャワーは朝浴びればいいやと思って、まずは心ゆくまで映画を観ることにした。こういう時は痛快アクションものと百花の中で相場が決まっている。できる限りバタバタしていてノンストップでスリリングなもの、という基準で洋画を選ぶ。
それを観始めて三十分ほどたったところで、ドアがノックされた。ヘッドフォンをしていたからもしかしたら気づくのが遅くなったかも知れない。店員だと疑いもせずにドアを開けたら、カイリが立っていた。
「ぎゃ……」
驚きに叫びかけた百花の口は、カイリに素早くふさがれた。ごくりとつばを飲み込んで見た先のカイリの表情は、能面のように真っ平らだった。カイリがすぐに手を離したから「どうしてここに?」と百花は小声で聞く。
「それ、こっちのセリフだから。一体なんでこんなことしてるの」
「いや……それは、その……」
「とりあえず家に帰ろう」
有無を言わさず手を引かれ、これはチェックメイトだと悟る。プチ家出終了。あっという間だった……。
おとなしく百花は退室準備をした。カイリは「外で待ってるから」と言い置いて、さっさと通路の先に消えていく。それを追いかけて曲がっても彼の姿はなく、暇そうにカウンター業務をしている店員と目が合うだけだった。
(一体どこへ消えた!?)
キョロキョロと辺りを見回しながら会計を済ませ(結構不審な目で見られた)、狐につままれた気分で店から出ると、エレベーターホールでカイリは待っていた。
「先に出てたの? ていうかどうやって入ったの? 身分証ないのに。そもそもなんでこの場所が──」
矢継ぎ早に質問する百花を鬱陶しそうに見て、カイリは「別に店の中なんて簡単に入れたよ。死角通っただけ。あと、場所の特定には魔法を使った。人の気配を探す魔法があるから」と早口で説明した。そうしてむんずと百花の手をつかむと「もう行こう」とエレベーターに乗り込む。
そこからすぐに電車に乗って最寄り駅に着いた時、時刻はまだ夜十時だった。
(なんか前と同じ流れだな……)
合コンの夜を否が応にも思い出す。カイリはあの時のように激怒している様子はなかったけれど、不機嫌ではあった。百花の突拍子もない行動に苛立っているのだろう。
別に迎えに来てほしいと思ってとった行動じゃなかった。
けれど、心の片隅ではそれを願っていたのかもしれない。
だってこうしてカイリに手を引かれて、喜んでいる自分がいるのだ。見つけてもらえたと歓喜に震えている自分がいるのだ。
(わたしってもしかして……結構めんどうくさいやつだったのかも……)
がっくりしつつアパートに戻り、まずは「ごめん」とカイリに謝った。玄関に入った瞬間に頭を下げた百花だったが、カイリは「うん」と言ったきりふいと奥の部屋へと向かう。手をつないだままだったので、そのまま百花もカイリに続いて部屋に入り、そのままベッドへと連行された。と言っても、押し倒されたりするわけではなく、横に並んで座るという状態だ。
「……怒ってる?」
「怒ってない」
嘘だ。絶対怒ってる。カイリの口はへの字だし、目だって百花と合わせようとせずに前方を向いたままだ。
百花は「……急に変なことしてごめん」とうつむいた。
「変なことって自覚はあるんだ」
「いやまあ……ね、我ながらちょっと突拍子なかったかなぁなんて」
あははと空笑いしてもカイリが乗ってくる様子はまるでない。空気が冷えたままなので、肩を落として「いやほんと心配かけてすいません」と肩を落とした。
「嘘までついて、家に帰りたくなかったの?」
そうたずねるカイリの眼光は鋭い。
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