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らいむせいか

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第5話 縁切り

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  夏休みが終わり、学校恒例休み明けテストも無事終わった。誠は帰り道を歩きながら、テストの結果の用紙に目を通す。我ながら微妙な点数。2年全員中13位か…、2年春の時より下がった気がする。そう言えば、美絵は順位が少し上がって居た。ゴタゴタして居た夏休みだったと言うのに、乱れが無い。
家に着くと、母が仕事着のままだった。
「テストの結果、帰って来たんでしょう?」
誠は頷くと、母の前に机を挟んで座る。母が用紙を眺める。
「春より4位落としてるわね…。どうかした?」
「別に…、ただ夏休み勉強より遊びに専念してた結果」
「貴方を海に行かせるべきでは無かったわ」
母は溜息をついた。
「まぁいいけど。ごめんね、今から仕事だから」
誠は驚いた顔になる。今日は、午後からの仕事はないと言っていたのに。母はバックを持ち立ち上がった。
「今日は無いって言ってなかった?」
「そうなんだけど、さっき電話が来て休む子のヒッターやってくれないかと言われて。だから夕食は1人で食べててね。8時頃には帰って来るから」
それだけ告げると、母は車で家を出て言った。母は誠を養うため、2つの仕事を掛け持ちしている。彼が子供の頃は3つ掛け持ちして居た。だから1人で食事何て当たり前だった。小さい頃は近くに住んで居た、従姉妹の家にお世話になって居たがその人達はもう引っ越してしまった。それに誠はもう17歳だ。何だって1人で出来る。
台所に向かうと、チャイムの音が部屋に響いた。誰だろうと思い、玄関を開けると麗菜が立って居た。
「やっほー」
麗菜は笑顔で片手を挙げた。誠はため息が出た。何でよりによって、会いたくない奴が来るんだ。
麗菜は首を伸ばし、廊下をちらりと覗いた。
「ありゃ、やけに静かだね。もしかして1人?」
誠は頭を軽く掻いた。
「まぁ…そうだけど…」
麗菜の顔が何故か華やいだ。誠は変な気分になった。
「じゃあ、夜ご飯は?ほら今、夜の17時だし」
「いっ今から、作ろうかなーと」
麗菜が笑顔で、近づいて来た。誠は後退る。
「じゃあじゃあ、私が作るよ。料理出来るからさ」

美絵をもう何度抱いただろう…。里志は上半身裸の格好で、窓に身体を向けた。外は薄暗く、街はまばゆい光に包まれている。
美絵はベッドで寝返りをした。気持ち良さそうな寝息が聞こえる。里志は優しい眼差しで、美絵の方に足を運ぶ。髪の毛をそっと撫でると、頬に軽くキスを落とした。起きないのを確認すると、脱ぎ捨てた服を着直す。里志は机に置き手紙を残して、美絵の部屋から静かに出た。
その10分後、美絵の目が開いた。まだ眠くて、体が動かない。辺りを見渡したが、里志の姿が無かった。美絵はまたうとうとと目を閉じ、眠りについた。

部屋中に水の音が響き渡る。麗菜は食べ終わったお皿を洗っていた。
「しかし、知らなかったよ。料理上手いんだな。ありがとう」
誠は椅子に座って、食器を洗っている彼女に目線を向けた。洗い物は誠がやると言ったのだが、率先して麗菜がやり始めた。
「えへへ、どういたしまして」
麗菜は嬉しそうに、頬を赤らめ手を動かす。見かけによらずしっかりしてると、誠は思った。
メニューはバターライスのオムライス、ハンバーグ、サラダだった。どれも番人受けする様な、味付けで美味いと納得できる。
「女の嗜みの1つだからね。…美絵とは大違いでしょ」
ぼそりと言った一言に、誠はつい笑みがこぼれた。何かを思い出す様な眼差し。麗菜はそれを見て、暗い表情になった。
「まぁそうだな。美絵のは、食べれる物じゃない。でも、一生懸命なのは伝わる」
いつしか家庭科で、美絵の料理姿を見たことあるが酷かった。形は歪で、味もアベコベ。食べる人はもう罰ゲームレベルだ。あれさえなければ、全て完璧なのに…。
ふと、誠は真剣な顔つきになった。
「堂は何で、俺の事好きになったの」
麗菜の手の動きが、ゆっくりになった。
好きな人の前でそんなこと言うなんて、恥ずかしくなってしまう。
「そんなのみんなと同じだよ。優しくて、カッコいいし。ちょっとわがままで、頑固な癖に…実は寂しがり屋なとこかな」
「おいおい、寂しがり屋は余計だ。そんなんじゃない」
洗い物が終わり、麗菜はタオルで手を拭く。
「えっそうなの?お祭りの時、誠君寂しそうだったから…」
誠はついドキりとした。麗菜は少しの表情も逃さない、ちょっと怖い存在に見えた。
「さて、済んだことだし。帰るね」
麗菜は伸びをし、荷物を持つと玄関まで歩いた。誠も慌てて付いて行く。
麗菜が靴を履き、ドアに手を掛ける。
「じゃあ、お邪魔しました」
「ちょっと待てよ」
ドアを開けて出様とした彼女を引き留める。麗菜は弾かれた様に、足が止まった。
「本当は何しに来たんだ?」
「まぁ良いじゃない。今回は秘密って事で」
麗菜は笑顔で答えると、帰っていってしまった。

次の日の朝、午前5時。美絵は目を覚ました。9月という事もあり、少し外は薄暗かった。どうやらあれからずーと寝っぱなしだったみたいだ。服が私服のまま。お風呂でも入ろうと立ち上がると、机の上に置いてあるメモに気づいた。
手に取り読み上げる。『泊まりの仕事で、帰りが分からないが心配しないでくれ。by里志』綺麗な字でそう書いてあった。そうなら直接言ってくれれば良いのにと、美絵は思いそのメモを机に置いた。制服と下着を持ち、下に降りる。
足音に気付き、台所にいた智瑛梨が顔を出した。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
美絵は立ち止まり、首を傾げた。智瑛梨は心配そうな顔で問いかけた。
「だって、長い間降りて来なかったから…」
「ごめん、大丈夫だ。お風呂入るな」

皆が揃って朝ご飯。母が席に着き、考え込む様な仕草をした。
「あら、里志さん居ないわね」
「何言ってるんだ、前に聞いただろう。泊まりの仕事になったと」
隣に座って居た父が苦笑いをし、母の肩を軽く叩いた。母も笑顔で笑った。
前から両親は知って居た。なのに自分には当日になって、しかも置き手紙で知らされた。これまで伝えられる時間なんて、数え切れない程あったのに。何で何だろう…、美絵は全く分からなかった。

学校と部活帰り、美絵と智瑛梨は肩を並べ帰り道を歩いた。
家の玄関を開けたと同時に、何かが弾ける音が響いた。美絵はとっさに鳴り響いた方に目をやる。鳥たちが驚き、宙を舞っている。美絵は素早く靴を脱ぐと、いけないと思いつつ廊下を走った。
「あっ待ってよ、お姉ちゃん!」
その音を聞いた妹も、後から必死に付いて行った。
やがて1つの襖にたどり着き、美絵は無礼を承知で開けた。
「お爺様!」
開けたと同時に叫ぶ。後ろで智瑛梨が息を切らし、前を見て絶句した。智瑛梨は口元を押さえ、体が震えた。
「きゃぁぁぁっ!」
そこには何故かここに訪れる事が無い、律地清高が立って居た。手には拳銃、穴からは煙か出て居た。
銃口の狙いは、日本刀を構えた叔父。2人とも真剣な目付きだった。
「流石じゃの。だが、わしには敵わぬぞ」
叔父が刀を構え直す。律地も銃を構え直した。
「至近距離の貴方に、私が負けるとでも?歳も考えた方が宜しいのでは?」
美絵が道場に足を踏み入れた。叔父がそれに気付き、声を張り上げる。
「美絵、下がって居なさい!此奴は、本気でわしを生かすまいとしておる!銃の心得がない美絵には無理じゃ!」
その声に美絵は動くのをやめた。でも、律地の行動が理解出来なかった。彼は真中家の忠実な執事、このような真似は…。
「しかし…。では何故、貴方がお爺様を…」
銃口を向けたまま、律地はその答えを述べた。
「私は、今でも忠実な執事ですよ。真中家の」
「わしを阻止しようと、真中家は美絵を利用したんじゃ。鈴風家の事を根に持っとるのじゃろ。あの事はもう10年以上経っておる。その様な事はもうわしとて和解しておったつもりじゃったのに」
とても残念そうな顔で、叔父は喋った。
聞いたことがある、15年前叔父はある大会で謝って敵の顔に傷を負わせてしまった事を。その人が真中家の当主、真中甚平。でもその方はもうこの世には居ない、病で5年前死んでいる。
「ああ、確かに。謝りに何度も来て居たと、旦那様は語っておられました。でも描いてあったんです、甚平様の遺書に『許すまい』と…。ずっと我々には、言ってはおりませんでしたがね」
律地はため息をつき、銃を構えるのをやめた。叔父も刀を下ろす。
「それでは、里志さんは…」
「元々、私がやるのではなく里志様がやる予定だったんですよ。この役を。でももうここには来ないでしょう」
美絵に体を向け、淡々と語る。美絵は恐ろしくなり、体が震えた。目に涙が溜まり出した。
「今頃、里志様は京都の実家にいる事でしょうね。次期当主がその様では…」
律地が言いかけて、美絵を見た。美絵は口を押さえ、2、3歩後ずさると踵を返した。走って2階に駆け上がっていく。美絵は勢い良く、里志の部屋を開けた。しかしそこは、まるで人がいなかったかの様に真っさらだった。里志の荷物が1つもない。元の空き部屋のまま。美絵は入り口で、崩れる様に座り込んだ。涙が頬を伝い流れ落ちる。里志の事が、頭の中で走馬灯の様に蘇る。
「こんなの…嫌。居なくなっちゃ…」
下を向き、押さえきれない嗚咽が口から漏れた。
「お姉ちゃん…」
いつの間にか後ろに居た智瑛梨が、美絵の後ろ姿を哀れんだ目で眺める。
美絵はやっと今、分かったのだ。里志が本気で好きなんだと。それは遅すぎた恋の覚醒だった。

美絵はあれから1週間学校を休んだ。滅多に休まない彼女が、長期間休むなどあり得ない事だ。誠は心配で仕方なかった。誠は放課後、先生に呼ばれた。茶封筒を渡される。
「これ、大事なお便りが入っているから。鈴風さんに渡してくれる?」
頷くと受け取った。先生は心配した顔で、誠に問いかけた。
「彼女が1週間休むなんて珍しいから…。何か聞いて居ない?家隣同士でしょ?」
「いえ、何も…」
誠は一礼をし、職員室を後にした。
帰り道誠は1人で歩いていると、目の前に美絵の妹智瑛梨が見えた。小走りで近づく。
「智瑛梨ちゃん」
肩を叩き、隣に並ぶと智瑛梨は少し驚いた様子で振り向いた。
「まっ、誠君」
誠は智瑛梨に茶封筒を渡した。
「美絵に渡して。休んで居た間のプリント」
「うん、わざわざありがとう」
智瑛梨の苦笑いに、誠は不思議に思った。でも気のせいだと思い、智瑛梨に手を振り先を歩いた。
「まって、誠君」
後ろから、彼女が声をかけ誠は足を止めた。智瑛梨は茶封筒を握り締め、縋り付くような目で彼を見る。
「お姉ちゃんに会ってあげて。中々、元気になってくれないの…お姉ちゃん…。誠君が来てくれたら、変わるかなって」
「病気なの?」
誠が近づき問いかける。智瑛梨は首を振った。
「違う…けど、私が言っちゃいけないような気がするから」
智瑛梨の肩が微かに震えてた。誠は優しく微笑む。
「分かった」
玄関に上がり、智瑛梨の後ろを誠が付いて行く。2階に登ると、1つのドアをノックした。
「お姉ちゃん、誠君連れて来た」
彼女の言葉に、美絵の慌てる姿が目に入った。誠が部屋に入ると、パーカーのフードを被った美絵が居た。まるで顔を隠したい様に、深めに被っている。
智瑛梨はドアを閉め、下に降りていった。2人っきりになった。
「智瑛梨ちゃんから、美絵が病気じゃないって聞いたけど。何かあったの?」
こっちを向かない美絵を不思議に思いながらも、誠は問いかけた。
「別に、お前には関係ない事だ」
顔を伏せ、小さな声で答える。やはりいつもの美絵より、弱々しい感じがした。誠は言葉にムッとした。
「関係なくねーよ!何年幼馴染やってると思ってんだ!隠すなよ」
誠は美絵に近づき、肩を掴んだ。何としても、顔を見たかった。美絵は嫌がり振り払おうと、体を捻る。その瞬間、チラリとだが顔が見えた。誠はその時を逃さなかった。誠は思わず肩から手を離した。
「何で…目が腫れてるんだ…」
呆然とした。美絵の瞳は少し赤く、目の下が腫れて居た。美絵はまた顔を隠した。
「酷い顔だろ…。笑いたければ、笑えばいいさ…」
気力が無い声。誠は唾を飲み込んだ。こんな彼女を今まで見た事がない。
大会で負けたのか?いや、夏の大会は美絵は全勝したし…。他に思い当たる節は…。考え込むと、ふと頭に里志の顔がよぎった。
そう言えば最近、里志を見かけなくなったし車も止まって居ない。
「まさか、里志の事か?」
誠の言葉に、美絵はビクリと反応した。重たい空気が流れる。聞いてはいけなかったと思ったが、気になる。
「あいつに何かされたのか?」
「だから、お前には関係ない…」
誠は握り拳を作った。だが、喧嘩腰にならない様に感情を抑えた。
「話を逸らすなよ。好きな人が、辛がってると俺も辛いし…」
「だから、言えないんだ…」
誠が顔を上げる。先程の声より、強くなっている様に聞こえた。
「お前を傷つける事になる」
誠は躊躇ったが、美絵の前に座り自分の胸に手を当てた。知りたい、美絵の事を…その想いの方が怖いより上回った。
「いいよ、別に。分かってやりたいんだ、美絵の事。話して」
間が空いた。沈黙が、誠に緊張感を醸し出した。やがて美絵は、重たい口をゆっくりと開いた。
「里志さんは、私を利用したんだ」
誠の顔が歪んだ。利用した?何でだ。
「昔から鈴風家と真中家はライバルとして、折り合いが悪かった。しかしお爺様の人柄で仲も良かったらしい。悪友みたいな感じだ」
美絵は淡々と語る。誠は真剣に耳を傾けた。
「だが15年前の大会で、お爺様は誤って真中家の叔父に傷を負わせてしまった。大事には至らなかったみたいだが、傷が残ってしまって。お爺様は何度も謝りに足を運んだらしい」
随分昔の話まで遡っている。美絵の顔が揺れた。
「お爺様の中では解決してただけだった。里志さんは偽りの婚約者として、家に入り…お爺様を……」
言葉が途絶える。美絵は目を伏せた。誠は申し訳ない気持ちで、いっぱいになった。
「亡き者に…しようと…、したんだ…っ」
美絵の体が震え、枯れたはずの涙がまた出た。誠は美絵を優しく抱き寄せた。
「馬鹿だな、私は…。5ヶ月もの間、何も気づかないで。それなのに、私は…里志さんの事…忘れられない」
誠の抱き締める力が、微かに強まった。
「あんな酷い事しようとしたのに、私…里志さんの事…好きになってた」

京都にある由緒正しき、真中家。剣道では名が知らない人は居ないほど、強い家柄だ。ここの当主、真中明彦は頭を悩ませて居た。目の前にいる息子、里志の事だ。
「お父さん、俺は真中家の縁を切りたいと思って居ます」
真剣な眼差しで、迷いなく里志は言った。
「まさかとは思ったが、お前があの鈴風家の長女にうつつを抜かすとはな」
明彦は煙草に火を付け、軽く蒸す。
「あの事を実行させる様仕向けた、うちに居たくないから縁切りしたいのか?」
里志は強く頷いた。明彦は溜息をついた。剣の腕は確かで、頭も良い里志を手放したくなかった。
「綺麗だと評判はいいが、相手はまだ子供だ。惚れるお前も、馬鹿だな」
「馬鹿でも結構です。でもお父さんも、どうかと思いますが」
明彦が里志に目を向けると、里志の瞳が鋭く光った。
「律地をこの家の跡取りにすると、そんな事抜かしたのですか?」
「お前が出来なかったらの保険だ。それがどうした」
里志は明彦に掴みかかった。立膝になり、机を叩く。
「無関係な人を入れ、その上真中家を汚す様な事を行なったとなれば尚更!」
明彦の唇がニヤリと動いた。里志に詰め寄る。
「何を今更、もう充分汚れとる。深い闇の中だが、お前とて落とせない程薄汚い事をして来ただろう。その汚れが1つ2つ出ようと、また闇になる。お前はここから出ても、綺麗にはなれないんだよ」
里志の顔が固まった。深く思い出したくもない、エグい過去が頭を掻き乱す。
「それでもここを出たいなら、好きにするが良い。抱えられないなら今からでも遅くない、あの男を始末してこい」
里志は逃げる様に、居間から出た。庭に出ると、頭を掻き毟り煙草に火を付ける。忌々しい過去を頭からかき消す様に、煙を吐いた。
自分は綺麗で汚れがない、美絵を愛してはいけないんだ。
15の頃、父の言う事が全てだった。あの人について行けば、剣道の優勝も簡単に手に入って楽しかった。しかし自分の存在を知れば、下から登ってくるやつがいる。厄介な奴は、父の指示で殺して居た。初めは逃げたくなったが、重ねる毎に平気になって居た自分がいた。勝つためなら、真中家は何でもしていた。父は警察と裏で繋がっており、その殺人全ては闇に流された。
こんな事していた自分が忌々しい。顔は綺麗と何度も褒められようと、心や手はもう洗っても流せないほど、小汚い。こんな俺を知ったら、美絵は絶対軽蔑する。ここから逃げても、行くところなんて無いんだ…。

誠は美絵から身を離した。美絵の顔が驚く。誠は怒りに燃えた瞳を露わにし、立ち上がりドアに手を掛けた。
「まっ誠…お前…」
美絵が動けないでいると、誠は振り向かず言い放った。
「彼奴の事、俺が打ちのめして来る!絶対に、許すもんか!」
「お前が敵う相手じゃ無い。そんな事私が許さない」
誠が勢い良く振り向く。美絵の目が誠を睨んだ。誠は悔しそうに、歯を食いしばった。
「何で、庇ったりするんだ!酷い事しようとしたんだぞ!」
握り拳を作り、美絵に刃向かう。美絵の瞳が一瞬揺れた。誠の強気が弱まる。庇う気持ちが分かるからだ。美絵はそこまで、里志を思っている。
「好きだからか…?」
美絵は誠の躊躇いの顔を見て、下を向いた。小さく頷く、彼女を眺め心に歯痒さを感じさせた。泣きたくなったが、誠は必死に我慢する。
ここで泣いたら、負けだ。彼奴はまた必ず美絵の前に来る。11年間馬鹿みたいに、我武者羅に美絵を追った自分を無駄にしたく無い。まだ里志の心を聞いていないんだ、決着はついてない。
誠はドアを開けた。ここに居るのは今辛い。
「ごめん…」
美絵の重たい口が開いた。その言葉を耳にした瞬間、誠の目に弾かれた様に涙が溜まり出した。泣いたら負けだと何度も言い聞かせたのに、実際聞くとこんなにも脆い自分がいる。
誠は歪んだ顔を隠し、足早に美絵の家を後にした。誠は自分の部屋に入ると、近くにあったクッションを思いっきり投げた。壁に当たり、形を変え床に落ちる。
「何でだよ、くそっ!」
誰にも当てられない怒りを押し殺し、その場に座り込んだ。美絵は本気で里志を好きでいる。そうでなきゃ、あんな酷い事をしようとした人を庇うなんてしない。
敵わない、何度も里志を見て思った。里志は悔しい程何でも上だ。誠なんか敵では無い、そう言うかの様な素振りばかり。勝ち誇っていた。その態度に焦って、空回りして周りを見てなかった。だから、麗菜にそこを突かれた。揺れた心に、うまく入られた。だから、麗菜にも少なからず反応してしまう。弱いやつが潜んで居た。
全ては里志が来たから、歯車が可笑しくなったんだ。

次の日土曜の朝、5時に美絵は起きた。布団から出ると、私服に着替える。京都に行きたいと強く思った。荷物を整理し、下に降りる。台所を覗くと、母と智瑛梨がいた。
「お母さん」
美絵が後ろから声を掛けると、母は笑顔で振り向いた。智瑛梨もこちらを見る。
「あら美絵。もう大丈夫なの?それにしても、休みなのに早いわね」
「私、今日…」
母の言葉に頷き口を開いた瞬間、玄関の引き戸が開く音がした。3人同時に音がした方に目をやる。
「迎えに来ました。鈴風美絵様」
そこには濃い青のスーツに身を包んだ、律地が立っていた。美絵が守る様に、母と智瑛梨の前に立つ。
「お連れしますよ、京都に」

「宮島君、タイム更新したね」
土曜の部活日、ストップウオッチを見ながらかかやが笑顔で言った。
「そうかな」
息を吐きながら答える。かかやは嬉しそうに頷く。
「これなら、秋の大会も上位に立てるよ」
「良いよな、誠は。何でも直ぐ板に付けて。俺なんて、すげー苦手なハードルだぜ。やってらんねーよ」
湖太郎がかかやの横に立つ。かかやは湖太郎を横目で見つめ、頬を赤らめた。
「末道君、ハードルのタイム伸びて無いね…」
かかやは手元にあるタイム表を見た。苦手という事もあり、伸び縮みが余りない。
「だからさー、星野さん誠と取っ替えてよ」
「だ、駄目だよ。得意なものばっかやってちゃ…。やれるものの幅を広げた方が良いし」
助けを求める様な仕草をされたが、躊躇いながらもかかやは言う。誠が湖太郎の肩に触れた。
「それだけ期待されてんだよ。頑張れ」
3人は軽く笑い合った。

母と智瑛梨と美絵は、突然現れた律地に目を奪われた。智瑛梨は母の後ろに身を隠す。
「どう言うことですか?」
最初に口を開いたのは、2人を守る様にたっていた美絵だ。
「行きたいのでしょう。京都に、でしたら今からお連れしますよと申したのです」
奥で身を縮める智瑛梨を見て律地が、小さく息を吐き和かに言った。
「何もしませんよ、約束します。ですから安心して、来て下さい」
「それって、美絵だけ…?」
母が呟く。律地の瞳が、怪しく光った様に見えた。
「ええ、旦那様は美絵様なら良いとおっしゃっていました。申し訳有りませんが、他の方はお連れ出来ません」
美絵は唾を飲み込んだ。確かに、京都には行きたいと思っていた。里志と話がしたい。
美絵の足が、律地の方へ歩みでた。
「分かりました。律地さんお願いします」
「お、お姉ちゃん!」
美絵が進んで行く姿を見て、隠れていた智瑛梨が心配した顔で声を上げた。そんな妹に美絵は優しく微笑んだ。
「大丈夫、明日には帰ってくるから」
美絵はそれだけ言うと、律地の後に続き外に出た。
助手席を開けてくれたので、座る。律地が運転手に着くと、エンジン音が響車が走り出した。
「躊躇いも無しに、助手席に座りましたね」
ハンドルを握りながら、話しかけてくる。美絵は少し身構えた。
「男の人との交わりが少ない方ですよね。貴方は警戒心が薄いんだか、強いんだか分からないです」
「助手席を開けてくれたので、あの…」
後悔が入り混じった顔で、美絵は答える。そうだこの人は、お爺様を亡き者にしようとした人だった。
「まぁ、良いですけどね」
いつも礼儀正しい律地とは、態度がえらい違い。美絵は少し怖かった。
「あの、何故連れてってくれるのですか?」
気を取り直し、美絵は聞いた。車は高速道路に入った。速度が90以上上がる。
「私は貴方には、絶望して欲しいんですよ。里志様に」
美絵は驚き律地を見つめた。顔色を変えず、前を見て運転をしている。
「どういう意味です?」
美絵は律地を睨み付けた。律地は澄ました顔を崩さない。
やがて1つの一軒家にたどり着く。門の前で車が停まった。律地はシートベルトを外すと、美絵に近づいた。美絵も急いでシートベルトを外す。身構えようとしたが遅かった。
「やだな、怖がらないでよ。別にどうこうとかしないよ。俺は、里志をリスペクトしているだけさ」
「リスペクト…」
美絵は体に、少し緊張感が宿った。それだけ言うと、律地は体を離しドアを開け外に出た。
「さぁ、降りて下さい。美絵様、ここが真中家ですよ」

午前の部活が終わり、校庭を歩いていると袴姿の麗菜を見つけた。
「あれー、誠くんも部活だったの?」
渡り廊下から身を乗り出し、麗菜が声をかけて来る。
「ああ、堂もか?」
「うん。あっ帰るなら待って。私も今終わったから、着替え終わるまでちょっと待っててよ。一緒に帰ろ」
走って更衣室まで向かう麗菜を誠は、苦笑いしながら見送った。
誠はふと、美絵の姿がないことに気づいた。いつも麗菜と一緒に更衣室に向かうのに…。まだ立ち直れてなくて、部活も休んでいるのだろうか。
誠はベンチに座り、空を見つめた。
「あっさり、振られたな…」
涙ながら美絵の口から出た「里志が好き」と言う言葉。まだあの状況が頭に焼き付いて、離れない。これから美絵は、どうするのだろう。
俺はもうやめた方が良いのだろうか。いっそすっぱり、諦められたら良いのに。そして、美絵とは違う他の人と関係をもつとか。そうならなければ、ならないのかな。
「誠くん?どうかしたの?」
麗菜の声に誠は反応してなかった。誠はまだぼうっと考えて居た。
いっその事、1番手が届きやすい堂とか…。でも好きとか嫌いとかそう言う感情なしで、堂と付き合ったら彼女は悲しむだろうか。第一そんな事で、自分の気持ちも区切りがつくのか?
「んもーっ!誠くんってばー!」
勢い良く前後に揺らされ、誠はやっと正気に戻った。目の前にはムスッと怒った、麗菜の顔があった。
「えっあ、ごめん堂」
「なんなのよ、呼んでも全然反応しないし。何考えてたのよ!」
つっかえながら誠が答えると、麗菜は腰に手を当て誠に背を向けた。
「帰ろ」
誠は麗菜に促され、帰ることにした。途中麗菜と別れ、1人家を目指す。家の門に手をかけると、鈴風家から智瑛梨が出てきた。
「大丈夫だって、お姉ちゃん強いんだし。京都ってここからそんなに遠くないし」
「そうだけど…、あら?」
美絵の母親が誠に気づいた。智瑛梨が焦った顔をする。
「誠君じゃない。部活帰り?」
笑顔で声をかけられ、誠は少し顔を赤くした。
「はい、まぁ。ってところで智瑛梨ちゃん、美絵は京都にいるの?」
軽く会釈をすると、直ぐに誠は智瑛梨に話を振った。
「ふえっ」
振られるとは思って居なかったのか、智瑛梨は後退りして驚いた顔になる。
「じゃあ、私は部屋の片付けがあるから庭の掃除はお願いね。智瑛梨」
それだけ言うと、母はドアを閉めた。その場には智瑛梨と誠だけになる。
「で?どうなの、本当に京都行ったのか?」
誠が迫ると、智瑛梨は困った顔して後退さる。
「あ、えーと…行ったと言うか…。連れてかれたと言うか…。でも、お姉ちゃんの意思もあるし」
ごにょごにょと独り言を語った後、観念したかの様に智瑛梨は頷いた。
「やっぱり。…よし」
誠は決意した様な顔付きになり、再び門に手をかけた。智瑛梨が急いで駆け寄って来た。門が閉まったので、智瑛梨は手を伸ばし誠のシャツを掴んだ。
「よしって何?まさか行くつもりなの、京都に」
誠は、当然と言いたげな顔で振り向いた。智瑛梨の顔に焦りが出た。
「当たり前じゃん、美絵をあんな危険な所に1人で置いとけない」
「そっそれは分かるけど…。駄目だよ、律地さんにお姉ちゃん以外来ちゃ駄目だって言われたし」
誠の顔が、真面目になった。
「律地さんって?」
「あっえっと、里志さんの執事さん。お祖父さんに前、銃を打っ放した人だよ。表情変わらないし、礼儀正しいし…でも何考えてるか全く読めない」
あの時の事を思い出したのか、智瑛梨は張り詰めた表情になる。声は今にも泣き出しそうだ。
「そんな人といるなら尚更、行かなきゃ…」
「誠君が行って敵うなら、今頃居なくなってるよ!お姉ちゃんは強いんだから大丈夫!」
言ってて、智瑛梨は急いで口を押さえた。誠はちょっと怒ったような顔付きになった。
「ごめん、馬鹿にしたつもりじゃなくて…」
言葉を探すように、智瑛梨はごにょごにょと小さい声で言う。
「分かってる。どんなに運動神経良くても、美絵には一度も敵わないんだから」
強く吐き捨て、誠はその場から離れ家に入った。智瑛梨はしばらく立ち止まったが、渋々自分の家の敷地に戻った。
誠は自分の部屋に入るなり、鞄を投げ捨てベッドに倒れ込んだ。1時間くらいだろうか、その格好から動かない。やがてもぞもぞとゆっくり動き出し、指が自然に唇に動く。微かに指先が唇を撫でた。触れるたび思い出す、美絵とのキス。
「諦めるなんて、無理だ…」
ぼそりと呟く。何度も辞めようかと思った。でも、好きの気持ちは1回なったら止められない。全く厄介だ。でも美絵は、誠を追わず里志を選んだ。もう、無理なんだろうか…。京都、行こうと思えば行ける距離。美絵はそこにいる、けど肝心な里志の家を知らない。でも、行動しなかったら負けだ。取られたくない。
誠は着替えると、出かける準備をし机にメモを残した。まだ帰って着て居ない母へ。外に出て走り出そうとした。
「待って」
声がして誠が振り向くと、下を向いた智瑛梨が歩いて来た。誠の前で立ち止まると、小さな紙を差し出す。
「お姉ちゃんが誠君がそういう目してたら、止めても無駄だって良く言ってたから」
誠は不思議そうな顔で智瑛梨を見つめる。智瑛梨が顔を上げた。
「行ったって、迷子になるくらいならならこれあげる。まぁ、それでも良いなら受け取らないで」
誠は智瑛梨の持っている紙を、恐る恐る受け取った。開くと、そこには住所が書いてあった。
「これって…」
「さっ里志さんちの住所。私が教えたって言わないでよ」
智瑛梨は照れた顔を隠し、下を向いて居た。誠は顔を緩め、そっと智瑛梨の頭を撫でた。誠は何も言わずメモをしまうと、駅に向かって行った。

美絵は律地の後ろを付いて行き、通されたのは1つの大広間だった。壁には竹刀が立て掛けてある。剣道の練習場なのだろうか。美絵がその部屋に入ると、律地は一礼をし姿を消した。美絵は仕方なく、その場に座る。目の前は綺麗な庭園。気持ちい風が入ってくる。緑色の葉っぱが色付き始めていて、秋を感じさせる。あまりの綺麗さに、見惚れてしまった。
ふと襖の後ろから足音が近づいて来ていることに気づき、美絵は立ち上がろうとした。と同時に襖が開いた。目の前に立った人と目が合い、時間が一瞬止まったような気がした。2人して動けなくなる。
やがて相手が唾を飲み込み、重たい口を開いた。目はまるで、恐ろしい物でも見ているかの様な瞳。
「美絵…どうして、ここに…」
里志だった。スーツ姿ではなく、ラフな私服姿。美絵は勢いよく立ち上がり、泣きそうになる自分を押さえた。
「会いに来たのです。私はっ」
言いかけて、言葉に詰まる。里志はそんな美絵を見て一瞬瞳が揺れた。が、里志は美絵に背を向け声を上げた。
「帰れ、ここはお前が来るところじゃない!」
美絵の体が凍り付いた。里志の冷たい態度と言葉。重たい空気が2人の間を擦り抜ける。
「失礼な態度を取るな。せっかく東京からわざわざ、足を運んでくれたのに」
開いていた襖の間から、里志の父親が顔を出した。2人の間に立ち、美絵をちらりと見た。美絵はその立ち振る舞いに、警戒心を更に強める。
「お父さん、何で入れたんだよ」
里志が睨む。父は里志の方に体を少し動いた。
「わたしが呼んだんだよ。律地に命令したのさ」
里志が驚く。父はまるで試すかの様な瞳で、里志を見つめた。
「おじいさんの事は、まぁ仕方ない。だったら下から来る奴をやっても同じ事。この女を殺せ、里志」
聞いた瞬間、美絵は息を飲んだ。里志の瞳が大きく開く。
出来る訳ない、でも父は自分を試している。挑発なんかに乗る様な、子供じゃ無い。でもそうでもしないと、美絵は俺を追って来るのか…?
「美絵、なぜ来た…」
里志は下を向き、問う。真実を口で聞きたいと思った。美絵は躊躇いがちに口を開く。
「忘れ、られないんです…。私も最初、こうなるなんて思ってなくて。居なくなって、分かったんです…。私、私…里志さんの事」
「好きだってか、笑わせるな」
美絵が続きを言おうとしたが、里志の高笑いに掻き消された。美絵が目を見開き、口が動かなくなる。
奇妙な笑い方、美絵は鼓動が速くなるのを感じた。
「手合わせしよう、美絵。勿論、日本刀でだ。文句無いだろ」
里志は挑発する様に、美絵を誘う。
どうせ一緒になれないなら、一層の事軽蔑するまで叩きつければいい。そうすれば吹っ切れて、また次に行ける。過去の事は自分で背負うなんて、今の自分はまだ無理…いや、当分無理だ。
父の口元が緩む。やはり此奴はここ以外では生きていけぬ。そう、自分が仕向けたのだから。
美絵は、歯ぎしりをし震える体を懸命に押し殺した。分かってくれない、やっぱり里志は自分を物としか見てなかった。
「分かりました」

湖太郎はロッカーに入って居た、1つのメモをずっと見つめて居た。メモに書いてあった、学校の中庭に着く。そう言えば、これには誰からとか書いてなかった。イタズラなのかとふと思った。
後ろから足音が聞こえ、振り向くとかかやが立って居た。目が合う。
「あっ星野さん。ここに用事?」
湖太郎は苦笑いしながら、頭を描く。かかやは彼が持っている紙を見て、顔を赤くした。
「それ…見て来たの?」
小さい声で聞いて来た。湖太郎は不思議に思った。何で書いてある事を、知っているのだろう。
「もしかして、これ星野さんが書いたの?」
かかやはもじもじしながら頷いた。
「私ね、始めて末道君を見てからずっと…。ずっと…好き、なの…」
かかやは赤面しながら、頑張って言葉を繋げる。
「だから、私と…つっ付き合って下さい…」
かかやは下を向き、わたわたしながら左手を出した。湖太郎は突然の事に、悩んだ。
確かに今、この人だっていう人はいない。美絵の事気になってはいたが、付き合うとまではいかない。美絵は高嶺の花だ。でもかかやを好きかと言われたら、まだその気持ちは無い。世話好きで優しく、ちゃんと人を見るいい子、そういう印象でしか無い。
「ごめん、考えさせてくれる?」
かかやは顔を上げ、少し驚いた様な表情になった。ふと、差し出していた左手をすぐ隠した。
「えっあ、そう…だよね。うん、ごめん。急がせるつもりは無かったの。わ、分かった」
かかやは慌てて言葉を述べたため、つっかえてしまう。湖太郎はそんな彼女を見て、苦笑いをした。かかやは手を振り、先に帰った。
まさか自分が女の子に、告白されるなんて夢にまで思わなかった。でも軽々しく考えてはいけない。相手を傷つける事になる。
湖太郎は、ゆっくりと歩き出し学校を後にした。

誠は1人新幹線に乗っていた。窓側の席に座り
、目線はずっと外を見つめていた。頭では里志への怒りが込み上げていた。里志の実家に行き、自分は何をすれば良いのだろう。美絵は素直にこっちに来るとは思えないし…。
誠はぼーと考えながら、電車に揺られた。

静まり返った道場。風の音だけが響いている。父は少し距離を置き、壁側に腰を下ろした。律地は立ったまま、2人を見つめる。
どちらが上か、力だと里志の方が上か。技術では若い美絵の方が上か。互角なのかもしれない。
里志の足が動いた。素早く刃が風邪を切りながら、振り下ろされる。美絵はギリギリで防いだ。
早い、経験の差なのだろうか。美絵は息を吸った。刀に力を貯め直す。美絵が里志の刃を振り返した。里志はまたもや即座に刀を片手に持ち替え、横に滑らす。美絵はとっさに体制を低くした。それを狙い、美絵は片足を伸ばし里志の足を引っ掛けた。しかし、里志は軽々と宙を舞いその場に着地する。
美絵は体制を立て直し、思った。隙がないと。
「賭けないか?」
父が、隣にいた律地に声をかける。律地は目だけ動かした。
「どちらが勝つか」
「構いませんよ、報酬は、どうしますか?」
「金ではお前も喜ばんだろう。私は、あの女に1つ入れるよ」
律地の口元が緩む。父は彼を見上げた。
「では、自分は里志様に賭けましょう」
「勝ったら、負けた人を好きにするというのはどうだ?」
「良いですね、面白い」
父は美絵が負けると思っているのだろう。律地も同じくそう思っていた。
ふと勢いよく襖が開く音がした。律地と父が振り返ると、そこには息を切らした誠が立って居た。と同時に目の前では、里志に突き飛ばされ宙を舞う美絵の姿が誠に映った。あまりの衝撃に動けなくなる。
美絵は何とか着地をし、里志の刃にやられた擦り傷の頬を腕で拭った。ダメだ、完全に里志の流れになっている。しかしこの状況で力を弱めないとなると、完全に本気なのだと改めて思い知らされる。
誠が震えを押さえ、何かを叫ぼうとしたが年老いた男の言葉によって止められた。
「ここで邪魔したら、お前も命は無い。誰だかは知らんが、黙ってみておれ」
誠はその人を目で見て、息を殺した。睨む目が里志とそっくりだ、今にも噛み付く蛇の様な殺気も感じる。父親だと直ぐに分かった。横にいた律地は小さくため息を吐いた。
「貴方は何しに来たんですか?まぁ、誰から聞いたかは検討はついてますけど」
「律地…清高…」
呆れた表情の男。誠は緊張を隠す事が出来なかった。自分より、遥かに強い人たちがウロウロしている真中家。ここでは自分は無能だ。そんな俺が美絵を止められるわけがない。ここにいる人達の目で分かる。
刃が当たる音と、裸足で床を滑る音だけが響く道場。明らか、美絵が不利だ。
押され、体制を崩した美絵に、里志の刃が喉に向けられた。息をするのも躊躇う位置。美絵は悔しそうに、顔を歪めた。
「もう、分かっただろう。帰れ」
冷たい目線と声。里志は刀を鞘に納め、背を向け歩き出した。美絵は動けず、鼓動と同じくらいの速さに息を口から吐いた。あの本気なら、自分は殺されていた。なのに留めを刺さなかった。それは、最後の里志の優しさなのかそうかは分からない。
父は道場を去る里志を見ると、ため息をつきゆっくり立ち上がる。その後を追った。律地も従う様について行った。
誰も居なくなった道場。あの本気だったら殺していた。なのにやらなかったのは、里志の優しさなのか。それさえ分からない。でも負けたのだ。誠が震える足を動かし、美絵の前に立った。美絵の手から日本刀が滑り落ちた。ふと床に映る影に気づき、顔を上げた。誠が美絵をまるで哀れむかの様な、瞳で見つめていた。その顔を見た瞬間、自分の惨めさを思い知らされた気がした。声を殺し、流したく無い涙が頬を伝った。只縋りたかった、誠のズボンの裾を掴んだ。震えを押さえるかのうな強さで。誠は今にも崩れそな、愛しき彼女を抱き締めた。
「まこっ…と…」
微かに動いた美絵から、自分の名を呼ぶ声がした。また護れなかった。誠は歯痒かった。誠は美絵を抱き締めながら、顔は怒りにかられていた。あいつを、里志を絶対許す訳にはいかない。
「美絵、もう良いから。俺があいつに言ってやる」
そう語りかけると、そっと美絵から離れた。誠は立ち上がると、道場の出入り口に向かう。美絵は、はっとしたが動けず言葉も発する事も出来なかった。道場に美絵1人を残し、誠は里志のいる所へ向かった。
誠は広い廊下を歩き続けた。一体どこに奴は、いるのだろう。辺りを見渡しながら歩く。近くで、煙草の煙を目にし足を速める。里志が中庭で、1人吸っていた。誠は立ち止まり、叫んだ。
「おい!」
里志はその声に、面倒くさそうに振り向き少し距離を縮めて来た。
「美絵を泣かすんじゃねーよ!お前だって、美絵を愛してるんだろ!」
その言葉に里志は、手で口を覆い笑い出した。誠は益々イライラして来た。
「何で、そうなる」
笑いを止め、里志は誠を見据えた。誠は一瞬たろうじた。
「じゃあ、何で殺さなかったんだ。あの時のお前の目は、殺気も混じってた。なのにとどめの所で、それは掠れた」
里志の目の色が変わる。細かい所を見てやがる。
誠は里志服を掴み、睨む。
「泣かせて良いのも、傷付けて良いのも俺だけだ!だけどな、お前は美絵にそんな事するな!美絵は、あんたの事好きなんだぞ」
「知っているさ。でも、俺を好きになったら美絵は地獄を見ることになる」
誠は呆然とし、服から手が離れた。里志は煙草を吸い煙を吐き、吸い殻を灰皿に入れた。里志は歩き出し、廊下に足を踏み入れた。誠の真横に立つ。
「お前が美絵を愛してやれ。俺は、その役目は出来ない」
誠の横を通り抜け、畳の部屋に向かっていく。誠は里志の背中を見つめる。
「何でっ!俺は、無理だ!美絵は俺なんか見てくれない!俺なんかっ」
誠は言っていて、辛くなった。そうだ、俺が何したって美絵は見てくれない。辛そうな顔ばかりする。なら一層、幼馴染のままでいれたらなんて思った。でも絶ちきれなくて、また悲しませるの繰り返しの自分に美絵を護れるのか?
里志は振り向かず歩き続け、姿が見えなくなった。誠は動けず、下を向き握り拳に力を強めた。
誠はゆっくりと横を向くと、美絵が心配そうな瞳で見つめていた。
「聴いてたか?」
小さな声で聞くと、美絵は首を振った。誠は一息つくと、美絵の手を引いた。
「帰ろうか…」
美絵を手を引いて歩こうとしたが、彼女が動かなかった。誠は足を止め、後ろを向く。
「あっ、あの私…律地さんに連れて来て貰ったから。えっと、電車賃とか…」
美絵は恥ずかしそうに、下を向き呟く。誠はふと考えたが、2人ぶんのお金が無いことに気づいた。新幹線で帰らないと、今日東京に着くには難しい時間となっていた。
「じゃあ…、ホテルに泊まる?」
語りかけた誠の顔が、微かに赤みを帯びていた。ツインに泊まるくらいのお金は有る。帰りは明日考えよう。
美絵は深く頷いた。

里志は1人、自分の部屋に閉じこもっていた。何であんな事したんだ。本当は、抱き締めたかった。自分が、少しの間離れただけで美絵は弱々しくなっていた。やっと彼女が自分の物になろうとしたのに、過去がそうさせてくれない。結局は父なしでは生きていけない、惨めな男。
ドアが開く音がした。ノック無しで律地が入って来た。
「全く、使えない男ですね。折角、主人に逆らい連れて来たと言うのに」
里志は、見下ろす律地を睨んだ。
「お前が仕組んだのか」
「ええ、何故殺さなかった?貴方もまた、主人に忠実な犬だったのに…」
里志は立ち上がり、律地の胸元を掴んだ。顔は怒りを露わにしている。しかし、律地はそんな里志をみても動じなかった。
「何人もの女を騙して来た、貴方が初めて恋して抱いた女はどうでしたか?さぞ、喜びに満ち溢れていたでしょう」
里志は歯ぎしりをした。小馬鹿にしたような言い方で、律地は語りかけてくる。ふと律地は里志の頬に手を当てて来た。
「怒った顔もまた綺麗ですね。流石、動く芸術品。貴方を支配した、あのガキが目障りだと思うのは当然の事」
律地の目が怪しく光り、里志は嫌な寒気を感じた。怒りの顔が、徐々に困惑した顔に変化した。
「お前、俺の事嫌いじゃ無いのか…」
掴んでいた胸元の力が、弱まった。その手を律地は逆に強く掴んだ。里志の体がゾクッとした。
「まさか、その逆ですよ。だから殺して欲しかったんです。血で汚れる貴方は、とても魅惑的ですからね」
空いている里志の手を引き、律地は腰のベルトに付けている銃を触らせた。里志は少し体がビクリとした。律地の顔が、里志の耳に近づく。
「何なら、私が殺して差し上げても良いですよ。貴方が望むのなら」

「露天風呂の方が気持ちよかったけど、そっちで良かったの?」
誠がバスローブ姿で部屋に入ると、美絵は1人同じ格好でベッドに座っていた。誠の顔が赤くなる。平常心で居られるかどうか、不安になって来た。今は紳士で居なければ…。
「ああ、今はちょっとな…」
美絵は沈んだ顔で、膝を抱える。誠は少し離れて座った。
「私は弱い人間だ…。ずっと強い者だと、思い込んで居たのかもしれない」
低い美絵の声。誠は静かに、耳を傾けた。
「大会では、当たり前に勝って。別に調子に乗ってなかった。でも何処かで、優越感に浸っていた」
唇を濡らしながら、言葉を繋げる。誠は美絵を見つめながら、心配した顔になる。
「でも、弱かったんだ。悔しいが…、剣道の実力では里志さんの方が上だった。ずっと、下級だと言ってきた真中家は居なくなっていた」
美絵は弾かれた様に、誠の方に体を傾けた。ベッドの上に置かれた美絵の手に、誠はそっと手を重ねた。美絵はその瞬間、顔が歪んだ。
「もっと、修行が必要なんだ。心も、体も…だから負けたんだ」
美絵は目を伏せた。誠は抱き締めたいと思ったが、やめた。誠はふっと、前を見据え見た。
「弱くなんかないよ。美絵は強いじゃないか。俺なんか、全然敵わない位。学校の皆んな言ってるよ。美絵は学校1強いって、憧れている人も多いんだから」
美絵の目が大きく見開いたが、直ぐにムスッとした顔になる。
「そんなんじゃ私、暴力女みたいじゃないか」
その言葉に、誠は笑った。つられて美絵も笑い出す。誠は目を細めた。
「久しぶりに見た。美絵の笑顔、やっぱそっちの方が好きだよ」
美絵が言われて、頬を染めた。誠が、真剣な眼差しで美絵を見る。
「直ぐに元気になれとか勿論、里志を忘れろなんて言わない。そんなの無理だし、時間だって必要だ」
美絵が、ゆっくりと誠の方に顔を向けた。2人の目が合う。
「でも、俺は美絵の男になりたい。里志を好きのままでも構わない。これからは、あいつの代わりに俺が美絵を護れる男になる」
誠はまるで自分に言い聞かせるかの様な、瞳で語った。美絵は躊躇った。
「それでは、誠が…」
辛い思いをするのは、誠だ。美絵はそう思えずには居られなかった。誠が優しく微笑む。
「そんで、強くなってまた美絵を取り返してやる。いつか、美絵の彼氏になれる様に努力してやる」
美絵はそれを聞いて、恥ずかしくなった。誠は強いんだと改めて思い知らされ、羨ましくも感じた。
「寝よっか、もう11時だし」
外はすっかり暗くなって居た。夢中で話して居たせいか、遅くなってしまった。誠が左側のベッドに、美絵が右側のベッドに同時に横になった。部屋の電気が消され、真っ暗になる。布団に潜ったが、誠は寝れなかった。直ぐ近くに好きな人がいると思うと、緊張して寝れない。ふと、後ろから気配が感じた。誠は動けず、鼓動が早くなるのを感じた。背後から、片方の手を軽く引っ張られて暖かい感触が腕に触れた。美絵が誠のベッドに入ってきたのだ。誠は振り向けなかった。心臓が飛び出すくらい高鳴る。勇気を振り絞って、顔だけ少し振り向く。
「美絵…?」
美絵は布団に顔を埋め、誠の腕を抱き締めた。誠の腕に、美絵の柔らかい胸の感触が伝わり誠は異常に喉が渇いた。
「今日は情けない所、見られた…。其れに迷惑もかけたし。これは詫びだ…」
美絵の恥ずかしがる、小さな声が聞こえた。誠はその可愛いしぐさに、我慢の糸が切れた。腕を素早く抜くと、美絵の上になる。丁度押し倒した様な、感じになった。
「そんな事したら、だっ抱くぞ」
誠は顔を赤くし、緊張していたせいかつっかえる。美絵は目を逸らし、顔を赤らめた。
美絵は抱かれるのは慣れてる、俺は初めて。変な感じだった。
反応がない美絵を待てず、誠は顔を近づけ唇を奪った。舌を入れると、ぎこちない動きで彼女の舌も入ってきた。それが合図だと思ったのか、誠はバスローブの隙間に手を入れ胸を掴んだ。美絵の体が反応した。
「ばっばかっ。いきなり…」
唇が離れると、美絵は声をあげた。誠は拗ねた顔をした。
「キスだって拒まなかったし。第一もう手遅れだ」
両手で胸を揉み上げ、バスローブがはだける。誠はブラを勢い良くたくし上げた。程よい大きさの胸が揺れ、可愛い乳首が露わになる。何度見ても綺麗だと思った。
美絵が直ぐ隠すと、誠がまたキスをした。それに感じたのか、腕の力が弱まる。誠はキスをしながら、手を退かし胸に触れた。2人はそのまま、快楽の中に身を寄せた。誠はまるで夢見心地の気分に酔い痴れた。

次の日の朝、カーテンから差し込む太陽の光に誘われるかの様に誠は目を開けた。もう朝の8時。のろのろと起き上がると、隣で気持ちい寝息を立ている美絵に目を向けた。照れた顔をし、誠は優しく美絵の頭を撫でると立ち上がった。
美絵も30分後に目が覚めた。正確には、誠のシャワー音に気づいて目が覚めた。ゆっくり立ち上がり、鏡の前に立つとバスローブ姿だったのに気づいた。何だか急に恥ずかしくなり、急いで着替え始める。
誠もシャワー室から出てきた。目が合ったが、お互いすぐに逸らす。
「かっ、体…大丈夫か?」
「う、うん」
誠の問い掛けに、美絵が頷き間が空く。
「帰ろう、そろそろ出ないと」
誠が荷物を持ち、ドアに手を掛けた。美絵が後ろから声をかける。
「帰るって、どうやって。第1お金がっ」
誠がドアを開けた時、外に顔見知りの人が立って居た。2人の動きが止まる。
「おっ、お父様」
そこには、笑顔で挨拶をする美絵の父が立って居た。美絵はドアまで、小走りで近づいた。誠の隣に立つ。
「どうしてここだと?」
「里志君の執事、律地さんが教えてくれたんだよ。ここに居るとね。美絵、あの男には警戒心をもっと強めた方が良い」
父は真剣な眼差しで、娘を見た。美絵は分からず、困惑した。
「荷物か体の何処かに、発信機がつけられて居たそうだ」
美絵は真っ青になり、急いでバックを漁るとシールみたいに貼り付いている発信機を見つけた。多分、律地が近づいてきた時に付けられたのだろう。迂闊だった、美絵は苦い顔をして発信機を潰す。
「美絵、もう真中家には今後一切近づくな。さぁ帰るぞ」
父は強く言い、後ろを向くと歩き出した。美絵は何かを言いたげなような顔をしたが、グッと堪え後に続きた。誠はそんな美絵を横目で見つつ、後を追う。
車に乗り込み、走り出す。2人は後ろに乗ったが、終始無言。
帰り途中、美絵は窓の外から目が離せなくなった。まるで齧り付く様に外を見つめる。帰り、里志の家の前を通過したのだ。家の二階に里志の姿が見え、美絵が乗った車を見ているのを見つけたのだ。目が合った瞬間、里志は窓から姿を消した。美絵は更に身を乗り出した。里志の家を見つめ続ける。誠は隣でそんな彼女を、悔しそうに見つめた。

10月、あの事があってから3週間がたったある日。美絵とはすっかり気まずい雰囲気になってしまった。
放課後、部活がない日みな教室に集まり作業を始める。文化祭の出し物を作っていた。誠も力仕事を任された。板を釘で打ったり、机を運んだりと結構な重労働。
女子は飾り付けなど、衣装を縫い始める。このクラスはメイド執事喫茶をやることになった。
「ねぇ、これちょっと胸がキツイんだけど治せる?」
隅のカーテンが付いた小部屋から、麗菜顔を出し声を出した。数名女子が近く。
「じゃあ調節するから、そこからて出来て。鈴風さんも着替え終わったでしょ?」
衣装担当の女の子が言うと、着替え室から2人が出て来た。見た瞬間男子が歓声をあげる。誠も息を飲んだ。彼女たちは、ミニスカートの黒色メイド服に身を包んでいた。
「確かにこれじゃキツイね。鈴風さんはどっか直しある?」
美絵は麗菜の背後に隠れた感じで立つ。恥ずかしそうに、スカートの裾を掴んでいた。
「着るのはいいが、スカートの裾をもう少し長く出来ないか?」
「いいじゃ無い、鈴風さん足綺麗なんだし。少しは出さないと、男性客来ないよ」
女子の1人が布を持ち立ち上がった。
「それに、女子の客は宮島君がぜーんぶ引っ張って来てくれるわ」
女子の目線が誠に集中し、誠は怯えた。
「まっまさかだとは思うけど、俺が執事やるの?」
「当然じゃ無い。宮島君以外務まらないよ」
誠は嫌な予感が的中して、脱落した。他の女の子に媚び売るような真似なんて苦手だ。遼太が誠の肩に手を置いた。
「まぁ女子ってそんなもんだ。せいぜい頑張れ、執事くん」
「勘弁してくれ…」

「ねぇねぇ文化祭、お姉ちゃんの所行っていいでしょ?」
鈴風家。智瑛梨は美絵に声をかけた。美絵が嫌そうな顔になる。
「見られたくないから来るな」
「えー!だってメイド執事喫茶なーんて言ったら、お姉ちゃんはメイドで誠君は執事決定でしょ?」
ぶーぶー言ってると、美絵は智瑛梨に指を向けた。
「そんな事より、自分のクラスの出し物に集中しろ」
それだけ言うと、美絵は足早に自分の部屋に姿を消した。智瑛梨はため息をつき、自分の部屋に戻った。
美絵は勉強机の椅子に座ると、携帯の画面をスクロールした。1つの写真をタップする。大きく映し出され、それに映る人を痛ましげに見つめた。里志の顔を指で撫でる。まだ忘れられない。画面を直ぐに消し、宿題に戻った。

誠は小腹が空いたので、近くのコンビニに足を運んだ。適当にお菓子やら、飲み物を買うと店を出て歩き出す。
公園の前を通りかかると、見慣れた女の子が立っていた。本を見ながら、動いている。
「智瑛梨ちゃん?」
その声に、少女は動きを止めた。照れた顔で、誠の方に顔を向ける。
「誠くん。今晩わ」
誠が公園に足を踏み入れると、ブランコに腰かけた。智瑛梨も遅れて、隣のブランコに座る。
「文化祭の練習?」
「そうなの。うちのクラスは演劇で…」
智瑛梨の膝の上にあった台本を、誠はちらりと見た。「眠れる森の美女」と書いてある。
「お姫様とか?」
誠の質問に、智瑛梨は慌てて否定した。
「そんな訳ないじゃん。私は妖精の役だよ、出番なんてほんの少し。部屋でさ練習しようと思ったんだけど、気が散るかなって思ってさ」
照れ笑いをし、語り出す。姉の部屋が近いからか、気にしているのだろう。誠が持っていたビニール袋を見ると、智瑛梨が近づいてきた。
「あっコンビニ寄ってきたの?あーあ、私もお金持って来れば良かった。何か食べたくなって来た」
その言葉に、誠は袋を漁ると紙袋を取り出した。中身は肉まんだ。誠が2つに割ると、片方を智瑛梨に差し出す。
「食べる?まだ冷めてないと思うけど」
智瑛梨は嬉しそうに受け取る。
「ありがとー」
2人で同時にかぶりつく。ふわふわの生地に、濃く味付けしてある豚ひき肉が美味しかった。まだ熱くて、白い湯気が立っている。
「そう言えば里志さんに、会ったの?」
ふと、空気が少し重くなったような感じがした。誠は真剣な眼差しで頷く。
「お姉ちゃん、その話はして来れなくて。聞き辛いんだ。帰って来たときは、足とか腕に青アザが見えて驚いたけど」
智瑛梨の目に涙が少量溜まり出した。そんな彼女を横目で、誠は見つめ肉まんをかじる。
「やり合ったんだなって、予想はついた。と同時に、お姉ちゃんは恋には貪欲なんだって思った」
誠はその時のことを思い出すように、天を仰いだ。自分もあの時は衝撃が大きくて、美絵を思うと辛くなる。
「まだ、多分ずーと無理なんだと思う。お姉ちゃんが里志さんを忘れるなんて」
「それでもいいさ」
誠がポツリと呟いた。智瑛梨が少し驚いた様な顔で、彼を見つめた。
「俺は只突っ走るだけだ。辛くたって、そんなのどうでもいい。俺は諦めたくない、それだけ」
「馬鹿だなー。でも、羨ましいや」
智瑛梨は苦笑いをして、星空を眺めた。 誠は立ち上がると、智瑛梨に手を振りその場を離れた。
いつか、本当に美絵が自分の事を見てくれるまで今まで通りやって行く。それが一番自分に、適しているのかもしれない。里志の様に大人ではないけど、自分なりに頑張って突き進む。それが俺なんだと、誠は思った。
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