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1章
67,犬も食わぬ
しおりを挟む1週間後。
「そういえば、ウェルズリー侯爵の件はどうなったんですか?」
隣を歩く横顔すらも美しい男を見上げながらそう言う。
リュカはこちらを見ることなく、困ったように肩を落とす。
「それが全く何もなかったよ。跡形もなかった。……不自然なまでにね」
「ふーん」
やはり、というべきなのか。ウェルズリー侯爵の後ろ盾となっていた人間が証拠となるものや繋がりになるものをすべて消してしまっていたらしい。
「自分から聞いてきたくせに興味なさそうだね」
気のない返事をしたせいか、いつの間にかリュカは小春に視線を向けていた。そして呆れたように小さく笑っていた。
「そんなこともないですよ?ウェルズリー侯爵の件は私も手を貸したようなものですし?今後楽して過ごせるかがかかってますから」
「明け透けだなぁ。……まぁ宛がないわけでもないし、逃すつもりもないよ」
「宛……?それって──」
宛があるなら協力者である小春にも共有すべきだ。
リュカの言葉に食いつきそうになった小春だったが、突如としてその言葉を阻められた。
リュカのしっかりとした手が顎に添えられ、上を向かされたのだ。
所謂、顎クイである。
「ちょ……」
リュカの方へ向かされた上、リュカ自身も小春の顔を覗くように顔が近づいていたため、視界の大半を国宝級の美形で埋め尽くされてしまっていた。
突然の高偏差値の顔面は心臓に悪い。
小春は内心バクバクさせながら、目を逸らそうとする。
「顔色が悪い……」
「……!」
「もしかして体調が悪いんじゃ」
リュカの言及に別の意味でヒヤッとする。
リュカはただでさえ頭が回る。あまり勘づかれるようなことは避けたい。
どう誤魔化すか考えながらリュカの表情を眺めて、小春は思わず顔を緩ませた。
リュカの顔が思いの外、真剣だったからだ。心の底から心配していそうなそんな表情に拍子抜けしまった。
そういえば、今朝小春自身が鏡で見たときすら全然気づかなかった顔色に、この男は気づいたのか。
単に観察眼が優れているからなのか、それとも本当に小春を気にかけているのか。
「昨日、本を夜遅くまで読んで寝不足なんですよ。それにこの顔色は元々です」
できる限り動揺しているのが分からないように、普段どおり可愛げなく返答する。
リュカは少し不服そうにしつつ、手を離した。
「……読書家って言ってたもんね。でも、あまり夜ふかしはしないように」
「はーい」
リュカはこれ以上問い詰めるつもりもないようで、再び歩き始めた。小春も生返事をしつつ、付いて行く。
明日からは血色が悪く見えない程度にメイクしておくか、などと考えながら。
今向かっているのは、セルジュの執務室だ。
聖女、スズノ・アリスガワが奇跡的に回復し、目覚めたと報告があったからである。
聖女が倒れた場合、そこから回復する例は今までの歴史上一度もなかった。
なぜそんな事が起きたのか、憶測は様々飛び交った。
ただ都合が良いことに、鈴乃は人体蘇生までも可能とする再生能力を有した聖女である。
そのことが裏付けとなり、鈴乃は過去の聖女とは一線を画した聖女である、という認識になった。予想通り、そこに小春の1文字もない。
ただし問題点として、どれだけ使っても壊れない聖女が誕生したと国が認識することだ。
アリステッドは聖女が壊れるたびに聖女召喚を行っていた。それらは常に巧妙に隠され、国民たちには綺麗なものだけ見せ続けた。
聖女という存在だけを仄めかし表沙汰にしないことで、異様なほど頻繁な代替わりを国民に悟らせなかったのだ。
有栖川鈴乃は、国が偶像化するその完全無欠な聖女になってしまった。
それは今まで以上に利用されかねないことを意味している。
小春とてそれを考えなかったわけではない。
だからセルジュを焚き付けたのだ。
セルジュの反応によっては、小春は鈴乃を簡単に見捨てていた。見捨てたほうが鈴乃を苦しめることにはならないからだ。
それでも、小春は自分のためにも、できれば鈴乃を助けたいと思っていた。だから、気に食わないにしろ一縷の望みをセルジュに託したのだ。
何百年、何千年と当たり前のようにしてきたことを断ち切るのだ。例え王族でも反旗を翻すのと同意の行為をすれば、どうなるのか容易く想像つく。
有栖川鈴乃という唯一人の人間を守るために、全てを敵に回す覚悟はあるのか。あのときセルジュに問うたのはそういう意図だった。
そして、セルジュの曇りなき目を信じ、鈴乃を復活させた。
万が一同じことが繰り返されたところで、人体蘇生などというバカげた行為は行えないようにした。小春の能力が正しく作用していれば、もう命を削るような使い方は二度とできないはずだ。
「セルジュ様は存外お強い方のようですね」
突然の小春の発言にリュカは目線だけ横に向ける。
「あぁ、あれに足りなかったのは少しの覚悟だけだったからね。何かを犠牲にする覚悟が。それ以外にあれには欠点らしい欠点はない、優秀な甥だよ」
「……確かにリュカ様よりはよくできた方ではありましたね」
「どういう意味かな?」
「さあ」
リュカの横顔はどこか優しい雰囲気を纏っていた。
セルジュのことを弟のようにかわいがっていたのだろう。セルジュの懐きようからもそれは窺える。
なんとなく。ただなんとなく、リュカのそういう一面に触れるのが妙に後ろめたく、つい悪態をついてしまった。
セルジュは小春の期待通り、国に反発する形を取りつつある。
『聖女は貴重だ。特に彼女は人並み外れた治癒能力を有している。乱用して今回のように使い古すのは頂けない。彼女はすでに国民からの信頼も厚い。丁重に扱わねば国は反発を食らうだろう』
と。セルジュは国民を味方につけたのだ。鈴乃は様々な場所ですでに聖女として知られ、多くの人を救っていた。国民は鈴乃自身を神格化しつつある。
鈴乃を1個人として祀り上げられているこの状況では、今まで通り不当な扱いを続けてしまうと、万が一知られでもしたら国民からの信頼は容易く失われるだろう。
この状況をセルジュはうまく利用したのだ。
要するに『このままの扱いをするなら鈴乃への不当な扱いを露見させるぞ』という簡単な脅しだ。
簡単な脅しではあるが、結果として国は無闇に鈴乃に手出しができなくなったはずだ。
セルジュ1人なら握り潰せたかもしれないが、後ろ盾には……。
チラリと相変わらず涼しい顔をした美しい男を一瞥する。
果たしてこの男はどこまで国の内情に関わっているのだろうか。
リュカが関わっているとわかった途端に相手方の動きが鈍くなった。ウェルズリー侯爵にしたってリュカの存在を煙たがっていた。
リュカが国のあり方を根本から変えようとするのに一筋縄でいかないように、そんなリュカを煙たがる連中もまた、リュカを握りつぶすのに一筋縄ではいかないのだろう。
つくづく敵に回したくはない男だ。
リュカは小春の胡乱な目線に気づくと、さぞ楽しそうに小春に微笑みかけた。
はぁ、と小さくため息をつくと、すでにセルジュの執務室の前までたどり着いていた。
リュカが扉を2回ほどノックをする。
が、返事はなく。
妙だなと思い2人で顔を見合わせる。
もう一度ノックしても何の返事もないため、リュカはそのまま扉を開いた。
「失礼するよ」
リュカに続き、小春も中を覗く。
執務室は何故かもぬけの殻だった。
こちらはちゃんと日時なども伝えていたので不手際はセルジュの方である。
あの生真面目な男にしては妙なことだと、短い付き合いながら思う。
家族ぐるみの仲であろうリュカも同様のことを思ったようで、不思議そうに無人の部屋を眺めていた。
「誰もいませんね……?」
「んー、まぁ座って待ってようか」
このまま手持ち無沙汰に立っていてもしょうがないので、リュカがソファに座るのを提案した。
小春も特に異論はなく、頷こうとしたそのとき。
「……!……でもっ………」
奥の部屋の方で何やら話し声が聞こえてきた。
しかも少し揉めているような。
「この声……」
よく聞き覚えのある声に、思わず声がしたほうを向く。
紛れもない、この鈴を転がすような声は。
一歩一歩ゆっくりと奥の扉の方へ進んでいく。
「俺は……スズ……様を、……あわせに……、……っ…………!」
「……そんな………なんて……ない………っ……!」
近づくに連れて、だんだん声は大きくなり、鈴乃ともう一人が何か揉めているが分かる。
相手の声は恐らくセルジュだ。
あの穏やかな性格の鈴乃が揉めるなんて珍しい。しかも、相手は少なからず好意を寄せている人間のはずなのに。
「俺はあなたを……っ!」
「私にはそんな権利はないんです……!」
ドアの目の前まで着くとはっきりと2人の声が聞こえてきた。
何を揉めているのかとドアノブに手をかけようとした途端、目の前の扉が勢いよく小春に向かってきた。
びっくりし過ぎて後ろに避ける暇もなく、そのまま顔面で扉を受ける衝撃に備え目を瞑る。
が、小春のおでこにあたったのは固く無機質なものではなく、スラッとしていながら無骨な手の感触だった。
予想外のことで瞑っていた目を開こうとすると、そのままおでこに添えられた手に小春は後ろ側へ身体を傾けられる。
倒れる、と思ったところで、背中にしっかりとした胸板が当たり、そのまま抱えられる。
何が起こったかよく分からず、目をパチクリしながら何故か自動で開いた扉の方を見ると。
「す……鈴乃ちゃん……」
何故か顔を真っ赤にして、こちらを驚いたように見つめる鈴乃が立っていた。
すっかり顔色は良くなっているようだった。むしろ良いぐらいだ。
「……小春さん……」
「げ、元気そうで何よりだよ」
状況があまり掴めていないが、会ったら言おうとしていたセリフをとりあえず口にする。
「は…、はい」
鈴乃はそれどころではないのか、ソワソワしながらそう言った。
一体何なんだと思い、鈴乃の様子がおかしい原因になってそうなセルジュの方を見ようと、顔をずらす。
「スズノ様!!話はまだ……!」
見えたのは、必死そうな顔でこちらに向かってこようとするセルジュだった。
セルジュの声に鈴乃はビクッと肩を揺らすと、
「ご、ごめんなさい!!」
と、申し訳程度に小春に頭を下げ、慌てたように小春の横を走り去っていった。
一体何なんだ。
鈴乃が走り去った方を眺めながら小首をかしげる。
「リュカに…、叔父上とコハル様……」
セルジュが小春たちに気づいたようで、後ろめたそうしていた。
「あぁどうも、セルジュ様」
とりあえず挨拶を、と返事すると、セルジュはもの言いたげにこちらを見つめた。
何だ、と見返すとセルジュは少し目を逸らし、口を開いた。
「えぇと……、ところで二人は何をなさってるんですか?」
セルジュは何を言っているのだろうか。何をしていると聞きたいのはこちらだ。
セルジュの言いにくそうに放った言葉を意味を考え、徐ろにリュカの方を見ようとして気づく。
あ。
「……リュカ様、いつまでそうしてるつもりですか?」
顔をあげ、頭上にあるリュカの顔を胡乱な目で見る。
すると、さぞ楽しそうに肩を震わせるリュカ。
なんだかこの流れ久々な気がする。
「くっ、ふふっ……、ぷっ」
「………」
「あはは……、ごめんごめん」
愉快げに小春から離れるリュカに何がそんなに楽しいんだと無言の圧をかける。
「今まで距離が近いと過剰反応してたから、ほとんど抱きついているのに怒りもしないなんてと思ってたんだよね。……まさか気づいてすらなかったなんて……ぷぷっ」
「なっ!過多な情報を処理するうえでリュカ様のことは優先順位が下がってただけです!」
なんて言い草だと耳を赤くさせながら睨みつける。
過剰反応などと失敬な。
あれは正常な淑女であれば当然の反応だ。
言い訳がましいが、本当にリュカのことよりも鈴乃たちのことが気がかりで、完全に抱きつかれてるのを放置していた。
よくよく考えてみれば、扉に思い切りぶつからなかったのはこの男のおかげだったわけで。
「ふーん、そう?それはそれで不服であるけどなぁ」
顔を覗き込もうとするリュカを仰け反って回避する小春。
そして、それを呆けたように眺めるセルジュの図。
いかんいかん。話が逸れすぎてしまった。
「それで、セルジュ様たちは一体何をしてたんですか?」
「……それは」
話を無理やり戻した小春にハッと我に返ったセルジュは顔を伏せて言い淀む。
なんだろうか、この反応は。
まさか痴情のもつれとかだろうか。いやぁ、純情そうな鈴乃とセルジュに限ってそんなこと……。
「まっさかぁ、セルジュ様が鈴乃ちゃんに迫ったとか?」
そんなことある訳もないだろうと冗談めかしに言ってみる。きっとセルジュのことだ、顔を真っ赤にして全力で否定するだろうが。
が、予想と反してセルジュは図星をつかれたかのように、眉をピクリと動かし固まった。
小春はその様子に「え」と虚をつかれたように間抜けな顔になる。
本当に痴話喧嘩なら第三者が関わるのは少々面倒だ。
よく言うだろう、痴話喧嘩は犬も食わぬ、とか。
「……俺が一方的に迫ったのは事実です」
「は」
人は見かけによらないとは言うが、まさかセルジュ草食系と思わせて立派な肉食系男子だったのか。
小春はどうやら犬も食わないことに、軽い気持ちで食いついてしまったらしい。
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