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バンコクの歓楽街・ナナでの出会い
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「あっ、リスがいる」「えー、嘘でしょ。群れをなしているわ」。
大都会の中をリスが飛びまわっているなんて。ジュリーは驚いた表情で「これって、なんなんですか」と武雄さんに尋ねた。前を歩く武雄さんは、半身になって振り返ると、「クラロール(タイ語で「リス」)と人間が共存する街、それがバンコクのすごいところさ」と応じた。
バンコクの中心部。BTSのチャットロム駅の近くをふたりは歩いていた。日本でいうと、東京の銀座を彷彿とさせるような賑わい。国際都市バンコクのどまん中とでもいうべきエリアだった。
じつをいうと、この日は日奈子社長が整えてくれたバンコク事務所への初出勤。本当であればスーツでビシッと決めたいところだが、打合せがあるわけじゃなし、取材や営業に出かけるわけでもないので、ジュリーは今日もカジュアルなファッションを楽しんでいた。
武雄さんは、いかにもチャラ男風のルックで、パッと見た感じでは下心見えみえの中年男が若い娘をたぶらかして、危ない時間を過ごしているかのよう。道ばたで屋台を営んでいたタイ人女性が「サワディカ~(今日は)」といい、笑顔を振りまいてきたが、内心では「このドスケベが」といきり立っているに違いない。
「おっと、ここだ。このビルの十二階」というと、武雄さんはお気楽に鼻歌(日本の演歌だ)を口ずさみながら、エレベーターのボタンを押した。
日奈子社長が代表を務めるバンコクおてんば企画の事務所は、十坪あるかないかのこぢんまりとしたオフィスだった。共同代表を務めるニューおてんば温泉の社長(おてんばプロレスのOGで、今は女子プロレス界の第一線で活躍する浅子大先輩のお父さんでもある)の色紙が、なぜかどういうわけか壁に張ってあった。お世辞にも上手とはいい難い「商魂」の筆文字。浅子先輩のお父さんは、よくおてんばプロレスの大会で、ボランティアのレフェリーを買って出てくれていたが、もしかしたらバンコクでもやる気なのかなとジュリーは考えていた。
「事務所はこれで完璧」といいながら、武雄さんは事務所の一郭に置いてある中国製の冷蔵庫から、メイド・イン・タイランドの缶ビールをとり出した。
「今日は事務所開きということで、ふたりで乾杯しようか。日奈ちゃん(日奈子社長のことである)から聞いていると思うけど、四月になったら旗揚げ戦をやるので、それまでには体をつくっておいて。ジュリーのタイでのマネージャーは僕だから、よろしくね」というと、武雄さんは缶ビールのふたをプシュッと開けた。
えっ、えー。ジュリーは「マネージャーって何!?」とも思ったが、日奈子社長の会社にいる以上、青天の霹靂や寝耳に水は当たり前。日奈子社長の思いつきで、すべては進んでいくのである。
「体をつくっておいて」なんて簡単にいうけど、自分はごく普通のOL。プロじゃないんだからと思いながらも、ジュリーは笑顔をつくろった。「たしかピーナッツがあったはずなんだけど」といいながら、部屋の中を物色する武雄さん。ちょっぴり辛口のタイビールに、ジュリーはよろけそうだった。
それから一時間ほどは飲んだだろうか、ふたりで五本の缶ビールを開けると、武雄さんが「ナナにでも行って飲み直そうか」といい出した。それほどアルコールに強いわけではないジュリーの頭は、すでにくらくらだった。ナナ。なな。奈々? 奈良じゃないし。ナナってなーに。
「うーん、日本でいえば、東京の新宿みたいなところかな」といいながら、武雄さんが連れて行ってくれたのは、バンコクの中心部にある国際色豊かな歓楽街だった。昼間なのに酔っぱらいだらけ。ジュリーにとっては、それがナナの第一印象だった。
「じつはゴーゴーバーというのがあってさ。そこへ行ってみようよ、ちょっとだけでいいから」とかなんとか、あとになって思えば、チャラ男としての武雄さんの本領発揮。奥さんが出張でいないのをいいことに、思いっきり羽を伸ばしたいだけだったのである。
ゴーゴーバーというのは、日本でいう連れ出しOKのキャバクラみたいなものか。お店の中には、まるでひな壇のようなお立ち台があり、素肌丸出しの女の子たちが音楽に合わせて踊っていた。まるで品評会とでもいったらいいのか、お気に入りの子に目くばせするなり、直接指名するなりすれば、一緒に飲める(持ち帰りもOK?)というのが暗黙のルールらしい。そんな状況の中で、まさか見た目女子のジュリーが女の子を指名するわけにもいかず、とりあえずその場の雰囲気に合わせながら、武雄さんの顔を立てて、楽しんでいるふりだけすることにした。
ところが、どっこい。やはり男というのは、本能に逆らえないバカ正直な生きものなのかもしれない。お気に入りの子を呼びつけると、武雄さんはすっかり気をよくして、「ガハハハ」なんて大笑いしながら、ビールをしこたま飲んだ揚げ句、ボブヘアでぽっちゃり顔のタイ人ギャルを伴って、どこかへ消えてしまったのだ。どうやらそのギャルと示し合わせたらしく、ふと気がついたら、知らないうちに消えていたという表現がぴったりだった。
昼間っから何をやっているのよ、武雄さんったら。そんなジュリーの想いが届くわけもなく、ひとりとり残されたジュリーは、とりあえず「どうすればいいわけ?」と思っていると、いつの間に現れたのだろう。武雄さんが陣どっていたはずの席に、ロングヘア―がよく似合うタイ人の女の子がぴょこんと座っていた。
「私はサキです。あなたに興味があります」といい、サキと名のる女の子がジュリーに話しかけてきた。バンコク市内の大学で日本語を学んでいるらしく、イントネーションに多少の違和感はあるものの、それなりにまともな日本語で話しかけてきた。語学に堪能なインテリジェント・キャバ嬢。スタイルがいいわりには筋肉質なのか、まるで弾丸のようなボディーがビキニからはみ出していた。本人いわく、心身ともに屈強でタフなことから、大学ではキングコングという渾名で呼ばれているらしい。
「あなたは日本人ですか。観光できましたか」。
サキというタイ人娘の質問に、あれこれ答えているうちに、ふたりはお互いに親近感を覚えるようになった。サキというのは、タイでいうチューレン(いわゆるニックネーム)らしく、日常的にはサキの名で通っているとか。
「日本人の名前みたいだね」とジュリーがいうと、「よくいわれます」とサキがほほ笑んだ。ジュリー自身、本当は男子だが、子どもの頃から女子に憧れているという切ない想いを打ち明けると、サキはどういうわけか「うんうん」といい、ジュリーに共感を示してきた。「だったら、なればいいのよ」という意味のセリフをいったようにも聞こえたが、ホールに充満する音楽がやかましすぎて、よく聞こえなかった。
ジュリーは、自分がバンコク駐在のOLであること、女子プロレスラーも兼ねていること、そして水かけ祭りの日には、バンコクおてんばプロレスの旗揚げ戦を予定していること――などを伝えた。
「ね、よかったら旗揚げ戦を観にきて。私自身、バンコクに女子のお友達がほしいなって思っていたのよ」とジュリーが打ち明けると、サキは即座に「OK」といい、自分の連絡先を教えてくれた。タイで初めての女友達。ジュリーがバンコクにきて二日目の午後のことだった。
大都会の中をリスが飛びまわっているなんて。ジュリーは驚いた表情で「これって、なんなんですか」と武雄さんに尋ねた。前を歩く武雄さんは、半身になって振り返ると、「クラロール(タイ語で「リス」)と人間が共存する街、それがバンコクのすごいところさ」と応じた。
バンコクの中心部。BTSのチャットロム駅の近くをふたりは歩いていた。日本でいうと、東京の銀座を彷彿とさせるような賑わい。国際都市バンコクのどまん中とでもいうべきエリアだった。
じつをいうと、この日は日奈子社長が整えてくれたバンコク事務所への初出勤。本当であればスーツでビシッと決めたいところだが、打合せがあるわけじゃなし、取材や営業に出かけるわけでもないので、ジュリーは今日もカジュアルなファッションを楽しんでいた。
武雄さんは、いかにもチャラ男風のルックで、パッと見た感じでは下心見えみえの中年男が若い娘をたぶらかして、危ない時間を過ごしているかのよう。道ばたで屋台を営んでいたタイ人女性が「サワディカ~(今日は)」といい、笑顔を振りまいてきたが、内心では「このドスケベが」といきり立っているに違いない。
「おっと、ここだ。このビルの十二階」というと、武雄さんはお気楽に鼻歌(日本の演歌だ)を口ずさみながら、エレベーターのボタンを押した。
日奈子社長が代表を務めるバンコクおてんば企画の事務所は、十坪あるかないかのこぢんまりとしたオフィスだった。共同代表を務めるニューおてんば温泉の社長(おてんばプロレスのOGで、今は女子プロレス界の第一線で活躍する浅子大先輩のお父さんでもある)の色紙が、なぜかどういうわけか壁に張ってあった。お世辞にも上手とはいい難い「商魂」の筆文字。浅子先輩のお父さんは、よくおてんばプロレスの大会で、ボランティアのレフェリーを買って出てくれていたが、もしかしたらバンコクでもやる気なのかなとジュリーは考えていた。
「事務所はこれで完璧」といいながら、武雄さんは事務所の一郭に置いてある中国製の冷蔵庫から、メイド・イン・タイランドの缶ビールをとり出した。
「今日は事務所開きということで、ふたりで乾杯しようか。日奈ちゃん(日奈子社長のことである)から聞いていると思うけど、四月になったら旗揚げ戦をやるので、それまでには体をつくっておいて。ジュリーのタイでのマネージャーは僕だから、よろしくね」というと、武雄さんは缶ビールのふたをプシュッと開けた。
えっ、えー。ジュリーは「マネージャーって何!?」とも思ったが、日奈子社長の会社にいる以上、青天の霹靂や寝耳に水は当たり前。日奈子社長の思いつきで、すべては進んでいくのである。
「体をつくっておいて」なんて簡単にいうけど、自分はごく普通のOL。プロじゃないんだからと思いながらも、ジュリーは笑顔をつくろった。「たしかピーナッツがあったはずなんだけど」といいながら、部屋の中を物色する武雄さん。ちょっぴり辛口のタイビールに、ジュリーはよろけそうだった。
それから一時間ほどは飲んだだろうか、ふたりで五本の缶ビールを開けると、武雄さんが「ナナにでも行って飲み直そうか」といい出した。それほどアルコールに強いわけではないジュリーの頭は、すでにくらくらだった。ナナ。なな。奈々? 奈良じゃないし。ナナってなーに。
「うーん、日本でいえば、東京の新宿みたいなところかな」といいながら、武雄さんが連れて行ってくれたのは、バンコクの中心部にある国際色豊かな歓楽街だった。昼間なのに酔っぱらいだらけ。ジュリーにとっては、それがナナの第一印象だった。
「じつはゴーゴーバーというのがあってさ。そこへ行ってみようよ、ちょっとだけでいいから」とかなんとか、あとになって思えば、チャラ男としての武雄さんの本領発揮。奥さんが出張でいないのをいいことに、思いっきり羽を伸ばしたいだけだったのである。
ゴーゴーバーというのは、日本でいう連れ出しOKのキャバクラみたいなものか。お店の中には、まるでひな壇のようなお立ち台があり、素肌丸出しの女の子たちが音楽に合わせて踊っていた。まるで品評会とでもいったらいいのか、お気に入りの子に目くばせするなり、直接指名するなりすれば、一緒に飲める(持ち帰りもOK?)というのが暗黙のルールらしい。そんな状況の中で、まさか見た目女子のジュリーが女の子を指名するわけにもいかず、とりあえずその場の雰囲気に合わせながら、武雄さんの顔を立てて、楽しんでいるふりだけすることにした。
ところが、どっこい。やはり男というのは、本能に逆らえないバカ正直な生きものなのかもしれない。お気に入りの子を呼びつけると、武雄さんはすっかり気をよくして、「ガハハハ」なんて大笑いしながら、ビールをしこたま飲んだ揚げ句、ボブヘアでぽっちゃり顔のタイ人ギャルを伴って、どこかへ消えてしまったのだ。どうやらそのギャルと示し合わせたらしく、ふと気がついたら、知らないうちに消えていたという表現がぴったりだった。
昼間っから何をやっているのよ、武雄さんったら。そんなジュリーの想いが届くわけもなく、ひとりとり残されたジュリーは、とりあえず「どうすればいいわけ?」と思っていると、いつの間に現れたのだろう。武雄さんが陣どっていたはずの席に、ロングヘア―がよく似合うタイ人の女の子がぴょこんと座っていた。
「私はサキです。あなたに興味があります」といい、サキと名のる女の子がジュリーに話しかけてきた。バンコク市内の大学で日本語を学んでいるらしく、イントネーションに多少の違和感はあるものの、それなりにまともな日本語で話しかけてきた。語学に堪能なインテリジェント・キャバ嬢。スタイルがいいわりには筋肉質なのか、まるで弾丸のようなボディーがビキニからはみ出していた。本人いわく、心身ともに屈強でタフなことから、大学ではキングコングという渾名で呼ばれているらしい。
「あなたは日本人ですか。観光できましたか」。
サキというタイ人娘の質問に、あれこれ答えているうちに、ふたりはお互いに親近感を覚えるようになった。サキというのは、タイでいうチューレン(いわゆるニックネーム)らしく、日常的にはサキの名で通っているとか。
「日本人の名前みたいだね」とジュリーがいうと、「よくいわれます」とサキがほほ笑んだ。ジュリー自身、本当は男子だが、子どもの頃から女子に憧れているという切ない想いを打ち明けると、サキはどういうわけか「うんうん」といい、ジュリーに共感を示してきた。「だったら、なればいいのよ」という意味のセリフをいったようにも聞こえたが、ホールに充満する音楽がやかましすぎて、よく聞こえなかった。
ジュリーは、自分がバンコク駐在のOLであること、女子プロレスラーも兼ねていること、そして水かけ祭りの日には、バンコクおてんばプロレスの旗揚げ戦を予定していること――などを伝えた。
「ね、よかったら旗揚げ戦を観にきて。私自身、バンコクに女子のお友達がほしいなって思っていたのよ」とジュリーが打ち明けると、サキは即座に「OK」といい、自分の連絡先を教えてくれた。タイで初めての女友達。ジュリーがバンコクにきて二日目の午後のことだった。
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