芹沢鴨、宮城事件に遭遇す

根本外三郎

文字の大きさ
上 下
2 / 26
昭和二十年八月十四日・正午~午後一時。

芹沢鴨、陸軍省に現れる

しおりを挟む
「オイ、オイ。大丈夫か、なぜこんなところで寝ているんだ。どうした?」
「う、う~ん」
「起きたか」
「なんだ、ここはどこだ。お前は誰だ?」
「お前こそ誰なんだ?しかも和服姿で」
「わしは新選組筆頭局長芹沢鴨だ。毛唐との戦の無条件降伏を阻止するために三途の川からやって来た」
「何を言っているんだ、お前は。無条件降伏とはポツダム宣言受諾の事を言っているのか?なぜお前はポツダム宣言受諾の話を知っているのだ。怪しいな。さてはスパイか?」陸軍省軍務課員椎崎二郎中佐は軍刀の柄に手をかけて毅然と質した。しかし百戦錬磨の芹沢鴨は全く動じず、むしろこの小童めと云った様子で
「貴様、刀から手を放せ!さもなくばこの鉄扇で頭をかち割るぞ!」と大喝した。
この気迫と声量に怯んだ椎崎中佐は素直に軍刀の柄から手を放ったが、鋭い視線で芹沢鴨をにらみ続ける。と、この時の芹沢鴨の怒声を聞いて近くにいた同僚の陸軍省軍務課員畑中健二少佐が駆け付けた。
「どうしました、椎崎さん」
「ああ、畑中か。いやこの男がだな、今この裏庭で寝ていたんで起こしたんだ。で、誰何していたところだ」
「で何と?」
「なんでも新選組筆頭局長芹沢鴨だなどと名乗っているが、真偽は分からん」
「新選組・・・・。去年まで存続していた警視庁の特別警備隊が新選組などと巷では言われていましたよね?この男はそこの隊員だったんじゃないですか?おい、お前は警視庁の人間なのか?なぜ和服を着ている?なぜ制服を着ていないんだ?ここは陸軍省の敷地なのだぞ?陸軍軍人以外足を踏み入れてはならない場所だ。分かっているのか?」
「うるさい!さっきからわしに訳の分からない御託をほざくな。わしはアメリカやイギリスとの戦に無条件降伏する前にそれを阻止するためにやって来たのだ」とここで芹沢鴨はやっと佩刀の備後三原守家正家(びんごみはらのかみけまさいえ)を杖にして立ち上がった。
「お前、何故ポツダム宣言受諾の事を知っている。まだ一般国民にはポツダム宣言受諾の話は伝えられていないはずだぞ!誰からそれを聞いた。椎崎さん、まさかしゃっべったんですか?」
「馬鹿を言うな、畑中。俺もこの男がポツダム宣言受諾の事を知っていて驚いていたんだ。もしかするとスパイかもしれないと訝しがっていたところだ。大東亜戦争の開戦前にアメリカが日本に送り込んだ日系人のスパイがここに来て策動を始めたのかもしれんな」
「しかしそれは開戦以来憲兵が厳しく詮索してきたはずですよ」
「しかし憲兵だって人間だ。手抜かりがあったって当然だろう」
「ではスパイと分かったら陸軍刑務所で取り調べるしかありませんね。おい、お前、敵国のスパイである事が疑われるからしばらく陸軍刑務所に入ってもらう。いいな」
 畑中少佐はそう言い芹沢鴨に近づいた。と、その時だった。椎崎中佐と畑中少佐の背後から二人を呼びかける声がした。声の主は陸軍省軍事課員井田正孝中佐であった。そして彼は大声を出して「おーい。裏庭で何やっているんだ二人共。阿南(あなみ)大臣が御前会議を終えて、帰ってくるぞ。大臣室でその報告をしてくれるようだ。きっと本土決戦を陛下に力強く御進言されてこられたに違いない。それでも東郷外相や米内海相ら奸臣の提言によってポツダム宣言受諾が決定されたのであれば、その時は東部軍や近衛師団を用いクーデターを起こして陛下に直諫し御翻意してもらおう。本土決戦をせずして、終戦など言語道断だからな」と叫んだのであった。これに芹沢鴨の事をスパイと思い込んでいる畑中少佐と椎崎中佐は酷く狼狽した。東部軍と近衛師団を用いて宮城を囲み、ポツダム宣言受諾派の和平派大臣を監禁してクーデターを起こす計画は昨日から練られていたが、それは陸軍省の中でも限れらた軍人にしかまだ知られていなかったからだ。そんな極秘計画を今芹沢鴨が聞いてしまった形になったのだから二人が慌てるのも当然と云えば当然だろう。
「井田さん。クーデター計画をそんな大声で叫ばないで下さい。もう少し自重して下さいよ」と畑中少佐は言った。
「すまんすまん。阿南大臣が御前会議を終えて帰って来るので、少し興奮したようだ。おっ、その和服姿の御仁はどなただ?在郷軍人か?」
「いえ、どうやら敵国のスパイのようです」
「なんだと?」
「先程、この裏庭で寝ているところを私が見つけました。質したところポツダム宣言受諾について民間人では知り得ない水準まで確知していたので、スパイではないかと今畑中少佐と話していたところです」
「なぜそれを早く言わないのか?今このスパイの面前でクーデター計画の全容を打ち明けてしまったではないか!」
「ですから、井田さんは軽率すぎるのです。という事でだ。クーデター計画がばれてしまった今、お前を生かしておく訳にはいかなくなった。悪いが死んでもらおうか」畑中少佐はそう言い、軍刀の柄に手を構えた。対する芹沢鴨は余裕綽々とばかりに全く身構える事がない。この芹沢鴨の泰然自若振りに焦ったのか、畑中少佐はいきなり抜き打ちで芹沢鴨に斬りかかった。しかし芹沢鴨は瞬時に左半身の姿勢でそれをかわし、畑中少佐の右脇に移った後、得意の鉄扇で畑中少佐の背中を打ちつけたのだった。畑中少佐は倒れて嗚咽した。「貴様!」これに椎崎中佐がそう叫びピストルを取り出し発砲しようとした。が、井田中佐がそれを制した。
「椎崎中佐。止めろ。今ここで発砲事件を起こしたらどうなる?阿南大臣も我々の軽挙妄動振りに辟易され、クーデター計画など水の泡になるぞ。椎崎中佐、ピストルを下ろせ」
「はい・・・・」
「おい、貴様。名は何と言う?」
「芹沢鴨だ」
「芹沢鴨。どこかで聞いた事があるような名だな?芹沢殿はスパイではないのだな?」
「わしは尽忠報国の士じゃ、そんな聞いた事もない輩ではない」
「その言葉、一応信用しよう。しかし今は危急存亡の秋(とき)だ。芹沢殿にかまっている暇はない。スパイ嫌疑の事は見逃す。だから早々にこの陸軍省から立ち去ってもらえないか?」
「それは出来ん。わしはアメリカやイギリスとの戦を負け戦にせぬためにここに来ているのだ。そのポ、ポ、ポン何とか何とかを受け入れないようにする為にわしは働くのじゃ」
「ポツダム宣言の事か。ならば安心しろ。それは俺達陸軍省の人間が必ず阻止してみせるから。芹沢殿ら民間人は本土決戦に向けて日々軍事教練を怠らぬように過ごす事が臣民としての務めだ。ポツダム宣言受諾などどこから聞いたか分からんが、民間人が首を突っ込んでくる事ではない」
 井田中佐はそう答えた。と、ここで嗚咽していた畑中少佐がやっと呼吸を整え立ち上がると
「椎崎さん、井田さん、すいませんでした。俺としたことが、情けない。こんなどこの馬の骨か知れない奴に負けるなんて」
「いや畑中、お前がやられたのも無理はないよ。きっとこの芹沢殿は相当に武道の鍛練を経験されているのだろう。俺もお前と同じ事をやれば同じように返り討ちにされたに違いない」
「そうですか。椎崎さん」
「おい、もうそろそろ、阿南大臣の報告が始まるだろう。畑中、椎崎中佐、大臣室へ行くぞ」
「分かりました」
「という事でだ。芹沢殿は一刻も早くここから立ち去るように。我々は今から大臣室に向かわねばならなくなったのでな」
「わしもそこへ連れていけ」
「それは出来ん。民間人を陸軍省の大臣室に連れて行くなんて言語道断だ。本来ならこの裏庭にいるのでさえ、お咎めなしじゃ済まないところを我々は見逃しているのだ。しかし、必勝の信念は我々もおぬしら民間人も変わらない事を確認出来た事は嬉しかったぞ。神州不滅を信じて戦おう。さらばだ」そして井田中佐ら三人は陸軍省の玄関口へ向かって風のように走り去っていった。その姿を芹沢鴨はただ茫然と見送るのであった。
 陸軍省・大臣室
「御聖断は下った。大日本帝国はポツダム宣言を無条件で受諾する。陛下は先程御前会議で国体護持に自信があると言われた。この上はただただ大御心(おおみこころ)のままに進む他はないと私は思う。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠心に信をおいておられるからに他ならないからだ」阿南惟幾(これちか)陸軍大臣は集まった二十数名の青年将校達を前にして静かにそう言った。だがあまりに突然の敗戦決定に青年将校達は動揺したのか、しばしの沈黙が流れた。やがてその中で井田中佐が口火を切った。
「陸相の真意をお伺いしたい。十日の陸相訓示では、全陸軍は乾坤一擲、回天の志を持って一致団結し本土決戦を行うと陸相は仰せられ、それはクーデターを容認している言質にも我々には受け止められたんです。それが今になって、何故ですか?阿南陸相!」
「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよく分かる。苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰せられたのだ。そんな陛下の苦衷を臣下として無視する事は出来ないだろう。だから自分としてはもはやこれ以上反対を申し上げる事は逆賊の汚名を着せられる事と同等だと考えている」阿南大臣は顔を真っ赤にさせて苦悶しながら答えた。大臣室には重く苦しい空気が流れ始めた。沖縄戦が始まって以降本土決戦に因る勝利を目指して帝国陸軍は動いてきたのである。それだけの自信が帝国陸軍にはあった。南方の島嶼戦ではなく本土での会戦であれば連合軍を全面屈服させる事が出来ると信じてきたのである。故にそれを信じて今日まで軍事作戦を練ってきたのである。それが天皇の御聖断によって打ち崩されてしまった事で絶望が青年将校達を支配した。あまりに呆気なく帝国陸軍の幕引きを告げられた事は心外であった。そしてもうこれ以上伝える言葉が見つけられなかったが、阿南大臣は青年将校達から絶対に視線を外そうとしないのだった。と、その時一人の将校が声を上げて泣き崩れた。畑中少佐だった。彼は膝から崩れ落ち、床を手で何度も叩きながら悔し涙を流すのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

大本営の名参謀

雨宮 徹
歴史・時代
2041年12月8日の真珠湾攻撃に端は発した太平洋戦争。そこには名参謀の活躍があった。これは名参謀の視点から見た太平洋戦争の物語。

北武の寅 <幕末さいたま志士伝>

海野 次朗
歴史・時代
 タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。  幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。  根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。  前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。 (※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~

ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。 そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。 そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。

処理中です...