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ハッピーエンド
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俺が住んでいる村は小さいが、行商人や冒険者などが休憩場所として立ち寄ることが多いのでそこそこ繁盛している。
俺は今な亡き義祖父母から小さな薬草畑と小さな山を受け継いで、育てた薬草や調合した薬、趣味でやりはじめた薬草茶を世話になっている店に卸して生計を立てている。
「おじさん。今月分持って来た」
袋詰めにした薬草や薬、数種類の薬草茶を入れた籠を背負って店に顔を出すと、カウンターに立っていた黒の外套を羽織った二人の男がこっちを振り返った。身なりからして明らかに上の人間だ。
なぜそんな人間が村の店に?
すると二人の間に立っていた三人目の男がゆっくりと俺のほうを振り向いた。
「………ッ!」
男の顔を見た瞬間、ドッと心臓が大きく跳ね上がった。
漆黒の髪に金色の目。
(なんでこいつがここにッ⁉)
金色の目が俺を捕らえる。その冷たい眼差しにヒュッと息が詰まった。
(落ち着け。そもそもあいつは俺の顔を知らない)
不審な行動さえしなければ大丈夫。万が一と考え、髪を薄茶色から黒に染めている。
(だから大丈夫…)
俺はそっと息を吐き出した。
「ル、ルカ。こ、こちらの方がお前に…」
「ここの薬草や薬は全部お前が作ったのか?」
カウンターにいる店主のおじさんの言葉を遮って男が……いや、ヴィルヘルムが聞いてきた。温度のない声音に背筋が凍る。
「…えっと、はい……」
この村で薬草を栽培しているのは俺だけだ。頷くとそいつは俺のほうに歩いてきて目の前で立ち止まった。俺を簡単に見下ろすことの出来る高身長と、屈強な体つきに圧を感じる。
「店主ご苦労だった。後は彼と話す」
ヴィルヘルムは振り返っておじさんに言った。
「あ、あの‼ 」
俺の肩を掴んで店を出ようとしたヴィルヘルムをおじさんが呼び止めた。
「彼は善良でとても優しい子なんです。決して悪さをするような子ではありません……」
おじさんの言葉に俺の良心が痛んだ。
「薬草について、いくつか聞くだけだ」
ヴィルヘルムはそう言い俺を連れて店を出た。肩を掴まれたまま後ろを振り返ると、おじさんが店から出て来て心配そうに俺のことを見ていた。
(おじさんごめん。おじさんにとって良い奴でも、こいつにとっては悪い奴なんだ)
殺してしまいたいほどに……。
「祖父母とは血の繋がりはないと店主から聞いた」
「……はい」
馬車の通れない細道を男三人を引き連れて俺は山の中にある家に向かった。家に案内しろと言われ、俺は言うことを聞くしかなかった。平民が上の人間の言葉を拒否する勇気なんてないのだ。
「店主の話では祖父母の家の前で倒れていたと」
「みたいです」
「前はどこにいた?」
「……その、よく、覚えていないんです……自分のことも」
もちろん嘘だ。
「そうか」
それ以上ヴィルヘルムは何も聞いてこなかったので、内心ほっとした。あれこれ聞かれてボロが出そうで怖かったからだ。
だが、一人ほっとする俺は気付かなかった。ヴィルヘルムが俺を見下ろして小さく笑っていたことを。
「……ここです」
森の中にひっそりと佇む小さな平屋。部下らしき……服の装飾からして……二人を外に残し、家に入ってきたヴィルヘルムは天井や壁にぶら下がっている乾燥した薬草、または乾燥中の薬草を注意深く見渡した。
「薬草や薬以外にも茶葉も卸しているらしいな」
ヴィルヘルムの言葉に肩が跳ね上がった。
「た、ただの薬草茶です。冬は色々と厳しいので少しでも生活の足しになればと……思いまして……」
「その知識はどこで得た?」
「ぎょ、行商人から見本になるものを買ったり、あとは自分で色々と試して……」
目が泳ぎそうになるのをなんとか耐えた。行商人から買ったのも嘘だ。
(この肉体の持ち主がもともと持っていた知識だ)
そのおかげで義祖父母からここを引き継ぐ時、苦労せずに済んだ。
「店主の話では評判がいいと聞いた。興味がある。試しに一つもらおうか」
そいつは四人掛けのテーブル席に着いてそう言った。
「ええと、興味があるのはとても嬉しいのですが、その、とても貴方様にお出しできるようなものではないんです。……そもそも薬草について聞きに……」
「聞こえなかったか?」
ワントーン下がった声。
「……ひゃい」
俺は急いで窯に火をくべて湯を沸かした。それから棚に置いてある薬草茶の入ったブリキ缶のうちの一つを手に取る。
(大丈夫だ!落ち着け!)
震える手を叱咤してお茶の準備をした。
「…………余り公にはできないことだが」
不意に背後でヴィルヘルムが口を開いた。
「昔、私はある女に囚われていた。その女は強欲で欲しいと思ったものは必ず手に入れないと気が済まない女だった」
なんの感情も篭らない声。俺は後ろを振り返ることができなかった。
「私は薬物とあの女が持つ幻覚魔法によって、あの女がすべてであり、あの女がいなければ生きていけない……そう洗脳されていた」
コツコツという音が聞こえる。恐らく指で机を叩いてるのだろう。
「だが運がいいことに私は完全にあの女に堕ちることはなく、奴から逃げ出すことができた。………暫くの間、薬物と幻覚による中毒症状に苦しめられた。あれは本当に地獄だった。何度気が狂いそうになったことか……」
机を叩く音が止まった。
「あの女に必ず復讐してやるという、その一心でそれらを克服した。……そしてあの女を、あの女を崇拝していた虫けらどもを殺した」
木製のコップにお茶を注いだ俺は深呼吸をしてから後ろを振り返った。
「あの、どうぞ……」
俺はコップをヴィルヘルムの前に置いた。ヴィルヘルムはカップを持ち上げお茶をじっと見下ろした。
「その、公にできない話をなぜ俺に……?」
そう問うが、そいつは何も答えずカップに口を付けた。握りしめている掌に汗が滲む。
(大丈夫。バレるはずがない)
だってこいつに出したお茶は……。
「………あの時と同じ味だ」
「はぁ⁉ 嘘つくな。一度も 飲んだことねぇ……………ッ!」
俺は咄嗟に口を押さえたがもう遅い。固まる俺を見上げてヴィルヘルムが口角を上げた。
「あの女と虫けらどもを殺したが、………残念なことに一人だけどうしても見つからなくてな」
ヴィルヘルムがゆっくりと席を立ち上がる。近づいてくるヴィルヘルムに俺は真っ青になって後退した。
「そいつは跡形もなく姿を消していた」
壁際に追いやられた俺はガタガタと震えた。目の前に迫った男の腰にある剣が目に入って恐怖が倍増する。
「唯一の手がかりは、そいつがいつも私に飲ませていたお茶の味だけだった」
…そう、だからこいつが知らないお茶を出したというのに……。
黒の手袋を嵌めた右手が俺の頬を撫で、そのまま首へと滑らした。
「俺は執念深い男だ。……残念だったな」
愉快だというばかりに顔を歪めるヴィルヘルムを見た瞬間、俺の頭の中でブツ…と何かが切れる音がした。
ヴィルヘルム・バウムガルド。
乙女ゲーム「茨の聖女」に出てくる男主人公の一人。
シュタインフェルト公爵の次男であり、生まれ持った美貌のせいで十三歳の時、悪女ベアトリクスに拉致監禁され薬物とベアトリクスがもつ幻覚魔法により、彼女に依存するようになった。
だが五年後、ヴィルヘルムは僅かな理性の中悪女の元から逃げ出しシュタインフェルト公爵家へと戻った。酷い薬物中毒と幻覚に苛まれながらも正気を取り戻したヴィルヘルムはベアトリクスに復讐し、悪女を崇拝していた信者たちを一人残らず全員殺した。
一見、正気を取り戻し平和な日常を送っていたヴィルヘルムだったが、時折襲いかかる虚無感と悪夢に苦しめられ、少しずつ心が蝕まれていった。
そんな彼の心を聖女となったヒロインが救うという話だ。
ちなみに俺は乙女ゲームにこれっぽっちも興味はない。ゲームをするならシューティングゲームか格ゲーかRPGが専門だ。じゃあ、なんで乙女ゲームを?と思うが答えは簡単だ。俺の二つ上の姉貴が大の乙女ゲームオタクなのだ。
この「茨の聖女」は姉が神絵師と呼ぶイラストレーターが担当したということで初回限定特典付きを購入してきた。……してきたのはいいがこのゲーム、ラノベとRPGが合体した様式になっていたのだ。残念なことに姉貴はRPGが壊滅的にヤバい。なぜ出来もしないゲームを買ったんだ。いや崇拝する神絵師のためか。
ここで察しただろう。そう俺に白羽の矢がたったのだ。立ってしまったのだ。最悪だった。姉貴に「やらなければお前のプラモ全部燃やす」と脅されて、泣く泣く姉貴の指示の元プレイした。姉貴が所々で発狂しててマジでうるさかったが、RPGはそこそこ楽しめた。
だが、このゲーム。バッドエンドがヤバい。男主人公たちによるヒロインの拉致、監禁、調教などなど。正直言ってドン引きした。パッケージのイラストからは想像が着かないほど内容が愛憎ドロドロ過ぎる。パッケージ詐欺だ。バッドエンドで「たまんねぇー!」って叫ぶ姉貴にもドン引きだわ。つーか、バッドエンドを見た時の俺の気まずさよ。一方姉貴は俺の存在なんてまったく気にしていない様子だった。姉の合金レベルの精神に脱帽だ。
隠しキャラルート含め全クリした時には俺の精神はボロボロだった。RPGだけやればいいだろと思うだろ? しかしこのゲーム選択関係なくいきなりRPGに突入するんだよ。その度に呼び出されてみろ。そっちのほうが疲れるだろうが。だったらさっさとクリアして解放されたほうがいい。
「ヴィルヘルムがまじでヤバい!マジ最高!」
大興奮する姉貴にどこがだよとマジで思った。ヒロインの心が手に入らないいからって殺すなよ。しかもヒロインの死体を抱きしめて「これでずっと一緒だって」って……。
なお、ハッピーエンドはヒロイン監禁。病み過ぎだろ。
「闇落ちヴィルヘルムのスチルはまじ神! 私の性癖にぶっ刺さったわー」
俺は姉貴の性癖なんて知りたくなかったわー。でもこれで俺はこの地獄から解放される!よっしゃー!と思ったのに……。
「なんでよりにもよって悪女の信者になってるんだよ!」
精神回復のためにお気に入りのゲームをやってそのまま寝落ち。目が覚めたらこの悪夢の世界にいた。しかも名前すら出てこないモブ。背景モブ。
夢かと思って思いっきり頬を叩いたら痛かった。憑依?したこいつの記憶といったら悪女へのバカみたいな信仰の日々と趣味の薬草茶作り。あのお方と同じ空間にいるだけで幸せ……ってお前バカかっ! 脳内お花畑くそ野郎がっ!
「はぁ…どうしよう」
今からでもここから逃げるか?……いや絶対無理だ。
(確かゲームでは逃げた信者を生きたまま魔獣のエサにしていたって……)
第一……。
「おいお前、こいつをいつもの所に持っていけ」
「は、はい!」
信者から冷めたスープとパン、それから水の入った銀のコップが載ったトレーを渡された。俺はげんなりしながらある一室へ向かった。
「は、はいります」
ノックするが返事はない。恐る恐る中に入ると、カーテンを閉めきった部屋は薄暗く、噎せかえるほどの甘ったるい匂いが充満していた。
ベッドに近づくと一人の少年……ヴィルヘルムが蹲っていた。悪夢を見ているのか、それとも薬の影響なのか眉間に皺を寄せ呻いていた。
「食事を持ってきた」
サイドテーブルにトレーを置いて声を掛けると、ヴィルヘルムの肩が大袈裟なほど跳ね上がり俺のほうを振り向いた。……が、金色の目が俺の姿を捕らえることはなかった。それはヴィルヘルムが目隠しをしているからだ。悪女ベアトリクスは自分以外の人間がヴィルヘルムの金色の目に映るのを許さなかった。
(俺にとっては寧ろ好都合だがな)
こいつに顔を覚えられるわけにはいかない。……声は今更どうしようもない。モブの記憶からヴィルヘルムと話していたし。
「食べろ」
ヴィルヘルムを起こしてスープの入った器とスプーンを持たせる。
「たべ…たく…ない」
「食べたくなくとも食べろ。あの方に捨てられたいのか?」
悪女がこいつを手放すなんて絶対ないが。そう言うとヴィルヘルムがビクッと肩を震わしカタカタと震えた。
「そ、それは…いやだ」
ヴィルヘルムの怯える姿に俺は良心が痛んだ。はぁと思わずため息が漏れる。
(…にしても、この部屋の匂いマジでキツイ)
胸やけが酷いし、頭痛もする。
「ご、ごめん…なさい」
唐突の謝罪に俺は「は?」とヴィルヘルムを見下ろした。
「俺がと、とろいから…ため息を…」
「いや、お前にじゃねぇよ。この部屋の……いや、なんでもねぇ。スープ熱いから気を付けろよ」
冷めたスープを俺の火魔法で温めたなおした。記憶の中でモブはいつもヴィルヘルムに渡す前にスープを温めていた。
(器持って魔法使えば温まるなんて便利だ)
ヴィルヘルムがスープを啜る傍ら、俺は時折パンをちぎってヴェルヘルムの口元にもっていった。これもモブがやっていた。モブはヴィルヘルムの身の回りの世話を嬉々としてやっていた。モブの奴、崇拝するお方からお願いされたと浮かれていた。マジでバカだ。
食事を終えて今度は銀のコップを渡す。一口飲んだヴィルヘルムが首を傾げた。
「きょ、今日は…水、なんだ……」
そこで俺は「あっ」と気付いた。そういやモブの奴、具合悪そうなヴィルヘルムを心配して少しでも気分が良くなればと自分が作った薬草茶を飲ませていたな。
「あー…今日は、忙しくて作るのを忘れてた。ごめん。今度は持ってくる」
どことなく落ち込んでいるヴィルヘルムの頭を優しく撫でた。
(………って! なにやってんだよ!)
俺は慌てて手を引っ込め、ヴィルヘルムに残りの水を飲ませたあとトレーを持って逃げるように部屋を出た。
「そこのあなた」
背後から呼び止められビクッとした。恐る恐る振り返ると、そこには目のやり場に困るほどの透けた寝巻きを着た金色のロングヘアーに真っ赤な口紅の女……悪女ベアトリクスが立っていた。
俺は反射的に頭を下げた。
ベアトリクス・アルファーノ。
アルファーノ公爵家の主であり、ヴィルヘルムを自分の領地にある教会とは名ばかりの監獄に閉じ込めた女。
(シュタインフェルト公爵はヴィルヘルムを誘拐したのはベアトリクスだと確信していたが、中央教会と裏で色々と手を組んでいる上、血筋は遠くても王族の血を持っている女に、抗議することは出来なかった)
そしてこのゲームのラスボス。
「あなたに変わってから、あの子前より肉つきがよくなったわ」
「…………」
「これからもあの子のことお願いね」
ベアトリクスはそれだけを言うと、俺が出てきた部屋に入っていった。廊下に一人残った俺は止めていた息を吐き出しその場を離れた。
食事を終え静かにお茶を飲むヴィルヘルムを俺は黙って見ていた。
ゲームの中のモブになって一年が経った。
(最初はこれは夢だ、早く覚めろと何度も願ったが何も変わらず……)
今ではここが現実なんだと諦めている。
「冷たくて、おいしい」
「今日は暑いからな」
蒸し暑かったから後味がすっきりする冷茶にした。どういうわけはモブはこの世界では珍しい二属性の魔法を持ち、火属性以外に水属性を持っている。まあ、温めたり冷やしたりする程度だけど。
モブの記憶上、それを誰かに言った様子がないので俺も黙っていることにした。
「終わったろ?」
空になったカップを取ろうとしたら、ヴィルヘルムにカップを強く握りしめられて取ることができなかった。
「おい」
「………君は、あの人の……なに?」
あの人? 悪女のことか? なんでそんなことを聞く?
(まさか嫉妬か?)
自分以外の人間が悪女のそばにいるのが許せないのか? 俺は心の中でため息をついた。
「あの方は俺にとって女神であり、すべてなんだ。……あの方の望みは俺の望みでもある」
信者たちがよく言っていた言葉を吐く。
(他の信者たちなら、お前ごときが簡単に触れていいお方じゃないと言うだろうな)
信者たちはベアトリクスの側にいるヴィルヘルムの存在が目障りだった。俺の前の世話係もヴィルヘルムに色々と嫌がらせをしていた。
(結局バレて魔獣のエサになったらしいけど)
バカだなと俺は肩を竦めた。
「そう………」
ヴィルヘルムはそのまま黙ってしまった。俺は心の中で息を吐き出した。
「俺は別にあの方とどうこうなりたいとはこれっぽっちも思っていない。ただお側でお仕えできればそれだけで十分幸せなんだ」
だから嫉妬心で俺を殺すなよ?
ヴィルヘルムは黙ったままだったが、今度はおとなしくカップから手を離してくれた。
「じゃあな」
俺はトレーを持って部屋を後にした。
(あいつがここから逃げ出すまでまであと残り一年…)
小さな使用人部屋で俺はベッドにねっころがり広げたノートを見上げていた。ノートには薬草茶の効能とともにその日の出来事が記されている。ノートの持ち主はモブだ。お陰であいつが逃げ出す年を予測することができた。
(確か悪女が不在の時に地下で飼っていた魔獣が脱走して、その時に逃げ出したっけ?)
ただゲームでは逃げ出す時季までは記されていなかった。……たぶん。
(その時がチャンスだ)
恐らくみんなは脱走した魔獣とヴィルヘルムのほうに集中するはず。その隙に逃げれば………。
本当に逃げることができるのか?
捕まって生きたまま魔物のエサになるのでは?
パンッ!
不意に浮かんだ不安を無理矢理払うようにノートを乱暴に閉じた。
(大丈夫。絶対大丈夫だ)
そう自分に言い聞かせた。
少しでも長く生きるために……。
深夜、館内の騒々しさに目が覚めた。
「魔獣が地下から脱走した!」
信者の叫び声とともに地を這うような声が外から聞こえた。
「おい! ガキが逃げた‼」
ドッと心臓が跳ね上がった。ついにこの時がきた。ベッドの下に隠していた鞄とマントを引っ張り出したあと、見張りがいなくなった裏口から出てヴィルヘルムを追う信者たちとは逆方向に走った。
「グォォォォォォッッ!!!」
背後から魔獣の叫び声と爆発音が聞こえる。
(見つかりませんように!見つかりませんように!)
俺は必死にそう願いながら鬱蒼と生い茂る森の中を走り続けた。
そこから俺はただひたすらに西に向かって逃げ続けた。サバイバルの経験なんてない俺は森の中で何度も死にかけた。食べられる野草や木の実で飢えを凌いだ。
街があれば、身元不明でも雇ってくれる日雇いの仕事……汚水掃除とか誰もやりたがらない仕事……を探しては金を手にいれた。それからまた西へ西へと向かった。西を選んだのはヴィルヘルムの家とは真逆の位置にあったから。ただそれだけ……。
山を越えた頃には精神的、肉体的に限界を超えていた。不意に見慣れた薬草畑が視界に入り、無意識にふらふらとそこに向かった。が、そこにたどり着く前に俺は意識を失いぶっ倒れた。
家の前で倒れている薄汚い俺を見て老夫婦はさぞかしびっくりしたことだろう。
子どもがいなかった老夫婦は俺を温かく迎え入れ本当の子どもの様にかわいがってくれた。
(じいちゃん、ばあちゃん、恩を仇で返してごめんなさい)
雲一つない真っ青な空を見上げながら、天国の義祖父母に謝った。
「ルカ」
背後から呼ばれ振り返ると、薬草畑の中にヴィルヘルムが立っていた。場違い過ぎて似合わない。
「何を考えていた?」
俺の傍にやってきたヴィルヘルムは俺の腰に手を回して自分のほうに引き寄せた。
「おい、服が汚れる」
ついさっきまで畑仕事をしていたから服が汚れてしまっている。俺はヴィルヘルムを押し退けようとしたが、自分の手も汚れていたためそれは叶わなかった。
「構わない。それより何を考えていた?」
ヴィルヘルムを見上げれば本当に気にしてないようだ。金色の目がジッと俺のことを探っている。
「ただ天気がいいなって思っていただけだ」
俺はため息をついて答えた。
「そうか。私はてっきり逃げ出す算段を考えているかと思ったよ」
「こいつをしているのに、どうやって逃げるってんだよ」
ハッと俺は鼻で笑った。そんな俺をヴィルヘルムは楽し気に見下ろしている。俺の首には黒地の革に金の刺繍が施された首輪が付いている。ご丁寧にGPS付きだ。
『ああ、お前によく似合ってる』
俺に首輪をつけた時ヴィルヘルムは、ヒロインに首輪をつけたときと同じ顔で笑った。
「忘れるな」
ヴィルヘルムがもう片方の手で俺の首に…いや、首輪に触れる。
「私は執念深い男なんだ。どこに逃げようとも私は必ずお前を見つけ出す。たとえそれが地の果てであろうとな」
≪忘れるな×××。私は執念深い男なんだ。どこに逃げようとも私は必ずあなたを見つけ出す。たとえそれが地の果てであろうとな≫
ゲーム画面のヴィルヘルムと重なる。
一体どこで……。
(一体どこで狂ってしまったんだろうか……)
ヴィルヘルムは俺を殺さなかった。
その代わりヴィルヘルムの領地……かつて悪女ベアトリクスのだった領地……にある閉鎖された教会に俺を閉じ込め、ヒロインに告げるはずの言葉を俺に吐き続けている。
俺はヴィルヘルム越しに空を見上げた。
《私は鉄格子が嵌められた窓から空を見上げた》
《雲一つない青い空が私を嘲笑ってるように見えた気がした……》
ハッピーエンド・完
俺は今な亡き義祖父母から小さな薬草畑と小さな山を受け継いで、育てた薬草や調合した薬、趣味でやりはじめた薬草茶を世話になっている店に卸して生計を立てている。
「おじさん。今月分持って来た」
袋詰めにした薬草や薬、数種類の薬草茶を入れた籠を背負って店に顔を出すと、カウンターに立っていた黒の外套を羽織った二人の男がこっちを振り返った。身なりからして明らかに上の人間だ。
なぜそんな人間が村の店に?
すると二人の間に立っていた三人目の男がゆっくりと俺のほうを振り向いた。
「………ッ!」
男の顔を見た瞬間、ドッと心臓が大きく跳ね上がった。
漆黒の髪に金色の目。
(なんでこいつがここにッ⁉)
金色の目が俺を捕らえる。その冷たい眼差しにヒュッと息が詰まった。
(落ち着け。そもそもあいつは俺の顔を知らない)
不審な行動さえしなければ大丈夫。万が一と考え、髪を薄茶色から黒に染めている。
(だから大丈夫…)
俺はそっと息を吐き出した。
「ル、ルカ。こ、こちらの方がお前に…」
「ここの薬草や薬は全部お前が作ったのか?」
カウンターにいる店主のおじさんの言葉を遮って男が……いや、ヴィルヘルムが聞いてきた。温度のない声音に背筋が凍る。
「…えっと、はい……」
この村で薬草を栽培しているのは俺だけだ。頷くとそいつは俺のほうに歩いてきて目の前で立ち止まった。俺を簡単に見下ろすことの出来る高身長と、屈強な体つきに圧を感じる。
「店主ご苦労だった。後は彼と話す」
ヴィルヘルムは振り返っておじさんに言った。
「あ、あの‼ 」
俺の肩を掴んで店を出ようとしたヴィルヘルムをおじさんが呼び止めた。
「彼は善良でとても優しい子なんです。決して悪さをするような子ではありません……」
おじさんの言葉に俺の良心が痛んだ。
「薬草について、いくつか聞くだけだ」
ヴィルヘルムはそう言い俺を連れて店を出た。肩を掴まれたまま後ろを振り返ると、おじさんが店から出て来て心配そうに俺のことを見ていた。
(おじさんごめん。おじさんにとって良い奴でも、こいつにとっては悪い奴なんだ)
殺してしまいたいほどに……。
「祖父母とは血の繋がりはないと店主から聞いた」
「……はい」
馬車の通れない細道を男三人を引き連れて俺は山の中にある家に向かった。家に案内しろと言われ、俺は言うことを聞くしかなかった。平民が上の人間の言葉を拒否する勇気なんてないのだ。
「店主の話では祖父母の家の前で倒れていたと」
「みたいです」
「前はどこにいた?」
「……その、よく、覚えていないんです……自分のことも」
もちろん嘘だ。
「そうか」
それ以上ヴィルヘルムは何も聞いてこなかったので、内心ほっとした。あれこれ聞かれてボロが出そうで怖かったからだ。
だが、一人ほっとする俺は気付かなかった。ヴィルヘルムが俺を見下ろして小さく笑っていたことを。
「……ここです」
森の中にひっそりと佇む小さな平屋。部下らしき……服の装飾からして……二人を外に残し、家に入ってきたヴィルヘルムは天井や壁にぶら下がっている乾燥した薬草、または乾燥中の薬草を注意深く見渡した。
「薬草や薬以外にも茶葉も卸しているらしいな」
ヴィルヘルムの言葉に肩が跳ね上がった。
「た、ただの薬草茶です。冬は色々と厳しいので少しでも生活の足しになればと……思いまして……」
「その知識はどこで得た?」
「ぎょ、行商人から見本になるものを買ったり、あとは自分で色々と試して……」
目が泳ぎそうになるのをなんとか耐えた。行商人から買ったのも嘘だ。
(この肉体の持ち主がもともと持っていた知識だ)
そのおかげで義祖父母からここを引き継ぐ時、苦労せずに済んだ。
「店主の話では評判がいいと聞いた。興味がある。試しに一つもらおうか」
そいつは四人掛けのテーブル席に着いてそう言った。
「ええと、興味があるのはとても嬉しいのですが、その、とても貴方様にお出しできるようなものではないんです。……そもそも薬草について聞きに……」
「聞こえなかったか?」
ワントーン下がった声。
「……ひゃい」
俺は急いで窯に火をくべて湯を沸かした。それから棚に置いてある薬草茶の入ったブリキ缶のうちの一つを手に取る。
(大丈夫だ!落ち着け!)
震える手を叱咤してお茶の準備をした。
「…………余り公にはできないことだが」
不意に背後でヴィルヘルムが口を開いた。
「昔、私はある女に囚われていた。その女は強欲で欲しいと思ったものは必ず手に入れないと気が済まない女だった」
なんの感情も篭らない声。俺は後ろを振り返ることができなかった。
「私は薬物とあの女が持つ幻覚魔法によって、あの女がすべてであり、あの女がいなければ生きていけない……そう洗脳されていた」
コツコツという音が聞こえる。恐らく指で机を叩いてるのだろう。
「だが運がいいことに私は完全にあの女に堕ちることはなく、奴から逃げ出すことができた。………暫くの間、薬物と幻覚による中毒症状に苦しめられた。あれは本当に地獄だった。何度気が狂いそうになったことか……」
机を叩く音が止まった。
「あの女に必ず復讐してやるという、その一心でそれらを克服した。……そしてあの女を、あの女を崇拝していた虫けらどもを殺した」
木製のコップにお茶を注いだ俺は深呼吸をしてから後ろを振り返った。
「あの、どうぞ……」
俺はコップをヴィルヘルムの前に置いた。ヴィルヘルムはカップを持ち上げお茶をじっと見下ろした。
「その、公にできない話をなぜ俺に……?」
そう問うが、そいつは何も答えずカップに口を付けた。握りしめている掌に汗が滲む。
(大丈夫。バレるはずがない)
だってこいつに出したお茶は……。
「………あの時と同じ味だ」
「はぁ⁉ 嘘つくな。一度も 飲んだことねぇ……………ッ!」
俺は咄嗟に口を押さえたがもう遅い。固まる俺を見上げてヴィルヘルムが口角を上げた。
「あの女と虫けらどもを殺したが、………残念なことに一人だけどうしても見つからなくてな」
ヴィルヘルムがゆっくりと席を立ち上がる。近づいてくるヴィルヘルムに俺は真っ青になって後退した。
「そいつは跡形もなく姿を消していた」
壁際に追いやられた俺はガタガタと震えた。目の前に迫った男の腰にある剣が目に入って恐怖が倍増する。
「唯一の手がかりは、そいつがいつも私に飲ませていたお茶の味だけだった」
…そう、だからこいつが知らないお茶を出したというのに……。
黒の手袋を嵌めた右手が俺の頬を撫で、そのまま首へと滑らした。
「俺は執念深い男だ。……残念だったな」
愉快だというばかりに顔を歪めるヴィルヘルムを見た瞬間、俺の頭の中でブツ…と何かが切れる音がした。
ヴィルヘルム・バウムガルド。
乙女ゲーム「茨の聖女」に出てくる男主人公の一人。
シュタインフェルト公爵の次男であり、生まれ持った美貌のせいで十三歳の時、悪女ベアトリクスに拉致監禁され薬物とベアトリクスがもつ幻覚魔法により、彼女に依存するようになった。
だが五年後、ヴィルヘルムは僅かな理性の中悪女の元から逃げ出しシュタインフェルト公爵家へと戻った。酷い薬物中毒と幻覚に苛まれながらも正気を取り戻したヴィルヘルムはベアトリクスに復讐し、悪女を崇拝していた信者たちを一人残らず全員殺した。
一見、正気を取り戻し平和な日常を送っていたヴィルヘルムだったが、時折襲いかかる虚無感と悪夢に苦しめられ、少しずつ心が蝕まれていった。
そんな彼の心を聖女となったヒロインが救うという話だ。
ちなみに俺は乙女ゲームにこれっぽっちも興味はない。ゲームをするならシューティングゲームか格ゲーかRPGが専門だ。じゃあ、なんで乙女ゲームを?と思うが答えは簡単だ。俺の二つ上の姉貴が大の乙女ゲームオタクなのだ。
この「茨の聖女」は姉が神絵師と呼ぶイラストレーターが担当したということで初回限定特典付きを購入してきた。……してきたのはいいがこのゲーム、ラノベとRPGが合体した様式になっていたのだ。残念なことに姉貴はRPGが壊滅的にヤバい。なぜ出来もしないゲームを買ったんだ。いや崇拝する神絵師のためか。
ここで察しただろう。そう俺に白羽の矢がたったのだ。立ってしまったのだ。最悪だった。姉貴に「やらなければお前のプラモ全部燃やす」と脅されて、泣く泣く姉貴の指示の元プレイした。姉貴が所々で発狂しててマジでうるさかったが、RPGはそこそこ楽しめた。
だが、このゲーム。バッドエンドがヤバい。男主人公たちによるヒロインの拉致、監禁、調教などなど。正直言ってドン引きした。パッケージのイラストからは想像が着かないほど内容が愛憎ドロドロ過ぎる。パッケージ詐欺だ。バッドエンドで「たまんねぇー!」って叫ぶ姉貴にもドン引きだわ。つーか、バッドエンドを見た時の俺の気まずさよ。一方姉貴は俺の存在なんてまったく気にしていない様子だった。姉の合金レベルの精神に脱帽だ。
隠しキャラルート含め全クリした時には俺の精神はボロボロだった。RPGだけやればいいだろと思うだろ? しかしこのゲーム選択関係なくいきなりRPGに突入するんだよ。その度に呼び出されてみろ。そっちのほうが疲れるだろうが。だったらさっさとクリアして解放されたほうがいい。
「ヴィルヘルムがまじでヤバい!マジ最高!」
大興奮する姉貴にどこがだよとマジで思った。ヒロインの心が手に入らないいからって殺すなよ。しかもヒロインの死体を抱きしめて「これでずっと一緒だって」って……。
なお、ハッピーエンドはヒロイン監禁。病み過ぎだろ。
「闇落ちヴィルヘルムのスチルはまじ神! 私の性癖にぶっ刺さったわー」
俺は姉貴の性癖なんて知りたくなかったわー。でもこれで俺はこの地獄から解放される!よっしゃー!と思ったのに……。
「なんでよりにもよって悪女の信者になってるんだよ!」
精神回復のためにお気に入りのゲームをやってそのまま寝落ち。目が覚めたらこの悪夢の世界にいた。しかも名前すら出てこないモブ。背景モブ。
夢かと思って思いっきり頬を叩いたら痛かった。憑依?したこいつの記憶といったら悪女へのバカみたいな信仰の日々と趣味の薬草茶作り。あのお方と同じ空間にいるだけで幸せ……ってお前バカかっ! 脳内お花畑くそ野郎がっ!
「はぁ…どうしよう」
今からでもここから逃げるか?……いや絶対無理だ。
(確かゲームでは逃げた信者を生きたまま魔獣のエサにしていたって……)
第一……。
「おいお前、こいつをいつもの所に持っていけ」
「は、はい!」
信者から冷めたスープとパン、それから水の入った銀のコップが載ったトレーを渡された。俺はげんなりしながらある一室へ向かった。
「は、はいります」
ノックするが返事はない。恐る恐る中に入ると、カーテンを閉めきった部屋は薄暗く、噎せかえるほどの甘ったるい匂いが充満していた。
ベッドに近づくと一人の少年……ヴィルヘルムが蹲っていた。悪夢を見ているのか、それとも薬の影響なのか眉間に皺を寄せ呻いていた。
「食事を持ってきた」
サイドテーブルにトレーを置いて声を掛けると、ヴィルヘルムの肩が大袈裟なほど跳ね上がり俺のほうを振り向いた。……が、金色の目が俺の姿を捕らえることはなかった。それはヴィルヘルムが目隠しをしているからだ。悪女ベアトリクスは自分以外の人間がヴィルヘルムの金色の目に映るのを許さなかった。
(俺にとっては寧ろ好都合だがな)
こいつに顔を覚えられるわけにはいかない。……声は今更どうしようもない。モブの記憶からヴィルヘルムと話していたし。
「食べろ」
ヴィルヘルムを起こしてスープの入った器とスプーンを持たせる。
「たべ…たく…ない」
「食べたくなくとも食べろ。あの方に捨てられたいのか?」
悪女がこいつを手放すなんて絶対ないが。そう言うとヴィルヘルムがビクッと肩を震わしカタカタと震えた。
「そ、それは…いやだ」
ヴィルヘルムの怯える姿に俺は良心が痛んだ。はぁと思わずため息が漏れる。
(…にしても、この部屋の匂いマジでキツイ)
胸やけが酷いし、頭痛もする。
「ご、ごめん…なさい」
唐突の謝罪に俺は「は?」とヴィルヘルムを見下ろした。
「俺がと、とろいから…ため息を…」
「いや、お前にじゃねぇよ。この部屋の……いや、なんでもねぇ。スープ熱いから気を付けろよ」
冷めたスープを俺の火魔法で温めたなおした。記憶の中でモブはいつもヴィルヘルムに渡す前にスープを温めていた。
(器持って魔法使えば温まるなんて便利だ)
ヴィルヘルムがスープを啜る傍ら、俺は時折パンをちぎってヴェルヘルムの口元にもっていった。これもモブがやっていた。モブはヴィルヘルムの身の回りの世話を嬉々としてやっていた。モブの奴、崇拝するお方からお願いされたと浮かれていた。マジでバカだ。
食事を終えて今度は銀のコップを渡す。一口飲んだヴィルヘルムが首を傾げた。
「きょ、今日は…水、なんだ……」
そこで俺は「あっ」と気付いた。そういやモブの奴、具合悪そうなヴィルヘルムを心配して少しでも気分が良くなればと自分が作った薬草茶を飲ませていたな。
「あー…今日は、忙しくて作るのを忘れてた。ごめん。今度は持ってくる」
どことなく落ち込んでいるヴィルヘルムの頭を優しく撫でた。
(………って! なにやってんだよ!)
俺は慌てて手を引っ込め、ヴィルヘルムに残りの水を飲ませたあとトレーを持って逃げるように部屋を出た。
「そこのあなた」
背後から呼び止められビクッとした。恐る恐る振り返ると、そこには目のやり場に困るほどの透けた寝巻きを着た金色のロングヘアーに真っ赤な口紅の女……悪女ベアトリクスが立っていた。
俺は反射的に頭を下げた。
ベアトリクス・アルファーノ。
アルファーノ公爵家の主であり、ヴィルヘルムを自分の領地にある教会とは名ばかりの監獄に閉じ込めた女。
(シュタインフェルト公爵はヴィルヘルムを誘拐したのはベアトリクスだと確信していたが、中央教会と裏で色々と手を組んでいる上、血筋は遠くても王族の血を持っている女に、抗議することは出来なかった)
そしてこのゲームのラスボス。
「あなたに変わってから、あの子前より肉つきがよくなったわ」
「…………」
「これからもあの子のことお願いね」
ベアトリクスはそれだけを言うと、俺が出てきた部屋に入っていった。廊下に一人残った俺は止めていた息を吐き出しその場を離れた。
食事を終え静かにお茶を飲むヴィルヘルムを俺は黙って見ていた。
ゲームの中のモブになって一年が経った。
(最初はこれは夢だ、早く覚めろと何度も願ったが何も変わらず……)
今ではここが現実なんだと諦めている。
「冷たくて、おいしい」
「今日は暑いからな」
蒸し暑かったから後味がすっきりする冷茶にした。どういうわけはモブはこの世界では珍しい二属性の魔法を持ち、火属性以外に水属性を持っている。まあ、温めたり冷やしたりする程度だけど。
モブの記憶上、それを誰かに言った様子がないので俺も黙っていることにした。
「終わったろ?」
空になったカップを取ろうとしたら、ヴィルヘルムにカップを強く握りしめられて取ることができなかった。
「おい」
「………君は、あの人の……なに?」
あの人? 悪女のことか? なんでそんなことを聞く?
(まさか嫉妬か?)
自分以外の人間が悪女のそばにいるのが許せないのか? 俺は心の中でため息をついた。
「あの方は俺にとって女神であり、すべてなんだ。……あの方の望みは俺の望みでもある」
信者たちがよく言っていた言葉を吐く。
(他の信者たちなら、お前ごときが簡単に触れていいお方じゃないと言うだろうな)
信者たちはベアトリクスの側にいるヴィルヘルムの存在が目障りだった。俺の前の世話係もヴィルヘルムに色々と嫌がらせをしていた。
(結局バレて魔獣のエサになったらしいけど)
バカだなと俺は肩を竦めた。
「そう………」
ヴィルヘルムはそのまま黙ってしまった。俺は心の中で息を吐き出した。
「俺は別にあの方とどうこうなりたいとはこれっぽっちも思っていない。ただお側でお仕えできればそれだけで十分幸せなんだ」
だから嫉妬心で俺を殺すなよ?
ヴィルヘルムは黙ったままだったが、今度はおとなしくカップから手を離してくれた。
「じゃあな」
俺はトレーを持って部屋を後にした。
(あいつがここから逃げ出すまでまであと残り一年…)
小さな使用人部屋で俺はベッドにねっころがり広げたノートを見上げていた。ノートには薬草茶の効能とともにその日の出来事が記されている。ノートの持ち主はモブだ。お陰であいつが逃げ出す年を予測することができた。
(確か悪女が不在の時に地下で飼っていた魔獣が脱走して、その時に逃げ出したっけ?)
ただゲームでは逃げ出す時季までは記されていなかった。……たぶん。
(その時がチャンスだ)
恐らくみんなは脱走した魔獣とヴィルヘルムのほうに集中するはず。その隙に逃げれば………。
本当に逃げることができるのか?
捕まって生きたまま魔物のエサになるのでは?
パンッ!
不意に浮かんだ不安を無理矢理払うようにノートを乱暴に閉じた。
(大丈夫。絶対大丈夫だ)
そう自分に言い聞かせた。
少しでも長く生きるために……。
深夜、館内の騒々しさに目が覚めた。
「魔獣が地下から脱走した!」
信者の叫び声とともに地を這うような声が外から聞こえた。
「おい! ガキが逃げた‼」
ドッと心臓が跳ね上がった。ついにこの時がきた。ベッドの下に隠していた鞄とマントを引っ張り出したあと、見張りがいなくなった裏口から出てヴィルヘルムを追う信者たちとは逆方向に走った。
「グォォォォォォッッ!!!」
背後から魔獣の叫び声と爆発音が聞こえる。
(見つかりませんように!見つかりませんように!)
俺は必死にそう願いながら鬱蒼と生い茂る森の中を走り続けた。
そこから俺はただひたすらに西に向かって逃げ続けた。サバイバルの経験なんてない俺は森の中で何度も死にかけた。食べられる野草や木の実で飢えを凌いだ。
街があれば、身元不明でも雇ってくれる日雇いの仕事……汚水掃除とか誰もやりたがらない仕事……を探しては金を手にいれた。それからまた西へ西へと向かった。西を選んだのはヴィルヘルムの家とは真逆の位置にあったから。ただそれだけ……。
山を越えた頃には精神的、肉体的に限界を超えていた。不意に見慣れた薬草畑が視界に入り、無意識にふらふらとそこに向かった。が、そこにたどり着く前に俺は意識を失いぶっ倒れた。
家の前で倒れている薄汚い俺を見て老夫婦はさぞかしびっくりしたことだろう。
子どもがいなかった老夫婦は俺を温かく迎え入れ本当の子どもの様にかわいがってくれた。
(じいちゃん、ばあちゃん、恩を仇で返してごめんなさい)
雲一つない真っ青な空を見上げながら、天国の義祖父母に謝った。
「ルカ」
背後から呼ばれ振り返ると、薬草畑の中にヴィルヘルムが立っていた。場違い過ぎて似合わない。
「何を考えていた?」
俺の傍にやってきたヴィルヘルムは俺の腰に手を回して自分のほうに引き寄せた。
「おい、服が汚れる」
ついさっきまで畑仕事をしていたから服が汚れてしまっている。俺はヴィルヘルムを押し退けようとしたが、自分の手も汚れていたためそれは叶わなかった。
「構わない。それより何を考えていた?」
ヴィルヘルムを見上げれば本当に気にしてないようだ。金色の目がジッと俺のことを探っている。
「ただ天気がいいなって思っていただけだ」
俺はため息をついて答えた。
「そうか。私はてっきり逃げ出す算段を考えているかと思ったよ」
「こいつをしているのに、どうやって逃げるってんだよ」
ハッと俺は鼻で笑った。そんな俺をヴィルヘルムは楽し気に見下ろしている。俺の首には黒地の革に金の刺繍が施された首輪が付いている。ご丁寧にGPS付きだ。
『ああ、お前によく似合ってる』
俺に首輪をつけた時ヴィルヘルムは、ヒロインに首輪をつけたときと同じ顔で笑った。
「忘れるな」
ヴィルヘルムがもう片方の手で俺の首に…いや、首輪に触れる。
「私は執念深い男なんだ。どこに逃げようとも私は必ずお前を見つけ出す。たとえそれが地の果てであろうとな」
≪忘れるな×××。私は執念深い男なんだ。どこに逃げようとも私は必ずあなたを見つけ出す。たとえそれが地の果てであろうとな≫
ゲーム画面のヴィルヘルムと重なる。
一体どこで……。
(一体どこで狂ってしまったんだろうか……)
ヴィルヘルムは俺を殺さなかった。
その代わりヴィルヘルムの領地……かつて悪女ベアトリクスのだった領地……にある閉鎖された教会に俺を閉じ込め、ヒロインに告げるはずの言葉を俺に吐き続けている。
俺はヴィルヘルム越しに空を見上げた。
《私は鉄格子が嵌められた窓から空を見上げた》
《雲一つない青い空が私を嘲笑ってるように見えた気がした……》
ハッピーエンド・完
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