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Who is CHAMP?
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ワーッという大歓声の中、まず仕かけたのは格闘技慣れしたルークだった。ムエタイ流のパンチやキック、肘打ち、膝蹴り。怒涛のような攻撃に、美央にいが後ずさりを始めた。
「やめろよ、やめろー」と雄叫びならぬ雌叫びをあげながら、プレジデント日奈子がチョップをくり出した。力道山流の空手チョップ。それを見たソロが、勝者は自分だといわんばかりの勢いで、プレジデント日奈子、美央にい、ルークの順に、強烈なラリアットを放ったのだからたまらない。
「I am CHAMP!」といい、ソロが右手の人差し指を突きあげた。ドクターソロがターゲットに据えたのは、美央にいだった。ラリアットを食らい、ふらふらと立ちあがった美央にいに対して、ソロが見よう見まねのブレーンバスターを電光一悶。「よし、決まった」と思ったところへ、なんと驚いたことに日奈子とルークが折り重なり、ソロと美央にいのふたりから同時にスリーカウントを奪ったのである。
お~っ。まさかまさか。
これで勝者は、日奈子とルークのどちらかにしぼられた。バンコクおてんばプロレスの主宰者で、ジュリーの直属の上司(社長)でもある日奈子か。それともムエタイの経験があり、今はバンコクの中心部でレストランやブティック、ネイルサロンなどを経営する実業家のルークか。天下分け目の一戦に、否が応でも盛りあがるナナの街。
「さぁ、あとは結果をごろうじろね」といいながら、プレジデント日奈子が自分の指をポキポキと鳴らし始めた。身長差は二十センチ近くあるだろうか。正直いって、ムエタイ仕込みのタイ人男性になんか勝てるわけがない――というのが、日奈子のホンネだった。しかしながら、最愛のジュリーのハートをつかむためには、ここで屈するわけにいかない。プロレスも経営もネバーギブアップが大切なのだ。
「いひひ」と薄笑いを浮かべながら、日奈子ににじり寄るルークに対し、日奈子はダーティーファイトに打って出た。ひとことでいうと、卑劣な戦法。いきなりルークの急所(あそこ)を蹴りつけたと思ったら、ルークの手をとって、小指への噛みつき攻撃。ついさっきまで「いひひ」と笑っていたルークが、今度は「いたた(タイ語で「ジェップ」)」と悲痛な叫び声をあげた。
いたたたたたた。
やめろー、やめてくれ。
小指がちぎれそうなほど、激しい痛みに襲われたルークが涙ながらに訴えた。と思ったら、今度はそこへ日奈子による破れかぶれのナックルパンチ。どの技も反則攻撃ではあったが、タイの大男を前に、果敢に攻め込む日本人女子の姿を目の当たりにして、会場は「やんややんや」の大騒ぎに包まれた。
くしくも沸き起こる「日奈子」コール。リングサイドでは、日奈子に力を貸してくれた美央にいが、必死の形相で声援を送っていた。
何かプロレスらしい技をくり出さなければ、と思っていた日奈子の胸元に、ルークのハイキックがぶち込まれた。ズバ~ンという一発で崩れ落ちる日奈子。そこへルークのストンピング攻撃が、雨あられのごとく降りかかった。明らかに体力差のあるタイ人レスラーが、か弱き日奈子を痛ぶる光景に悲鳴があがった。
「ああ、やめて」。
控室でモニターを見つめるジュリーの顔も苦痛にゆがんでいた。
「日奈子社長が死んじゃうわ。誰か助けて」。
そんなジュリーの願いは届かず、「止(とど)めだ」とばかりに、ぐったりとして動けなくなった日奈子のボディーに、ルークのダイビングエルボーが襲いかかった。カウントは――ワン、ツー、ス‥‥。万事休すと思ったら、女の意地か、日奈子がカウント二・五でこらえた。
歓声と悲鳴が入り混じる中、余裕しゃくしゃくのルークが、常夏のリングでの総仕あげにかかった。「おーっ」という地鳴りのような声をあげながら、この日のために練習してきたというプロレスの大技を爆発させたのだ。その技の名前はサンダーファイヤー・パワーボム。SNSで日本のプロレス技を研究していたところ、「この技が一番かっこよかった」らしく、上背のあるルークにとっては、まさに効果てきめんだった。
百八十センチ近いハイポジションから投げつけられるパワーポムは、まさに“雷鳴のごとく、炎のごとく”過激なものだったのである。ズバーンという衝撃音が四角いジャングルに響き渡った。思わず「日奈子社長が壊れちゃう」とジュリーが叫んでしまうほど、痛々しい光景が大衆の面前に広がった。
カウントは――ワン、ツー、スリー。文句なしのスリーカウントであった。ワーッという大歓声の中、ぐったりとしてピクリとも動かないプレジデント日奈子の姿が見てとれた。
あ~あ。これでジュリーはタイ人男性のもとへ。そう思ったら、涙の大河が日奈子の顔面を覆いつくした。
んもうっ、悔しいったらありゃしない。自分こそがジュリーと結ばれるはずだったのに。まさかまさか。他の男にジュリーを奪われてしまうなんてさ。そりゃ、たしかにルークは素敵な人物だけど、私(将来の「俺」)以外の誰かと結ばれるのは、やっぱり受け入れられないわ。一生の不覚。薄れゆく意識の中で、日奈子は「ちょっと待ってください」という声を聞いたような気がした。
――「ちょっと待ってください」。
ちょっと待って。そう口にしながら、車椅子の青年がリングサイドに現れた。
以前、ジュリーがバンコクのゴーゴーバーで働かせられていたときに出会ったカナダの青年・トムだった(詳しくは小説『おてんばプロレスの女神たち ~バーニングスピリット・イン・タイ~』を読んでほしいかな)。
大学時代はアマチュアレスリングで鳴らしたというトムだったが、不運なことに試合中のアクシデントがきっかけで、半身不随の憂き目にあっていた。しかしながら、ここで負けるわけにはいかないと思い、卒業後はインターネットで軍資金を稼ぎ出しながら、世界中を車椅子で旅しているという話であった。ひとりのファンとして、ジュリーのことを応援している。そういってのけた青年が、再びバンコクの街に現れたのだ。ジュリーにいわせれば、あの日、あの瞬間(とき)のトムの励ましがあったからこそ、悪夢の連鎖から抜け出すことができたのである。ピュアな想いで女子的生活に憧れているジュリーだったが、何の因果か、ゴーゴーバーという風俗店で働かされていたことがある。毎日が悔しくて、涙にくれていたジュリーの心に救いの手を差し伸べてくれたのがトムだった。四十度はあろうかという灼熱のリングサイドで、トムがジュリーに訴えかけた。
「ジュリーさん、あなたのことを本気で思っている人がいることを忘れないでください。僕自身、その中のひとりではあるけど、もっと身近なところでジュリーさんとの未来を夢に見ながら、ジュリーさんの幸せを願っている人がいるんです。その人の想いだけは忘れないで――。そしてその人こそが日奈子社長だと僕は信じています」。
日奈子社長の深い想いは、いつもSNSを通じてチェックしていたというトム。事実、日奈子のSNSは二十四時間・三百六十五日、ジュリーへの愛でいっぱいだった。当然のことながらトムの声は、別室でモニターを見つめていたジュリーの耳にも届いていた。
ちなみに多言語が飛び交うこの日のファイト。翻訳はすべてAIを駆使し、そのやりとりは場内に大写しのプロジェクターに活字で刻まれていた。日本語から英語へ、タイ語へ。タイ語から日本語へ、英語へ。AIも忙しそう。
「あっ、トム。‥‥トムなのね。わざわざカナダからきてくれていたんだ」。
ジュリーの体内から、やさしさという名の愛液があふれ出すような気分であった。フィジカル的には男子だけど、私の心の奥底で眠っている“女子”が目覚めるような――そんな気持ち。もちろんジュリー自身、日奈子社長の愛情は感じとっていた。年上の女性と男の娘(こ)とのLOVEがあってもいいだろうと個人的には思っていたのである。
しかし。
近い将来、自分が本物の女子になってしまったら、日奈子との関係は何といえばいいのか。女子と女子だからレズ?だなんて、いくらなんでも、それはない。かといって、日奈子が男子に変化(へんげ)を遂げるのには、やはり無理がある。女経営者として信頼を勝ち得てきた社長が、ある日を境に性別チェンジに踏み切るなんて、ああ、どう考えてもクレイジー。
その意味でいうと、トムこそが自分のパートナーとしてふさわしいのかもしれないとジュリーは思っていた。すべてを理解したうえで、自分のことを愛してくれる。国境を飛び越えてまで、わざわざ会いにきてくれる男性なんて、どう考えても他にいない。ラッククンナ。ジュテーム。アイラブユー。それこそ世界中の「愛している」を叫びたい気分。
なんて、なんて、なんて。きゃっ。私ったら何を考えているのかしら。プロレス小説なのか、ちょっと恋愛小説なのか、よくわからなくなってきたじゃないのよ。ジュリー自身、女性ホルモンを高めるためのサプリメントを常用していたが、それがメンタルにも作用しているのか、近頃は発想そのものが女子化していることに気づかされる。
「ジュリーさん、もし近くにいるんだったら、顔を見せてください。ジュリーさんの想いを聞かせていただけますか」。
モニターを通じて、トムが語りかけてきた。まるで初恋の相手に再会でもしたかのようなトムからの誘いに、ジュリーが応えないはずはなかった。
大歓声に迎えられながら、珍しくショートパンツを履いたジュリーがリングインすると、ひときわ大きな「ジュリー」コールが渦巻いた。
「ジュリー、ジュリー‥‥」。
ジュリーへの求愛権をゲットしたネームと、それに「待った」をかけたトム。その傍らでは、ジュリーのことを愛してやまない日奈子が、パワーボムで打ちつけられた首を気にしながら、リングにひざまずいていた。ジュリーという超絶美女を巡って、火花を散らすふたりの男性とひとりの熟女(失礼)。
「この試合は、ジュリーの花婿候補決定バトルロイヤルなんですよね。だったら勝者であるこの僕だけが、ジュリーにプロポーズできるはずです」とかなんとか、しきりにわめき立てながら、バトルロイヤルを制したルークが主宰者である日奈子に詰め寄り始めた。「うんうん」と頷きながら、いさぎよく負けを認める日奈子社長。
「こっちへカモン」といいながら、ジュリーのことを抱き寄せようとするルークに対し、びっくりするようなブーイングが起こった。♂が♂のことを抱き寄せようとしているだけなのに、ブーブー、ブーブーだなんて。「なんか変だろ」と怪訝な顔を浮かべたルークが、半ば強引にジュリーの体に抱きつこうとすると、あちこちから「キャーッ」という悲鳴があがった。
「待って。ジュリーさんの気持ちが第一だといったでしょ」というトムの働きかけにより、ジュリーにマイクが手渡された。車椅子から身を乗り出すようにしながら、右手を精一杯伸ばし、マイクをバトンタッチしてくれたのである。
「さぁ、ジュリーさんの気持ちを教えてください」というトムの言葉に促されながら、ジュリーが自らの想いを語り始めた。
「ルークさん‥‥ですか。私の花婿候補決定バトルロイヤルでの優勝おめでとうございます。この試合を企画してくださった日奈子社長に敬意を払って、私にはルークさんからのプロポーズをお受けする義務があります。すぐにいいお返事を返せるかどうかはわからないけど、ルークさんという男性のことをもっとよく知るための努力はしたいです。ていうか、することを誓います」というジュリーのコメントに、会場からは「ジュリー、行かないで」という声が噴出した。
「ジュリーはジュリーのままでいいよ」「性別なんて関係ないから」「ジュリーという人間が好き」。そんな声が連鎖的にはじけ飛んだ。
ちなみにジュリーを女性化するためのオペ費用(寄付)は、この日、二百万円近く集まったらしい。実際に性転換の大工事を施すには、ちょっと足りないかもしれないが、その不足分ぐらいは自力で出せる。自分の将来を考えるうえでは、そろそろ潮時かななんて、ジュリーは思っていたのであった。男の娘(こ)ではなく、女子として生きること、それがジュリーの本望なのだ。
トムがいうように、日奈子社長からの深い愛情はずっと感じていて、これからも同じ人生(みち)を歩いていけたら、どんなにか楽しいだろう。ちょっとずぼらな一面はあるものの、自分のことを心の底から愛してくれているし、頼り甲斐もある。経済力だってあるし、どんな逆境にもめげずに突き進もうとする前進力。それが日奈子社長最大の魅力でもあった。
本当であれば日奈子がバトルロイヤルを制し、ファンの目の前でジュリーにプロポーズをするはずだったが、人生の番狂わせとでもいったらいいのか、ルークという見知らぬ男子が勝利(ジュリーへの求愛権)を手にしたのだ。日奈子社長の深淵なる愛情に応えるか、ルークとの新たな出会いに賭けるか。
「えい、こうなったら白黒つけなくちゃ」と思ったジュリーは「ルークさん、今すぐ私にキスをして。そのキスの本気度によって、これからのおつき合いを決めさせていただきます」といい放った。
ああ、私ったら何てことをいい出すんだろう。そう後悔しながらも、「こうなったら日奈子社長のキスと比べさせてもらうわ」とジュリーは思うのであった。
えっち。私のえっち。「はしたない」と思われても仕方がない。
リングサイドの温度計は四十・七度。タイのバンコクは、今日も信じられないような灼熱地獄に包まれていた。
「やめろよ、やめろー」と雄叫びならぬ雌叫びをあげながら、プレジデント日奈子がチョップをくり出した。力道山流の空手チョップ。それを見たソロが、勝者は自分だといわんばかりの勢いで、プレジデント日奈子、美央にい、ルークの順に、強烈なラリアットを放ったのだからたまらない。
「I am CHAMP!」といい、ソロが右手の人差し指を突きあげた。ドクターソロがターゲットに据えたのは、美央にいだった。ラリアットを食らい、ふらふらと立ちあがった美央にいに対して、ソロが見よう見まねのブレーンバスターを電光一悶。「よし、決まった」と思ったところへ、なんと驚いたことに日奈子とルークが折り重なり、ソロと美央にいのふたりから同時にスリーカウントを奪ったのである。
お~っ。まさかまさか。
これで勝者は、日奈子とルークのどちらかにしぼられた。バンコクおてんばプロレスの主宰者で、ジュリーの直属の上司(社長)でもある日奈子か。それともムエタイの経験があり、今はバンコクの中心部でレストランやブティック、ネイルサロンなどを経営する実業家のルークか。天下分け目の一戦に、否が応でも盛りあがるナナの街。
「さぁ、あとは結果をごろうじろね」といいながら、プレジデント日奈子が自分の指をポキポキと鳴らし始めた。身長差は二十センチ近くあるだろうか。正直いって、ムエタイ仕込みのタイ人男性になんか勝てるわけがない――というのが、日奈子のホンネだった。しかしながら、最愛のジュリーのハートをつかむためには、ここで屈するわけにいかない。プロレスも経営もネバーギブアップが大切なのだ。
「いひひ」と薄笑いを浮かべながら、日奈子ににじり寄るルークに対し、日奈子はダーティーファイトに打って出た。ひとことでいうと、卑劣な戦法。いきなりルークの急所(あそこ)を蹴りつけたと思ったら、ルークの手をとって、小指への噛みつき攻撃。ついさっきまで「いひひ」と笑っていたルークが、今度は「いたた(タイ語で「ジェップ」)」と悲痛な叫び声をあげた。
いたたたたたた。
やめろー、やめてくれ。
小指がちぎれそうなほど、激しい痛みに襲われたルークが涙ながらに訴えた。と思ったら、今度はそこへ日奈子による破れかぶれのナックルパンチ。どの技も反則攻撃ではあったが、タイの大男を前に、果敢に攻め込む日本人女子の姿を目の当たりにして、会場は「やんややんや」の大騒ぎに包まれた。
くしくも沸き起こる「日奈子」コール。リングサイドでは、日奈子に力を貸してくれた美央にいが、必死の形相で声援を送っていた。
何かプロレスらしい技をくり出さなければ、と思っていた日奈子の胸元に、ルークのハイキックがぶち込まれた。ズバ~ンという一発で崩れ落ちる日奈子。そこへルークのストンピング攻撃が、雨あられのごとく降りかかった。明らかに体力差のあるタイ人レスラーが、か弱き日奈子を痛ぶる光景に悲鳴があがった。
「ああ、やめて」。
控室でモニターを見つめるジュリーの顔も苦痛にゆがんでいた。
「日奈子社長が死んじゃうわ。誰か助けて」。
そんなジュリーの願いは届かず、「止(とど)めだ」とばかりに、ぐったりとして動けなくなった日奈子のボディーに、ルークのダイビングエルボーが襲いかかった。カウントは――ワン、ツー、ス‥‥。万事休すと思ったら、女の意地か、日奈子がカウント二・五でこらえた。
歓声と悲鳴が入り混じる中、余裕しゃくしゃくのルークが、常夏のリングでの総仕あげにかかった。「おーっ」という地鳴りのような声をあげながら、この日のために練習してきたというプロレスの大技を爆発させたのだ。その技の名前はサンダーファイヤー・パワーボム。SNSで日本のプロレス技を研究していたところ、「この技が一番かっこよかった」らしく、上背のあるルークにとっては、まさに効果てきめんだった。
百八十センチ近いハイポジションから投げつけられるパワーポムは、まさに“雷鳴のごとく、炎のごとく”過激なものだったのである。ズバーンという衝撃音が四角いジャングルに響き渡った。思わず「日奈子社長が壊れちゃう」とジュリーが叫んでしまうほど、痛々しい光景が大衆の面前に広がった。
カウントは――ワン、ツー、スリー。文句なしのスリーカウントであった。ワーッという大歓声の中、ぐったりとしてピクリとも動かないプレジデント日奈子の姿が見てとれた。
あ~あ。これでジュリーはタイ人男性のもとへ。そう思ったら、涙の大河が日奈子の顔面を覆いつくした。
んもうっ、悔しいったらありゃしない。自分こそがジュリーと結ばれるはずだったのに。まさかまさか。他の男にジュリーを奪われてしまうなんてさ。そりゃ、たしかにルークは素敵な人物だけど、私(将来の「俺」)以外の誰かと結ばれるのは、やっぱり受け入れられないわ。一生の不覚。薄れゆく意識の中で、日奈子は「ちょっと待ってください」という声を聞いたような気がした。
――「ちょっと待ってください」。
ちょっと待って。そう口にしながら、車椅子の青年がリングサイドに現れた。
以前、ジュリーがバンコクのゴーゴーバーで働かせられていたときに出会ったカナダの青年・トムだった(詳しくは小説『おてんばプロレスの女神たち ~バーニングスピリット・イン・タイ~』を読んでほしいかな)。
大学時代はアマチュアレスリングで鳴らしたというトムだったが、不運なことに試合中のアクシデントがきっかけで、半身不随の憂き目にあっていた。しかしながら、ここで負けるわけにはいかないと思い、卒業後はインターネットで軍資金を稼ぎ出しながら、世界中を車椅子で旅しているという話であった。ひとりのファンとして、ジュリーのことを応援している。そういってのけた青年が、再びバンコクの街に現れたのだ。ジュリーにいわせれば、あの日、あの瞬間(とき)のトムの励ましがあったからこそ、悪夢の連鎖から抜け出すことができたのである。ピュアな想いで女子的生活に憧れているジュリーだったが、何の因果か、ゴーゴーバーという風俗店で働かされていたことがある。毎日が悔しくて、涙にくれていたジュリーの心に救いの手を差し伸べてくれたのがトムだった。四十度はあろうかという灼熱のリングサイドで、トムがジュリーに訴えかけた。
「ジュリーさん、あなたのことを本気で思っている人がいることを忘れないでください。僕自身、その中のひとりではあるけど、もっと身近なところでジュリーさんとの未来を夢に見ながら、ジュリーさんの幸せを願っている人がいるんです。その人の想いだけは忘れないで――。そしてその人こそが日奈子社長だと僕は信じています」。
日奈子社長の深い想いは、いつもSNSを通じてチェックしていたというトム。事実、日奈子のSNSは二十四時間・三百六十五日、ジュリーへの愛でいっぱいだった。当然のことながらトムの声は、別室でモニターを見つめていたジュリーの耳にも届いていた。
ちなみに多言語が飛び交うこの日のファイト。翻訳はすべてAIを駆使し、そのやりとりは場内に大写しのプロジェクターに活字で刻まれていた。日本語から英語へ、タイ語へ。タイ語から日本語へ、英語へ。AIも忙しそう。
「あっ、トム。‥‥トムなのね。わざわざカナダからきてくれていたんだ」。
ジュリーの体内から、やさしさという名の愛液があふれ出すような気分であった。フィジカル的には男子だけど、私の心の奥底で眠っている“女子”が目覚めるような――そんな気持ち。もちろんジュリー自身、日奈子社長の愛情は感じとっていた。年上の女性と男の娘(こ)とのLOVEがあってもいいだろうと個人的には思っていたのである。
しかし。
近い将来、自分が本物の女子になってしまったら、日奈子との関係は何といえばいいのか。女子と女子だからレズ?だなんて、いくらなんでも、それはない。かといって、日奈子が男子に変化(へんげ)を遂げるのには、やはり無理がある。女経営者として信頼を勝ち得てきた社長が、ある日を境に性別チェンジに踏み切るなんて、ああ、どう考えてもクレイジー。
その意味でいうと、トムこそが自分のパートナーとしてふさわしいのかもしれないとジュリーは思っていた。すべてを理解したうえで、自分のことを愛してくれる。国境を飛び越えてまで、わざわざ会いにきてくれる男性なんて、どう考えても他にいない。ラッククンナ。ジュテーム。アイラブユー。それこそ世界中の「愛している」を叫びたい気分。
なんて、なんて、なんて。きゃっ。私ったら何を考えているのかしら。プロレス小説なのか、ちょっと恋愛小説なのか、よくわからなくなってきたじゃないのよ。ジュリー自身、女性ホルモンを高めるためのサプリメントを常用していたが、それがメンタルにも作用しているのか、近頃は発想そのものが女子化していることに気づかされる。
「ジュリーさん、もし近くにいるんだったら、顔を見せてください。ジュリーさんの想いを聞かせていただけますか」。
モニターを通じて、トムが語りかけてきた。まるで初恋の相手に再会でもしたかのようなトムからの誘いに、ジュリーが応えないはずはなかった。
大歓声に迎えられながら、珍しくショートパンツを履いたジュリーがリングインすると、ひときわ大きな「ジュリー」コールが渦巻いた。
「ジュリー、ジュリー‥‥」。
ジュリーへの求愛権をゲットしたネームと、それに「待った」をかけたトム。その傍らでは、ジュリーのことを愛してやまない日奈子が、パワーボムで打ちつけられた首を気にしながら、リングにひざまずいていた。ジュリーという超絶美女を巡って、火花を散らすふたりの男性とひとりの熟女(失礼)。
「この試合は、ジュリーの花婿候補決定バトルロイヤルなんですよね。だったら勝者であるこの僕だけが、ジュリーにプロポーズできるはずです」とかなんとか、しきりにわめき立てながら、バトルロイヤルを制したルークが主宰者である日奈子に詰め寄り始めた。「うんうん」と頷きながら、いさぎよく負けを認める日奈子社長。
「こっちへカモン」といいながら、ジュリーのことを抱き寄せようとするルークに対し、びっくりするようなブーイングが起こった。♂が♂のことを抱き寄せようとしているだけなのに、ブーブー、ブーブーだなんて。「なんか変だろ」と怪訝な顔を浮かべたルークが、半ば強引にジュリーの体に抱きつこうとすると、あちこちから「キャーッ」という悲鳴があがった。
「待って。ジュリーさんの気持ちが第一だといったでしょ」というトムの働きかけにより、ジュリーにマイクが手渡された。車椅子から身を乗り出すようにしながら、右手を精一杯伸ばし、マイクをバトンタッチしてくれたのである。
「さぁ、ジュリーさんの気持ちを教えてください」というトムの言葉に促されながら、ジュリーが自らの想いを語り始めた。
「ルークさん‥‥ですか。私の花婿候補決定バトルロイヤルでの優勝おめでとうございます。この試合を企画してくださった日奈子社長に敬意を払って、私にはルークさんからのプロポーズをお受けする義務があります。すぐにいいお返事を返せるかどうかはわからないけど、ルークさんという男性のことをもっとよく知るための努力はしたいです。ていうか、することを誓います」というジュリーのコメントに、会場からは「ジュリー、行かないで」という声が噴出した。
「ジュリーはジュリーのままでいいよ」「性別なんて関係ないから」「ジュリーという人間が好き」。そんな声が連鎖的にはじけ飛んだ。
ちなみにジュリーを女性化するためのオペ費用(寄付)は、この日、二百万円近く集まったらしい。実際に性転換の大工事を施すには、ちょっと足りないかもしれないが、その不足分ぐらいは自力で出せる。自分の将来を考えるうえでは、そろそろ潮時かななんて、ジュリーは思っていたのであった。男の娘(こ)ではなく、女子として生きること、それがジュリーの本望なのだ。
トムがいうように、日奈子社長からの深い愛情はずっと感じていて、これからも同じ人生(みち)を歩いていけたら、どんなにか楽しいだろう。ちょっとずぼらな一面はあるものの、自分のことを心の底から愛してくれているし、頼り甲斐もある。経済力だってあるし、どんな逆境にもめげずに突き進もうとする前進力。それが日奈子社長最大の魅力でもあった。
本当であれば日奈子がバトルロイヤルを制し、ファンの目の前でジュリーにプロポーズをするはずだったが、人生の番狂わせとでもいったらいいのか、ルークという見知らぬ男子が勝利(ジュリーへの求愛権)を手にしたのだ。日奈子社長の深淵なる愛情に応えるか、ルークとの新たな出会いに賭けるか。
「えい、こうなったら白黒つけなくちゃ」と思ったジュリーは「ルークさん、今すぐ私にキスをして。そのキスの本気度によって、これからのおつき合いを決めさせていただきます」といい放った。
ああ、私ったら何てことをいい出すんだろう。そう後悔しながらも、「こうなったら日奈子社長のキスと比べさせてもらうわ」とジュリーは思うのであった。
えっち。私のえっち。「はしたない」と思われても仕方がない。
リングサイドの温度計は四十・七度。タイのバンコクは、今日も信じられないような灼熱地獄に包まれていた。
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