渇望の檻

第1章

08話「手放した瞬間を」

　玄関の扉が閉まる音が、静かな家の中に響き渡った。

　――もう、優希はいない。


　零は扉の前で立ち尽くし、冷たい風が自分の肌を撫でる感触だけが残った。胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚が広がり、息が苦しくなる。

　――手放してしまった。もう、あいつは戻らない……。

　そう思うと、体の力が一気に抜け、零は玄関の壁に寄りかかった。

　無言のままリビングに戻り、ソファに身を沈める。そこにあるのは、ただの静寂だった。

「……もっと早く……もっと早く、気づけたなら……」

　零は自分の手を見つめた。優希を縛ろうとしたその手は、今は何も掴んでいない。ただ虚しく空を彷徨うだけだった。


　頭の中には、優希との思い出が次々と浮かんでは消えていく。
　校舎裏で過ごした放課後、無言で隣に座り、ただその存在が安心感を与えてくれたあの時間。

　――あの頃の自分でいられたなら、こんなことにはならなかった。


　だが、今さら後悔しても遅い。零はそれを理解しながらも、胸の奥で膨れ上がる喪失感をどうすることもできなかった。
　
「……もう一度、会えるだろうか」

　その言葉が、自然と口からこぼれた。
　優希は自由になった。だが、心のどこかで、また会える日が来ることを願っていた。

　――そのときには、今とは違う自分で。

　零はゆっくりと立ち上がり、リビングの掃除を始めた。散らかっていた雑誌や服を片付け、部屋の埃を払う。その一つ一つの行動が、自分の心を整理するための小さな一歩のように感じられた。


　ふと窓の外を見つめると、街の明かりがぼんやりと滲んで見える。その光景が、何かが変わり始める予感を漂わせていた。

「……次に会うときには、ちゃんと向き合える自分になりたい」

　零はそう呟き、掃除を再開する。何も変わっていないようで、確かに何かが動き始めているのを感じた。