芹沢鴨、宮城事件に遭遇す

根本外三郎

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午後七時~午後八時。

反乱将校と敗戦内閣

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 陸軍省の地下防空壕では井田中佐がこの八十年の歴史について芹沢鴨に長広舌を振っていた。芹沢鴨はその逐一が驚きであったが、中でも日本がロシアと戦って勝った事は俄かには信じがたかった。その日露戦争では日本は戦勝した事により満洲の権益を得て南樺太をロシアから割譲したとも云うではないか。芹沢鴨は樺太の事を常陸国の先達である間宮林蔵の存在からよく知っていた。幼い頃村の周りの大人達から間宮林蔵が樺太を探検した事で樺太が島である事が判明した話をよく聞かされたものだった。当時から徳川幕府とロシアの間で樺太の帰属が問題となっていたが、まさか自分が死んで約四十年後に南樺太の領有権を日本が所有する事になるとは。これも薩摩と長州が徳川幕府を倒し奴らが主体の新政府が樹立されたからかとも思ったが、拭い難い嫌悪感も感じた。それは薩摩や長州が自分たちの利害や利権の為に天子様を利用しているように芹沢鴨には感じたからである。だからこそ薩摩や長州は軍事の指揮権を天子様に与える事で敗戦した場合に自らは責任を取らないように仕向けたのではないか?芹沢鴨にはそう思えてならないのである。芹沢鴨の考えでは天子様は政治にも軍事にも関わってはいけない存在なのである。神道祭祀における大神主様として大御宝(おおみたから)である日の本の民の幸福をひたすら祈り続ける事が天子様の使命であるべきなのだ。「やはり徳川幕府は存続しなければならなかったのだ」と井田中佐の話を聞いて芹沢鴨は改めてそう思った。

 首相官邸では休憩の後閣議が再開され、今ようやく終戦詔書案が完成したところだった。上述した米内海相と阿南陸相が対立した文言の他にもいくつもの語句の修正が行われ、全閣僚の議論百出の末にたどり着いた結果だった。それは総字数百一字、加筆十八箇所五十八字、削除箇所二十三箇所の、滅びゆく大日本帝国への鎮魂歌でもあった。そして完成した終戦詔書案は早速宮内省へと送られた。そうして議題は玉音放送の放送時間をいつに指定するかと云う問題に移った。だがまたしても米内海相と阿南陸相の対立が始まってしまった。阿南陸相が玉音放送の日時を外地第一線の将兵への説得の時間を想定して二日後の十六日にして欲しい、と主張するのに対し米内海相は翌日十五日の午前七時にすべきだ、として一歩も譲らないのである。連合軍へ要らぬ疑念を抱かせぬ為にも玉音放送は早急にすべきである、と云うのが米内海相の考えであった。しかもそれは米内海相だけでなく東郷茂徳(しげのり)外相も同調している。阿南陸相はまたしても閣僚の中で孤立無援の状態となってしまった。しかしここで妥協案が提案された。提案者は石黒忠篤(ただあつ)農商大臣である。「玉音放送は確かに米内海相の言う通り連合軍に疑念を抱かせない為にも早急に行うべきだが、翌日午前七時と云うのはいささか早すぎるのではないか?農作業などに従事している百姓は早朝から田畑に出ているだろうから、放送時間は翌日正午の十二時にする事が至当と思われる」と発言したのだった。それを聞き阿南陸相も米内海相と東郷外相の二人も異論はなく、こうして玉音放送の放送時間は無事に決定された。最後に鈴木首相は野太い声で阿南陸相に対し「阿南陸相にはポツダム宣言受諾の聖旨が外地第一線の全ての将兵に浸透するように働きかける事を努力されたい」と告げた。

 陸軍省の建物の一室では軍事課長荒尾興功大佐の下を第二総軍参謀の白石道教(みちのり)中佐が訪ねていた。白石中佐は上司である第二総軍司令官の畑俊六(しゅんろく)元帥が原爆投下直後の広島から上京するのに同道した為、ついでに陸軍省に寄ってポツダム宣言受諾決定の真偽について確かめたいと思ったのだった。荒尾大佐とは白石中佐が開戦当初に南方作戦を実行する中で面識を得て信頼関係を築いていた。白石中佐はその荒尾大佐が陸軍省内で阿南陸相の懐刀のような存在となって働いている事も知っていた。故に荒尾大佐に聞けば陸軍中枢の意志は確認出来ると思って面会したのである。荒尾大佐は諭すように言った。「ポツダム宣言受諾に関しては本当の話だ。今日の午前中の御前会議で陛下が御親裁なされたようだ。御聖断は下ったのだ。故に我々帝国軍人の最後の務めはただ一途に承詔必謹に徹する事だけだろう。勿論不安を考え出せば切りはない。しかし陛下は国体護持に自信があると阿南陸相に仰せられたようなのだ。であるならば我々は陛下の股肱の臣として陛下の御言葉を信じようではないか」白石中佐は端然としてそれを聞き、頷くばかりであった。

 しかし陛下の御言葉を頭から信じない一派も存在した。椎崎中佐、畑中少佐らのクーデター計画実行を目指す青年将校達である。他にも近衛師団参謀の石原貞吉少佐、古賀秀正少佐、陸軍通信学校附窪田兼三少佐、航空士官学校第四区隊長の上原重太郎大尉、陸軍士官学校附の藤井政美大尉らが加わりいよいよ激浪の様相を呈してきたと言っても過言ではないだろう。彼らは降伏に向かおうとする陸軍中枢とは異なり、あくまでも大日本帝国と云う理想像を守る為に本土決戦を望みクーデター実行へと邁進した。彼らは皇統が断絶されるかもしれない事態を何よりも恐れた。ポツダム宣言は皇軍が解体された上での連合軍による日本本土占領が規定されている。それでどうして麗しの皇統と大和民族の主柱である皇室を守れると云うのであろうか、これが彼らがポツダム宣言受諾に反対する唯一にして最大の理由であり、これに気が付かない政府高官や閣僚は国賊に等しく、例え皇軍相討つ事態となってもクーデター計画は実行されなければならない、と彼らは改めて決意を固めるのだった。
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