渇望の檻

第3章

06話「忘れられない影」

　秋の冷たい風が、夏目の頬を撫でていく。
　彼は大学のキャンパスを歩きながら、手にしたメモ帳を見つめていた。優希の失踪について少しずつ情報が集まり始め、徐々にその輪郭が見えてきている。

「優希くんが特に親しくしていた先輩の名前が……『五十嵐零』？」

　ゼミの同期やサークル仲間の話から浮かび上がったその名前が、夏目の胸に不穏な予感を呼び起こす。

　数年前の大学生活で、優希はその先輩に対して特別な感情を抱いていたらしい。そして、それが今の失踪にどう影響しているのかを探る手がかりとなり得るかもしれない――と。


§

　それは、優希の心に染みついた遠い記憶。
　大学1年生の頃、優希はキャンパス内の文学サークルに所属し、そこで出会った先輩が五十嵐零だった。


　冷たい秋風が吹く中、夕暮れのキャンパスでふと一人歩いていると、視線の先に一人で佇む零の姿があった。落ち着いた雰囲気に包まれ、遠くを見るようなその姿に、優希は興味を引かれて近づいてみることにした。

「五十嵐先輩、何か考え事ですか？」

　零は優希の声に気づき、ゆっくりと振り返った。薄い笑みが零の口元に浮かび、柔らかい眼差しで優希を見つめる。

「ああ、少し考えごとをしていただけだ。ええっと……あ、早坂くん。どうだろう、少し話さないか？」

　その言葉に、優希は胸の奥で小さな喜びを感じた。普段は無口で、自分から多くを語らない零が、自分と話をしたいと言ってくれる――そのささやかなことが、当時の優希にはとても嬉しかったのだ。

　二人は並んで歩きながら、他愛のない会話を交わした。勉強のこと、将来のこと――普段は口にしづらいことも、不思議と零には話せた。

　そんな時間が、優希にとっては安らぎのひとときだった。

「早坂くんは、優しいんだな」

　ある日、ふと零がそう言った。優希はその言葉に戸惑いながらも、零の横顔を見上げた。

「そうですか……？　自分では、あまりそう思えないですけど」

　零はわずかに目を細め、優希の肩に軽く手を置いた。その手の温かさが、優希にとって心地よいものだった。

「いや、君は人を安心させる何かがある。それが優しいと言えるんじゃないか？」

　零の言葉に優希は照れながらも、心のどこかで嬉しさを感じていた。そんな風に自分のことを理解してくれる人がいる――そのことが、優希の心にとって特別な意味を持つようになっていった。


§

　そして、優希の記憶が現実に引き戻される。


　冷たい地下室の中で、優希はかつての温かな思い出と、今の現実の冷たさの間で揺れ動いていた。あの優しかった先輩が、なぜ今のような形で自分を縛りつけているのか。その理由が、どうしても理解できなかった。

「五十嵐先輩……どうして」

　優希の小さな呟きは、冷たい空間に静かに吸い込まれていく。その問いの答えを、優希はどれだけ求めても見つけることができなかった。