渇望の檻

凪玖海くみ

文字の大きさ
上 下
10 / 28
第2章

02話「常連の探偵」

しおりを挟む
 朝の空気はひんやりとしていた。
 優希は薄明るい街を歩きながら、シフトの二十分前にはカフェに到着した。十時からの仕事の開始時刻にはまだ時間があるが、優希にとってはそれはいつものことだった。

 余裕を持って準備を終え、万全の状態で働き始めたい――それが優希の真面目な性格に反映されていた。

 店の扉を開けると奥から男性の姿、オーナーが顔を出した。優希を見ると、穏やかな微笑みが浮かぶ。

「おはよう、優希くん。今日も早いね」
「おはようございます」

 軽く頭を下げる。しかし、オーナーはその笑顔のまま少し眉をひそめた。

「……顔色が悪いけど、大丈夫かい?」
「えっ……は、はい。大丈夫です。ただの寝不足なだけなので」

 オーナーは少し心配そうに頷きながらも、優希の無理を察して、それ以上は問い詰めなかった。

「無理はしないでね。しんどかったら、いつでも言ってくれていいから」

 優希は改めて頭を下げ、制服に着替えるためにバックヤードへ向かった。


 朝の時間帯から、カフェは次々に来店する客で賑わった。優希は注文を取り、ドリンクを作り、忙しさに追われる中で、心のわだかまりを押し込んだ。

 ――何も考えない。それが今は一番だ。

 そう自分に言い聞かせながら、ただ目の前の仕事に集中する。それだけが、優希にとって心の平静を保つ方法だった。


§

 時計が午後六時を指し、夕方の静かな時間が店内に訪れた。客足が少し途絶え、店内に漂う空気も落ち着きを取り戻していた。

 そのとき、扉のベルが鳴り、店内に軽やかな音が響く。優希が顔を上げると、そこには見慣れた男の姿があった。

 夏目匠――このカフェの常連の男性で、職業は探偵という肩書きを持った人物。

 夏目はラフなシャツにジャケットというお決まりの姿で、軽く手を挙げた。

「よ、頑張ってるな」

 その声は柔らかでありながら、どこか落ち着いた威厳を感じさせた。優希は一瞬、胸がざわつくのを感じたが、それを隠すように笑みを浮かべた。

「あ、夏目さん……今日は遅いですね」
「まあ、たまには夕方に来たくなることもある。あとは仕事の都合でね」

 夏目は肩をすくめ、いつもの席に腰を下ろした。

 優希は少しの緊張を抱えながら、注文を取りに行く。

「ご注文は、いつものコーヒーでいいですか?」
「頼むよ」

 優希がコーヒーを準備している間、夏目の視線が自分に向けられているのを感じた。背中にその目線が突き刺さるようで、落ち着かない。

「……顔色が、あんまり良くないな。無理、してないか?」

 優希はコーヒーを差し出しながら、慌てて笑顔を作った。

「大丈夫です。ただの寝不足なので……」

 夏目は一瞬だけ目を細めた。

「そうか……」

 その表情には、どこか見抜いているような鋭さがあったが、それ以上は何も言わず、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。そして彼はジャケットの内ポケットから一枚の名刺を取り出した。

「はい、これ。困ったときは頼って」

 彼は軽くウインクしながら、優希に名刺を手渡す。
 優希は戸惑いながらも、名刺を受け取る。指先が震えるのを感じるが、それを隠すようにポケットにしまい込んだ。

「えっと、その……。お気遣いありがとうございます。でも、僕……」

 何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
 夏目は微笑んだまま、それ以上追及することなく、静かにコーヒーを飲み続けた。


§

 時刻は午後七時になり、バイトが終わる時間が来た。優希は店の鍵を閉め、冷たい夜風に包まれる。ポケットに手を入れると、夏目からもらった名刺が指先に触れた。

 ――あ、夏目さんの名刺……。昨日のこと、話を聞いてもらった方が……。

 そんな迷いが、彼の心に小さな波紋を広げていた。

 胸の中には、零の監禁から逃げてきた後悔と、夏目に頼ることへの戸惑いが混じり合っていた。

「……どうするべきだろう」

 そう小さく呟きながら、優希は冷たい夜の街へと歩き出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

平凡な男子高校生が、素敵な、ある意味必然的な運命をつかむお話。

しゅ
BL
平凡な男子高校生が、非凡な男子高校生にベタベタで甘々に可愛がられて、ただただ幸せになる話です。 基本主人公目線で進行しますが、1部友人達の目線になることがあります。 一部ファンタジー。基本ありきたりな話です。 それでも宜しければどうぞ。

初恋はおしまい

佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。 高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。 ※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。 今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!

灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。 何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。 仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。 思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。 みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。 ※完結しました!ありがとうございました!

【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。

桜月夜
BL
 前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。  思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

見ぃつけた。

茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは… 他サイトにも公開しています

ある少年の体調不良について

雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。 BLもしくはブロマンス小説。 体調不良描写があります。

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

処理中です...