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午後二時~午後三時。

反乱将校と井田中佐

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 夏の日差しが非常に強くなってきた。それは敗戦には余りにも似合わない強烈な日差しである。敗戦処理さえなければ、陸軍省の軍人達でも喜んで行軍するに違いない程の青天でもあった。そんな青天の下で何匹もの蝉が元気よく鳴くその反面、井田中佐は軍事課員室の自席で唖然として座っていた。完全に魂が抜けた様になって、意識はただ朦朧として何もやる気が起きないのだった。一方で聖断に対する不可思議な程の強い反発が頭から離れないのだった。御聖断の決定だけが日本軍の決定となり、それが現実の日本の決定となる。その大きな力学に逆らう事は承詔必謹に逆らう事であり、天皇に逆らう事である。それは帝国軍人として最低最悪の不忠行為である。彼はそんな事は百も承知で分かっていたが、軍人とか臣民とか云ったカテゴライズを振り切った時、やはり一人の男として敗戦に向かう祖国日本を止める道はないだろうかと思案してしまう情念がなかなか拭えないのだった。神州不滅を信じる大和民族が何よりも尊しとしたのが天皇家を頂点とした国家運営ではなかったか。その麗しの国体の歴史が敗戦を境に途絶えてしまうかもしれないのである。井田中佐は腑に落ちないものを強く感じた。今軍事課員室では上司の軍事課長荒尾興功(おきかつ)大佐をはじめとして同僚の多くが敗戦処理のために忙しく書類整理などをして働いている。井田中佐にはそんな彼らが疎ましく思えてならない。命が惜しいばかりに承詔必謹を受け入れ、聖断を理由に自らの責任を放棄しようとしているのではないだろうか?だとすればそんな彼らの保身的態度が理屈では理解出来ても本能では理解出来ないのだった。やがてそんな心理的葛藤を感じ始めたからか、井田中佐は煙草を吸って精神を落ちつかせたくなった。軍事課員室ではこの通り皆が慌ただしく働いていたが、自分一人が抜けたところで大して業務に差し障りはないように思える。井田中佐は荒尾軍事課長に「便所に行ってくる」と嘘を付き、一人裏庭へと向かった。

 一方首相官邸では閣議が続いていた。一旦終戦詔勅案の審議決定は棚に上げられ、議題は占領地域における破壊行為を厳禁するかどうかの決定に移っていた。通常軍隊は占領地を撤退する場合、軍事施設や軍需品を敵軍に渡さない為にこれを徹底的に破壊する事が原則であった。だが今回はそれを禁止し、海外施設を無傷のまま残し、将来負わねばならなくなるだろう賠償の一部にしようと云う案が池田純久総合計画局長官から提出されたのだった。この時、閣僚の視線は阿南陸相に集まった。先月の二十七日にポツダム宣言が日本政府に通告されて以来何度も閣議が開かれたが、最後までポツダム宣言の無条件受諾に強硬に反対し続けたのはこの阿南陸相だった。今月六日に広島、九日に長崎に原子爆弾が投下され、ソ連が日本に宣戦布告をし参戦してきた後もその主張を頑として曲げない程の徹底抗戦論者だった。そんな闘争本能丸出しだった男が午前中に宮城内地下防空壕で行われた御前会議において天皇によるポツダム宣言無条件受諾の御聖断に厳粛に従い、その聖旨に背くまじとしているのである。「この占領地域における破壊行為禁止案に関しても阿南は断腸の思いで受け止めているに違いない」と阿南大臣とは海軍代表として陸軍の方針とは真っ向から相反する主張を繰り返していた米内光政(みつまさ)海軍大臣をはじめとした多くの閣僚達がそう思った。しかし当の阿南陸相は閣僚達の想察に反して、少しも躊躇せずにこの案に賛成するのであった。

 首相官邸から千メートル程離れた放送協会では玉音放送における器材準備と録音班のメンバーの選定が行われていた。討議の末録音機材として採用されたのは、K型一四録音機二台と録音増幅機二組、マイクロホンは高性能のマツダA型だった。宮内省に赴く放送班のメンバーは荒川技術局長の厳しい審査により、現業部副部長の近藤泰吉を録音班の責任者に据え、技師には長友俊一を、スタッフとして春名静人、村上清吾、玉虫一雄の三人を当てる事に決まった。彼らは敗戦の衝撃を感じつつも玉音放送に向けてあくまで事務的に目の前の問題に取り組む姿勢を崩さなかった。

 しかし危急存亡の秋(とき)に当たり、どうしても事務的な姿勢にはなれない男達もいた。畑中少佐と椎崎中佐である。二人は大臣室で阿南陸相からポツダム宣言受諾決定の御聖断が下った事を伝えられた後、しばし麦秀黍離(ばくしゅうしょり)に暗然とした。だが彼らは諦めきれなかった。国体の護持を第一に守護すべきものであると云う思想に憑かれていた彼らは、万世一系の天皇家の皇統が途絶えてしまうかもしれない事を何よりも恐れた。ポツダム宣言は皇軍(日本軍)の武装解除を要求している。天皇の軍である皇軍がいない状態で、占領軍から天皇家を守れるはずはない。陛下はそれを承知で、ポツダム宣言受諾に賛成されたのか?いや、鈴木首相を筆頭とした弱腰の閣僚の進言によってたぶらかされたに違いない。ならば誠に恐れ多いが、我々が陛下に諫言し、御翻意してもらう他あるまい。そう思い立った彼らは近衛師団による宮城占拠と云う大胆な計画を練り始めた。宮城を占拠して、それから陛下に直諫しようと云うのである。宮城占拠に当たりまず障害となるのは近衛師団長の説得である。近衛師団長の出動命令がなければ、近衛師団は決して動かないからだった。故に、畑中少佐と椎崎中佐の二人は以前から顔見知りだった近衛師団司令部の石原貞吉(さだきち)参謀、古賀秀正(ひでまさ)参謀を訪ね、その考えを滔々と述べ説得に当たり始めるのだった。
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