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午後三時~午後四時。

井田中佐、芹沢鴨と再会す

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 井田中佐は裏庭で煙草を一服した後、「さてこれからどうしようか?」と自身の身の振り方を思案しながらその場をうろつくと、視線の先に先程の和服姿の男、すなわち芹沢鴨が未だ裏庭に佇んでいる様子が目に映った。井田中佐は呆れた表情をしながら芹沢鴨に近寄り声を掛けた。
「芹沢殿はまだ此処におられたのか?早く立ち去るように先程忠告したはずだが聞いておられなかったのかな?」
「おぬし?先刻の?」
「井田だ」
「井田殿か。わしは去らん。そのポツ何とか宣言の受諾を阻止するまでわしはこの場を去らんのだ」
「ポツダム宣言か、それはもう受諾される事が正式に決定したよ。もう間もなく大日本帝国は無条件降伏する事になる」井田中佐は全く生気のない表情でそう言った。
「なんと日本は本当に無条件降伏するのか?井田殿はそれで良いとされるのか?」
「勿論俺だって本音では無条件降伏は承服しがたい。だが俺は帝国軍人だ。あくまでも陛下がお決めになった事であれば従う他はない」
「おぬし、それでも日本男児か?」
「何だと?」
「別に無条件降伏は天子様がお決めになった事ではあるまい。それなのにおぬしはそれを反故にするべく工作をする事もなく、敵に白旗を振るつもりか?それで情けなくはないのか?開いた口が塞がらぬな。」
「何を言い出すかと言えば、芹沢殿の言葉こそ開いた口が塞がらないわ。ポツダム宣言の受諾は陛下が、つまりは天子様がお決めになった事である。これに従わない事は軍人として最大の不忠に当たる」
「なんと!そのポツダム宣言、やっと言えたわ!そのポツダム宣言受諾は孝明帝が御決裁された、と井田殿は言うか」
「孝明帝?孝明帝と言えばかの明治大帝の父君であられたお方ではないか。そんな事があるか」
「では今の天子様は孝明帝ではないと言われるのだな?井田殿は?」
「先程から芹沢殿の風体と言動を見ていると、相当に時代錯誤があると云うか、芹沢殿は幕末の志士のような佇まいをしておられるな。また畑中を打ちのめした手さばきを見る限り非常に剣技を極めた方に見られるが」
普段の井田中佐であれば今上陛下を孝明帝と言い間違える輩と相対していたならば、すぐさま仲間に報せ、不敬罪容疑で警察へと連行しているところであったのだが、あえてそれをここで彼はしなかった。彼は自決する事に決め、今日の夜にでも決行しようと思っていたし、死ぬ事が分かっている今不敬罪だのなんだのと騒がしくする事に馬鹿馬鹿しさを感じてもいた。明日になれば自分も今までの日本も死んでしまうのだからと、虚無感で彼の頭は一杯だったからだろう。それよりも井田中佐はこの和服姿で佩刀をした屈強な男に自然と興味を惹かれたのだった。
「そうじゃ、わしは尽忠報国の志士、新選組筆頭局長芹沢鴨である。以後お見知りおき頂きたいな」
「新選組‼幕末の京都で勤王の志士達を斬りまくった剣客集団の事か。何ゆえ芹沢殿は新選組の筆頭局長だとそんな戯言を申されるのか?手前を愚弄しているおつもりかな?」
「何を言うか、愚弄などはしておらん。井田殿は俄かには信じがたいであろうが、わしは土方歳三に寝込みを襲われた際に斬られて一度死んでいる。そして三途の川を渡りかけた時に日本武尊に声を掛けられ、わしが死んで後長州や薩摩が築いた新生日本がイギリスやアメリカを相手に攘夷戦争をしたが、結局無条件降伏をして敗れる事を教えられ、居ても立っても居られず、無条件降伏を阻止する為に日本武尊に頼み込んでここに連れて来てもらったのだ。ただしわしがこの世界におられるのは十二刻の間だけだがな」
「なんと‼では芹沢殿は三途の川から亡霊として今この場に再来してきたというのか」
「亡霊かどうかは分からぬが、おおよそはそのような類と一緒であろうな。とにかくわしは日本がアメリカやイギリスとの戦争に無条件降伏する前にそれを阻止したくてここまで来たのだ。尽忠報国の士が黙って無条件降伏を見過ごす事など出来ないであろう」と言って芹沢鴨は右手に持っている鉄扇を井田中佐の前に差し出して、親骨の部分に刻まれた「尽忠報国之士」の文言を見せびらかした。その井田中佐はただただ芹沢鴨の啖呵を切ったその迫力や凄みに圧倒された。彼は元来強固なリアリストであったから、こんな芹沢鴨の自己紹介など一笑に付すまでもない笑止千万の噴飯物にしか思えないはずだったが、何故か今はこの男の話をじっくりと聞いてみたいと思うのだった。自決してあの世に行く前に一つ与太話を聞くのもいいかも知れないと云う魂胆だったのだろうか。本来の井田中佐であれば絶対にしないであろう事だが、芹沢鴨を陸軍省の地下防空壕へ導いて行きたいと思った。
「芹沢殿の話は誠に面白いな。せっかくだから私にもっと詳しく芹沢殿の出自から何から聞かせてくれはしないだろうか?ここではなんだから陸軍省の地下防空壕へ一緒に行かないか?」
「よろしい。ご案内して頂けるのかな?」
「勿論だとも。さぁこちらだ」こうして井田中佐と芹沢鴨は陸軍省の地下防空壕へと入り込んでいくのだった。

 さて宮城の周辺では畑中少佐と椎崎中佐が獅子奮迅の活動をしていた。畑中少佐に至っては第十二方面軍を管轄している東部軍管区司令部に赴き、司令官の田中静壹(しずいち)大将を訪ねていた。近衛師団司令部の参謀らと画策しているクーデター計画に東部軍の協力を要請する為だった。宮城占拠においては東部軍の協力が是が非でも欲しかったからである。東部軍管区司令部は日比谷第一生命館の六階にあり、奇妙な偶然だがこの時その地下では放送協会の長友技師とスタッフの玉虫一雄が録音再生機を取り外している最中であった。先程放送局から長友、玉虫らの放送班は終戦放送の為に宮内省へ入ったが、情報局からの事前の通達では、録音再生機は必要とされていなかったから放送班は録音再生機を宮内省に持ち込まなかった。ところが、宮内省側からは陛下が録音の確認をされる可能性もあるから録音再生機が欲しいと言われた為、彼らは東京に一台しかなかった録音再生機をこの日比谷第一生命館の地下室まで取りに来ていたのだった。そんな彼らが終戦放送のために録音再生機の取り外しに格闘しているとは露知らず、今畑中少佐は田中大将がいる六階へと階段を上っていく。何としても敗戦を阻止したい一心で畑中少佐は只管階段を一段飛びに駆け上った。当の田中大将は畑中少佐と面会する事をあっさりと承諾した。しかし副官の塚本清少佐は不測の事態に備えて軍刀の柄に手をかけ、司令官室の内側に待機していた。畑中少佐は硬直した顔面に大声で名前を叫びながら入室してきたが、両者の顔と顔が突き合わされた瞬間、田中大将は「馬鹿野郎、貴様らがやろうとしている事は無駄なあがきだ。分かったか!分かったらさっさと帰るんだ!」と大喝一声した。どうやらポツダム宣言受諾の情報は東部軍にも通達されており、と同時に青年将校の一部がクーデター計画を企てていると云う流言飛語も田中大将の耳に達していた。おそらく百戦錬磨の田中大将は畑中少佐がそのクーデター計画の関係者であると見抜いたのであろう。田中大将に怒鳴られた畑中少佐は一瞬息を呑んだかと思いきや、口を開き唾を飛ばして何かを言おうとしたが、具体的な言葉が出てこなかった。やがてぎこちない動作で敬礼をし、風のようにその場を走り去っていくのだった。

 陸軍省の地下防空壕では井田中佐と芹沢鴨が互いに佩刀している刀を壁に立て掛け、胡坐をかきながら額を向かい合わせた状態で談議していた。芹沢鴨は井田中佐に文久三年に土方歳三達に寝込みを襲われて、殺されてしまった事、殺された後気が付いたら三途の川のほとりに居て、そこで日本武尊に出会った事、日本武尊によって、徳川幕府が倒された後薩摩や長州が築いた軍事国家である新生日本がアメリカやイギリスに無条件降伏をして負ける事が決定する一日にタイムスリップさせてもらった事などを滔々と語った。井田中佐はそれを聞いて俄かには信じがたい思いがしたが、ここ数日のポツダム宣言受諾可否を巡り、陸軍中枢部の一員として働き詰めだったからだろうか、神経や精神が大変摩耗し疲れていたせいもあって、目の前の男が語る虚言としか思えない話を素直に信じてしまうのだった。
「では本当に芹沢殿はあの幕末で勤王の志士を斬りまくった新選組の局長であられると云うのだな?」
「そうとも。わしが会津藩お預かりの新選組筆頭局長、芹沢鴨だ」「しかし私が新選組について講談等で伝え聞いていたのは新選組の
 局長は武州多摩の近藤勇だったような気がするのだが」
「何を馬鹿な事を言うか。近藤勇など多摩の百姓の倅じゃないか。そんな男の下に何故俺が収まらなけらばならぬ。大方、わしを粛清した後に土方らによって近藤は局長に擁立されたに違いない」
「そうだったのか。明治維新は勤王の志士によって成されたから明治維新以降は新選組の事はご法度で、学校の歴史の教科書でも悪役程度の存在でしか扱われず我々は詳しく知らないのだ。ご無礼つかまつった」
「それは構わんが、今井田殿が言った明治維新とは何ぞ?」
「明治維新か。そうか。芹沢殿は文久三年に死んでいるのだから、明治維新を知らなくて当然か。明治維新とは芹沢殿が死んでから五年後に、薩摩や長州の武士達が公卿と協力して起こした革命だ。日本の統治権が鎌倉幕府の源頼朝公以来続いた武家政権から約七百年振りに天皇家に戻され、天皇陛下が元首となって国家運営を行うように取り決められた。つまり征夷大将軍は廃止され、大名家も、藩も、明治維新によって廃止されたんだ」
「何と武家の棟梁である征夷大将軍や大名がなくなっただと?では将軍家の直参である旗本や各藩の藩士達などの侍はどうなった?」
「侍か、そんなもんはもうとっくの昔にいなくなってしまったよ」「侍がいなくなった?俄かには信じられんな。井田殿は奇妙な服装をしているが、刀を帯びているではないか?先程、私が鉄扇で殴りつけた青年も同じく。おぬし達は侍ではないのか?」
「俺達は侍じゃない。軍人だ。文久三年の世界しか知らない芹沢殿には侍と軍人の違いを理解しにくいかもしれないが、侍と軍人は大きく違う。一番違う点は侍は家柄によって継承され、例えば百姓の子から侍になれないのに対し、軍人は身分を問わず、百姓の子でも、町人の子でも、職人の子でも軍人を目指して、軍人になる事が出来る点だ。大雑把な説明しか出来ず申し訳ないが」
「何と‼百姓の倅でも町人の倅でも、軍人とやらになれば刀を帯びる事が出来ると云う事なのか。それも明治維新によって決定された事なのか?」
「そうだな。四民平等と言って士農工商の身分制度を明治政府は廃止したのだ。ただ未だに旧大名家などは華族と呼ばれ、様々な恩典を下されているが、それも今回の大東亜戦争の敗戦によってどうなるかは分からんな。ポツダム宣言には降伏後連合国による占領が行われると書かれていたから、天皇家や皇族も含めて日本はどうなってしまうのか」
「わしが聞きたいのはそこよ、井田殿。征夷大将軍が廃止されたのだったら、この時代では一体誰が戦の総大将になってそのポツダム宣言受諾を最終的に決定したのだ?」
「戦の総大将か、それは天皇陛下だ。つまり芹沢殿の時代の言葉で言うなら天子様だ。明治維新以来大日本帝国陸海軍は天子様が大元帥として統帥してこられた」
「天子様が戦の総大将という事は孝明帝がポツダム宣言受諾を決定されたのだな?」
「違う。孝明帝は今上陛下の曾祖父に当たられる。だから今の天子様は孝明帝の曽孫に当たられるお方だ」
「孝明帝の曽孫に当たられるお方が今の天子様なのか。この世界はわしの生きた時代から随分と時が進んでいるようだな」
「それはそうだろう。今は昭和二十年だ。芹沢殿が生きた時代とは約八十年も違うのだからな」
「で、井田殿は今の天子様がポツダム宣言を受諾されたからと言って易々と敗戦を受け入れるのかな?」
「易々とは失敬な物言いであろう、芹沢殿。私だって日本が無条件降伏をする事なんて本心では望んでいないし、許諾出来ない。しかし我々は陛下の赤子であり、陛下の決定が大日本帝国陸海軍の最終決定なのだ。陛下の決定に背く事は最大の不忠行為であり、国賊である」
「分からんな。わしが学んだ水戸学の師である武田耕雲斎先生には尊皇には狭義の解釈と広義の解釈があると教えられた。狭義の解釈は天子様の勅命には必ず従えと。しかしこれは平時の時代の話である。世が乱世に至れば、天子様と雖も国家百年の計をお間違えになられる事もある。その時は例え蛮勇と言われても臆せず天子様に直諫せよ、とな。ここでイギリスやアメリカに敗れたら、日の本は毛唐共に占領されるのであろう。それでは神州日本は死に体も同然ぞ。占領されると云う事は多くの毛唐が神州に入り込んでくるのだろう。さすれば日本の女は毛唐共に凌辱され毛唐との合いの子が沢山生まれるに違いない。また天子様のお命も危ういのではないか?天子様が戦の総大将であるのなら、敵は天子様の首を要求してくるのではないか?そんな事はあり得ないと井田殿は断言出来るのかな?なぁ井田殿、一緒にポツダム宣言の受諾を止めようではないか?」

 芹沢鴨にここまで言われて井田中佐は触発された気分になり、また消えかけていた闘志に火がつきかけそうになったが、具体的に今後芹沢鴨と二人で陛下にポツダム宣言受諾の聖意を御翻意させる手立てが見つからなかった。しかし自決する際はこの男に介錯を頼みたいと何となく思った。とは言うものの身辺整理を済ませていないので一度軍事課員室に戻っておかなければならない。かと言って芹沢鴨を一緒に軍事課員室に連れて行くわけにはいかなかった。そんな事をすれば芹沢鴨はすぐさま不審者として陸軍刑務所へ連行されるだろう。だから井田中佐は芹沢鴨をしばしこの地下防空壕に留めておく事にした。
「芹沢殿、知り合ったばかりのあなたに本来こんな事は頼むこと自体がおかしいのだが、恥を忍んで頼みたい事がある」
「何だ?」
「私は今夜自決する。その際介錯を芹沢殿にお願いしたいのだ」
「何だと?」
「正直、芹沢殿と共にポツダム宣言受諾阻止に向けて工作をしたい思いもあるが、やはりそれは不可能だと思うのだ。だが俺も日本男児であり帝国軍人だ。敗戦の責任は自決して取る。それが俺の責任の取り方だ」
「ならば今ここで腹を掻っ捌け。俺が見事に首を落としてやる」
「俺も本当はそうしたいが、一度軍事課員室に戻って身辺整理をする必要があるのだ。だからだ、芹沢殿。私が今夜ここに戻ってくるまでここに留まっていてくれないか?」
「何故わしがそこまでせねばならん。わしはさっきも言ったように十二刻しかこの世界にはいれないんだ。井田殿の事情に合わせている暇はない。井田殿がポツダム宣言受諾阻止の活動にわしと共に加わらないのであれば、一人ででも動いて行くつもりだからな」
「そこを何とか頼む」
「出来んな」
 芹沢鴨のかたくなな姿勢に困った井田中佐を咄嗟に嘘を付いた。「今夜までここに留まっておいてくれるのであれば、ポツダム宣言受諾阻止に有効な極秘情報を芹沢殿の耳に入れよう」
「何だと?それは真か?」
「本当だとも。俺は陸軍省の軍事課員室で働いているから終戦に関する極秘情報が入ってくるのだよ」
「約束出来るな?」
「武士に二言はない」
「分かった。今夜までおぬしを待とう」
「ありがとう」井田中佐は芹沢鴨と硬い握手をして、軍事課員室へと戻っていった。実際井田中佐にはポツダム宣言の受諾を阻止出来る程の極秘情報など持ち合わせておらず、さっきの言葉は口から出まかせだった。おそらく今夜地下防空壕へ戻ってそれを芹沢鴨に打ち明けたら激怒した芹沢鴨から紫電一閃、その佩刀で斬られるに違いない。しかし井田中佐はそれでもいいと思った。

 地上の陸軍省の裏庭では陸軍省の各部屋から運び出された大東亜戦争中の機密書類がドラム缶の中でガソリンと共に点火され、処分されていた。それに何人もの軍人が動員されている。これは無条件降伏後に行われる占領に供えて日本軍に不利な情報を死滅させる為だった。それは醜態と言ってもいいだろう。しかしその煙は明治四年に創設された帝国陸軍の最後を労うが如く凛として、神々しい程の一筋となりながら天高く伸び上がった。
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