上 下
1 / 202

0.夜に浮かぶ船

しおりを挟む
 


 あそこは、なんて遠いのだろう。

 
 あゆたはTシャツのむき出しの腕に汗で貼り付いた落ち葉を払った。
 夜の中に光を投げかける大広間の窓たちに、真っ暗な海に浮かぶ豪華客船が思い浮かぶ。掃き出し窓に陽炎のように過ぎる影絵。秘密の紳士倶楽部のようにアルファたちが集っている。広間の灯りはきらびやかな蜃気楼のように、湿気を帯びた夜気にちらちらと瞬いていた。


 すでに強くなりつつある風は枝の間をすり抜ける。唸り声のようなそれが顔に吹き付けてくる。
 嵐が来る。
 あゆたは夜の底から空を見上げた。


(早く済ませてしまおう)


 一瞬でも目をやってしまったが、あそこはあゆたとは関わりのない世界だ。


 同じ敷地内ではあるが、あゆたが寝起きしているのは小さな離れだ。まるで人目から隠されるようにひっそりと、うっそうとした木々に囲まれた庭の端にある。この屋敷に引き取られて三年ほどが経つが、あゆたが母屋に上がったのは数えるほどしかなかった。


 夜会の灯りに背中を向けて、あゆたはさっさと手を動かした。薔薇の茂みを這わせてある支えを確認し、緩んでいるところは結び直す。鉢植えはすべて壁際か、庭の小屋に避難させなければならない。


(サンルームは……、誰かが気を付けてくれるはず)


 庭に張り出したガラス張りのサンルームの中の、鮮やかな花々を思い浮かべたが、あゆたはすぐに気を取り直して作業を続けた。ガラスが割れるかもしれないなどと気を回しても、あゆたがのこのこと母屋に近づくことを住人達は喜びはしない。そのくらいあゆたもわきまえているし、たくさんの使用人たちがいるのだから、彼らに任せておけば問題ないだろう。

 
 夜の八時を過ぎて気温は下がったはずなのに、汗がじんわりと背中を濡らす。鉢植えを抱えて往復しては額を拭う。
 明日には大型の台風が来るというのに、今夜広間に集まった人々はパーティーに興じている。その名を聞けば一度はどこかで耳にしたことのあるはずの、名だたる大企業や元華族、財閥の関係者たち。早々たる面々だ。日々の雑事に煩わせられることなんてないのだろう。


 夜会にはアルファしか集まっていない。アルファには独自の繋がりがあり、ああやって定期的に集まっては親交を深めているという。情報交換や知己を増やす意味もあるだろう。横糸も縦糸も様々な色で織り合わされてネットワークは繋がっていく。
 オメガであるあゆたには全く関わりのない世界がそこにはある。


(あそこにいる人達は俺とは生まれも育ちも全然違うんだ。そんなことより……)


 あゆたはきょろきょろと目を凝らした。大広間に面した石畳の緑廊に、最後の植木鉢を見つけて駆け寄る。


(これで最後だ。これで台風が来てもなんとかなる)


 ほとんど毎日、週末や祝日は終日庭の世話に明け暮れているあゆただ。庭への情熱と愛情は人一倍だと自負している。できる限りの備えはしておきたかった。


(離れに持って行こう。玄関の土間に置いておきたい)


 両腕を回してひとと抱えもある大きめの鉢には、まだ綻んでいない薔薇の蕾が白っぽく夜に浮かんでいる。これはあゆたも、あゆたの師匠である庭師もことさら気をかけている薔薇だった。
(大旦那さまの大事な薔薇だ)
 今年も綺麗に咲かせてやりたい。そしてあゆたがその一輪を墓前に供えるのが、大旦那様を亡くして以来の毎年の習慣だった。


「……なんだ?」


 あゆたは不意に手を止めた。
 どこかで、嗅いだ覚えのある匂いが鼻先をかすめた。
 まるで夜の闇に漂う蛍の光のように、かすかな。
 かすかに甘く、瑞々しい香り。
 ――まさか、フェロモン?
 招待客はアルファばかりだ。
 あゆたは血の気が引きそうな気持ちで、植木鉢を抱えていた腕に力を入れた。


 急いでここを離れたほうがいい。これが残り香だとしたら、ついさっきまで誰かが夜陰に紛れてここにいたということになる。酔い覚ましに外の空気を吸うぐらいならいい。ここが逢引の場所だとしたら? 酒の勢いか華やかな雰囲気に酔ったのか、一晩のアヴァンチュールを求める奔放な人間がいてもおかしくない。


 そういう意味で、誰かがここに現れたら。
 よくわからない冷たい手に背中を撫でられたように、急にあゆたは恐くなった。ぼんやりつっ立いる場合ではない。縺れそうになる足を叱咤して、あゆたは小走りに庭の闇へと身を沈めた。
 

 暗闇に紛れるほど、自分の存在が希薄になって安心できる。灯りは遠のき、強い風にあの匂いも吹き消されていく。


(……あれは、甘い)
 すごい勢いで懐かしさがこみ上げてきた。祖母のお気に入りの石鹸に、これとよく似たものがあった。
(……なんだったっけ……、ウォーターメロンの香り、だったっけ……)
 口の中にかすかに唾液が湧く。走ったせいだろう、心臓が、先ほどとは違うテンポことこと走り出す。


 暑い夏の、井戸水の中で冷やされたスイカ。それよく切れる包丁でさくりと切った、あの時の胸のときめきに似ている。濡れた赤い果肉に噛みついて頬張れば、口いっぱいに広がるみずみずしさ。甘い汁が喉を潤すだろう。 
 スイカはあゆたの好物の一つだ。キュウリのような、しかしそれよりもずっと水っぽい甘さを含んだ果実。


(そういえば……)
 いつだったか、育ててくれた祖母が言っていたっけ。
 あゆたのあゆは香魚のそれ。
 香魚の由来はキュウリのような瑞々しい、さっぱりとした香りにあるのだと。


 背をむけた母屋の窓は海上の豪華な客船のようにちらちらと灯りが揺れる。あゆたは夜の茂みをかきわけて進んだ。
 一歩でも、一秒でもあそこから離れられるように。
 あのきらびやかな灯りの下に何か――誰か、恐ろしいものが潜んでいるかのように。
 あゆたは怯える小鹿のように足を速めた。まるで後ろからあの匂いが追ってきているかのようだ。あゆたは腕にぎゅっと力を込めて大旦那様の愛した薔薇の鉢を抱いていた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

きっと世界は美しい

木原あざみ
BL
人気者美形×根暗。自分に自信のないトラウマ持ちが初めての恋に四苦八苦する話です。 ** 本当に幼いころ、世界は優しく正しいのだと信じていた。けれど、それはただの幻想だ。世界は不平等で、こんなにも息苦しい。 それなのに、世界の中心で笑っているような男に恋をしてしまった……というような話です。 大学生同士。リア充美形と根暗くんがアパートのお隣さんになったことで始まる恋の話。 「好きになれない」のスピンオフですが、話自体は繋がっていないので、この話単独でも問題なく読めると思います。 少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。

ハッピーエンド

藤美りゅう
BL
恋心を抱いた人には、彼女がいましたーー。 レンタルショップ『MIMIYA』でアルバイトをする三上凛は、週末の夜に来るカップルの彼氏、堺智樹に恋心を抱いていた。 ある日、凛はそのカップルが雨の中喧嘩をするのを偶然目撃してしまい、雨が降りしきる中、帰れず立ち尽くしている智樹に自分の傘を貸してやる。 それから二人の距離は縮まろうとしていたが、一本のある映画が、凛の心にブレーキをかけてしまう。 ※ 他サイトでコンテスト用に執筆した作品です。

しのぶ想いは夏夜にさざめく

叶けい
BL
看護師の片倉瑠維は、心臓外科医の世良貴之に片想い中。 玉砕覚悟で告白し、見事に振られてから一ヶ月。約束したつもりだった花火大会をすっぽかされ内心へこんでいた瑠維の元に、驚きの噂が聞こえてきた。 世良先生が、アメリカ研修に行ってしまう? その後、ショックを受ける瑠維にまで異動の辞令が。 『……一回しか言わないから、よく聞けよ』 世良先生の哀しい過去と、瑠維への本当の想い。

君は俺の光

もものみ
BL
【オメガバースの創作BL小説です】 ヤンデレです。 受けが不憫です。 虐待、いじめ等の描写を含むので苦手な方はお気をつけください。  もともと実家で虐待まがいの扱いを受けておりそれによって暗い性格になった優月(ゆづき)はさらに学校ではいじめにあっていた。  ある日、そんなΩの優月を優秀でお金もあってイケメンのαでモテていた陽仁(はると)が学生時代にいじめから救い出し、さらに告白をしてくる。そして陽仁と仲良くなってから優月はいじめられなくなり、最終的には付き合うことにまでなってしまう。  結局関係はずるずる続き二人は同棲まですることになるが、優月は陽仁が親切心から自分を助けてくれただけなので早く解放してあげなければならないと思い悩む。離れなければ、そう思いはするものの既に優月は陽仁のことを好きになっており、離れ難く思っている。離れなければ、だけれど離れたくない…そんな思いが続くある日、優月は美女と並んで歩く陽仁を見つけてしまう。さらにここで優月にとっては衝撃的なあることが発覚する。そして、ついに優月は決意する。陽仁のもとから、離れることを――――― 明るくて優しい光属性っぽいα×自分に自信のないいじめられっ子の闇属性っぽいΩの二人が、運命をかけて追いかけっこする、謎解き要素ありのお話です。

嘘の日の言葉を信じてはいけない

斯波良久@出来損ないΩの猫獣人発売中
BL
嘘の日--それは一年に一度だけユイさんに会える日。ユイさんは毎年僕を選んでくれるけど、毎回首筋を噛んでもらえずに施設に返される。それでも去り際に彼が「来年も選ぶから」と言ってくれるからその言葉を信じてまた一年待ち続ける。待ったところで選ばれる保証はどこにもない。オメガは相手を選べない。アルファに選んでもらうしかない。今年もモニター越しにユイさんの姿を見つけ、選んで欲しい気持ちでアピールをするけれど……。

幼馴染から離れたい。

June
BL
アルファの朔に俺はとってただの幼馴染であって、それ以上もそれ以下でもない。 だけどベータの俺にとって朔は幼馴染で、それ以上に大切な存在だと、そう気づいてしまったんだ。 βの谷口優希がある日Ωになってしまった。幼馴染でいられないとそう思った優希は幼馴染のα、伊賀崎朔から離れようとする。 誤字脱字あるかも。 最後らへんグダグダ。下手だ。 ちんぷんかんぷんかも。 パッと思いつき設定でさっと書いたから・・・ すいません。

恋のキューピットは歪な愛に招かれる

春於
BL
〈あらすじ〉 ベータの美坂秀斗は、アルファである両親と親友が運命の番に出会った瞬間を目の当たりにしたことで心に深い傷を負った。 それも親友の相手は自分を慕ってくれていた後輩だったこともあり、それからは二人から逃げ、自分の心の傷から目を逸らすように生きてきた。 そして三十路になった今、このまま誰とも恋をせずに死ぬのだろうと思っていたところにかつての親友と遭遇してしまう。 〈キャラクター設定〉 美坂(松雪) 秀斗 ・ベータ ・30歳 ・会社員(総合商社勤務) ・物静かで穏やか ・仲良くなるまで時間がかかるが、心を許すと依存気味になる ・自分に自信がなく、消極的 ・アルファ×アルファの政略結婚をした両親の元に生まれた一人っ子 ・両親が目の前で運命の番を見つけ、自分を捨てたことがトラウマになっている 養父と正式に養子縁組を結ぶまでは松雪姓だった ・行方をくらますために一時期留学していたのもあり、語学が堪能 二見 蒼 ・アルファ ・30歳 ・御曹司(二見不動産) ・明るくて面倒見が良い ・一途 ・独占欲が強い ・中学3年生のときに不登校気味で1人でいる秀斗を気遣って接しているうちに好きになっていく ・元々家業を継ぐために学んでいたために優秀だったが、秀斗を迎え入れるために誰からも文句を言われぬように会社を繁栄させようと邁進してる ・日向のことは家族としての好意を持っており、光希のこともちゃんと愛している ・運命の番(日向)に出会ったときは本能によって心が惹かれるのを感じたが、秀斗の姿がないのに気づくと同時に日向に向けていた熱はすぐさま消え去った 二見(筒井) 日向 ・オメガ ・28歳 ・フリーランスのSE(今は育児休業中) ・人懐っこくて甘え上手 ・猪突猛進なところがある ・感情豊かで少し気分の浮き沈みが激しい ・高校一年生のときに困っている自分に声をかけてくれた秀斗に一目惚れし、絶対に秀斗と結婚すると決めていた ・秀斗を迎え入れるために早めに子どもをつくろうと蒼と相談していたため、会社には勤めずにフリーランスとして仕事をしている ・蒼のことは家族としての好意を持っており、光希のこともちゃんと愛している ・運命の番(蒼)に出会ったときは本能によって心が惹かれるのを感じたが、秀斗の姿がないのに気づいた瞬間に絶望をして一時期病んでた ※他サイトにも掲載しています  ビーボーイ創作BL大賞3に応募していた作品です

これがおれの運命なら

やなぎ怜
BL
才能と美貌を兼ね備えたあからさまなαであるクラスメイトの高宮祐一(たかみや・ゆういち)は、実は立花透(たちばな・とおる)の遠い親戚に当たる。ただし、透の父親は本家とは絶縁されている。巻き返しを図る透の父親はわざわざ息子を祐一と同じ高校へと進学させた。その真意はΩの息子に本家の後継ぎたる祐一の子を孕ませるため。透は父親の希望通りに進学しながらも、「急いては怪しまれる」と誤魔化しながら、その実、祐一には最低限の接触しかせず高校生活を送っていた。けれども祐一に興味を持たれてしまい……。 ※オメガバース。Ωに厳しめの世界。 ※性的表現あり。

処理中です...