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【短編】冷たい塹壕からの脱出
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寒気と味方の部隊の壊滅を目の当たりにして、俺は震えていた。敵部隊に突撃する気力もなく、俺は冷たい塹壕の中で上着をひざ掛けのようにしてうずくまっていた。
「おい、生きてるか」
急に俺の右隣でうずくまっていた仲間が話しかけてきた。
「なんとかな」
俺は白い息を吐き出しながら言った。
「よかった、僕以外にも生きている人がいて……」
男の表情が緩くなった。俺はちっともそんなことは思わなかった。先ほどの砲撃でこの塹壕にいたやつらのほとんどが死体と化していたからだ。だから、味方が一人生きていたからといって絶望的な状況は何も変わらないのだ。
「なあ、あんた。生きて帰ったらやりたいことってあるかい?」
男は引きつった表情で俺に聞いてきた。俺は少しの間考えた。そして、考えるだけ無駄だという結論に至った。
「ないな」
俺はうつむいて答えた。
すると、男はそんな俺などお構いなしに空を見上げて言った。
「俺さあ、ここから生きて帰れたら結婚するんだ……」
男は笑顔だった。
俺はどうリアクションをとればいいのかわからなかった。
「そうか、結婚するのか。いいな」
俺はとりあえずそう言った。
「だろ?それでさ、ゆくゆくは子供作ってさ……」
男は嬉しそうに話していた。俺は男の話から気を逸らすと、塹壕から少し顔を出した。
そこから見えたのは列をなしてこちらへ向かってくる敵軍だった。
俺はただ、その状況を受け入れることしかできなかった。ただ冷え切った目でじっと見つめた。
すると男がこう言ってきた。
「なあ、なに見てんだ?」
俺は迫る敵軍から目を逸らさず言った。
「敵だよ。こっちに向かってきてるのさ、ここまで来るのも時間の問題だろう」
そこまで言うと俺は男のほうを見て言った。
「見ないのか」
「見るわけねぇよ……」
男はまだ塹壕にうずくまったままだった。
俺はもう一度塹壕の中に座り込み、右手に持ったライフルに弾を込め始めた。
「どうする」
俺は男に聞いた。
「わからない」
「だったら逃げろ」
「わからないんだ、どうすればいいのか」
ここで初めて、俺と男の目が合った。
男の顔はやはり引きつっている。
俺はその顔を見て無性に腹が立った。
「下らん、さっさと行け」
俺は少し怒りを抑えてそう言った、つもりだった。
「答えになってないって、それ」
男の顔がさらに引きつった。
俺はどうしようもなくなってとっさに男の胸ぐらをつかんだ。
「……」
俺は何も言えなかった。ただ男にガンを飛ばしていた。強く、強くにらむことしか俺にはできなかった。ただただ我慢していた。
しかし、それも長くは続かなかった。
「……おい、なんだよそれ」
男は俺から目を逸らして言った。
「お前、なんで右足がねぇんだよ……」
俺は現実に向き合っていたつもりだった。この最悪な状況を捉えて……いや、捉えるだけで安心していた。『今、周りはどうなっているか』それだけに目を向けていた。
でも本当は違う。自分に目を向けないようにごまかしていたんだ。砲撃で吹っ飛ばされた右ひざから下を自分の上着で覆い隠して。
「おい、なんとか言えよ」
男はさっきよりもより暗い表情で俺を見た。きっと俺の顔がひどかったのだろう。
「俺は、認めたくなかったんだ。いつも周りだけに向き合っていれば生き抜けると思っていた。それが正しいと信じて。でも違った……だって俺は今、こんなにボロボロなんだから」
俺は声が濁っていた。頬のあたりが優しく濡れて、冷静に考えることも苦しくなっていた。
男は黙ってうつむいていた。
他人のみっともない姿を見ていたらこうもなるだろう。
そうこうしているうちに敵軍がさらに近づいていた。気配がじわりじわりと迫っていた。
いつかは向き合わなければならない。現実にも。自分にも。
俺は顔をぬぐった。
すると、男が顔を上げて言った。
「じゃあどうすればいいんだ。お先真っ暗じゃないかそんなことは。」
俺は男の目から光が消えてゆくのを見逃さなかった。
だから俺は男の肩をたたいてこう言った。
「生きろ。生きてりゃ、いいこともある。それにお前は生きて帰ったら結婚するんだろ?なら俺よりマシさ」
それでも男は黙っていた。
だがそんな彼にかまう時間は俺には残されていなかった。視界がどんどんふらついてゆく。出血がひどすぎたのだ。
俺は銃の弾数を確認した。
「いいか、俺がおとりになるからお前は逃げろ」
俺は男に言った。
男は放心した状態で俺を見つめた。
だから俺はこう言った。
「わかってねえな、お前。いいか、俺の人生の最期に花持たせろって言ってるんだよ」
男の顔にわずかだが光が戻っていくのを俺は感じた。
男は立ち上がった。
「その意気だ」
俺は言った。
すると、立ち上がった男が言った。
「あんた、名は?」
「俺か、俺は高山始だ。あんたは?」
「井上正人だ」
「そうか正人。会えてよかったよ。」
俺は無意識に手を差し伸べた。正人は俺の手を握り、俺たちは固く握手をした。彼は手を離すと俺に背を向け、走っていった。
そしておれの目の前には死のみが残った。だが死までの時間は自分と向き合うには長すぎる時間だった。
自分と向き合うべきだということに気づくまでが長すぎたのだ。
俺は迫る敵兵に向けてたりったけの球を撃ち込んだ。もうなにがなんだかわからなくなるぐらい視界はぐらつき、意識は遠のいていた。
そのうち俺は体から力が抜けていくのを感じ、塹壕の中で仰向けに倒れていた。
最後に俺は灰色に変わりゆくそれを見て言った。
「俺は、生きたぞ。」
2
僕にとって戦場は嫌いな場所の一つだった。というより、この世のほとんどの場所が嫌いだ。
なぜならどこへ行っても何が起こるわけでもなく、僕の癒しにはならないからだ。
いや、悲観しすぎかもしれない。でも、そう思うのも無理はない。
部隊は壊滅。おまけに今、僕がいる塹壕はさっきの砲撃のせいで死体だらけ。どうやら生きているのは僕だけだった。
僕は高揚感と恐怖を覚え、試しに自分の左隣の死体に話しかけた。
「おい、生きてるか」
すると、あろうことか返事が返ってきた。
「ああ、なんとかな」
死体がしゃべった!!と思うとともに僕の中の高揚感が消えた。
「良かった、俺以外にも生きてるやつがいて……」
僕は心にもないことを言った。
その後、沈黙が訪れた。僕はこの気まずい空気が大嫌いだった。
だから、僕は戦場ではお決まりの質問をすることにした。
「なあ、あんた。生きて帰ったらやりたいことってあるかい?」
でも今の絶望的な状況でこの質問をするのはかなり悪趣味だという方向に僕の思考は巡り、申し訳なさと恐怖との感情が芽生えた。
もしかすると僕の顔はかなり引きつっていたかもしれない。
するとしゃべる死体はこう答えた。
「ないな」
肩透かしだった。このままだと、またあの大嫌いな沈黙の時間が流れてしまう。
そこで僕はこう言った。
「俺さぁ、ここから生きて帰れたら結婚するんだ……」
僕は笑顔で言った。『俺』ってガラではなかったが、このセリフは『俺』の方が映える気がした。
もちろん、帰ったら結婚するなんていうのは真っ赤な嘘だ。僕は生まれてこの方、恋人すらできたことがないっていうのに。
「そうか、結婚するのか。いいな」
しゃべる死体はまた、会話を続かせにくい返事を返してきた。
僕は少し考えた後、結婚という嘘についてもう少し深堀りすることにした。
「だろ。それでさ、ゆくゆくはこどももつくってさぁ」
そこまで言ったとき、僕の中の何かがわっと湧き上がるような感覚があった。そして僕はさらに続けた。
「子供は二人ぐらいで……いや、一人でいいなぁ……でもよく考えたら子供なんていらないや、こんな地獄みたいな世の中に産み落とすだなんてどうかしてるもんなぁ」
僕はいつの間にか視線を落として、塹壕の中の死体たちを見ていた。
そしてついうっかり自分が内に抱えている絶望について口走ってしまったことを焦った。
僕はすかさずしゃべる死体の方を見た。すると、しゃべる死体は塹壕から少しばかり顔をのぞかせ、外を見ていた。手に持つライフルを地面に突き立てながら。
「なあ、なに見てんだ」
僕は反射的に言った。
「敵だよ。こっちに向かってきてるのさ、ここまで来るのも時間の問題だろう。」
僕はそのしゃべる死体の反応を見て、さっきの言葉は聞かれていなかったんだと直感的に思った。
するとしゃべる死体がこう言った。
「見ないのか」
「見るわけねぇよ……」
俺は悪意を込めて言った。俺は現実が嫌いだ。『現実=世界=場所』であり、自分の力でどうにもならないものが嫌いだ。それが自分を喜ばせようとも次の瞬間には必ず苦しめてくる。だから嫌いだ。できるだけ現実から逃げたいと思った。
それなのにこの死体は俺を現実に引き戻しやがった。
俺はとてつもない悪意と怒りに満ちていた。
「どうする」
死体がしゃべった。俺はここでこいつを撃ち殺してもよかった。しかし、
俺はそんなに強くなかった。
「わからない」
「だったら逃げろ」
「わからないんだ、どうすればいいのか。」
僕は彼に怒りをぶつけられず、怒りが冷めた気持ちに代わっていくのを感じていた。
冷めすぎて、ここから物理的に逃げるのか自殺して逃げるのかわからないと答える始末だった。
「下らん、さっさと行け」
彼はいら立っていた。
「答えになってないって、それ」
彼はさらに怒って、僕の胸ぐらをつかんだ。
「……」
だが彼は何も言わなかった。
僕は、そんな彼を冷めた目で見た。
すると僕はあることに気づいた。
「……おい、なんだよそれ」
衝撃だった。
「お前、何で右足がねぇんだよ……」
彼が上着を膝にかけていたからか、僕が彼をよく見ていなかったからかはわからないがとにかく気が付かなかった。
「おい、なんとか言えよ」
彼はいつになく暗い表情をした。
そして彼は、自分は周りだけを見て自分と向き合えていなかったと語った。
おそらく彼は身も心もズタボロだったのだろう。声は濁って、その表情からもそのことが分かった。
僕はうつむいて言った。
「じゃあ、どうすればいいんだ。お先真っ暗じゃないか。そんなことは」
すると彼は僕の肩をたたいて言った。
「生きろ。生きてりゃいいこともある。それにお前は生きて帰ったら結婚するんだろ?なら俺よりマシさ」
違う。違うんだ。僕がお先真っ暗だって言ったんじゃない。君がお先真っ暗だって言ったんだ。
それに僕には結婚相手も恋人もいないんだ。
頼む。頼むからもうこれ以上僕たちをみじめにしないでくれよ。
僕がそう思っていると彼はこう言った。
「いいか、俺がおとりになるからお前は逃げろ」
また言った。と僕は感じた。
すると彼はこう言った。
「わかってねえな、お前。いいか、俺の人生の最期に花持たせろって言ってるんだよ」
忘れていた。彼は現実に向き合える人間だったということを。
そしてそんな彼からそんな頼みを聞かされて、僕はなぜか断れなかった。
僕は立ち上がった。
「その意気だ。行け」
彼も僕の背中を押した。
僕は、生きることにした。
そして、ふと彼の名前を知らないことに気が付いた。
「あんた、名は?」
「俺か、俺は高山始だ。あんたは?」
「井上正人だ」
「そうか正人。会えてよかったよ」
僕らは固い握手をし、別れた。
そこから僕は走った。走り続けた。ひたすら逃げた。後ろから発砲音が聞こえてきても気にしなかった。いや、本当は気になった。それでも僕は走り続けた。走って、走って、ついに塹壕の最果てにたどり着いた。
僕は塹壕から出るしかなかった。進むにはそれしかなかった。でも、僕の気持ちは前に向いていた。
そして僕は、冷たい塹壕からの脱出に成功した。
エピローグ
高山始様
拝啓
あれから六十年が経ちました。私はほどほどに生きています。孫も子供も妻もいないのによくここまで生きることができたなと自分でも感心しています。ところで、お気づきになられましたでしょうか。そうです、「生きて帰ったら結婚する」というあの言葉、あれは嘘です。今思えば悲しいですね。
それはそうと今日は高山様にお伝えしたいことがございます。私、井上正人の体の中にガンが見つかりました。運よくそこまで進行はしていないらしいのですが、私としてはとても不安なのです。まるであの戦場に戻ったようで。
そういえばあの時、私は私がなぜああいう方向に振り切れたのかよくわかっていないのです。
ですが、不思議な力を感じていたのは確かです。
今回もそうなるだろうと思います。
私の手術は明日になります。
それでは、行って参ります。
敬具
八月二十二日
井上正人
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