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番外編
モブ子の恋(前編)
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同級生から見た、大学でのコオリ君。
11月頃の話で、後編で主人公たちも出てきます。
モブ子(名前は小松さん)視点です。
コオリ君の本名は、小原瑞季です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あ、またあくびしてる……昨日も遅くまで練習してたのかな。
都内某大学のとある教室。教授の滔々とした説明を聞き流しながら、私はそっと斜め向かいに座る学生の様子を伺っていた。
彼の名前は小原瑞季。
少し長めの前髪からのぞく瞳は、いつものように理知的で眠そうな様子はない。──けれど、心はどこか別のところにいってそうな浮遊感はあった。
向かいあうように机を並べて、いつもはあれこれと議論を交わしているのだけれど、今日は珍しく教授が熱弁をふるっている。それは確かに退屈で、7人いるゼミ生は私も含めてみんな微妙な表情になっている。
瑞季くん、前髪が伸びた……きっともう少ししたら美容院行くんだろうけど、私は今くらいが好きだ。もちろん本人には言えないけれど。
私の密かな想いを、瑞季くんは知らない。
大学1年の時に出会って偶然同じゼミを履修して、その時は何も思わなかった。口数が少なくて、あまり積極的に人と関わりたくない雰囲気をかもしだしていたから、遠巻きにしていた。
けれど、2年、3年とまた同じゼミになり、4年まで一緒となった時には、さすがに彼の方も私に対してうちとけはじめて。
──いつからだろう。ゆっくりと変化していく彼の態度に、心が躍るようになったのは。
「課題やった?」
「資料どれ選んだ?」
そんなたわいもない会話ができるようになった頃から、私は瑞季くんとの会話を心待ちにしている自分に気づいて、その時に恋を自覚した。
いつか言いたい、私の気持ち。でも──。
彼には今、恋愛よりも大事なものがある。
◆
「なんか今日めっちゃ眠くなかった!? 教授、語りすぎじゃない!?」
ゼミが終わって教室を出るなりそうぼやいたのは、良平くんという友人だ。ラグビー部所属の彼は、体格がまるでクマだ。隣の瑞季くんが細すぎて、マッチ棒のように見える。
体格に合わせるように豪快な性格の良平くんと瑞季くんは、どこかウマがあうのか仲が良い。そこに私も加わって、ゼミの後は3人で昼食を食べにいくことが多かった。
「瑞季、お前半分寝てたろ」
「あ、私もそれ思った」
良平くんの言葉に追い打ちをかけるように私もいうと、瑞季くんはちらりと視線を向けたあとで「別に寝てない」と淡々と答えた。
「デッキ考えてただけ」
「あー……そっちね」
瑞季くんは、大学生でありながらプロゲーマーでもある。3年になった春にいきなり二足のわらじをはきだした時は、良平くんも私もびっくりしたけれど、今はもう定着している。しかも、試合などがインターネット配信されているし、彼自身も個人配信をしているからか、大学内ではちょっとした有名人だった。
私みたいに学友として近いポジションにいない学生にとっては、彼は『小原瑞季』ではなく、PNの『コオリ』の方がなじみがあるだろう。
「今日は学食行く?」
良平くんの誘いに、瑞季くんは少しだけ考えるそぶりをしたけれど、首を横に振った。
「今日はもう帰る。練習しないとやばいから」
11月なかばの今、毎週末に試合に出ている彼は忙しい。持ち込むデッキを考えたり調整したり、ここのところそればかりだ。良平くんも予想通りだったようで「おう、がんばれよ。配信見てるから」と瑞季くんの肩をたたいた。
その力強さに瑞季くんは一瞬顔をしかめたが、すぐに目元をゆるませて「ありがとう」とうなずく。
ほんときれいだな……。
前に見た配信で『コオリ』というPNは出身地からと言っていたけれど、私にとっては『氷』のイメージしかない。でも冷たいわけじゃない。静謐で美しい、孤高の存在。憧れにも似た気持ちだった。
「私も応援してるよ! まだ上位の可能性あるもんね!」
私の言葉にも、瑞季くんは「ありがとう」と答えてくれた。静かな微笑みを添えて。
それだけで胸がつまる。
ほんっと、重症かも……。
にやけすぎなように気をつけながら微笑みを返して、正門へと急ぐ瑞季くんを見送る。そうしたら不意に「──お前、いいかげん言えば?」と呆れたような良平くんの声が降ってきた。見上げると、彼は片眉をあげて私を見つめていた。
「気持ちだだもれすぎ。ばればれだから」
「うっ……」
「もしかしたら瑞季も気づいてるかもよ」
「ええっ!? ほんとに!?」
「知らんけど」
良平くんは瑞季くんの消えた方角を眺めながら「なんだかんだでもうすぐゼミだって終わるじゃん。冬休み入ったら、卒業なんてすぐだぜ。言っとけよ」と言った。彼の声が論文を発表する時以上に真面目な雰囲気だから、冗談でかわせなくなってしまう。
良平くんのいうことは最もだ。いつまでも怖がってちゃいけない……。でも。
「今は瑞季くんも大事な時期でしょ。リーグ戦、佳境じゃん。そんなときに心乱すようなことは──」
「お前の告白くらいじゃ乱されねえだろ、あいつは」
「なっ……それってどういう意味!? 私、振られる前提じゃん!」
「分が悪いのは確かだな」
「だったらけしかけないでよ!」
私の抗議に、良平くんは肩をすくめただけだった。何か言いたそうにはしたものの、結局口は閉じることにしたらしい。代わりにポケットからチケットを数枚取り出した。
「もうすぐ学祭だろ? ラグビー部は豚汁やるから、瑞季と食べにこいよ」
「さ、誘えるわけ──」
「俺から言っといてやるよ」
「え……」
びっくりして、良平くんを見上げた。良平くんの性格からして、こんなお膳立てをするタイプじゃないのはわかってる。一体どういう風の吹きまわしだろうか。
考えてみたものの、良平くんの意図するところはまるでわからなかった。
けれど、チャンスをくれるというならば、確かにその機に乗じるのはありかもしれない。そう思った。
◆
何をどう丸め込んだのか、良平くんは瑞季くんを本当に学祭に誘って、私との約束をとりつけてくれた。3日間あるうちの2日目は彼に試合の予定があるから、3日目の最終日なら顔を出せるそうで。
その当日、私は緊張と期待で朝からおかしなことになっていた。地に足がつかないというか、ふわふわした気持ちがおさまらなくて、ぼんやりしてしまう。
だから待ち合わせ場所に瑞季くんがやってきた時も、気づくのが遅れてしまった。
「小松さん」
心地よい低音の声で苗字を呼ばれて、何度も瞬きをした。目の前に瑞季くんがいる。マウンテンパーカーに細身のデニムという見慣れた格好なのに、心臓は早鐘を打ち始めた。
瑞季くんとゼミ以外で会うって……すごい特別感ある……!
自分の気持ちの浮つきっぷりが果てしなくて、コントロールできない。やばい……これはやばい。
落ち着けと何度も心の中で唱えながら「おはよ」と挨拶をした。一応平静を装えたはずだ。
「うん」
瑞季くんはすぐに私から視線を外すと、背後に広がる屋台エリアを眺めた。
時刻は11時。どの屋台もピークと言っても良い賑わいを見せている。
「今行っても混んでそうだけど──行く? 良平が店番するのって、13時までだっけ?」
「うん。そうだったと思う」
「──じゃあ、時間遅らせても一緒か」
瑞季くんは短く息をつくと、「行こうか」とわたしを促した。
二人で並んでキャンパスを歩くのは初めてじゃない。なのに、緊張すらしている。そんな自分を持て余している間に、ラグビー部の屋台の前に着いた。良平くんは客の呼び込みをしているところで、真っ赤なはっぴを着て大声を出している。私たちに気づくと「お! いらっしゃーい!」と満面の笑みで迎えてくれた。
「今ちょうど切れ目かも! 並べよ」
良平くんに誘導されて、列の最後に並ぶ。ちょうど番になった時に、良平くんが「サービスしてやって! 肉!」と声をかけたことで、かなり肉多めの豚汁をもらった。
「小松!」
どこかのベンチで食べようと瑞季くんは先に移動し始めたが、わたしは良平くんに呼ばれて立ち止まった。良平くんはにこにこと笑いながら「感謝しろよっ!」と親指をたててくる。
うわっ、そっちの態度の方がばればれじゃん!
「ばっかじゃないの!」
苦し紛れの照れ隠しにそう叫んでから、早足で良平くんの前から逃げ出した。
あわてたせいで少しだけ豚汁がこぼれたけれど、構っていられない。早足で瑞季くんに追いつくと、空いているベンチを見つけて腰掛けた。瑞季くんの表情には何も変わりはないから、わたしと良平くんのやりとりは聞かれていないみたい。良かった。
「今日いい天気でよかったね」
一息つくと、ようやく学祭の喧騒を眺められる余裕が出てくる。さっきまでは豚汁をこぼさないように、人にひっかけないようにと気が気じゃなかったのだ。良平くんも余計なこと言うし。
「ちょっと風冷たいけど、おかげで豚汁美味しく感じそう」
「それはあるね」
瑞季くんは素直にうなずくと、先に豚汁に口をつけた。持ち運ぶ間に適温になったようで、美味しそうに食べている。
「──薬味かけてくればよかった」
「ああ、確かに七味とか置いてあったよね」
彼が辛いものが好きというのは、出会った当初から知っていた。1年の時一緒に定食屋にいった時、親子丼と味噌汁にこれでもかと七味をかけていた姿は忘れられない。
そんな辛党の瑞季くんにとったら、ノーマルな豚汁は物足りないだろう。
「──戻ってかけてきてもいいけど」
そう言ってみたけれど、瑞季くんは「さすがにそれはしないよ」と苦笑するだけだった。「だよねぇ」と力の抜けた笑みで応えて、私も豚汁を食べ始める。
そうしてお互い食べ終わった後、瑞季くんが「捨ててくる」と私の器を自分のものに重ねた。そうして返事を待たずに、立ち上がってゴミ箱へと向かっていく。
スマートに優しいんだよな、瑞季くんって……。
表情が変わらないけれど、とても優しい。そんなところに心をもっていかれているわけで……と考えていると、ゴミ箱からの帰りぎわに、女性二人組から声をかけられているのが見えた。
11月頃の話で、後編で主人公たちも出てきます。
モブ子(名前は小松さん)視点です。
コオリ君の本名は、小原瑞季です。
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あ、またあくびしてる……昨日も遅くまで練習してたのかな。
都内某大学のとある教室。教授の滔々とした説明を聞き流しながら、私はそっと斜め向かいに座る学生の様子を伺っていた。
彼の名前は小原瑞季。
少し長めの前髪からのぞく瞳は、いつものように理知的で眠そうな様子はない。──けれど、心はどこか別のところにいってそうな浮遊感はあった。
向かいあうように机を並べて、いつもはあれこれと議論を交わしているのだけれど、今日は珍しく教授が熱弁をふるっている。それは確かに退屈で、7人いるゼミ生は私も含めてみんな微妙な表情になっている。
瑞季くん、前髪が伸びた……きっともう少ししたら美容院行くんだろうけど、私は今くらいが好きだ。もちろん本人には言えないけれど。
私の密かな想いを、瑞季くんは知らない。
大学1年の時に出会って偶然同じゼミを履修して、その時は何も思わなかった。口数が少なくて、あまり積極的に人と関わりたくない雰囲気をかもしだしていたから、遠巻きにしていた。
けれど、2年、3年とまた同じゼミになり、4年まで一緒となった時には、さすがに彼の方も私に対してうちとけはじめて。
──いつからだろう。ゆっくりと変化していく彼の態度に、心が躍るようになったのは。
「課題やった?」
「資料どれ選んだ?」
そんなたわいもない会話ができるようになった頃から、私は瑞季くんとの会話を心待ちにしている自分に気づいて、その時に恋を自覚した。
いつか言いたい、私の気持ち。でも──。
彼には今、恋愛よりも大事なものがある。
◆
「なんか今日めっちゃ眠くなかった!? 教授、語りすぎじゃない!?」
ゼミが終わって教室を出るなりそうぼやいたのは、良平くんという友人だ。ラグビー部所属の彼は、体格がまるでクマだ。隣の瑞季くんが細すぎて、マッチ棒のように見える。
体格に合わせるように豪快な性格の良平くんと瑞季くんは、どこかウマがあうのか仲が良い。そこに私も加わって、ゼミの後は3人で昼食を食べにいくことが多かった。
「瑞季、お前半分寝てたろ」
「あ、私もそれ思った」
良平くんの言葉に追い打ちをかけるように私もいうと、瑞季くんはちらりと視線を向けたあとで「別に寝てない」と淡々と答えた。
「デッキ考えてただけ」
「あー……そっちね」
瑞季くんは、大学生でありながらプロゲーマーでもある。3年になった春にいきなり二足のわらじをはきだした時は、良平くんも私もびっくりしたけれど、今はもう定着している。しかも、試合などがインターネット配信されているし、彼自身も個人配信をしているからか、大学内ではちょっとした有名人だった。
私みたいに学友として近いポジションにいない学生にとっては、彼は『小原瑞季』ではなく、PNの『コオリ』の方がなじみがあるだろう。
「今日は学食行く?」
良平くんの誘いに、瑞季くんは少しだけ考えるそぶりをしたけれど、首を横に振った。
「今日はもう帰る。練習しないとやばいから」
11月なかばの今、毎週末に試合に出ている彼は忙しい。持ち込むデッキを考えたり調整したり、ここのところそればかりだ。良平くんも予想通りだったようで「おう、がんばれよ。配信見てるから」と瑞季くんの肩をたたいた。
その力強さに瑞季くんは一瞬顔をしかめたが、すぐに目元をゆるませて「ありがとう」とうなずく。
ほんときれいだな……。
前に見た配信で『コオリ』というPNは出身地からと言っていたけれど、私にとっては『氷』のイメージしかない。でも冷たいわけじゃない。静謐で美しい、孤高の存在。憧れにも似た気持ちだった。
「私も応援してるよ! まだ上位の可能性あるもんね!」
私の言葉にも、瑞季くんは「ありがとう」と答えてくれた。静かな微笑みを添えて。
それだけで胸がつまる。
ほんっと、重症かも……。
にやけすぎなように気をつけながら微笑みを返して、正門へと急ぐ瑞季くんを見送る。そうしたら不意に「──お前、いいかげん言えば?」と呆れたような良平くんの声が降ってきた。見上げると、彼は片眉をあげて私を見つめていた。
「気持ちだだもれすぎ。ばればれだから」
「うっ……」
「もしかしたら瑞季も気づいてるかもよ」
「ええっ!? ほんとに!?」
「知らんけど」
良平くんは瑞季くんの消えた方角を眺めながら「なんだかんだでもうすぐゼミだって終わるじゃん。冬休み入ったら、卒業なんてすぐだぜ。言っとけよ」と言った。彼の声が論文を発表する時以上に真面目な雰囲気だから、冗談でかわせなくなってしまう。
良平くんのいうことは最もだ。いつまでも怖がってちゃいけない……。でも。
「今は瑞季くんも大事な時期でしょ。リーグ戦、佳境じゃん。そんなときに心乱すようなことは──」
「お前の告白くらいじゃ乱されねえだろ、あいつは」
「なっ……それってどういう意味!? 私、振られる前提じゃん!」
「分が悪いのは確かだな」
「だったらけしかけないでよ!」
私の抗議に、良平くんは肩をすくめただけだった。何か言いたそうにはしたものの、結局口は閉じることにしたらしい。代わりにポケットからチケットを数枚取り出した。
「もうすぐ学祭だろ? ラグビー部は豚汁やるから、瑞季と食べにこいよ」
「さ、誘えるわけ──」
「俺から言っといてやるよ」
「え……」
びっくりして、良平くんを見上げた。良平くんの性格からして、こんなお膳立てをするタイプじゃないのはわかってる。一体どういう風の吹きまわしだろうか。
考えてみたものの、良平くんの意図するところはまるでわからなかった。
けれど、チャンスをくれるというならば、確かにその機に乗じるのはありかもしれない。そう思った。
◆
何をどう丸め込んだのか、良平くんは瑞季くんを本当に学祭に誘って、私との約束をとりつけてくれた。3日間あるうちの2日目は彼に試合の予定があるから、3日目の最終日なら顔を出せるそうで。
その当日、私は緊張と期待で朝からおかしなことになっていた。地に足がつかないというか、ふわふわした気持ちがおさまらなくて、ぼんやりしてしまう。
だから待ち合わせ場所に瑞季くんがやってきた時も、気づくのが遅れてしまった。
「小松さん」
心地よい低音の声で苗字を呼ばれて、何度も瞬きをした。目の前に瑞季くんがいる。マウンテンパーカーに細身のデニムという見慣れた格好なのに、心臓は早鐘を打ち始めた。
瑞季くんとゼミ以外で会うって……すごい特別感ある……!
自分の気持ちの浮つきっぷりが果てしなくて、コントロールできない。やばい……これはやばい。
落ち着けと何度も心の中で唱えながら「おはよ」と挨拶をした。一応平静を装えたはずだ。
「うん」
瑞季くんはすぐに私から視線を外すと、背後に広がる屋台エリアを眺めた。
時刻は11時。どの屋台もピークと言っても良い賑わいを見せている。
「今行っても混んでそうだけど──行く? 良平が店番するのって、13時までだっけ?」
「うん。そうだったと思う」
「──じゃあ、時間遅らせても一緒か」
瑞季くんは短く息をつくと、「行こうか」とわたしを促した。
二人で並んでキャンパスを歩くのは初めてじゃない。なのに、緊張すらしている。そんな自分を持て余している間に、ラグビー部の屋台の前に着いた。良平くんは客の呼び込みをしているところで、真っ赤なはっぴを着て大声を出している。私たちに気づくと「お! いらっしゃーい!」と満面の笑みで迎えてくれた。
「今ちょうど切れ目かも! 並べよ」
良平くんに誘導されて、列の最後に並ぶ。ちょうど番になった時に、良平くんが「サービスしてやって! 肉!」と声をかけたことで、かなり肉多めの豚汁をもらった。
「小松!」
どこかのベンチで食べようと瑞季くんは先に移動し始めたが、わたしは良平くんに呼ばれて立ち止まった。良平くんはにこにこと笑いながら「感謝しろよっ!」と親指をたててくる。
うわっ、そっちの態度の方がばればれじゃん!
「ばっかじゃないの!」
苦し紛れの照れ隠しにそう叫んでから、早足で良平くんの前から逃げ出した。
あわてたせいで少しだけ豚汁がこぼれたけれど、構っていられない。早足で瑞季くんに追いつくと、空いているベンチを見つけて腰掛けた。瑞季くんの表情には何も変わりはないから、わたしと良平くんのやりとりは聞かれていないみたい。良かった。
「今日いい天気でよかったね」
一息つくと、ようやく学祭の喧騒を眺められる余裕が出てくる。さっきまでは豚汁をこぼさないように、人にひっかけないようにと気が気じゃなかったのだ。良平くんも余計なこと言うし。
「ちょっと風冷たいけど、おかげで豚汁美味しく感じそう」
「それはあるね」
瑞季くんは素直にうなずくと、先に豚汁に口をつけた。持ち運ぶ間に適温になったようで、美味しそうに食べている。
「──薬味かけてくればよかった」
「ああ、確かに七味とか置いてあったよね」
彼が辛いものが好きというのは、出会った当初から知っていた。1年の時一緒に定食屋にいった時、親子丼と味噌汁にこれでもかと七味をかけていた姿は忘れられない。
そんな辛党の瑞季くんにとったら、ノーマルな豚汁は物足りないだろう。
「──戻ってかけてきてもいいけど」
そう言ってみたけれど、瑞季くんは「さすがにそれはしないよ」と苦笑するだけだった。「だよねぇ」と力の抜けた笑みで応えて、私も豚汁を食べ始める。
そうしてお互い食べ終わった後、瑞季くんが「捨ててくる」と私の器を自分のものに重ねた。そうして返事を待たずに、立ち上がってゴミ箱へと向かっていく。
スマートに優しいんだよな、瑞季くんって……。
表情が変わらないけれど、とても優しい。そんなところに心をもっていかれているわけで……と考えていると、ゴミ箱からの帰りぎわに、女性二人組から声をかけられているのが見えた。
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