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最終章

宇和米博物館にて

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 翌朝も昨日と同様午前六時半頃起床した。本日は松山市を離れて西予市の宇和町と云う所に行くつもりであった。そこには「宇和米博物館」と云う施設があるのだがこれが映画「ダウンタウンヒーローズ」の中で旧制松山高校の校舎として使用されていたのである。元々は「旧宇和町小学校」の校舎だったらしいがその後宇和町小学校が廃止された事で現在では「宇和米博物館」と云う観光施設として活用されているそうなのだ。早速朝食を食べ終えて荷造りを済ませると私は二泊世話になったユースホテルに別れを告げ、松山駅へと向かうのだった。とそのつもりだったが私はまた松山城へと登った。関東に住んでいるとなかなか来れない伊予・松山の地である。もう一度松山城へ登って天守閣を眺める事だって悪くはないと私は思ったのだった。ただ今回は前日とは異なる「黒門口登山道」と呼ばれる登山道を選びそこから本丸広場まで登る事にした。ここは前日登った「県庁裏登山道」とは違い鬱蒼とした森林の中を細い階段が続く経路だった。和服姿の私は勿論ボロ草履だ。上りにくい事この上なかったがかつてここを旧制松山高校生達がより上りにくいであろう高下駄で上ったかもしれないと想像すると、高揚した私は足元が一気に軽くなったのだった。この階段を旧制松山高校の代表的な寮歌である「暁雲こむる」を口ずさんで歌いながら私は駆け上ったのである。そうして階段を上り切ってたどり着いた本丸広場ではほとんど人がいない状態であった。前日とは異なり時間帯が早朝に近かった為であろう。絢爛な桜並木とそれに装飾された松山城天守閣の対比で充満した空間を私一人が独占しているような環境であったので私の心は時めいた。大正八年から昭和二十五年までの旧制松山高校の三十一年間の歴史の中で数多の旧制松山高校生達がこの空間を愛して集まって来たに違いない。時には道後温泉の娼婦を連れながらデート感覚でやって来た者もいたであろう。であるならばいつかは私も女連れでこの場に来たいと決意を新たにその場を後にするのだった。

 目的の「宇和米博物館」の最寄り駅は卯之町駅なのだったが、松山駅からここまで各駅で行くと相当な時間が掛かってしまう為特急券を買い特急列車で卯之町駅まで私は赴いた。平日であった為か特急列車であると云うのに車内は乗客が少なくちょっと寂しい程である。車内にいたのはほとんど通学中の学生で観光客と見られるのは私一人であった。弁当やお菓子を売る車内販売すらない有様でJR四国の厳しい経営状態がそれとなく知れた。やがて松山駅から約一時間程が経った頃だろうか、特急列車は卯之町駅で止まり私はそこに下車した。とりあえず昼飯を済ませたかった私は駅前で定食屋を探したが、そこには商店街らしきものはなく閑散としておりその期待には反していた。だが駐輪場の隣に「ゆるりあん」と呼ばれる市営の複合施設があったのでそこの中の食べ物屋に私は入る事にしたのであった。確かその時に入ったのは地元の夫婦が経営している洋食屋さんであったと思う。そこで私はとりあえずオムライスを注文し食べたのである。そういえばここの洋食屋さんの奥さんにも私はその風体から怪しまれ「なんで和服姿なんですか?」などと尋ねられ一々その訳を説明すると酷く驚かれてしまった。どうやら「宇和米博物館」を映画「ダウンタウンヒーローズ」のロケ地と認識してやってくる人は皆無だそうでおそらくは私が初めてだとも言う。「宇和米博物館」を訪れる人のほとんどが「宇和米博物館」の長い廊下の雑巾がけを行う事を目的にしてやって来るらしい。故におばさんは私に「その恰好じゃ雑巾がけは出来ないわね」などと言ってきたので私は内心「余計なお世話だ」と毒付きつつも愛想笑いをして済ましたのだった。

 さて昼食を済ませた後私は卯之町駅前から徒歩で「宇和米博物館」へと向かった。それは線路伝いの国道を少し歩いた先の山裾の方にあり住宅街の中の坂道を登って行った所にあったと思う。閑散とした人一人いないその坂道をてくてくと私は歩いた。到着してみて外観を眺めてみるとそこは映画「ダウンタウンヒーローズ」の中で映されていた校舎そのものであったし、映画ではこの建物は先ず冒頭の場面で使用されていた事をその時私は思い出すのだった。入り口が見えたので入ってみればどうやら入場料は無料らしく、受付の中年男性は優しく私を出迎えてくれ、洋食屋の奥さんと同様に私の風体に興味を抱いたらしいその中年男性に訳を説明すると「へ~それは珍しいですね。そんな映画があったなんて知りませんでした」と当然のように「ダウンタウンヒーローズ」に関しては全く知らない様子であった。しばしその中年男性と世間話をして打ち解けるとなんと「宇和米博物館」の外でその校舎と私を記念撮影してくれると云うではないか。そこで私は願ってもないこの展開に喜色満面して素直に記念撮影してもらったのだった。どうやら「宇和米博物館」と云う施設は洋食屋の奥さんが語ったように映画「ダウンタウンヒーローズ」の撮影場所として認知している人は皆無でほとんどの人が「宇和米博物館」内の長い廊下を雑巾がけしに訪れてくるような場所であるようであった。芸能人もテレビ番組の取材で訪れているらしく、様々な芸能人の写真が事務員室には飾られていてあの出川哲朗もここに来て雑巾がけをしていたらしい。「ダウンタウンヒーローズ」ファンの私にとってはそれは何だか寂しい答えだったものの、約三十年以上前の山田洋次監督制作の映画では認知度もそれほどないのは当然か、と妙に納得もしてしまうのだった。

 約三十分間程「宇和米博物館」に滞在した私はちょっとそこら辺の見知らぬ場所を散策してみようかと思ったもののスマートフォンを見ればほとんど充電が切れかかっていた。これはどこかでコードを繋ぎそれを充電せねばならぬと思い受付の中年男性に「どこかでスマートフォンを充電させてくれるような場所はないか?」と尋ねた所「この隣には喫茶店がある」と言う。「ならそこで充電させてもらえるかもしれない」と思った私は早速その喫茶店へと足を伸ばしたのだった。しかしこれが思ってもみない展開を生み出す事となったのである。

 その喫茶店は受付の中年男性が言った通り「宇和米博物館」の隣にあった。それは非常にこじんまりとした造りの建物で、一見しただけでは喫茶店とは分からぬ程である。中に入ると私とそう年齢が変わらないように見える男性店主が迎えてくれたので私は開口一番「スマートフォンを充電させてくれないか?」と頼んだ所、快諾してくれ私のスマートフォンをコンセントに繋げてくれたのだった。ちなみに私が入店した当初地元の中学生ぐらいの息子と母親がいたが、その二人は直ぐに出て行ってしまったので店にはその男性店主と私の二人だけとなった。そうして気分を良くした私はアイスコーヒーを注文し席に座ったのである。ここの喫茶店の男性店主にもその私の風体の理由について当然のように尋ねられた。やはり和服姿に白線帽子の組み合わせが異様に目立つのだろう。しかも私はもう数か月もすれば三十歳である。理由を聞かれるのは自然の成り行きであろう。スマートフォンを充電させてもらえた事もあり気を良くした私は滔々と映画「ダウンタウンヒーローズ」について語ると何だか相手も愉快気にその話を聞いてくれたものであった。ただやはりその男性店主も「ダウンタウンヒーローズ」についてはよく知らない様であったが、昨年の秋に地元のメディアが「宇和米博物館」に取材に来たそうでその時メディアの人が「昔の映画でここをロケ地として使用したので当時エキストラとして出演した人と一緒に振り返りに来た」云々と言っていたと教えてくれた。それに内心私は「ダウンタウンヒーローズ」の事だ、と酷く驚いたが驚きはこれでは終わらなかったのである。

 そうしているうち地元のおじいさんでここの常連客だと言うAさんという人が店に入ってきた。なんとこのAさんが映画「ダウンタウンヒーローズ」とは奇縁を持つ方だったのだ。どうやらそのAさんの娘さんが映画「ダウンタウンヒーローズ」の撮影当時(昭和六十三年)に女学生役でヒロインの薬師丸ひろ子と一緒にエキストラとして映画の撮影を行ったと云うのである。だが残念ながらそのシーンは映画では使用されずにカットされてしまったのだとか。非常に惜しい話である。ただその時に娘のエキストラの現場を見に行った際にヒロインの薬師丸ひろ子と話したのだが、彼女はとても素直でいい子だったとかAさんは言っていた。それを聞いて私はとても貴重な話を聞けた気がして満足したのだった。ちなみにAさんは西予市で長年大工をやっていたそうだが、地元の西予市だけでなく愛媛県全体の文化や風土に詳しい人でもあった。私も歴史好きな方なので松山城や幕末の松山藩の事についてAさんに尋ねると話は非常に盛り上がった。例えば新選組創設当初からいた原田左之助の上野戦争以後の消息の話や戊辰戦争当時の松山藩の動静などである。Aさんは愛媛県の事なら何でも知っていて私の質問に非常に丁寧に答えてくれたものだった。そのうち歴史談議からAさんは昨今の自民党政治の不満について話を移していったので、私はどう反応して言ったらいいのか困ったがAさんは「消費税なんていらんやろ」と私や男性店主に告げた為私はすかさず消費税廃止を訴えているある新規政党の名前を言うとAさんは喜色満面して私にその新規政党について尋ねてきたものだった。そうして私達はなんと政治談議に花を咲かせたのである。このように見知らぬ人と政治の話をする事は珍しい事だと思うが、なかなか愉快な出来事でもあった。積極的にそのような話をした方がいいとは言えないが、そのような雰囲気になった場合にはしてみるのも決して悪い事ではないと思う。そう思えた貴重な体験であった。

 政治談議で盛り上がった後外は夕方近くなっていたしスマートフォンも充電出来たので、今夜泊るビジネスホテルへと移る事にした。別れ際店の男性店主とLINEを交換する機会を得た。その相手とは今でもたまに連絡を取り合っている。こうした出会いがあるのが旅の面白味であると私は思う。喫茶店から出ると既に日は暮れかかっていた。四国の山際に日がだんだんと落ちかけていく。関東とは異なる妙に澄んだ空気を吸いながら私は目的地を目指した。そして喫茶店から約二十分程歩き、その今夜泊るビジネスホテルへとたどり着いた。チェックインを済ませると直ぐに夕食であった。夕食は確かバイキングであったと思う。そこは宿泊客だけでなく地元の客も食べに来ていて食堂はとても賑わっていた。おそらく瀬戸内海の魚であろう魚料理や刺身を頬張りながらご飯を腹に流し込んでいった。特に味噌汁が愛媛県特有の白味噌を使っていてとても美味かった思い出がある。

 ただその日の夜は何だか寝付けなかった覚えがある。明日でこの愛媛県から地元に帰る寂しさもあるのだろうか。それとも「ダウンタウンヒーローズ」のロケ地を全て訪ね歩いた事による達成感から来る脱力感だろうか。とりあえず今日Aさんや男性店主と打ち解けられた場面を思い出しつつ布団の中で目をつぶっていた。私はどうやらこの愛媛県と云う土地がとても恋しくなってしまったようだった。翌朝午前六時頃起床し私はビジネスホテルの朝風呂へ浸かった後、近くを散歩しに行った。そこは閑静な住宅街だったが、桜が至る所で咲き乱れていて美しい情景が広がっていた。中でも肱川(ひじかわ)と呼ばれる長閑な川沿いを歩いたのだが、そこの川沿いの桜はまるでピンク色の花の絨毯が鯉幟のように吊るされているようで大変見ごたえがあった。勿論スマートフォンで写真を写したが、あれは生で見た方が一際印象に残るであろう。何だか得難い物を見る事が出来有頂天となった私は無性に腹が減り始めた。故にそれ以上川沿いを進みたい気持ちもあったが一先ず朝食を食べる為ビジネスホテルへと戻る事にしたのだった。やがてバイキング形式の朝食を食べ終えて身支度を整えた私は一晩お世話になったビジネスホテルを後にした。早朝まばらに降っていた小雨は上がっていた。ビジネスホテルから卯之町駅までの国道沿いの道を私はまたまた旧制松山高校の代表的な寮歌である「暁雲こむる」を鼻歌で歌いながら帰路に就くのだった。
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