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午前二時~午前三時。

阿南陸相、自決の意志を固める

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 ところで宮城の外でも反乱軍の魔の手が伸びつつあった。日比谷の日本放送協会の管理する放送会館が武装した近衛師団第一連隊第一中隊(約二百名)によって占拠されようとしていたからである。もしこれが成されれば六十人近い放送局員や情報局員の身動きが全く取れない状態となるので、玉音放送は放送出来なくなってしまう。当然畑中少佐や椎崎中佐らはそれを狙って偽の近衛師団命令に放送会館の占領を明記したのだった。陰謀は念には念を入れて練る必要があったと云う事だろう。

 丁度その頃騒がしくなりつつある宮城や日比谷の放送会館の様子とは正反対に三宅坂の陸相官邸は静謐の中にあった。阿南陸相専用の居間では阿南陸相が訪れてきた義弟である竹下中佐を交えて日本酒を酌み交わしつつ歓談している。当初阿南陸相は竹下中佐が訪ねてきた時「何の用だ?」と一言聞いたがそれ以上深く詮索しなかった。詮索しなくても何となく予想が付いた為である。竹下中佐も余りにも寂しそうな阿南陸相の面前を見て気が引けてしまい畑中少佐から依頼された任務を遂行するつもりには結局ならなかった。そのうち酩酊状態に入りつつあった阿南陸相が阿南家に所縁のある大分県の玉来(たまらい)の話に一通り花を咲かせた後「私はこの後腹を切るつもりだ」とポツリと言った。しかも凄みを湛えた表情を竹下中佐に投げかけつつである。竹下中佐は阿南陸相の自決については薄々勘付いていたので特段驚きはしなかったがやはり義弟と云う立場もあった事から素直には受け入れがたく「分かりました。ただ私としては生きて敗戦の大罪を償う事も考慮に入れて欲しいです。自決する事も勇気が要りますが、恥を忍んで生き延びて汚名をそそぐ道もあるのではないでしょうか?」と答えた。竹下中佐としては阿南陸相に生き延びて欲しかったのである。しかし阿南陸相の決意は固かった。「先程、鈴木首相にも同じような事を言われたよ。だが私は腹を切る。敗戦の責任を取る事もそうだが、戦死した次男の惟晟(これあきら)にあの世で会いたい気持ちが強くてな・・・・」溜め息交じりに阿南陸相はそう言ったからだった。そして阿南陸相は竹下中佐に辞世の歌と遺書を見せた。辞世の歌には「大君の深き恵に浴みし身は言ひ残すへき片言もなし 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大将惟幾」と、遺書には「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣阿南惟幾」と記してある。だが思わず竹下中佐はこれを見て「しかし既に十五日となってしまいましたが」と零した。何事も几帳面な阿南陸相が時刻を間違えているとは思えなかったのである。阿南陸相は「ああそれか。実は十四日は私の父の命日だからどうしてもそこに合わせたかったのだ。本当は二十日の惟晟の命日が一番良かったのだがそれでは遅すぎるからね。確かにもう十五日となってしまっているが、私は十四日に腹を切ったと云う事にしてくれ。陸軍大臣の辞表の日付も十四日にしておいて貰いたい」とまた辞表を取り出し、竹下中佐に渡した。竹下中佐はそれを受け取ったが阿南陸相が「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」としても敗戦の現実が変わらない事に改めて気付いた。そして自分は敗戦と云う困難から逃げる事なく日本の行く末を見届けて死のうと思うのだった。

 しかしながらその日本の行く末は宮城の反乱を止められるか否かに掛かっていると言っても過言ではないだろう。宮城の異変を一早く察知した東部軍では反乱軍を鎮圧する為対策が練られていた。井田中佐は一足先に東部軍から宮城へ駆け出していた。畑中少佐らが鎮圧軍に包囲され殲滅させられる前に、クーデターを止めるように説得する為にである。井田中佐は盟友達を助け出したい一心で息せき切って駆けていた。一方田中東部軍管区司令官は直ちに宮城の反乱軍を鎮圧しに行こうとしていたが、参謀長の高嶋少将が五里霧中の状態で動き出すのは得策ではないとし、「宮城の状況を精査してからにしましょう」と説得したので取り合えず東部軍全体としてはまだ具体的な動きを見せていなかった。ただ田中東部軍管区司令官が鎮圧軍を率いて宮城へ赴く際に護衛憲兵が必要と感じた高嶋少将は東部軍憲兵隊司令部へ連絡しその段取りを付ける事はした。

 片や畑中少佐ら反乱軍の動静についてである。まず古賀参謀は宮城内を活発に動き回り、石原参謀は師団司令部に残り遺体の管理と近衛師団第一連隊の指揮に徹していた。彼らは近衛師団の参謀であった為宮城内に精通している点から主に手足となって働いたのである。つまり陰謀の主将格として畑中少佐が、参謀長のような役割を担ったのが椎崎中佐であった。その畑中少佐らは芹沢鴨を引き連れて警備司令部から二重橋近くの守衛隊大隊本部に移動していた。下村情報局総裁らを筆頭に放送局関係者や宮内省関係者を尋問する為にである。畑中少佐はまず宮内省総務局長加藤進を呼び出して「木戸内大臣と石渡宮内大臣はどこにいるか?」と聞いた。加藤総務局長はにべもなく「分からない」と答えた。総務局長ですら内大臣と宮内大臣の居所を知らないとすれば他の連中にそれを聞いても無駄だと悟った畑中少佐は早々に加藤総務局長を押し戻し、日本放送協会の矢部局長、荒川局長、大橋会長を順次呼び出した。玉音放送の録音がいつ行われるのかを聞き出そうと云うのである。しかし彼らは異口同音に「玉音放送の録音は既に行われていて、玉音盤に関しては我々は関知していない」と言った。どうやら事態は畑中少佐らにとって不利な方へと進んでいるようである。急遽畑中少佐は椎崎中佐と芹沢鴨を交えて今後の取るべき行動について話し合う事とした。やがて畑中少佐から現況報告を聞き終えると椎崎中佐は黙ってしまったが、芹沢鴨ははっきりと
「その玉音盤とやらを見つけて破壊するべきだな。それには天子様のポツダム宣言受諾に関するお声が入っているのだろう。それが明日民衆の耳に流れたらもう万事休すではないか?そうなる前にそれを見つけ出して破壊するに越した事はない」と言った。要はそれは本土決戦の実行に向けての徹底抗戦である。椎崎中佐はそれがよく理解出来た為に
「芹沢殿・・・・何と云う事を」と半ば呻くように言ったが、畑中少佐は「なるほど。それは名案だ。ただ井田中佐や竹下中佐が来るまでは待って下さい。飽くまでもこのクーデターは玉音盤の奪取と破壊が最終的な目標ではなく天皇陛下にポツダム宣言の受諾を御翻意してもらう事が本丸だからです。ただそれが不可能となった時はやりましょう。しかしどうやって?」と芹沢鴨に尋ねた。対して芹沢鴨は
「虱潰しをする如く徹底的に探すのよ。わしも生前新選組の前身の壬生浪士組の時に金策に走った事がある。その際洛中のあくどい大店である大和屋を会津藩の大砲を借りて来て押し込みに入った事がある。その時大和屋の掛け軸から何から全てを奪い去ったが、要は押し込みをするつもりで玉音盤を探し出す事が肝要なんじゃ」と豪気に答えた。それを聞いた畑中少佐は戸惑っている椎崎中佐に対し
「芹沢殿は幕末の新選組の初代局長であらせられたそうです。訳あって亡霊として蘇ったらしいですが、私はこの方を信じます。椎崎さんも信じて下さい」と言った。椎崎中佐はただ唖然とするばかりであった。一方で宮内省の侍従達も宮城内の異変に気が付き唖然としていた。三井侍従も入江侍従も窓外を銃剣を担いで白襷を掛けて走り回っている近衛兵を見て慌てふためいている。
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