ZARDに救われた春

根本外三郎

文字の大きさ
上 下
1 / 4
第一章

ZARDの死

しおりを挟む
 目が覚めた時彼は、大きな溜め息を吐きながら日が差して薄明るくなった室内の天井をしばらく眺め入るのだった。そしてその天井の明かり具合からして、今日も寝過ごした事を判然と理解した。五分間位その状態をしかめ面のまま維持し終えた秀男は、傍に置いてある目覚まし時計をつかみ、自分の顔の前に素早く移動させた。時計の針は午前十一時を指していた。これで秀男は一週間も続けて昼近くまで寝ていた事になるのだった。若い日々の、大切な時間を平気でゴミ箱へ捨てているような、惰眠の意識を痛感しながら今日も秀男は身体を起こした。

 実は一昨日、秀男は十五歳の誕生日を迎えていた。十五歳からは朝早起きが出来るようになろう、せめて午前八時には起床しよう、と誕生日を迎える前に強く決意していたはずだった。しかし結局は、この自堕落な習慣を誕生日を迎えた後の今日も引き継いでしまっているのだ。立ち上がった秀男は洗面所へ行き、意志薄弱な自分に喝を入れるつもりで激しく顔を洗い始めた。

 今日は月曜日だ。正確な日付も付け加えれば平成十九年五月二十八日となる。中学生であれば学校に登校しなけらばならない日であった。しかしながらこの時中学三年生だった藤田秀男は、かれこれ二ヵ月間近くも学校に登校していなかった。つまり秀男は不登校になっていた。それは信じたくはない事だったが否定出来ない現実だった。こうなった原因はそもそも今から約三ヵ月程前、中学三年生に上がる直前の春休みにそれまで所属していた陸上競技部を退部した事にあるのだろう。四月に入って進級後のクラスが発表される始業式の日に秀男は何食わぬ顔をして登校したが陸上競技部の同級生達からは非常に冷たい視線を投げつけられた。二年間程続けた部活を残りは半年だけなのにも関わらず辞めた奴というのは非常に珍しいようで、陸上競技部の同級生以外にも退部の事実が知れ渡っているようだった。その日以来秀男は学校で気恥ずかしさと居心地の悪さを感じるようになり、自然と学校へ行かなくなったのだった。やがて顔を洗い終えた秀男は、右手でタオルをつかみそれで顔を拭きながら、左手でリモコンを操作して居間のテレビを点けた。驚愕させる文句が待っていたのにも関わらず、この時の彼はいつものように無意識のままその動作を行った。

 ZARDが、ZARDが死んだ。たまたま目に入ったニュース番組がそう伝えていた。画面には「ZARDの坂井泉水さんが転落死‼」とのテロップが題され、ZARDが歌っている名曲の映像が流されている。秀男は思わず我が目を疑った。両手の力が抜けそうになり、上半身と下半身が分離していくような不思議な感覚になった。何か悪い夢を見ているのではないか?と頭が錯乱しかけた。だがどうやらそれは真実のようなのである。その報道によると、ZARD事坂井泉水さんは、一昨日の早朝頃に都内にある某病院内の二階のスロープから転落したという。実は坂井さんは随分前からその病院に入院していてこれまで闘病生活を送っていたそうだ。その後暫くして通行人に倒れている姿を発見され、集中治療室にて緊急処置を受けたものの、翌日残念ながら帰らぬ人となってしまったのだという。キャスターがそれを簡潔に伝え終えると、画面は転落現場に待機する取材記者に映り変わった。ZARDが入院していた事など露とも知らなかったし、またこのように突然その死を知らされるとは思いも寄らなかった。何か釈然としないものを秀男は強く感じたのだった。

 転落現場の取材記者は「自殺だったのではないか?」などと言っているが、そのスロープと地上との低い落差から考えてみてもそれはありえないだろう。そして確かに、一昨日は曇りがちで早朝の東京は雨が降っていただろう事は容易に想像出来る。しかしそれが滑落の事故死の誘因となった、といきなり結論付ける事も難しいのだ。今その区別が明確に判断出来ない位不可解な突然死であった。秀男は胸の中でふつふつと起こり始めた強い動揺を落ち着けるためにテレビの前のソファーに座った。

 秀男にとってのZARDとは、「名探偵コナン」であり「運動会の応援歌」だった。昔の「名探偵コナン」のアニメや映画では、ZARDの曲がOP曲やED曲、挿入歌として活用されていて、秀男の幼少期の思い出の中にそれは強い印象を残していた。その妙に掠れて聴こえた歌声は「名探偵コナン」の子供心をくすぐるロマンティックな世界観に非常に似合っており、幼い日の秀男はその歌唱力と作詞の絶妙さに感心したものだ。一方、「運動会の応援歌」とはすぐに分かるだろう。あの有名な「負けないで」である。小学校の運動会では当然、中学校の運動会でも必ず徒競走やリレー等の場面でそれが流されていた。毎年毎年運動会では「負けないで」を聞かされてきたので、この曲が秀男にとってはクラス対抗リレーや玉入れ以上の運動会の代名詞となっている程だ。今年の運動会は二週間後の翌月の十一日の開催となっている。おそらく今年も運動会では「負けないで」が流されるのだろう。陸上部を辞めてさえいなければ秀男はそのクラス対抗リレーにおいて要となる存在としてクラスの皆から期待され、誇らしい気分になりながらその場で「負けないで」を聞きながら疾走するのだろうが。陸上部を退部した直前の最後の競技会で秀男は百メートルを十二・五秒で走った。中学二年生の記録としてはなかなかの成績で「このままの調子で行けば中三で都大会に出場出来るかもしれない。」と顧問の先生に言われた位だった。しかし退部し、しかも不登校となってしまった今ではクラス対抗リレーも都大会も、自分とは全く無関係な世界の話としてしか認識出来ないのだった。

 それにしてもZARD事坂井泉水さんは絶世の美人だったなぁ、と秀男はテレビを眺めて今更ながらであるがそう思った。ニュース番組では「ZARDの坂井泉水転落死‼」の一報を報じた後、ZARDの代表曲のPVを流し始めているのだが、曲そのものよりも彼女の美貌に注視してしまうのだ。その若さ故か、黒々とした黒髪と透き通るような白い肌との対比から生じている全体像としての眩しさとはかなげな瞳が際立った、皺一つない整った面立ちが、この世の物とは思えぬ程の魅惑を発しているためだろうか。これはおそらく彼女がまだ二十代の頃を写したものなのだろう。しばし彼は半ば茫然としながらも画面に見入った。やがて彼は思い出した。小学生の頃このような美しいZARDのPV見たさに九十年代ヒット曲特集の音楽番組をワクワクしながらよく見ていた事を。それは年末などによくやっている「ベスト何々」だとか題し、順位形式にして第一位に向かって順次数秒ごとのPVを使って曲を紹介していく内容の番組だった。小学生だった頃の秀男は初めてそれで「マイフレンド」のPVを見て以来、彼女の虜となり毎年欠かさずに見ていた。ゆとり教育も関係していると思うが、楽譜が読めず当然楽器など一つも扱えない秀男は昔から音楽に一切関心がなく、不得意だった。

 そんな秀男が当時そうして音楽番組を見ていたのは、ZARDの外見的な魅力に惹かれたからに他ならない。当時はYOUTUBEなどなかったから映像としてのZARDに触れる機会はテレビのそれしかなかった。それだけにその当時の事が希有な体験として心に刻まれていたのだろう。それが今、詳細に思い出された訳なのだ。だが暫くして、もうあの時のような感動的な気持ちになりながらZARDのPVを見る事は出来ないな、なんせもう本人がこの世にはいないのだから、などと秀男は寂しさを感じ始めた。やがてテレビがCMに切り替わり軽薄な内容のCMが流され始めたので、今の自分の感傷的な状態にある心をいきなりそれらのCMに踏みつけられたような気がした秀男は非常に腹が立ち、舌打ちを一度してテレビを消した。途端、居間は閑寂な空間に戻った。しかし、秀男の心は元には戻らなかった。何か満たされないものを強く感じた。一種の虚脱感が芽生えていたのだった。
 
 不登校になってからの生活は徐々にではあるが退屈極まりないものとなっていった。学校へ行かなくなってから一週間程はテレビを見続けたり、パソコンでネットサーフィンをしているだけで十分な快楽を得られていた。そんな何一つ規制がない自由な時間を心から楽しんでいられたのだ。それは秀男の共働きの両親が家に不在の時間が長く、不登校については承認されていたので毎日小遣いを与えてもらえていたからでもある。おまけに彼は一人っ子であったため世話をしなければならない厄介な弟や妹、服従しなければならない面倒な兄や姉はどこにもいなかった。要は堂々と家にいられたのだ。しかしそんな生活も一週間を過ぎれば、飽きと焦りとを感じ出し満足出来なくなってしまった。そもそも秀男は外出する事を非常に好む性格だった。不登校になる前は同級生の鉄道好きな友人と一緒に、部活動がない休日などに日帰りで主に北関東の都市に鉄道に乗ってたびたび赴いていた。栃木県の宇都宮、茨城県の牛久、水戸、群馬県の高崎、埼玉県の古河、山梨県の大月、などなど。昨年の六月頃から今年の二月頃まで、二人でそれらの場所を気ままに巡った。彼らの地元が東京都東村山市であった事と中学生という身分からして日帰りの遠出の範囲はその辺りが限界で、帰途の車内で秀男はしばしば欲求不満に陥り、まだ見ぬ景色を渇望するのが常だった。この頃はまだGoogleストリートビューが日本に適用されていなかったので日本各地の様子を視覚的に理解出来る媒体はテレビかネットのブログのそれらしかなく、故に当時の秀男は見知らぬ土地に触れたい好奇心が強かったのかもしれない。だがそうした胸が躍る遠出も、不登校になってからはその鉄道好きな友人室井君と会わなくなってしまったために、こうして二ヵ月以上も遠出らしい遠出をせず、登下校中の同級生とばったり出くわす事が嫌になり散歩もしなくなった秀男は、この二ヵ月間近く家に引きこもりがちだった。今の彼はこの移り変わりのない生活に大変に飽きを感じ始めているのだ。

 また秀男は、この世代としては珍しいゲーム嫌いで、それらを自ら望んではしない人間である。加えてこの時の彼は、かなり国語が不得意で活字を読む事が非常に苦手だったため、当然退屈しのぎに本を読むとかゲームをするとかいうような暇つぶしの選択肢を持てなかったのだった。テレビとネットの二つの刺激だけではもう足らず、どのような事情があるにしろ外出すべき事態にはなりつつあった。一方で、焦りも彼を支配しつつあった。中学三年生という立場上、不登校になって以降も「受験」を意識しない日はなかった。同級生は皆昨年と変わりなく学校へ行き、受験勉強に励んでいるのだろう。対して秀男は受験勉強を中断しているのだ。この状況で焦りを感じない訳はなかった。もしこのまま不登校を続けたら進路未定のまま卒業式を迎えた当然の結末として中卒で社会へ出る事態になるだろう。そんな事を寝入る間際に度々深く思い耽り、精神的に追い詰められてきている今日なのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

back beat 完全版

テネシ
青春
短編の自主制作映画化を前提に戯曲形式で書いていた「back beat」シリーズを一本の長編映画戯曲化し、加筆修正を加えて一つに纏めました。 加筆修正エピソード 2章 ~Colors~ 3章 ~プロポーズ~ 4章~mental health+er~ 作中に登場する「玲奈」のセリフに修正が御座います。 大幅な加筆が御座います。 この作品は自主制作映画化を前提として戯曲形式で書かれております。 宮城県仙台市に本社を構えるとある芸能プロダクション そこには夢を目指す若者達が日々レッスンに励んでいる 地方と東京とのギャップ 現代の若者の常識と地方ゆえの古い考え方とのギャップ それでも自分自身を表現し、世に飛び出したいと願う若者達が日々レッスンに通っている そのプロダクションで映像演技の講師を担当する荏原 荏原はかつて東京で俳優を目指していたが「ある出来事以来」地元の仙台で演技講師をしていた そのプロダクションで起こる出来事と出会った人々によって、本当は何がしたいのかを考えるようになる荏原 物語は宮城県仙台市のレッスン場を中心に繰り広げられていく… この物語はフィクションであり、作中に登場する人物や会社は実在しておりません。 通常はト書には書かず絵コンテで表現する場面も、読んで頂くことを考えト書として記載し表現しております。 この作品は「アルファポリス」「小説家になろう」「ノベルアップ+」「エブリスタ」「カクヨム」において投稿された短編「back beat」シリーズを加筆修正を加えて長編作品として新たに投稿しております。 この物語はフィクションであり、作中に登場する人物や会社は実在しておりません。

私の隣は、心が見えない男の子

舟渡あさひ
青春
人の心を五感で感じ取れる少女、人見一透。 隣の席の男子は九十九くん。一透は彼の心が上手く読み取れない。 二人はこの春から、同じクラスの高校生。 一透は九十九くんの心の様子が気になって、彼の観察を始めることにしました。 きっと彼が、私の求める答えを持っている。そう信じて。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

天ヶ崎高校二年男子バレーボール部員本田稔、幼馴染に告白する。

山法師
青春
 四月も半ばの日の放課後のこと。  高校二年になったばかりの本田稔(ほんだみのる)は、幼馴染である中野晶(なかのあきら)を、空き教室に呼び出した。

魔法屋オカマジョ

猫屋ちゃき
キャラ文芸
ワケあって高校を休学中の香月は、遠縁の親戚にあたるエンジュというオカマ(本名:遠藤寿)に預けられることになった。 その目的は、魔女修行。 山奥のロッジで「魔法屋オカマジョ」を営むエンジュのもとで手伝いをしながら、香月は人間の温かさや優しさに触れていく。 けれど、香月が欲する魔法は、そんな温かさや優しさからはかけ離れたものだった… オカマの魔女と、おバカヤンキーと、アライグマとナス牛の使い魔と、傷心女子高生の、心温まる小さな魔法の物語。

【実話】友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
青春
とあるオッサンの青春実話です

我らおっさん・サークル「異世界召喚予備軍」

虚仮橋陣屋(こけばしじんや)
青春
おっさんの、おっさんによる、おっさんのためのほろ苦い青春ストーリー サラリーマン・寺崎正・四〇歳。彼は何処にでもいるごく普通のおっさんだ。家族のために黙々と働き、家に帰って夕食を食べ、風呂に入って寝る。そんな真面目一辺倒の毎日を過ごす、無趣味な『つまらない人間』がある時見かけた奇妙なポスターにはこう書かれていた――サークル「異世界召喚予備軍」、メンバー募集!と。そこから始まるちょっと笑えて、ちょっと勇気を貰えて、ちょっと泣ける、おっさんたちのほろ苦い青春ストーリー。

私の世界

るい
青春
学校という「空間」にどうしても馴染むことができず、不登校を選んだ少女。 両親の協力を得て、中卒認定試験を目指して、悩み迷いながら日々を送るお話です。

処理中です...