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カー子の恋心・開花宣言

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 「ワン、ツーのあとはスリ。目にもとまらぬ速さで皆さんのハートを盗みます」なーんて、冗談をまじえながら、マイクパフォーマンスを仕かける選手がいた。小説『おてんばプロレスの女神たち』の中では、脇役中の脇役のカー子(本名:鶴崎加奈子)である。リング上ではお笑いの世界をとり入れ、三十秒に一回は笑いが渦巻くプロレスをめざしていた。本人いわく、チャップリンに憧れているらしく、どこから見つけてきたのか、チャップリンを彷彿とさせるハットとステッキでリングインすることが多かった。リング上で大手を振ったかと思えば、いきなりコケたり、コケたかと思えば、帽子がすっ飛んで、ハゲ頭(もちろん、かつらである)がバレたり。よく見るとキュートな顔立ち。りんごのような頬っぺたを丸出しにして、地元のオジさん連中の間ではそれなりの人気を博していた。
 青森出身で、おてんば女子大学へ入学したての頃は訛りがひどく、学生生活を続けているうちに青森弁やら宮城弁やら福島弁やら、さまざまな方言がミックスされて、その後はカー子弁とでもいったらいいのか、正体不明の方言を操るようになっていた。試合後のマイクを向けられると、「わだす、おしょしくて(恥ずかしくて)、試合後のインタビューは苦手だっきゃ。早ぐシャワーば浴びて、家さ帰(け)っから、勘弁してけさいん」みたいな感じで、東北弁に免疫がない人たちにとっては、何をいっているのか、いささかチンプンカンプンだったが、それがまた不思議な魅力につながっていたのである。
 そんなカー子が、突如として標準語らしき言葉遣いをするようになったのは、大学二年の夏のことである。急に標準語を話すようになったと思ったら、おしゃれにも気を遣うようになり、「カフェに行きたい」とか「涙にくれるような恋愛映画が観たい」とか、「えっ、まさか別人!?」と思えるほど、今どきの女子になってしまったのだ。
 入学以来、ずっとパンツルックで通してきたはずのカー子が、お色気たっぷりのロングスカートを履いてきたときは、おてんばプロレスの先輩の浅子さん(やがてプロの道へ進んだ大先輩)から「熱でもある!?」なんて、おでこに手を当てられたものである。
 まぁ、熱があったのは事実かな。その頃のおてんばプロレスは、みちのく学院大学のプロレス研究会・イケメンプロレスと抗争をくり返しており、そのエース格ともいうべき青山君に対して、カー子は「ほの字」だったのだ。俗にいう片想いというやつ。お相手の青山君は元・高校球児で、「超」の字がつくほどのイケメンだったので、カー子が青山君のハートを攻略するには、十年どころか、五千年ぐらい早いようにも思えた。
 ちょっと立て込んだ話になるが、当時のおてんばプロレスにはジュリーという“男子高出身の女子大生”がいて、そのジュリーのつながりがきっかけで、青山君らイケメンプロレスと相まみえることになったおてんばプロレス。表立っては敵対関係にあったため、リング上では「女子 vs 男子」の熱き闘いがくり広げられていたが、いざリングを降りると、ごく普通の大学生同士、和気あいあいとした雰囲気に包まれていた。
 カー子の恋心に火がついたのは、おてんば市のある南東北で梅雨明け宣言が出された七月中旬のことである。不慣れな男子(よりによって相手は青山君)との試合で、つい力が入りすぎたのか、ドロップキックのタイミングを見誤ったカー子は、不自然な形で体を空転させて、そのまま床に落下したと思ったら、右腕を思いきりひねってしまった。あまりの痛さに苦悶の表情を浮かべたカー子だが、お笑いで観客を幸せにするプロレスを信条としている以上、もがき苦しむ姿を見せるわけにいかないと思い、そこはグッとこらえてバトルを続けた。
 結果は五分十一秒、最後までコミカルなプロレスに徹したカー子が、誤ってレフェリーにラリアットを放ち、反則負けを喫してしまった。しかもしかも――。ラリアットを放ったのが、こともあろう、痛めた右腕だったのだからたまらない(痛いのなんのって)。「ケガだけはしない、させない」がモットーのおてんばプロレスで、ケガをしたなんていい出せるはずがなく、人知れず控え室にこもり、必死の想いでこう念じるカー子であった。
 痛いの痛いの、飛んでけー。
 痛いの痛いの、飛んでけー。
 が、飛んでいくどころか、鉛のような痛さがカー子に襲いかかった。ずきんずきん、ずきんずきん。ずきんずきん、赤ずきん。なんてダジャレをいっている場合じゃない。笑顔がトレードマークのカー子の頬を悔し涙が伝(つた)った。
 「み、みんなに迷惑だけはかけられない」という想いに駆られていたカー子のことを、とことん本気で心配してくれたのが青山君だった。
 「おい、大丈夫なのか。入ってもいいか」と前置きしながら、大慌てで女子の控室に押し入ってきた青山君。「あっ、痛いんだろ、やっぱり。我慢なんかするんじゃねぇ。今すぐ病院へ行こう」といい放ち、なんとママチャリ(ジュリーから借りたものだ)に乗せて、カー子のことを救急病院まで運んでくれたのには驚いた。
 「大丈夫だ。もうすぐ着くからな。しっかりつかまれ」なんていわれるまでもなく、青山君のたくましい上半身に、まるでコアラのようにしがみつくカー子。青山君の「はぁはぁ」という息づかいを間近に感じながら、カー子はすっかり恋する乙女の顔になっていた。
 あっ、もしかすると――。痛いの痛いの、飛んだかも!?
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