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午前八時~午前九時。

檄をしたためる椎崎中佐

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 宮城では完全にクーデターが終結した。クーデターにおいて主軸となっていた芳賀豊次郎大佐が率いていた近衛歩兵第二連隊は田中軍司令官の指揮の下乾門から宮城を退陣していった。これで宮城に平穏が戻った、と誰もがそう思った。その平穏を誰よりも歓喜したのは侍従達だった。彼らは先ず宮内省内で雲隠れさせた木戸内大臣と石渡宮内大臣と秘書官達を解放する事とした。戸田侍従は侍医室に行き木戸内大臣を、三井侍従は地下の金庫室へ降り石渡宮内大臣と石川秘書官らにクーデターの終結を告げ呼び戻した。彼らはガラス窓が割られ廊下に物が散乱している状態を見て改めてただごとではない事が宮内省で起きていた事を感じ取った。それは午前八時半頃出勤してきた岡部長章(ながあきら)侍従も同じだった。荒れ果てた宮内省を見て真っ先に考えた事は玉音盤が無事であるかどうかである。岡部侍従は皇宮官職の事務官室へと急いだ。事務官室の扉を開けると三井侍従と筧課長が机を挟んで相対していた。机の上を良く見てみると玉音盤が入っていると見られる円形のケースが載っている。岡部侍従は破顔一笑した。玉音盤は無事だったのである。どうやら三井侍従と筧課長はその玉音盤をどうやって放送会館まで持って行くのかを相談し合っているようだった。本来であれば田中軍司令官の指揮により宮内省からも近衛兵は立ち去っていたので堂々と玉音盤を持ち出す事が可能だったのだが、念には念をと云う事で対策が練られたのである。結局議論百出の末最初に録音された盤を「乙」とし、紫色の袱紗で覆い隠して筧課長がそれを捧げ持ち廊下を歩き出した。これで敵の目を晦まそうと云うのである。その後二回目に録音された「甲」の盤を岡部侍従が自身のリュックサックに入れ廊下へと出た。二人が再び相まみえるのは総務課の一室と取り決めてである。

 このように嵐が過ぎ去った後の宮城の中で再び嵐を起こそうとしている男が一人いた。椎崎中佐である。椎崎中佐は誰も居なくなった警備司令部でただ一人檄文を書き記したビラを何十枚も作っていた。これを宮城の周辺に撒いて民間人にも決起を促そうと云うのであった。もはや腰抜けとなった帝国陸軍では国は救えないと思った。名もなき草莽に訴えるしかないと椎崎中佐は信じたのである。しかし残念ながら宮城周辺のほとんどの民草は既に疲弊し、戦争の終結即ち敗戦を望んでいたのだった。椎崎中佐は自らが軍部だけではなく同胞からも見捨てられている現実に気付くべきだったのかもしれない。ただリアリズムに徹しきれないのは椎崎中佐だけではなかった。佐々木武雄大尉も同様であった。佐々木武雄大尉は平沼邸を焼き討ちにした後吉田茂邸や牧野伸顕邸には行かず一旦横浜に戻った後横須賀鎮守府へと赴いた。そこにいる第三〇二海軍航空隊司令の小園安名(やすな)大佐に会おうとしたのだった。小園大佐は帝国海軍にあってただ一人降伏に反対し、飽くまでも本土決戦へと持って行こうと工作をしていたのである。佐々木武雄大尉としてはその小園大佐と連絡を取り陸海軍におけるポツダム宣言受諾阻止の運動をより強力にしていこうと云う目的だったのだ。因みにこの小園大佐は鹿児島県出身で所謂薩摩の海軍においてエリートコースを辿ってきた軍人である。しかし海軍の巡邏に聞けば小園大佐は厚木基地へと戻ってしまったのだと云う。佐々木武雄大尉は大いに肩透かしを食らった気分になった。

 一方芝白金の鈴木孝雄大将の私邸では逃げ込んできた鈴木貫太郎一家も交えて一同が朝食を食べ始めたところだった。鈴木孝雄大将は無事に兄上を庇護出来た事が何よりも満足であり、また同じ食卓を囲める事に無上の喜びを感じた。片や鈴木首相はと云うと勢いよく納豆御飯を掻き込んでいる。先程まで命を狙われていた事など疾うに忘れていると云う様子でもある。その落ち着きぶりを見て鈴木首相の秘書官である息子の鈴木一(はじめ)は内閣総辞職をしてはどうか?と伺った。敗戦決定の大任は果たし終えたと思ったし、息子としてこれ以上父親が危険な立場に置かれる事を危惧したのである。どうやらそれは鈴木首相も同じ気持ちだったようで「そうしよう」と快諾し、早速辞表の案文を息子に書かせる事にした。こうして江戸時代生まれ最後の総理大臣は歴史の表舞台から消えた。二日後の八月十七日には早くも東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣が成立する事となる。
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