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午後十一時~午後十二時。

遂に玉音盤が録音される

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 この頃外務省では終戦詔書に対する各閣僚の副署が終えられた旨の電話連絡を受けたので、すぐさま松本俊一外務次官が大江電信課長を使って連合国側に最終回答を通知した。大日本帝国の敗北が国際政治の世界で確定された瞬間だった。ともかくこれで明治維新以来世界の帝国主義の風潮の下領土拡大を国是に軍事国家として成長し続けてきた大日本帝国は終わった。ある意味ではポツダム宣言受諾と云う、朝鮮、台湾、太平洋の南洋諸島の委任統治領などの大日本帝国からの解放を実現させた世界史的意義のある大業は阿南惟幾が陸軍大臣を務めていたからこそ叶えられたのではないだろうか。陸軍大臣がポツダム宣言受諾を頑として承服せず、辞表を提出して内閣を瓦解させる事態はやろうと思えば出来た話だからだ。さすれば一から内閣を組閣しなければならず、しかも軍部大臣現役武官制の時代であったから、帝国陸軍はあくまでもポツダム宣言受諾に反対する軍人しか陸軍大臣として内閣に送り出さなかったであろう。そうなれば早急に敗戦する事は出来ず、原子爆弾を何発も投下されようと本土決戦へと向かった事は十分に想定されるのだ。阿南陸相の陛下に対する忠誠心と彼がとても本土決戦など出来ようもない国情をしっかりと洞察していたが故に出来た敗戦劇だったと言えるのではないだろうか。そのキーパーソンである阿南陸相は副署の作業が完了した後、鈴木総理が休んでいる総理大臣室を訪ねた。阿南陸相はソファーに腰かけている鈴木首相に対して敬礼しつつこう言った。
「いろいろと御迷惑をお掛けしました。私のような人間が陸軍大臣を務めるには力不足だったと思います。今このような事態を迎える事が出来たのも偏に鈴木首相の包容力のなせるわざだったと思います。私は今日の御前会議で陛下が国体護持に自信があると仰られた事を誰よりも信じています」それを聞いて鈴木首相も
「いやいや阿南さんが陸軍大臣だったお陰で今回は目的を達する事が出来ました。ありがとうございます。それに御皇室もなくなる事など有り得ないと私は思っています。今後の日本の統治に当たって占領軍は皇室の存在を重視すると私は見ていますから」と言った。阿南陸相はそれに酷く共感した。そして突然
「阿南さん自決などしてはいけませんよ」と鈴木首相が阿南陸相の顔を見据えながらそう言った。
「えっ?」
「あなたはこれから敗戦の責任を取って自決なさるつもりでしょう?それは責任を取っているようで無責任な行為だからお止めなさい。生きて罪を償ってこそ陛下の真の臣下だと私は思いますよ」「鈴木首相・・・・」阿南陸相は茫然自失となってしまった。この老齢の首相は阿南陸相が今後取る行動を見抜いていたのだった。阿南陸相は底知れぬ凄みをこの老人に感じ入った。

 宮内省の内廷庁舎の御政務室ではいよいよ玉音放送の録音が始まろうとしていた。当の天皇は陸軍大元帥の軍服を着用してマイクの前に立った。これから日本の近現代史の中で一番意義深い肉声が放たれるのである。そして「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ・・・・」と天皇は口を開いて声を放った。それは何とも独特な、不気味と云う形容も相応しく思える程の声質である。この声を聞いて驚いたのは日本放送協会(NHK)の録音関係者達であった。下村情報局総裁や宮内省の関係者は天皇の声を普段からよく聞いていた為何の違和感もその時感じなかったが、録音関係者達は「現人神」である天皇の声を聞いたのは初めての事であったからその声質はある意味で新鮮であり、またある意味では落胆させるに十分なものであった。録音関係者のある者はその天皇の声を聞いていて「我々国民の、国家の家長とも言うべき天皇と云うのはこんなにも黄色くて女々しい声の持ち主だったのか。何か騙されたような気分だ」とさえ思った程である。江戸時代までは多くの民衆にとって忘れ去られた存在にまで堕ち、非常に困窮した暮らしを送っていた天皇家を「明治維新」と云う暴力革命を正当化させる為、大日本帝国の元首にまで格上げさせた山県有朋や伊藤博文などの長州の浅はかな国家造りそのものに大きな矛盾と限界があったと云う事だろうか。天皇はその声一つ取ってみても神などではなく虚弱で無力な一人の人間だった。やがて録音は天皇が二度終戦詔書を読み上げる事で終わった。念の為に再度録音した形だった。

 丁度その頃畑中少佐らの一派は宮城へと到着したところだった。しかしその近衛師団司令部近くの北門の門前にて井田中佐は芹沢鴨に対して少し注意を述べた。つまり「自分と椎崎中佐と畑中少佐以外の軍人に出会った際は芹沢殿は陸軍航空士官学校の上原重太郎大尉の同僚の芹沢大尉であると自己紹介をして欲しい。また上原重太郎大尉に関して聞かれた際には上原重太郎大尉は重要な用事が出来た為豊岡町の陸軍航空士官学校へと戻ったので代わりに自分がここへ来たと説明して欲しい」と云う事である。芹沢鴨は何も異存はなかったので素直に承服した。そして取り合えず四人は近衛師団司令部の参謀室へと行った。中には近衛師団参謀の古賀参謀や石原参謀、他にも陸軍通信学校附の窪田兼三少佐と陸軍士官学校附の藤井政美大尉がいる。故に芹沢鴨は彼らと相対した際、井田中佐に言われた通りに自己紹介をした。しかし目的の森師団長には来客が訪れていた為直ぐには面会する事が出来なかった。青年将校らはそれ故に苛立ったが、芹沢鴨は地下防空壕にて井田中佐から「徳川幕府が崩壊して以降は江戸城は宮城と名を改め、天子様の居城となっている」と教えられた事を思い出し、自分がその宮城に今いる事実が何とも奇妙に思えて仕方ないのだった。芹沢鴨が水戸藩で郷士として暮らしていた頃は郷士と云う身分故に水戸城の城内に入った事すらなかったが、自分は今徳川家の総本山である江戸城にいるのである。芹沢鴨にとってここは天皇がおわす宮城と云う認識はまるでなく、あくまでも江戸城であった。

 ところで別の場所では新たな火種が生まれようとしていた。その渦中の人物は東京警備軍横浜警察隊長の佐々木武雄大尉で場所は横浜市の鶴見の総持寺裏の警備隊本部である。実は佐々木大尉は畑中少佐と面識があり、ここ数日鶴見から陸軍省に出入りしている中で畑中少佐から政府がポツダム宣言受諾の方針を固めているらしいと云う情報を入手していたのだった。故に畑中少佐らと共に宮城占拠のクーデターに参加しても良かったのだが、その実現性に不確かなものを感じた佐々木大尉は別の抵抗を考え始めていた。つまり無条件降伏を望む売国奴である鈴木首相を筆頭に内閣の主だった閣僚を暗殺し、帝国陸軍主体の軍事政権を樹立して本土決戦へと持ち込もうと云うのである。佐々木大尉もまた大日本帝国と云う砂上の楼閣の強烈な信奉者であった。畑中少佐らにしろ、佐々木大尉にしろ、彼らの頭に「降伏」と云う選択肢は天からないのである。大東亜戦争は連合国に勝つか、それとも民族として絶滅するかのどちらかの結果に至る事を覚悟しての戦いであって、降伏それも無条件降伏など開戦当初は国民にとっても軍部にとっても論外であったはずだった。それ故に彼らの奔走は狂気としか映らないものとなったのである。ただ「承詔必謹」と云う陛下の権威を笠に着ての思考停止的な身の振り方に集中した多くの帝国軍人と違って、ある意味では彼らは同調圧力には全く屈していない自立した思考の持ち主とも言えたが、日本の歴史は彼らの捨て身の行動を全く望んではいなかったのだった。
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