渇望の檻

第2章

08話「崩れゆく絆」

　地下室の静寂に包まれたまま、優希は目を閉じていた。
　扉の鍵の音が頭の中でこだまし、何度もその音に苛まれる。閉じ込められたこの空間が、時間さえも凍りつけているように思えた。

　――あの紙、五十嵐先輩は気付くだろうか？

　机に残した曖昧な言葉。その一言が零の心にどう影響を与えるか、優希には分からなかった。

　悪い方向に解釈すればどうなるか――その恐怖も一緒に付きまとう。それでも、自分がここから抜け出すためには、この危険な賭けに出るしかなかった。


　外から足音が響く。扉がゆっくりと開き、零が部屋に入ってきた。彼は優希に目を向けることなく、机の上の紙に視線を落とした。

　優希はその瞬間、息を呑む。

　零は紙を拾い上げ、しばらくの間じっとそれを見つめていた。その瞳には、驚きと安堵、そして微かな迷いが交錯しているように見えた。

「……頼っている」

　零は小さく呟く。優希の書いた言葉を、自分に都合よく解釈したかのようだった。彼の表情は一瞬だけ柔らかくなり、冷たい眼差しに一筋の温かみが戻ったように見えた。

「やっぱり……お前は俺がいなきゃダメなんだな」

　零は微笑み、紙をポケットにしまい込んだ。

　優希の胸にわずかな希望が生まれかけたが、その一方で冷たい恐怖が押し寄せる。

　――このままでは、監視がさらに強まるかもしれない。

　零が喜んでいるのは、自分を必要と思わせることに成功したからだ。しかし、それは同時に、零がますますこの『聖域』に執着することを意味していた。

「優希、心配するな。もうお前をどこにも行かせない。俺がずっとそばにいるから……」

　零の言葉は穏やかでありながら、底知れぬ執念が滲んでいた。優希は心の中で再び決意を固める。

　――今度こそ、次のチャンスで逃げ出す。


　零は優希のそばに腰を下ろし、彼の肩に手を置いた。その手の温もりはかつての優しい先輩のものと同じように思えたが、優希はその重みが恐ろしく感じられた。

「俺たちは、あの頃のままでいるべきだ。大学で過ごしたあの日々のように――」

　零の声には懐かしさがこもっていた。しかし、その言葉がどれほど危ういものであるか、優希には分かる。彼の中で過去の思い出が歪み、今の異常な執着へと変わってしまっている、と。

「もう大丈夫だ、優希。お前は俺の『聖域』にいるんだから……」

　その言葉が、優希の心に重くのしかかる。

　逃げなければならない――そう心の奥で叫ぶ声が、ますます大きくなっていった。


　扉が再び閉まり、零が部屋を後にすると、優希は全身の力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。冷たい床が彼の肌に染み込む。

　――あの頃の五十嵐先輩とは、違う。

　優希は大学での思い出が頭をよぎる。その頃の零との関係は特別で、彼にとって心の拠り所だった。しかし、今の零はかつての彼ではない。その変化を受け入れることが、優希には耐え難かった。

「……次は、必ず」

　優希は自分にそう誓い、再び立ち上がった。零の執着に負けないために、自分の心を奮い立たせる。


§

　その夜、静かな街を夏目の足音が響く。
　彼は夜の闇に紛れて一歩また一歩と、彼らの領域に踏み込もうとしていた。